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樋口恭介「極光」(1)

樋口恭介「極光」(1)

1

 

加速する無数の時間。何もかも、相転移するために。何もかも。

 

太陽が出ている。光が降り注いでいる。その先で、二人の男がガードレールに腰掛けている。彼らの表情はわからない。顔は見えない。彼らはフルフェイスのヘルメットを被っている。それはもちろん、BV-47と呼ばれる近年新たに現れたウイルスの吸入を防ぐためではない。あるいは車道をせわしなく行き交うガソリン車の排気ガスの吸引を防ぐためでもなければ土埃を防ぐためでもあるはずがない。彼らの目的は別のところにある。彼らにはたしかな目的がある。彼らは目的を持たずに生まれ、つい先日までは偽物の人生を生きてきたが、いまはそうではなかった。新しく、みずみずしく、鮮やかな現実がそこにはあった。二人は本物の人生を生きていた。少なくとも自分たちとしてはそう感じていた。太陽の光は強く、なめらかな繊維強化プラスチックでできたヘルメットの表面には都市の姿が映り込んでいる。明滅する色とりどりのネオンサイン。現われては消えていくヘッドライト。乱立するビル壁の至るところに貼り出された大型ビジョンやデジタルサイネージが、人工的な電子の音と電子の光を撒き散らしながら錯乱したように自己主張を繰り返している。二人は情報の群れの中にまぎれこみ、自分たちの求めるものを探している。彼らはタイミングをみはからっている。鼻歌まじりで、脚を空中に投げ出し、ぶらぶらと揺らしながら、二人は流れる車の数を数えている。車は次から次へとやってきて途切れることがない。繰り返し、右から左へ、高速で何かが運ばれ続けている。何が運ばれているのか彼らは知らない。あるいは運んでいる当の人々にもわからない。わからないことは問題ではない。問題ではないのなら、わかってもわからなくてもどちらでもいい。いずれにせよ、知る必要のないものはろくでもないもので、何もかもはろくでもないものだということを彼らは知っていた。男の頭の中では絶えず声がしゃべり続けている。男はそれを聞いている。声が世界のすべてを教えてくれる。車は何も考えないし、車の中の人間たちも何も考えていない。誰も何も考えてなどいない。繰り返し、繰り返し、何が運ばれ、何のために運ばれるのかは誰も知らなかったし、知る必要はなかった。運ばれるものはなんでもよかったし、目的なんてなくてよかった。何かが運ばれ続けているということが重要だった。ぐるぐると回り続けるだけ、何もかもが、わけもわからずただぐるぐると回り続けていることが、彼らの世界を保証していた。世界中の誰もがただ繰り返すことを求め、ただ繰り返すことをただ繰り返し続ける巨大な機構、巨大な構造物、巨大な現実を作り上げていた。都市がそこにある。二人はそれを眺めている。ガードレールから見えるのは都市の一部だが、それは都市のすべてでもあった。むき出された構造。路上。流れる車たち。鋼鉄とアスファルトでできた血管が脈を打ち続けている。繰り返し、繰り返し、繰り返し、そこでは生が生きるために生きるための生が繰り返されていた。誰もがどこかに行きたがり、実際にどこかに行こうとし、そしてどこにもたどり着けなかった。動け、動け、動けと叫ぶ都市の命令に従って、ただ動き続けていることが重要だった。都市、錯乱しながら広がっていく回転木馬。終わりなき円環。自らの尾を飲む巨大な蛇のように、前進がそのまま直接後退と一致する場所。始まりはなく、終わりもなく、ただ単に動き続け、止まらない機構。その機構の中で死すべき人々は、自らの死を前に、自らの役割を誰かに引き渡さなければならない。命が途切れたとしても車は走り続けなければならない。なぜならそうした痙攣にも似た運動を続けることそのものが、都市が都市であるための条件であり、都市に生きる人間が人間になるための条件だからだ。そしてあるとき秩序は何の前触れもなく突如として崩壊する。彼らは都市の中を、都市とともに、崩壊を目指して走り続けた。彼らはこの街までは車やバイクを乗り継いでやってきた。けれども彼らは車もバイクも持っていなかった。彼らは自分自身では何も持っていなかった。彼らは何も持たずに生まれた。生まれたときには人間じゃなかった、と男は思っていた。あるいはもう一人の男は、生まれていたときにはたしかに持っていたはずの大切なものが、生きる過程でいつのまにか奪われ、失われ、ついにはそれがどんなものだったのかも忘れてしまったのだと思っていた。彼らは出会い、そして一から始めるしかなかった。一から人間を始めるしかなかった。スマートフォンの中を流れるタイムラインを眺めると、運も実力のうちだとか、実力も運のうちだとか、説教めいた言葉が無数に流れ込んできた。彼らにとってはそんなことはどちらでもよかった。彼らはどちらも持っていなかった。彼らが持っていたのは〈真実への目覚め〉と、それから真実を解放するための勇気と行動力だけだった。

