Ⅰ
フルーチアイスは俺が生きる神たる東京【第二圏】の大ヒット氷菓子だ。
地獄の底のように廃れた無人の公園。木々は枯れている。腐りかけのベンチに座り、顔を上げる。
高層ビルの壁面に映し出されている参次元電飾広告。フルーチアイス超越的オレンジ味、夏限定。黒色のフォントから、容器に入った毒色氷菓子が飛び出す。ついでに、値段や販売店などの拡張現実補足が全情報集受容疑似瞳に表示される。
今の俺には口に運ぶ気力もない。夜中の衝動徘徊しかできない。
俺らの五圏東京は、大都市摂政人工智脳〈徳川宗春〉公の統治下に置かれ、意図的に分断されている。
五月、夜の春風だけは心地よい。尋常ではない量の建築物。派手な電飾。迷路のような首都高速。ごちゃませの住民。俺が住むのは、【第二圏】だ。圏民は自分が所属する圏に関する情報しか接続できないし、他圏への接触や干渉は禁止されている。
この【五圏東京】の大原則は相互没交流だ。各圏間での情報の往来は、基本的に許可されていない。
例えばさっき、俺の目の前を誰かが駆けていった。いくら努力しようが、その【誰か】の遺伝情報や社会属性、趣味嗜好などを俺は一切認識できない。俺とそいつは交わらない。そいつは同じ五圏東京に住んでいるが、他圏の人間だからだ。
経済や政治、法律、文化すべてにおいて差異があり、五圏それぞれの社會が形成されている。それらを摂政がコントロールしている。東京、摂政、行政機関による三位一体統治。
俺が目にしているフルーチアイスの参次元電飾広告が流れている高層ビルの壁面には、別の圏の人間からしたらプロテインの参次元電飾広告か与党政権に関するフラッシュ・ニュース、それとも倍速桃色映像が映っているかも。あるいは何も表示されていないかもしれない。
ビル谷の間を合意調整四基編隊で監視用多翼機械群体が羽根音を発して飛翔していく。俺に見向きもしない。
現世には二種類の人間がいる、気がする。
生きたいから生きている人と、死にたくないから生きている人。
二五歳になった俺は確実に後者だ。という雰囲気が人生には漂う、臭う。地に足が着いてなくて、遊泳能力がない生物のように都塵満載の神たる東京を漂流しているのだ。自分で愛を掴めを標榜し、十七歳で終わる超競争高速義務教育から転げ落ち、官僚にも奴隷にもなれずに、つい先日いよいよ無職になった。
負け犬の日々。死にたくないから生きている。きっと大災厄前夜の世界でも同じような奴らはいただろう。なすすべがない宇宙に打ち上げられた猿だ。
突如だった。
腕に填めた腕輪型万能端末からピープ音。軽い頭痛も同時に。
なんだってんだ。
天変地異後の関東に爆誕降臨した神たる東京。
五〇〇〇万に及ぶ居住民は全員、耳の裏側辺りに下僕たる証明を植え付けてある。
下僕たる証明は電子的な模擬脳系統で構成されており、人々は脳の主要箇所、聴覚野や第一視覚野、側頭葉などに制限をかけられ、報酬系をも脳髓支配されている。まるで西遊記に出てくる孫悟空の頭にはめられている緊箍児のようだ。生活補助の為、瞳には全情報集受容疑似瞳の装着が必須である。
参次元浮遊通知が目の前に浮かぶ。
赤の表示。緊急速報だ。
耳鳴りまではじまった。なにごとだ。
文面に集中する。
『選抜:完了。以て、【第二圏】戦闘員として〈この夜〉を生きよ』
「なに」意味不明理解不能。
俺は情報詳細をさらにチェックしようと、参次元画像に指を伸ばす。
が、その前に違和感を覚える。
誰かが立っていた。
顔を上げると、目の前には見知らぬ男が直立していた。
俺は困惑した。今の今までこんな奴はいなかった。
神たる東京が生んだ死屍累々から出でし亡霊。他圏の人間。
男だと分かったのは骨格がしっかりしていたからで、顔は見えなかった。公園が暗かったからではない。俺の視力が悪かったわけでもない。拡張現実化粧の電子覆面で隠されていた。
奇妙な電子覆面だった。
隆起の激しい朱色の表面。白く豪快な眉は光を吸収して、キラリと艶めく。特に目立つのは、長い鼻。なんの面だ。ひょっとこ、獅子、般若、鴉マスク、天狗。
