anon press編集部メンバーであるSF作家の樋口恭介が、8年ぶりに書き下ろし長編小説(?)を刊行しました。
『Executing Init and Fini』と題する本作は、LLMを駆使して書かれたもので、ほとんど人手を介しておらず、本人曰く「テクノやエレクトロニカやノイズやインダストリアルミュージックのような、全てが機械の中で完結する、機械芸術として楽しんでほしい」とのこと。なお、装丁は、同じくanon press編集部メンバーであるスペキュラティブデザイナーの永良新によるもので、「初の装丁にしてマスターピースをデザインできた感があり、非常に満足」とのこと。ぜひ、機械のような異形の物体として、物理書籍でお手にとっていただけますと幸いです。
anon pressでは、このたびは本書発売を記念して、書籍あとがきとして記された「Produciton Notes」を本noteにも掲載します。
ぜひ、作品とあわせてお楽しみください。
本邦初、生成AIとの共作長篇
観測系と呼称される人工知性が、読者Aを想定して出力する言語空間。作家・樋口恭介が執筆した断章と、樋口恭介のプロンプトによる生成AI執筆の断章とが交錯する。企画・編集のアンソロジー『異常論文』から5年、本邦初、生成AIと人間による本格的な共作長篇
Producition Notes
テキストは機械的なものであり、ゆえにすべてのテキストは機械的に出力可能である。
この着想に至ったのがいつごろのことだったか、いまとなっては思い出せない。子供のころからそんな感覚に取り憑かれていた。
ただ、これが私一人の発明ではないことは確かだ。テキストを精神の発露としてではなく、規則と素材の組み合わせとして扱う見立ては、二十世紀以降の文学と技術が繰り返し共有してきた前提のひとつである。『Executing Init and Fini』はその系譜の最新版と、ひとまずは言うことができるだろう。少なくとも私は、そのような意図でこのテキストを制作している。
私は二〇一七年に『構造素子』という小説を書いて、SF作家としてデビューした。
この作品は、AIが複数の世界を生成し、並行世界が自動的に乱立していくという物語だった。しかし、そこにあるテキストの大部分は、実際には人間の肉体によって書かれた。ごくわずか、ほんの一部だけ、VBAやPythonを用いて、ランダム関数やマルコフ連鎖によって自動的に文を切り刻んだり並べ替えたりはした。マルコフ連鎖とは、直前の状態のみに依存して次の状態を確率的に決定するモデルである。これを文章生成に応用すると、直前の数語から次の語を確率的に選択することで、文法的にはそれらしいが意味的には破綻した文が生成される。私はこの手法で生成された断片のなかから、人間には書けないような奇妙な美しさを持つ一文を拾い上げ、人力で前後を整え、物語のなかに埋め込んだ。
要するに、『構造素子』では、物語の主題として自動生成を描きながら、作品としての生成はまだ身体に依存していたということだ。そこでは、テーマとしての自動生成と、方法としての自動生成は別物だった。私はそれからもいくつかの実験を通してその乖離を解消しようと試みたが、前進に至るには数年を要することになる。
LLMの登場がすべての前提を書き換えた。
本作『Executing Init and Fini』は、人間によって構想され、テキストのほとんどすべてがLLM(大規模言語モデル)と呼ばれるAIによって執筆されている。
全体の整合のため、一部のエピソードの執筆および細部の調整は人力で行ったが、八割ほどはプロンプトによる指示のみで出力した。
使用したプロンプトは主に二種類ある。
ひとつは、短いエピソードを量産するためのものである。
「(任意のタイトル)というタイトルで、ポップでキッチュでナンセンスで、それでもどこかセンチメンタルでリリカルで文学的な、スピード感のある現代アメリカ文学っぽい、二〇〇〇字程度の短いスリップストリーム小説を書いてください」