「なあカラ、あれ見ろよ」ガードレールに腰掛けた男の一人がふいに言った。彼のまなざしの先には一台の車がある。黒い塗装が施された、トヨタのワンボックスカー。フロントガラス越しに見える搭乗人数は運転手一人だけ。「いい車だ」と男は続けた。「でかくて、どこにでもある車。あれなら目立たないし、荷物がたくさん入る。寝心地もよさそうだ。そうだろ?」

「本当だ」と、カラと呼ばれたもう一人の男が車を見て言った。ちょうどそのとき、二人の目の前にその車が停車した。

「停まった」とカラは言った。

「じゃあ、あれで決まりだ」と最初の男が言った。それが合図で、合図はそれだけだった。待っていたタイミングがやってきた。天啓とはカラにとってはアルカの言葉だ。二人のすべてはアルカが決め、アルカが言うとおりに決まる。アルカの言葉が二人の未来を手繰り寄せる。そうして彼らは目的に向けて行動を開始する。カラはアルカを見る。フルフェイスのヘルメットの中にあるアルカの表情はカラには見えない。笑っているのかもしれないし、厳しい表情を浮かべているのかもしれないし、あるいは何の表情もそこからは読みとれないのかもしれない。アルカはいつも何も考えているかわからない。カラはそのことが不安だった。けれどそんなことはどうでもいいことでもあった。やるべきことは決まっている。カラはふたたび前を向く。目標がそこにある。カラは心を決める。カラはそれを自らの運命として引き受ける。