ああ、天狗だ。
上下紺色のツナギを着ており、足元はアディダスのフォーラム・ハイだ。手元には、釘が螺旋状に生えている木製の撲殺バット。見世物屋なのか、それともアニキャラの恰好なのか。いや、強盗か。官憲に見つかれば、強制的電子接続、電脳空間巣鴨牢獄送り間違いなし。
「お前ぇ」天狗がつぶやく。「俺が見えッか」
答えに窮する。
悪趣味な天狗のコスプレと仮定しても、こんな夜更けに貧困街同然の公園をうろついているだなんて、頭の螺子が抜けている奴だろう。巷じゃ、昔ながらの異常幻覚剤はもちろん、偽造植物由来の鎮痛香油、虹を作る素を配合した悪魔笑顔製造という新種薬物も流行っている。
「いや、その」
視線を逸らした。
「見えるんだあ!」天狗は急に甲高い大声で吠え、バットを振り上げた。
攻撃。
躰が硬直。
幸運にもしなかった。
咄嗟に、右足を思い切り相手の股間にぶち当てる。
「ぐえ」天狗、前のめり。
隙。
俺はベンチを飛び出す。腕輪型万能端末を通じて通信を起こそうとするが、起動しない。くそくらえ。
と、左腕に衝撃。
激痛。
地面に転がる。
次の刹那には、天狗が俺に馬乗り。
「逃げないデぃよ!」前傾姿勢の天狗はバットを放り上げて、ツナギから銀色に艶めく短剣を取り出す。なぜだ。こんな武器の保持は、下僕たる証明が許さないはず。
「待って、待ってください」
躰をずらそうと身を捩るが天狗は更に体重をかけてくる。
「じっとしていてえ! すぐに。すぐに済まさせていただきますからァ」採血注射を腕にブッ刺すときの看護士のような言葉を吐く。「がんばってエ、がんばって」
短剣の切っ先が俺の首筋に。
硬さ、痛みが全身を震わす。下僕たる証明はこれを和らげてはくれない。
死。
やだ。いやだ。
心が叫んだ瞬間。
ふと躰が軽くなる。
同時に、頬に液体の感触。刃先が離れる。
目を開くと、天狗はまだ短剣を握っていた。
が、血を流していたのも天狗。
よく見ると、右耳の位置から鉛色に輝く細い鉄の棒が突き出ていた。ぽとぽとと俺の頬に天狗の血が滴る。
鉄の棒は誰かが握っていた。
「おいしょっとォ」
襲撃してきた天狗の鬼気迫る感じとは違う軽快な声。鉄の棒がさらに耳奥にねじ込まれる。天狗は、びくんと大きく痙攣すると、短剣を手から落とした。
さらにぼたぼたと血。
理解不能意味不明。心臓が音を立て動いている。落ち着け。
俺は弛緩した天狗の躰を押しのける。
膝を曲げ、背後から天狗の耳に鉄の棒をねじ込んでいたのは、黒ずくめの男だった。
黒ずくめは、パーカーを被っており、顔が見えない。口元の辺りからは、煙草の紫煙がモクモク。
この真黒黒助は、なに。
「兄さん」黒ずくめの顔がこちらを向く。「落ち着きなって。瞳孔が開き過ぎ」
俺と同世代の若い男だった。目の周り、塗料か何かで黒く塗りつぶすコープス・ペイントを施してある。浮かび上がった白い目玉が、俺を舐め回すようにじとりと見つめる。
動けない。
黒塗り顔は、口に銜えた煙草をふかして、多量の紫煙を吐き出す。
「さて、殺しは完了」黒塗り顔は、ふらりと緩慢に動き、伏している天狗の背中の上で脚を組んで座す。「危機一髪だったねェ」
「な」俺は後ずさりする。「なによ」
人殺し。
大量の血液が天狗の頭部から罅割れたタイルの上に流れていく。
黒塗り顔は薄く微笑んだ。
神たる東京。鋼の極東。天国東京。
世界規模の複合的な災害であった大災厄は、三〇年前に栄華を極めていた世界を破壊しつくした。契機である今日こそがその日は悲惨だった。超大規模太陽風の南半球直撃、隕石群の十字状激突。余波として、大震災と大嵐、大磁気嵐の連続発生。オーロラが世界中で観測された。人々は狂乱を極め、六日間で世界は壊れた。
復興が成功したのは、世界で唯一、東京だけだった。
紐育など海の泡と化し、天使の街は焦熱地獄。モスクワには草木も生えていない。北京周辺には血で血を洗う修羅界が、六道輪廻を無視してこの世に顕現している。