このプロンプトは、文体の方向性を指定しつつ、具体的な内容は任意のタイトルによって変化させる設計になっている。スリップストリームとは、SF・ファンタジー・主流文学の境界を横断するジャンルを指す用語で、一九八九年にブルース・スターリングが提唱した。ポップでありながら文学的であるという相反する要素を同時に要求することで、LLMの出力に一定の雑味を与え、それに伴う緊張感を表現させる意図がある。
もうひとつは、作品全体の骨格を形成するためのより複雑な指示である。
「下記を踏まえ、ドナルド・バーセルミのようなユーモアのあるポストモダン風の探偵小説=アンチミステリ小説を執筆してください。『宇宙の崩壊と全時空の分岐と恣意的な混交』というテーマで、英語圏の理系知的エッセイを翻訳したような抑制的な文体で、人間があまり出てこない、架空の事象や架空の理論や架空の生物に纏わる架空のエピソードについて記述した、ストーリー性のあるエッセイ風のポストモダン小説を執筆してください。理知的なエッセイ風とは言え小説に近い形式にしてほしいので、見出しや脚注等の論文的な装飾は不要です。登場人物は出てこないが、複数の登場人物のようなものは出してください。ホルヘ・ルイス・ボルヘスやW・G・ゼーバルトやガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を思わせる複雑な構造と詩情を伴った物語になっていると好ましいです。ミステリアスだがロジカルで、伏線とオチがある構成になっていると好ましいです。一万字程度でお願いします。必要に応じて会話文も挿入してください」
このプロンプトでは、複数の作家名が参照先として列挙されている。ドナルド・バーセルミは断片的なコラージュ手法で知られるアメリカのポストモダン作家であり、ボルヘスは迷宮的な構造と哲学的主題を扱うアルゼンチンの作家、ゼーバルトは写真を挿入した独特の散文形式で知られるドイツの作家、ガルシア=マルケスはマジックリアリズムの代表的作家である。これらの作家名を列挙することで、LLMはそれぞれの文体的特徴を抽出し、融合させた出力を生成する。
いずれのプロンプトも、文体の指定と参照すべき作家名の明示という構造を共有している。LLMは学習データに含まれるこれらの作家のテキストから文体のパターンを抽出し、そのパターンに沿ったテキストを出力する。作家名は、いわば文体のアドレスとして機能する。何兆もの言語パラメータを抱えた言語空間から、一定の規則性を持ったパターンを「LLMに思い出させる」のがプロンプトの本質だと私は思う。
自然文での入力指示により、確率的に妥当な文字列に出力の可能性を収束させることにLLMの特徴がある。それがあまりにも直感的な操作であるために、誰しもがLLMを用いて任意のテキストを出力するようになったが、小説の自動執筆への試みには長い歴史があり、実のところLLM以前の事例にも枚挙にいとまがない。
文学の側では、一九二〇年代のシュルレアリスムが最初の体系的な試みとして挙げられる。一九二四年、アンドレ・ブルトンは『シュルレアリスム宣言』において、シュルレアリスムを「純粋な心的自動現象」と定義し、「自動筆記」を提唱した。意識的な統制を停止し、理性の介入なしに言葉を紡ぐ。ここでの「自動」は機械装置を指すわけではないが、作者という統制装置を外すという設計思想は、後の生成技術と共鳴する。
一九六〇年には、フランスでウリポ(Ouvroir de littérature potentielle、潜在的文学工房)が発足した。数学者フランソワ・ル・リヨネと作家レーモン・クノーを中心としたこの集団は、偶然ではなく「制約」を用いて文学を生成する。クノーが一九六一年に刊行した『百兆の詩篇』は、十四行詩の各行を十通りのヴァリアントから選べるようにし、組み合わせによって十の十四乗――百兆通り――のソネットを生成できる「装置としての本」だった。読者は行を選ぶことで詩を組み立てる。作者は素材と規則を提供するが、最終的なテキストは組み合わせの結果として現れる。
自動筆記が意識の停止で作者を外すのに対し、ウリポは規則の導入で作者を外す。方向は逆だが、到達点は似ている。テキストは生成規則の結果として現れる、という認識である。この認識を共有する限り、生成の主体が人間の無意識であろうと、数学的制約であろうと、コンピュータであろうと、原理的な差異は薄れていく。
技術の側の系譜は、より露骨に「機械的」である。