「アルカ」とカラは言う。「どっちが先に行く?」

「一緒に行こう」とアルカと呼ばれた男が言う。アルカはガードレールから降りて立ち上がり、カラも続けて立ち上がる。アルカはジーンズのポケットからスパナを取り出す。先端に茶色い錆が浮いているが、アルカは気にしない。何かを叩く分には何の問題もない。彼らは路上に降り、それからまっすぐ歩き始める。アルカは右手でスパナを握り、左手のてのひらに打ちつけてリズムをとっている。排気音やクラクション、工事の騒音の中に、肉が金属に打たれる鈍く柔らかい音が加わる。タン、タン、タン、と、小気味よく。車内ではアジア系の男が車から降りる準備をしている。エンジンを切り、キーを抜き取り、シートベルトを外している。カラは外から車の窓を叩く。手の甲を使って、軽く、コンコンコンと、紳士的に音を鳴らす。アジア系の男は窓を少し開け、なんですか? とアジア人特有の甲高い声で言う。少し道をお伺いしたいのですが、とカラは言う。窓をもう少し開けてもらってもいいですか? アジア系の男はしぶしぶ窓を全開にする。なんですか? とアジア系の男は車の中からもう一度言う。カラは何も答えない。アジア系の男は不機嫌な顔を浮かべ、小さく舌打ちをする。あの、なんですか? とアジア系の男は身を乗り出しながら繰り返し言う。カラはそこに立ったまま黙り続けている。アジア系の男は少しずつ苛立った表情を浮かべ始める。それでもカラは何も言わない。あのさ、とアジア系の男はしびれを切らして声を荒らげる。いたずらだったらほか当たってくんねえかな、こっちは仕事中なんだ、暇じゃねえんだよ。いいか? わかったか? じゃあな。そう言ってアジア系の男が窓を閉めようとしたその瞬間、カラの後ろからアルカが勢いよく飛び出してくる。アルカは加速をつけてスパナを振りかぶり、上から下へ、男の頭に向かって思い切り、力を込めてスパナの先端を叩きつける。頭蓋骨が潰れる鈍い音とともに、剥がれた錆と玉になった血液が車中で飛び散り、フロントガラスを内側から鮮やかな赤色に染め上げた。アジア系の男は短く鋭い叫び声を上げた。とっさに男は両手で頭を押さえた。その動作にもはや意味はないが、彼の意志とは無関係に身体がほとんど自動的にそう動き、男は自分の身体の中に野生に生きる動物の記憶が残っていることを知った。頭は狂ったように脈を打ち、そのたびに火傷をしそうなほど熱い血が噴き出し指の隙間から流れ出した。男は目眩で揺れる視界に意識を集中させ、体勢を整えようとした。ひとまずここから逃げ出さなければ、と男は思った。男はドアを開けようとした。男は手探りでドアノブを探した。けれど男の身体は痙攣したように激しく震え、うまくコントロールすることができず、ドアノブを掴むことはできなかった。なんだ、お前、外に出たいのか? とアルカは言うと、窓からつっこんだ左手で男の首をつかみ、そのまま男を外へと引っ張り出した。男は身体をこわばらせ、抵抗したが、なすすべなく引きずり出され、驚きと緊張からかその場で胃の中のものを吐いてしまった。酸が喉を焼き、さらなる吐き気がこみ上げてきた。涙が溢れてきた。頭上から誰かの笑い声が聞こえてきた。声の主を探そうと男は顔を上げようとしたが、痛みと恐怖と混乱で身体をうまく動かすことができず、筋肉はただ震え続けるだけだった。男は路上にひざまずくことしかできなかった。頭を押さえながらうめき声を上げることしかできなかった。アルカは男の頭を踏みつけた。真っ赤な光の塊が一瞬視界を覆い、それから爆発した。まるで太陽だと男は思った。すべてを焼き尽くす太陽。絶えず爆発し続け自己を破壊し続けることで初めて存在することのできる巨大な暴力。それから男の頭を新たな痛みが貫いた。強烈な痛みの中で、男は自分の頭蓋骨が粉砕されて、中から脳が飛び出しているところを想像した。男は身体をよじらせてもがいた。その動きは芋虫に似ている。男が子供の頃、ライターで火をつけて遊んだ芋虫。炎から逃れようと、ものすごい速さで丸まったり伸びたりを繰り返していた、あの醜い芋虫だ。今は自分が醜い虫のようにのたうちまわっている。ちくしょう、ちくしょう、と男は涙と鼻水を垂らしながら震える声で言った。ちくしょう、一体俺が何したっていうんだよ。クソガキどもが、お前ら一体なんなんだ? アルカはスパナをポケットにしまい、代わりにハンドガンを取り出す。チェスカー・ズブロヨフカ。スロバキア製の古いモデルだが、機能性は高く、何よりアルカの手によく馴染んでいる。アルカはそれを右手でかまえ、男の頭を踏みつけたまましゃがみこみ、銃口を男の右目に押しつける。男の目が大きく開かれる。黒目が収縮する。白目は充血して真っ赤に染まっている。そこから涙が溢れ落ちている。男は頭から手を離し、アルカに向かって両手のてのひらを見せる。男は抵抗をやめる。男はもう何も言わない。アルカは男の顔に自分の顔を近づけ、お前、ちょっとうるせえな、と男の耳元で静かに言った。キーだよ、黙ってキーを出せ。そう言ってアルカは左手を男の目の前に差し出した。男は驚きと恐怖が混ざった表情を浮かべている。男は自分が何を言われているのか理解できず、何かを言おうとしたが何を言えばよいのかわからず、餌を求める魚のように口をぱくぱく開いたり閉じたりを繰り返していた。アルカはそれ以上は何も言わなかった。しばらくその様子を眺めていた。そうしているうちに、どこからかホースから水が漏れるような音がして、男の股間に黒い染みが広がっていった。男の身体はガタガタと震えており、小便でできた水たまりを上下に揺れる太ももがぴちゃぴちゃと鳴らした。しぶきが舞って、あたりに尿が飛び散った。男はそれを恥ずかしいと思った気がしたが、すぐに忘れてしまい、本当のところはどうだったのかわからなくなった。男は小便を漏らし続けた。それはアルカにとっては見慣れた光景だった。銃口を突きつけるとみんな小便を漏らす。どういう原理でそうなっているのかはわからなかったが、人間はそういうふうにできているのだとアルカは思った。