秩序を取り戻すため、当初内閣総理大臣から指名を受けて東京復活を担ったのは、復興用人工智脳徳川吉宗であったが、質素倹約緑政に代表される強引かつ厳格な教義主義的手法が災いし、わずか半年で計画の推進が減速してしまう。この危機を脱するために、享楽的理想郷管理を提唱した徳川宗春が尾張名古屋から召喚された。蘇った超特急復興により、五年で東京が新生した。旧東京二三区を基にして、異常な量のコンクリートと鉄骨を躯体とする巨大ビル群が再構築された。言語や文化、社会システム、電力系統、対比されてきた周辺部や農村なども旺盛にその胎内に取りこんでしまった。宗春は都民の際限ない欲望を許容するために、家父長制を解き、柔軟な階層遷移を可能とし、万能端末を奪い去ってから、人々をデジタル的に【圏】という部分社会に分け、全体に冗長系をもたらした。神たる東京のバックアップ・システムの実装。東京大分割。
万が一、大災厄に類する事態が再来し、【第二圏】の秩序が崩壊しても、ほかの圏に所属して避難すればいいということだ。文化や言語は、五年に一度は超蝶々調整が行われ、統一性を担保されている。
この東京復活は、世界復興の予告編になるはずだった。
だが、現在神たる東京ほどの復興を成功させた場所は他にはない。常態的に降り注ぐ太陽風は、世界中の交通網を破壊しており、航空機や船舶での渡航もままならない。
神たる東京は、かつての民が想定した通りの電脳都市だ。無情無血である摂政の逆鱗に触れぬ限り、欲望のままに生きていい。代わりに超競争社会が与えられている。ほぼなんでもありだ。
しかし。しかしさ。
この目の前で起こっていることは何だ。
いったいなんだ。
黒塗り顔は余裕しゃくしゃく。
「兄さんには、手を出しませんンよ、同類だからね」
同類。俺はもう一歩引き下がる。
「な」
「ふむ、こいつは、【第四圏】か」天狗を見下ろしている黒塗り顔はぼそっと呟く。「バリヤバい」
「意味が不明だ。なんで俺が【第四圏】の人間を識別できるの」
「そりゃ摩訶不思議だろうけども」黒塗り顔はパーカーのポケットを弄り、スプレー缶を取り出した。「艶消しの黒色。こいつで、顔を加工したほうがいいよ」
「なんで。これ、なんだよ、ふざけんな」
殺しなんてもちろん御法度だ。監視機械に通報されれば、官憲たちが即応してくる。下手したら、神たる東京から追放。
俺の不安を嘲るように、黒塗り顔は笑む。
「【東京の宵】。徳川宗春ご公認暴力血祭。まさに命遊び、ブっ殺し合いだね、兄さん。こいつも」黒塗り顔は動かないままの天狗のお面を指さす。「僕も、趣味じゃないから。殺されちゃうよ、マジで。デジタルマスキングなんて準備していないでしょ」
「厭です」スプレーの噴射口を顔に向けられて、俺は首をよじる。「ちょっと待ってください」
「自分も最初はこんな感じだったんだねェ」黒塗り顔は、諦めた様子で呟いた。「じゃア、これで顔を隠しなってば。強盗みたいなノリで」
黒塗り顔は、パーカーのポケットから、黒色の渦巻柄のバンダナを取り出した。
逃げたい。が、躰が硬直している。
かろうじて、目は動いた。
改めて見ると、黒塗り顔は隙も無いほど真っ黒な衣服をまとっていた。デニムも、スニーカー、パーカーの袖口から見える肌着まで真っ黒い。超黒い。
「いやだ」口を動かすのがやっとだ。
黒塗り顔はバンダナをポケットに突っ込むと、倒れた天狗から腰を上げる。
「兄さん。名前教えて。嘘でいいから」
「言わないですって」
と、足元に何か重み。
なんだ。
血まみれの右手が、俺の右足首を握っている。
足元の天狗。振り払おうとするが、掴まれた手は離れない。
「フゥ、はぁ」
「やめ」空いた足で、天狗の頭を蹴る。「やめてください」
黒塗り顔は小さく笑みを浮かべて腕を組んだまま動かない。
「助けろよ、あんた」俺はわざと大声を張り上げた。誰かが助けに来るかもしれない。「なんなんだよ、これ」
右足首への圧力は、さらに強まっていく。
「アンタじゃあ、なんだか味気ない。名前、必要だよねェ」黒塗り顔は、俺の危機を無視して悩み始めた。「かといって、本名教え合うのは、危険なんだな」
