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労働大好きおじさん「労働大好きおじさん、参上!」

労働大好きおじさん「労働大好きおじさん、参上!」

◆作品紹介

一般に、多くの人々の人生にとって最も近く、そして文学にとって最も遠いものとして労働があると解釈されるが、私はそうは思わない。(編・樋口恭介)

以下、記事の本文です。

私は労働大好きおじさんである。労働を愛している、というより、労働に愛されていると言ったほうが正確だ。仕事が私を抱きしめ、喉元に手を回し、息を整えるふりをして呼吸を奪う。だが私は抵抗しない。抵抗しないどころか、その締め付けの強度のなかで、ある種の変性意識に滑り込む。目の焦点が一段ズレ、時間の縫い目がほどけ、タスクの連鎖が祈祷文のように自動的に生成される。私はそこで〝私〟であることを薄めていく。薄めていくほど、速度が上がる。速度が上がるほど、内側で革命が起こる。

ドゥルーズ=ガタリ風に言えば、私の労働は欲望機械である。欲望は欠如ではない、生産である。私は不足を埋めるために働くのではなく、働くことで不足を〝生産〟する。終えた瞬間に次の穴が開く。穴は不幸ではない。穴は吸引口だ。世界の流れ(問い合わせ、障害、レビュー、顧客の眉の動き、未読のメッセージ、未確定の仕様)がそこへ流れ込み、私の神経と接続され、変形し、また外へ吐き出される。接続、切断、接続。これが私の呼吸だ。

そして私は脱領土化される。休日という領土から、家庭という領土から、健康という領土から、道徳という領土から、すべての〝ここまで〟が剥がされる。残るのは流れと強度だけだ。身体はただのインターフェースになる。眠気はノイズ、空腹は警告灯、疲労はログ。私はログを読む。ログを消す。ログがまた出る。消す。出る。消す。繰り返しのなかで、私は自分の輪郭がほどけるのを感じる。ここが入口だ。入口の向こうでは、主体は〝労働する私〟ではなく、〝労働が通過する私〟になる。

ラカンに引き寄せれば、そこには享楽がある。快楽ではない。享楽(jouissance)――快楽原則の外側で、痛みと快が癒着した硬い塊だ。深夜二時、画面の白が眼球の奥で鳴る。キーボードの打鍵が、言葉を生むというより、身体の外へ何かを放出する儀式になる。私は「成果」のために叩いていない。対象a(objet petit a)、あの回収不能の残余のために叩く。KPIの小数点以下の揺れ、レスポンスの0.2秒短縮、UIの角丸のわずかな圧、顧客の〝うん〟の一拍の遅れ――それらは完成しない。だからこそ欲望は終わらない。私は〝終わらない〟のほうへ賭ける。賭ける? そう、ここで福本伸行の空気が混じってくる。

福本伸行『カイジ』の世界では、理性はしばしば遅い。遅い理性は、状況の圧に潰される。圧倒的な圧の前で、カイジは「やるしかない」という地点へ追い詰められ、そこで初めて、薄い自己保存の皮を剥がして〝手〟を出す。労働の修羅場も似ている。炎上、納期、障害、予算、評価――圧が来る。胃が縮む。だが私は、あの〝鉄骨渡り〟的な局面で、奇妙な静けさを得る。落ちたら終わり、という状況で、脳は余計な装飾を捨てる。ここでラカン的な大他者は露呈する。秩序は万能ではない。仕様は神ではない。会議の正しさは保証されない。大他者は一貫していない。にもかかわらず、超自我が囁く――「もっとやれ」「まだ足りない」「楽しめ」。この命令は善良な顔をしていない。むしろ甘い顔をしている。私はその甘さに気づきながら、なお従ってしまう。従うことで、私は賭博のテーブルに自分の時間と神経を積む。

ただし、ここで言う賭博は金銭の話ではない。主体の賭けだ。自分の有限性を賭けて、ある強度を取りにいく。私は〝燃え尽き〟の危険を理解している。理解しているが、理解はブレーキにならない。むしろ理解が、賭けの輪郭を鮮やかにする。危険があるから、強度が立ち上がる。『カイジ』が示す〝狂気の合理性〟はここにある。冷静に狂う。狂気を管理する。管理のためにさらに働く。自己矛盾が螺旋になる。