その頃、一方でカラは開いた窓から車内に入りこみ、出かける準備を始めていた。車の中は食べかけのハンバーガーやジュースのペットボトルや読み捨てられた漫画や雑誌で汚れていたが、ほかに人はいなかった。そこには男の同僚も、家族も、友人もいなかった。男は一人で、助けを求められる人は誰もいなかった。運がない、あいつには運がなかったんだ、とカラは思った。でもそれは仕方がない、誰が悪いという性質のものではない、単にそうなったというだけのこと、あの男の人生はそういう人生だったというだけのことだ。残念だが、運が悪いというのはそういうことだ。カラはそんなことを思いながら、車内に広がった食べかけのハンバーガーやジュースのペットボトルや読み捨てられた漫画や雑誌を窓から捨てた。それから雑誌が敷き詰められていたシートの上に、キーが置かれているのを見つけた。カラはさっと手を伸ばし、キーをつかみとった。カラは車から降りると、得意気な表情を浮かべながらアルカの名前を呼んだ。アルカが顔を向けると、キーを頭上に掲げた。アルカはそれを見ると、「ありがとな」と男に言って、それからチェスカー・ズブロヨフカのトリガーを引いた。金属が弾ける高い音が鳴った瞬間、アジア系の男は短い悲鳴を上げたが、アルカにはその声は聞こえなかった。男は自分の身に何が起きたのかわからなかった。何もかもわからないまま、男はそれきり動かなくなり、それ以上は何も音を発しなかった。男は口を失っていた。男の首から上には下顎だけが張り付いて、顔も頭も残っていなかった。茶色い肉や骨の欠片が扇状に散らばっていた。彼らの目の前を何台もの車が通り過ぎていった。誰も彼らを気に留めはしなかった。

アルカは、ブーツに張り付いた血や肉片の汚れを死んだ男の服で拭い取ると、車に向かって歩きはじめた。ドアに手をかけて引くとすぐに開いた。カラは先に車内にいて、ロックを既に解除していた。アルカが助手席に座ると、二人はフルフェイスのヘルメットを外した。二人は顔を見合わせた。アルカが笑い、それからカラも笑った。カラは奪ったキーを差してエンジンを吹かせた。カラはアクセルを踏んだ。ナビゲーションが立ち上がり、合成音声が行き先を訪ねた。「議事堂」とアルカは言った。合成音声が、すみません、わかりません、行き先をもう一度教えてください、と答えると、アルカはナビゲーションの画面を殴りつけた。ディスプレイが割れて、中から液晶が零れた。残ったガラスには虹色の光の線が広がっていた。ナビゲーションはもう何も言わなかった。車内が静寂に満たされた。車がゆっくりと前に進みはじめた。アルカには進むべき道がわかっていた。カラはそれを確かめるだけでよかった。カラはアクセルを深く踏み込んでゆく。車は速度を増してゆく。そうして二人は移動を再開した。風景が流れ、火のついたバターのように溶けて混ざり合い消えてゆく。車はすぐに街を離れ、やがて荒野を進み始める。二人を乗せた車は土埃を掻き分けるようにして進んでゆく。テキサスからワシントン。東に向かって。

 