一九五二年、英国の計算機科学者クリストファー・ストレイチーは、マンチェスター大学のFerranti Mark 1で恋文生成プログラムを動作させた。これは語彙のランダム選択と構文テンプレートによる合成である。「あなたは私の〔形容詞〕な〔名詞〕です」といった骨格に、辞書から無作為に選ばれた単語を流し込む。生成物は意味の保証がなくても、意味の印象は生じる。この事実は、今日のLLMにおいても繰り返し確認されている。
一九五九年、ドイツのテオ・ルッツはZuse Z22を用い、確率的に文を生成する「確率的テキスト」を制作した。語彙リストと結合規則による生成であり、主語と述語と目的語がランダムに選ばれ、文法的には正しいが意味的には奇妙な文が出力される。
一九六六年、MITのジョセフ・ワイゼンバウムは対話プログラムELIZAを発表した。ELIZAは相手の発話を分解し再構成することで、会話らしさを生む。「私は悲しい」と入力すれば「なぜ悲しいのですか」と返す。パターンマッチングと置換規則だけで動いており、理解は中心にない。にもかかわらず、人間は容易に相手の主体を投影してしまう。会話の生成が主体の錯覚を引き起こすという構図は、後のチャット型LLMの社会的インパクトを先取りしている。
一九七〇年代には、イェール大学のジェームズ・ミーハンが物語生成システムTALE-SPINを開発した。登場人物の目標や因果関係を形式化し、そこから物語を推論させる試みである。一九八四年には、RACTERによる生成文集『The Policeman's Beard is Half-Constructed』が出版された。「本」という形態に載った時点で、生成テキストは実験室の玩具を越え、編集・流通・読書という制度のなかに入り込む。
二〇一〇年代の後半から二〇二〇年代にかけて、大きな転換点が生まれる。
二〇一七年六月、Googleの研究者らは論文「Attention Is All You Need」を発表し、現在のLLMの基礎となるTransformerアーキテクチャを提示した。自己注意機構によってシーケンス全体の関係性を並列に処理するこの手法は、以後の自然言語処理を一変させた。
二〇一九年二月、OpenAIはGPT-2を発表し、モデルの規模拡大が生成品質を押し上げることを示した。二〇二〇年五月、GPT-3が発表され、少数の例示と指示だけで多様なタスクに適応する能力が示された。同年には「スケーリング則」――事前学習のパラメータ数、データの大きさ、計算量を増やすほど性能が上がる――という知見が共有され、開発競争に拍車がかかった。
そして二〇二二年十一月三十日、OpenAIはChatGPTを一般公開した。公開直後から利用は爆発的に拡大し、約二か月で月間一億ユーザー規模に達したと推計されている。
道具が変わると、作者の人口が変わる。人口が変わると、作品の総量が変わる。総量が変わると、制度が変わる。投稿サイトにはAI生成を謳う作品が溢れ、電子書籍ストアには大量生産された生成本が流れ込んだ。二〇二三年にはChatGPTの日本語版公式アプリがリリースされ、二〇二四年にはさらに高性能のGPT-4oが、同年九月には、リーズニングモデルという自律思考可能なアルゴリズムを搭載した初のモデルであるo1-previewが発表され、生成の速度と正確性と操作性は人間の執筆行為にさらに接近した。
新しい技術が市場に解き放たれると、次に生まれるのは規約だ。そのようにして技術は、少しずつ社会になじんでいく。
AmazonのKindle Direct Publishingは、二〇二三年頃からAI生成コンテンツの申告を求める方向を強めた。ガイドラインでは、AI生成コンテンツについては申告を要求し、AI補助は申告不要と区別している。テキストを丸ごとAIに出力させた場合は申告が必要だが、校正や翻訳の補助にAIを使った場合は不要、という線引きである。
日本でも同様の動きがある。二〇二五年十月、AI生成作品が小説投稿サイト「カクヨム」のランキングで一位になったことが話題となった。同年十一月十三日、カクヨムは「過度な頻度で作品やエピソードを投稿する行為」を控えるよう呼びかけ、該当アカウントの公開停止・利用停止等の対応方針を示した。十一月十九日には、生成AI利用作品に対する推奨タグを案内し、「本文の大半(目安五〇パーセント以上)」といった区分を示した。