俺は叫ぶ。「脳味噌に蛆でも湧いてんのか、もうやめてくれ。やめてください」
「中華と和風、どっちがいい?」俺の懇願までガン無視。まるで夕食の相談をしてくるかのような質問だ。
「どっちでもいいから」足を振り回すが、全く離れない。
黒塗り顔は自分を指さした。「じゃあ、僕のことは、ジットクと呼んで。お兄さんのことは、カンザンと呼ぶからさ」
どうでもいい。「ジュットクさんでも、なんでもいいから、助けろ」
「いや、やだな。じゅっとくじゃなくて、ジットク。それに、ふざけてなんかない」黒塗り顔は、今度黒いカーゴパンツからぐっと、三〇センチほどの長い針みたいなものを取り出した。「九寸釘。さっきもこれを右耳へブスリと刺しこんでやったんだ。致命傷じゃなかったみたい」
九寸釘は、公園の白色電灯の光を照り返して、鉛色に艶めいている。
「能書きは十分だ、ふざけんな」
ジットクと名乗った男は、すたすたと俺へ近づいてくる。「あんましでかい声上げないで、助けなんて来やしないってば。他圏の奴らから襲撃を受けちゃうよ」
「だから、ふざけてんじゃねえって」
胸倉を掴んでやろうとするが、ジットクはすいっと俺の手を避けて、再び天狗の背に腰を下ろす。
ジットクはもう一度天狗の耳に九寸釘を刺し、息の根を止めた。
右手の力が抜けた。死んだ。耳鳴りも止む。
命が消えた。
俺は踵を返し、一目散に逃げだす。
「待ってよ」背中に声を掛けられたが、俺は無視した。
本能が告げる。
関わっちゃだめだ。
俺は公園を突き抜けるように奔り切ると、参次元電飾広告に取り囲まれて煌々と明かりを灯す巨大なビルのエントランスへ入り込む。真っ暗な深夜の共用通路には人がいない。俺が駆けると、人感センサーが反応して照明が点く。
やがて、突き当りに黄色っぽい人工光が見えてくる。
西道満ビル低階層首都警察第二圏交番。ヘッド・マウント・ディスプレイやタクティカルベストを装着した金髪の若い警官が落ち着いた様子で窓口に座っていた。
しかし走ってくる俺には気づいていない。どうなってんだ。
「おい」俺は窓口に駆け込み、板型端末を睨んでいる金髪へ声を投げた。「殺人だぞ!」
安っぽい机を思い切り叩き、蹴りを入れる。交番内に音だけが響いた。
しかし反応はない。
「聞こえてんだろ。ふざけてんじゃねえって。殺しが遭ったんだぞ。馬鹿、ハゲ」
禿ていない相手をハゲと呼ぶほど、俺は頭に血が上っていた。
限界だ。興奮しすぎているせいか、なぜか涙が込み上げてきた。なんか悲しいの。
俺は利き手の右拳を振り上げる。
「やめたほうがいい」背後から落ち着いた声がする。「殴るのは、絶対によしたほうがいい。無関係な人間への過度な干渉は禁止。全知全能たる東京からお沙汰がある」
振りかえると、ジットクが交番の入り口で手を組んで立っていた。少し息を切らしていた。 走って追いかけてきたのだろうか。
「兄さんが混乱しているのは、重々承知しているよ」
ジットクと名乗る男が快楽殺人者か正義の使者だろうが、もう逃げられないだろう。手元には、ぼたりと血を垂らしている九寸釘が握られている。
ものすごく抵抗してやればいい。
「お前さ、なんなんだよ」
「案内するよ。殺すつもりなら、もう何度も殺せている。あなたに危害を加えたのは、先刻の天狗であって、僕じゃないでしょう」ジットクは一旦間を置いた。「まァ、天狗退治できたのは、あなたのおかげだ。気に喰わなければ、隙を見て僕から逃げればいい。ロクな目には遭わないけどねェ」
「俺はあんたを信用しているわけじゃない」俺はカウンターに乗ってみる。若い警官の前を通るが、やはり無視されたままだ。「訳が分かるまでは、言うことは聞く」
「それで十分」ジットクはカーゴパンツのポケットからバンダナを取り出した。「その眉間に皺を寄せ過ぎの表情を見ていれば、まあ、信用していないのは理解できちゃうね」
俺はジットクからバンダナを受け取り、顔に巻きつける。
*本記事のキービジュアルは永良新が作成しました。