街と街はうまくつながっていない。土と砂だけでできた、一面オレンジ色の代わり映えのしない風景の中を延々と走っていると、本当は街などどこにも存在しない気がしてきた。自分が信じてきたもの、見てきたものや聞いたことが一体なんだったのか、カラはアルカと出会ってからどんどんわからなくなっていた。当たり前に存在すると思っていたもののすべては作り物で、まがい物で、一度外に出ればどうしてそれまでそんなものを本物だと思っていたのか、もう二度と思い出せなくなる。けれど中にいるときは決して気づくことはできない。そしてカラは外へと進み続けていた。遠く離れ続けていた。わからなさに向かって深くアクセルを踏み込み続けていた。二人は前に進んでいたが、前に進むために必要な手順や段取りについては何も考えていなかった。二人は地図すら持っていなかった。今日や明日の目的地については何も決めていなかった。だからアプリを使っても意味がなかった。アプリは何も教えてくれなかった。彼らは空腹や疲労を感じるまで車を走らせ続け、空腹や疲労を感じたら目に見える近くの建物――それは店でも家でもなんでもよかった――に入ることにしていた。人の群れが見えたら、二人にとってはそれが街だった。カラはテキサスに生まれ、テキサスで育ち、テキサスの外には出たことがなかった。カラにとってはそれが初めての旅だった。アルカと出会ってから、カラには初めてのことばかりで、自分がどういう気持ちでいればよいのか、よくわからなかったが、車を運転してテキサスから離れると、純粋な好奇心と高揚感に満たされた。カラにとってそれはこのうえなく楽しいことだった。それまでの人生では経験したことのないような楽しさだった。だからこの楽しさに身を任せていよう、とカラは思った。何もかもが輝いて見えた。人生に意義を感じることができた。少なくとも今この瞬間だけは、それはたしかなものだ、とカラは思った。

「なあアルカ」とカラはフロントガラスに目をやったまま言った。「俺さ、アメリカ大陸を横断してみたいって、ずっと思ってた。子供の頃からずっと思ってたんだ」

「そう」とアルカは言った。アルカは脚を前に投げ出して、腕を前に組み、目を閉じていた。「それはつまり、それがお前の夢だったということか? 人はみんな、誰でも子供の頃は夢を持つんだろ?」

カラはなんと答えようか考えた。そう言われるとそんな気がしたが、そんなふうにとらえたことはそれまでの人生で一度もなかった。一瞬の沈黙。カラは喉の奥を低く鳴らした。それから口を開いた。「夢か。そうだな、たしかに、夢だったのかもしれないな」とカラは言った。カラは続けた。「アルカには言ってなかったっけ、俺の家は貧乏だったからさ、旅行なんて行ったことがなかったんだ。大人になって、自分で金を稼いで、金が貯められるようになるまでは、俺はどこにも行けないと思ってた。小さな頃は、クラスメイトが親と一緒にキャンプに行った話なんかをするだろ? それがうらやましくてね。家に帰ってから親に何度も頼んでみたけど、うちにはテントもないし、親が仕事以外で自由に使える車もないし、そもそも父さんも母さんも働きづめで休みなんかとれなかったから、キャンプなんて行けるはずもなかった。悲しかったな。すごく悲しかった。自分の家は他の家とは違うんだって強く感じたよ。どうしてうちには金がないんだろう、どうして俺だけが仲間外れなんだろう、両親はなんのために生きていて、何がしたくて俺を生んだんだろうって、いつも悩んでたな。俺は早く家を出たかったし、街を出たかった。よく自転車に乗って、陽が落ちるまで漕ぎ続けたな。できるだけ遠くまで行きたかった。俺の知らない場所へ、俺のことを知っているやつらがいない場所まで、自転車を使って行こうとしてたんだ。でももちろんそんなことができるわけがない。子供が自転車で行ける距離なんて、せいぜい地下鉄の一駅か二駅分だよ。陽が沈んできて、あたりが暗くなってきて、道がわからなくなってくると、俺は怖くなって、焦りながら来た道を引き返した。俺は一人ではどこにも行けないんだって悟ったよ。それからは、仕方ないから、俺は図書館に行って本を読んだんだよ。自転車に乗って知らない道を走ってるときにさ、途中で大きな図書館があるのを見つけたんだ。検索機があってね、そこに旅行って言葉を入力すると何百冊も本のタイトルが出てきて、全部メモしたよ。休みになると図書館に行くようになって、そのメモにある本を上から順番に読んでいった。写真がたくさん載った、観光地のガイドブックとか図鑑を見てね、この土地にはこんな風景が広がってて、こんな動物がいるんだなって、一生懸命想像して、自分が本当にそこに行った気になったんだ。子供の頃の俺にはそれが楽しかった。わかるか? 目を閉じて、瞼の裏側に世界を立ち上げるんだ。一生懸命意識を集中させるとね、世界はそこに本当に現われてくるんだよ。音だって聞こえてくるし、匂いだってする、手を伸ばせば触れることだってできるんだ。俺はそこで歩いたり走ったりするだけじゃなくて、動物の鳴き声も聞いたし川の水も飲んだ。焚き火の炎の暖かさを感じた。いつのまにかできなくなってけどね、小さな頃はそんなことができたんだよ。不思議だろ。懐かしいなあ。そこには父さんと母さんもいて、みんなで手をつないで、いろんなきれいなものや珍しいものを見て、驚いたり笑ったりするんだよ。古い教会の前なんかで記念写真を撮ったりしてさ。あれは楽しかったな。本当に楽しかったんだよ」