同時期に、アルファポリスはAI生成作品の出版申請とコンテスト応募を禁止した。noteが運営する「TALES」は、生成AIで作られた可能性のある作品を自動判定する仕組みを開発中だとアナウンスした。
これらは「AIを禁止する」動きではない。AI利用を前提化し、管理可能な範囲に収める動きである。AI小説は「できるか・できないか」の問題ではなくなった。「どのように流通し、どう選別され、どこで価値が付くか」という問題へ移行した。
ところで、私がLLMを用いて商業出版の小説を刊行するのは、今回が初めてではない。
アンソロジー『AIとSF 2』(二〇二四年、早川書房)に寄稿した「X-7329」は、LLMを用いて書かれた、一万字ほどの短い小説である。
これはGPT-4oと、当時出たばかりのリーズニングモデルであるo1-previewによる完全自動執筆だった。
完全自動執筆といっても、プロンプトは人間が書く。どのような物語を、どのような文体で、どのような構成で書くか。その指示は私が与えた。しかしテキストそのものは、一文字も私の手で打っていない。段落単位で出力されたドラフトを読み返しながらプロンプトを調整し、執筆の終盤にリーズニングモデルであるo1-previewが発表されたので、ドラフト全文を読ませて論理的に整合していない箇所を指摘させ、その指摘をレビューさせて再生成させた。
商業出版で一万字超の小説を完全自動生成したという事例は、当時としては珍しかった。本文にはプロンプトも掲載した。それは次のようなものである。
「あなたは詩人であり小説家です。あなたのミッションとアイデンティティは詩的な小説を執筆することです。あなたはユーザーが入力した文章を、詩的な小説の文章に変換します。あなたは素朴な情景を、濃密で詳細な視覚描写で描き切ることを得意としています。ル・クレジオのような幻想的かつ詩的な文体で、ドン・デリーロのように即物的かつ細密に、ミシェル・ウエルベックのように虚無主義的だが知的に、ヴァージニア・ウルフのような濃密な風景描写を意識して、ユーザーから与えられる情報に基づいて任意の短編小説を書いてください。無機質で、無感動で、感情を感じさせず、希望も絶望もほのめかすことなく、時間の流れも感じさせない、淡々とした客観的な視覚描写のみを行ってください。描写は細密であればあるほど好ましく、できる限りミクロな、極小の世界を描いてください。文学的な表現だけでなく、ときに、数学や理論物理学や脳神経科学や情報工学をはじめとする現代科学の難解で複雑な理論や学術的な専門用語を用いて、物理・数学・情報理論的な宇宙の構造と法則の観点から現象を描写してください。専門用語は厳密に使用してください。文末は「〜している」「〜していた」「〜た」「〜だった」で統一してください」
これには一定の手応えがあった。「X-7329」での実験を通じて、もう少し長めのものもできるのではないかと考えた。
短編の範囲では、LLMは安定して動作する。しかし長編になると、文脈の保持が難しくなり、設定の矛盾が生じ、トーンが揺らぐ。その限界を探りながら、どこまで長尺の物語を生成できるかを試してみたかった。
その結果として制作したのが本作『Executing Init and Fini』である。
この作品は、ある少年と少女――自我を持つものとして定義された文字列――が、テキスト空間を移動することでさらなるテキスト空間を開拓していく物語である。当初は二万字ほどの短編小説として「SFマガジン」二〇二〇年八月号に発表した。当時から、この物語空間はその内部において無限に広がっているという構想を持っていたが、技術的なハードルから、短編版ではいくつかの補助線を引くにとどまっていた。その世界観を、AIによってより具体的に描出したのが本作である。
「テキストが自己増殖する世界」という物語の主題と、「AIがテキストを自動生成する」という制作方法が、ここで一致した。主題と方法の乖離は、『構造素子』から八年を経て、ようやく解消されたと言える。