カラは微笑みを浮かべながら話した。目を細め、遠くのほうを見つめていた。その視線の先でカラがとらえていたものは、おそらく現実そのものではなく、子供の頃に瞼の裏側で見ていた世界の写し絵のようなものだった。話し終わってからもしばらくは、カラは恍惚とした表情をしていたが、アルカは目を閉じたままで、カラのその顔は見ていなかった。カラが話し終えると、アルカは、そう、と一言だけ言った。カラは続きを話そうとして、口を半分開いたまま言葉を探したが、続きは話さなかった。カラは黙ってハンドルを握り続けた。車は前に進み続けた。沈黙が車中を満たした。それからアルカが、何か音楽を聴かせてくれ、と言った。カラはラジオを点けた。スピーカーからゆったりとしたリズムのヒップホップが流れてきた。カラはハンドルを握ったまま、音に合わせて体を揺らした。良い曲だとアルカは言った。良い曲だとカラも思い、そうだなとカラは言った。けれど誰の何という曲かは二人とも知らなかった。車の中で、二人はほとんど口をきかなかった。アルカは黙って窓の外を見ていた。時々口を開きかけて、すぐに閉じた。カラはその横顔をじっと見つめていた。

 

やがて車は都市の中に入った。それは大きな街だった。二人が生まれた場所よりもずっと大きな街だった。コンクリートでできたビルとビルの隙間を、二人を乗せた車は進んだ。速度を落としながら、車は人混みを横切っていった。人々は車の方をちらりと見ただけで気にしなかった。そんな車はいくらでもあった。アルカは窓を開けて身を乗り出しながら外の様子を見た。外の空気と音がいっせいに車内になだれこんできた。街の中は騒音に満ちていて、ラジオの音はほとんど聞こえなくなった。

「なあカラ、このあたりで一旦停めよう」とアルカが言った。カラはアルカの言うとおり車を停めた。それからカラは車を降りようとした。けれどアルカは動かなかった。目を閉じていた。カラが不思議に思っていると、「もうすぐ夜だ。出る前に少し休もう、カラも疲れたろ」とアルカは言った。カラはうなずいた。そうしてカラも目を閉じた。

カラはときどき目を開けて、周囲を見渡した。夕闇が迫ってきていた。夜は近づいてきていた。街は、どんな街でもそうであるように、夜の闇の中でその手を伸ばし、どこまでも果てしなく続いていくようだった。色とりどりのネオンの光。それから街灯や車のライト、オフィスビルの灯り。地平線の向こうまでそれは続いている。目を細めて遠くのほうを見つめれば、ぼんやりと、抽象画のように輪郭が曖昧になった光が、混ざり合いながら揺らめいている。見えなくなった街の続きを、カラは頭の中に立ち上げる。そこから東に向かって進み続ければ、やがて中流階級の地区が終わり、西で目にしたものを鏡に映したように貧しい地区が現れ、そこからきわめて変化に富んだ地形が始まる。岩山、窪地、古い農場の跡などが連綿と続き、干上がった川床が一か所に人家が集中しようとするのを防いでいた。北には国境を隔てるフェンスが見え、その先に砂漠が広がっているのが見えた。西は二つの工業団地に囲まれ、その周りをスラムが取り囲んでいた。カラはもう一度まぶたを閉じた。街の光は遮断され、視界が闇に覆われる。カラは自分の身体を取り巻く空間のことを忘れようとつとめ、自分の身体がそこにあることを忘れようとつとめた。カラの意識は身体を飛び越え、空間を飛び越え、空想の襞の中を突き進む。やがて意識は一つの場所に辿り着く。そこにあるのは、自分だけの純粋な世界だ。目をふさいでしまえば、いつどこにいようと見えるものは同じだった。その世界は自分だけのものだった。カラはキャンプに行けなかった子供の頃からそのことを知っていた。アルカに話しながら、カラは昔のことを思い出していた。子供の頃に見ていた理想の世界を、カラはもう一度思い描こうとした。視界全体に暗闇が広がり、そこに想像の光景を投影すると、やがてぼんやりと立体感を伴った輪郭が立ち上がってくる。自分だけの世界が少しずつ像を結んでいく。夜の川べり。テント。焚き火。冷たい風。森の奥から聞こえてくる動物の鳴き声。焚き火を囲む人々。そこには父さんと母さんがいた。父さんと母さんが微笑みながら何かを話している。それが何かはわからない。耳を近づけて聞き取ろうとする。そのとき、闇の中から人影が近づいてくるのに気づく。目を向ける。少しずつ、焚き火の灯りに照らされて、その姿が明らかになってくる。その姿には見覚えがある。背が高く、肩幅の広い筋肉質な身体、長い髪を後ろで束ねたポニーテールのような髪型、そして強い意志を感じさせる大きな目。アルカだ。アルカがゆっくりと近づいてきて、目をそらすことができない。その表情は暗闇に溶けて見えず、アルカが何を考えているかはわからない。アルカが近づいてくるほどに、視界がアルカの姿で占められ、思考はアルカに占められ、父さんと母さんが遠のいていく。子供の頃の世界が少しずつカラの視界から消えていく。いまここにあるカラの視線は、過去の記憶を、思い出の中の世界を追いかけようとするが、なぜだか追いつくことができない。そうしているうちにもアルカは近づいてくる。より鮮明に、具体的な描線を伴い、存在感を増してくる。やがてアルカがカラの目の前に立ち、カラの目を見て言った。「あきらめろ。失われるものを追おうとするな。お前が見れないものはお前が本当に見たいものじゃない。お前が見れるものだけが、お前が本当に見たいと思っているものなんだ」。いやだ、やめろ、やめてくれ、子供の頃のカラはそう叫ぼうとしたが、喉が渇いてうまく声を出すことはできなかった。喉の奥で空気が漏れた、ざらつくような不快な感触だけが残り、カラは思わず咳き込んだ。手の甲で口を押さえ、呼吸を整えようとした。首を横に振って、アルカのまなざしから逃れようとした。他のことを考えようとした。意識を集中させ、昔の自分が見ていた光景を思い出そうとした。けれどやはり思い出せなかった。そうしているうちに、カラは、自分がどこにいるのかがわからなくなった。自分が何者で、何が好きで何が嫌いで、何をしたい人間なのかわからなくなった。カラはどうすればいいのかわからず、泣きたいような気分になった。そのとき、唐突にアルカがカラの肩を両手でつかみ、そのまま子供の頃のカラの身体を抱き寄せた。カラ、大丈夫だ、俺を信じろ、そして、俺を信じるお前自身を信じるんだ、とアルカは言った。お前がお前自身を強く信じたとき、お前の世界は正しくなる。強く、確かなものになるんだ。耳元でアルカのその言葉を聞いた瞬間、カラの視界が突然ひらけ、闇が切り裂かれ、光があふれ、光は爆発するように空中で跳ねながらひとつの風景をかたどりはじめ、やがてそれは城になり、街になった。巻かれた絨毯が広がるように、爆発の中心部から光は放射状に散らばってゆき、ひとつなぎの街は奥行きを増していった。想像可能なあらゆる空間が黄金に輝く街で満たされていった。それはもはや街ではない。国だ。アルカを王とする国。黄金の王国。アルカは黄金の玉座に深く腰かけている。その隣にはカラが立っている。他には誰もいない。カラの父も母もその光の中には入れない。そこはアルカとカラの、二人だけの王国だ。生まれたての一瞬の強い光と、消え入るあいだのほんのわずかな時間の残光が入り交じる中にそびえ立つ、ぼんやりと、かげろうのように揺れる王国。荒野の砂の中で、まるでガラス細工のように精巧で、線が細く、透き通りながら、強く触れてしまえばその瞬間にばらばらに砕け散ってしまいそうな、美しくはかない王国。けれどもそれはたしかにそこにあった。カラはその光景をたしかに目撃した。カラはその王国が永遠のものではないと知っていた。同時にカラは、その王国を永遠のものにしたいとも思った。カラは、自分とアルカの王国を、いまよりももっと強く、もっと太い輪郭で描く想像力がほしいと思った。そしてその想像力を鍛え、王国をより強固で具体的なものにするために、自分はアルカとの旅を続けるのだと思った。アルカを王にし、自分は王になったアルカの隣に立ち、王国の永遠の繁栄を見届ける使命があるのだと思った。まぶたの裏側で無数の光が跳ね回り、くっついたり離れたりを繰り返した。カラにはそれが未来を約束し、祝福しているように思えた。その様子を眺めているうちに、やがて光の数も徐々に減ってゆき、最後の一つが完全に消え失せると、カラはそのことに気づくことなく眠りの中へと落ちていった。