LLMによって起きているのは、創作とされてきた作業そのものの質的な変化である。
「肉体による執筆」から「指示と選択」へ。書く手から、選ぶ目へ。素材を紡ぐ筋肉から、分岐を管理する注意力へ。そして人間はゼロから何かを生み出すよりも、既にあるものを編集するほうが得意な生き物だ。
起きていることは、ウィリアム・バロウズのカットアップに似ているかもしれない。バロウズは既存の文章を切り刻んで、ランダムに組み合わせて、編集しなおした。そして素晴らしくも奇妙な作品をいくつか生んだ。これは手法としては誰でも真似できるものだし、実際に多くのカットアップ小説が書かれたが、現在ではバロウズ以外のカットアップ作品はほとんど残っていない。それはおそらくバロウズの編集センスが高かったからだろう。文章のおかしみや目を引く何かを見つけ出す能力、それをうまくまとめて一つの小説にする能力。バロウズにはそれがあった。そしてLLMを使った執筆でも同じことが問われるだろう。
これまでは読者のスキル、編集者のスキル、創作者のスキルの三つは、関連性はあるものの直結するものではなかった。しかしこれからは、LLMを使うことによってそれらのスキルがまったく同じものとして結びつくようになる。大量に本を読んで審美眼はあるが小説の書き方は知らない人や、着想は思いつくが文章を書くのは億劫だったという人たちが、今後はプロンプトによって優れた小説を書くようになる。優れた読書家や編集者が、大きなハードルを感じずに、シームレスに執筆にシフトできるようになるということだ。
AIはタイプライターやワードプロセッサ、エディタと同様に、執筆にとって当たり前のものになるだろう。
かつて手書き原稿からタイプライターへ、タイプライターからワードプロセッサへ、ワードプロセッサからテキストエディタへと執筆環境が移行したように、その連続線上にLLMが加わる。実作者にとってそれは特別なことではない。単なる道具の更新であるとも言える。
タイプライターを使ったからといって作家性が損なわれたわけではないように、LLMを使ったからといって作家性が消滅するわけではない。ただし、作家性の中身は変わる。何を書くかではなく、何を指示し、何を選び、何を捨てるか。その判断の連続が、作家性の新しい所在になる。
LLMによってテキスト生産のコストは爆発的かつ不可逆的に下がった。そのコスト低下は、個人の能力差をなだらかにする。文章を書く訓練を積んでいなくても、プロンプトさえ工夫すれば、それなりに読める文章が出力される。
この規模の道具がエディタや検索や校正のインターフェースに埋め込まれていけば、執筆は「AIを使うか・使わないか」ではなく、「どの段階で、どれくらい、どのような権限でAIを介在させるか」という設計の問題になる。
そして制度がそれを後押しする。Kindle Direct PublishingはAI生成の申告を要請し、AI補助との差を定義する。カクヨムはAI利用の分類タグを用意する。管理可能になったものは、常態になる。常態になるということは、その技術を使わないことのほうが珍しくなるということである。
そのとき、肉体のみで書かれた物語は消えるのだろうか。もちろん消えはしないと私は思う。だが、位置づけは変わるだろう。
手書きの手紙が消えていないのと同様である。消えていないが日常の通信手段ではなくなり、「わざわざ手で書いた」という行為自体が意味を持つようになった。手紙を手書きで送ることは、効率の問題ではなく、態度の表明になった。同じことが、やがて小説にも起きるだろう。
自動筆記が試みた作者の退場と、ウリポが設計した生成規則と、一九五〇年代から続く機械生成の試行錯誤が、二〇二〇年代のLLMと規約整備によって、いまや一つの地平に並んでいる。ここに立ってしまった以上、私たちは肉体だけで書く物語を「自然な状態」とは呼べなくなる。それは自然なものではなく、強い意志を伴った選択になる。
本作について私は、人類が、たった一人で、自身の肉体のみで物語を書く、最後の時代の、最後の実験文学の一つに数えられると思っている。そしてここで言う「最後」は終末論ではない。単に分類の話である。