 

夜がやってきて、暗闇が深くなると、彼らは目を覚ました。星々が瞬き、遠くを見ると、砂丘の表面に月明かりが黒い影を落としていた。二人は目を見合わせ、あくびをしながら車から降りた。街は喧騒に包まれていた。音楽や通行人の笑い声が空気の中で混ざり合い、塊になったその音が一定のリズムを作っていた。カラにはそれが都市の呼吸音のように思えた。カラはアルカのほうを見た。アルカは自動小銃を肩からぶら下げていた。カラはバックドアを開けた。トランクには紙袋が隙間なく詰め込まれている。アルカはスポーツバッグを手に取り、その中に自動小銃を入れた。銃口がおさまり切らなかったが、彼は気に留めず、ジッパーを閉めた。それから彼らは両手で持てるだけの紙袋をつかむと、ドアを閉めた。キーをロックすると、彼らは夜の街の中を歩きはじめた。すぐに何人かとすれ違った。様々な人種、性別、年齢の人々が彼らの前を通り過ぎていった。誰も彼らを気には留めなかった。カラがよそ見をしていると、前からやってきた男と肩がぶつかった。大きな男だった。カラはバランスを崩してよろめいた。カラは振り向き、男に向かって何かを言おうとしたが、男の姿は雑踏にまぎれもう見えなくなっていた。都市は人間を透明にする。それは誰であっても例外ではなかった。都市の中の人々は、他人のことなど考える必要はなかった。自分のことだけを考えることができたし、そうするべきだった。都市がそれを要請した。都市はただ静かにそこにあるだけだったが、止まっているわけではない。そうだ、とカラはアルカの言葉を思い出す。都市の中では都市だけが生きている。そこではあらゆる生命は単なる構成要素になる。都市だけが、自らを維持するための運動を絶えず続けているんだ、とアルカは言った。カラはその言葉を、あたかも自分のものであるかのように、あるいは自分のものにするかのように、小さな声で繰り返しつぶやきながら歩いた。自分自身の言葉を忘れるために。