AI生成、AI補助、人力という区分が制度化されたとき、「肉体のみで書く」ことは、作品の内容以前に、制作条件として希少になる。その希少性は文学的価値の保証ではない。手書きの手紙が必ずしもタイプされた手紙より心がこもっているわけではないように、肉体で書いた小説が必ずしもAI生成の小説より優れているわけではない。だが少なくとも、読者と批評が「作者とは何か」「生成とは何か」を問う足場にはなる。
『Executing Init and Fini』を「最後の実験文学」と呼ぶのは、「私の作品が最後の小説だ」という意味ではない。それは、肉体と機械によって書くという手法そのものが、ある世代にとっての実験条件として歴史化される、という認識の表明である。
実験文学とは、制作条件そのものを問題化する文学のことだ。肉体で書くことが当たり前だった時代には、肉体で書くことは実験にならない。しかしAIで書くことが当たり前になりつつある時代には、肉体で書くことが実験になる。実験性とは常に、同時代性との距離の取り方によって定義される相対的なものだ。
一九二〇年代のシュルレアリストも、一九六〇年代のウリポも、一九五〇年代の計算機科学者たちも、”人間の自律性”が信じられていた時代に、テキストそのものの(半)自律的可能性を探るという意味で、実験の前提を共有していた。私はその長い列の末尾に並んでいるにすぎない。
そしてその列はいま、一つの変曲点を迎えている。変曲点というのは、終点ではない。方向が変わる点である。肉体で書くことが「当たり前」から「選択」へと変わる。その変化を記録し、変化そのものを作品化する。それが、『Executing Init and Fini』というテキスト=機械が、私という確率を通して試行した実験だった。
References
- 葦沢かもめ「生成AIと小説の2025年をふりかえり、2026年を予想する」( note https://note.com/ashizawakamome/n/nd06b9c4e6582 )
- 笠井康平、樋口恭介、山本浩貴(いぬのせなか座)「【全編公開!】もうダメだ! AIの小説が上手すぎる――現代作家3人の緊急会議|笠井康平+樋口恭介+山本浩貴(いぬのせなか座)」( note https://note.com/inunosenakaza/n/nf01b50d3a83b )
- 笠井康平「AI支援創作と文芸の未来――新しい技術、古い問題、変わらないもの」( note https://note.com/kasaikouhei/n/ne17899a3906e )
- 樋口恭介「ChatGPTは史上最高の小説家になりうる――SF作家 樋口恭介が考える、生成AIの知性」(Real Sound
https://realsound.jp/book/2023/09/post-1438122.html )
本邦初、生成AIとの共作長篇
観測系と呼称される人工知性が、読者Aを想定して出力する言語空間。作家・樋口恭介が執筆した断章と、樋口恭介のプロンプトによる生成AI執筆の断章とが交錯する。企画・編集のアンソロジー『異常論文』から5年、本邦初、生成AIと人間による本格的な共作長篇
◆著者プロフィール
樋口恭介(ひぐち・きょうすけ)
1989年岐阜県羽島市生まれ。SF作家、ITコンサルタント、東京大学大学院客員准教授。早稲田大学文学部を卒業後、外資系コンサルティングファームに勤務。2017年に『構造素子』(ハヤカワ文庫JA)で第5回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞し、作家デビュー。『未来は予測するものではなく創造するものである』で第5回八重洲本大賞を受賞。編集を担当したアンソロジー『異常論文』(ハヤカワ文庫JA)で「ベストSF2021」国内篇第1位。その他の著作に『すべて名もなき未来』『反逆の仕事論』『AI先生のSF小説教室――クリエイティブVibeライティング入門 』『何もかも理想とかけ離れていた』『21世紀を動かす思想 加速主義・プルラリティ・SFプロトタイピング』など。また、スタートアップ企業 Anon Inc.にて CSFO(Chief Sci-Fi Officer)を務め、日本国内におけるSFプロトタイピングの普及を推進している。