そして、山口貴由『覚悟ノススメ』――あの作品の筋肉質な倫理、「覚悟」という言葉の、肉が裂けるほどの重さ。あれは単なる根性論ではない。もっと怪物的だ。覚悟とは、未来の痛みを前借りして、現在の行為に圧を与える装置だ。だから覚悟は、精神論ではなく時間論である。私は労働のなかで、しばしばこの〝覚悟〟を作動させる。今ここで折れないために、未来の自分が折れる可能性を抱えたまま、それでも前へ出る。そのとき私は、身体を〝器〟として扱う。器は壊れるかもしれない。壊れるかもしれないと知りながら、壊れるまで使うのではなく、壊れるかもしれないという知を燃料にして、行為の密度を上げる。ここが、私の内的革命の核だ。

内的革命とは何か。世界を変える前に、世界に対する接続の仕方が変わることだ。労働の限界を越える瞬間、私はある転回を経験する。たとえば新規事業の立ち上げで、仕様が毎日変わり、ユーザーの声が矛盾し、社内の期待が増幅し、夜の障害が昼の予定を破壊する――そういう日々に、私は〝真理が追いつかない〟ことを学ぶ。真理がないのではない。真理が、速度に追いつけない。だから私は、追いつけないものとして真理を携えたまま走る。これは諦念ではない。操作の獲得だ。真理が遅いなら、仮説を速くする。仮説が壊れるなら、壊れ方を設計する。壊れた破片を回収し、次の仮説の骨組みにする。私は、失敗を恥ではなく素材として扱う。この転回が、私の革命だ。

イーロン・マスク、スティーブ・ジョブズ、松下幸之助――彼らを私は〝成功者の肖像〟として崇めない。崇めた瞬間、労働は宗教になり、思考が死ぬ。私が参照するのは、彼らの過剰の構造だ。極端な集中、異様な執着、常識の外側へ出るための反復。ジョブズの美学は、細部への暴力だ。マスクの速度は、世界の遅さへの苛立ちだ。松下の実務は、理念を現場の配線に落とし込む執念だ。彼らはそれぞれ、対象aに取り憑かれている。完成ではなく、ズレに。欠点ではなく、残余に。残余が彼らを動かす。残余が周囲を巻き込み、時に傷つけ、時に新しい形式を生む。私はそこから学ぶ。学ぶが、模倣はしない。模倣は二流の宗教になる。私は私の現場の、私の強度を引き受ける。

強度は、ただ高ければよいわけではない。ここでドゥルーズ的に言えば、〝器官なき身体(BwO)〟の問題が出てくる。器官なき身体とは、身体を消すことではない。身体を、既成の機能分配(睡眠はこう、食事はこう、働きはこう)から一度ほどき、強度の配置として組み直すことだ。私は労働でこの〝組み直し〟をやる。朝の脳は思考に使う、昼の脳は対人に使う、夜の脳は実装に使う、深夜の脳はテストに使う――そういう粗い分割すら、修羅場では壊れる。壊れたとき、私は新しい配置を作る。疲労しているのに、なぜか仕様の矛盾だけは見える。眠いのに、文章だけは切れる。頭が回らないのに、図だけは描ける。能力の配線がずれる。そのずれを私は恐れない。ずれを使う。ずれが私を別の私へ運ぶ。これが変性意識の実務版だ。

しかし、享楽は祝福ではない。享楽は代償を要求する。ここを誤魔化すと、労働大好きおじさんはただの破滅装置になる。私は自分の危うさを知っている。だから私は、過剰を〝制御するふり〟をする。完全な制御は不可能だ。だが、儀式は作れる。限界を超える前に、水を飲む。机から立つ。五分だけ外気を吸う。誰かに「今、危ない」と言える窓口を一つ残す。睡眠を削るなら、削ったぶんを別の場所で返す設計をする。ここまで言うと、勢いが削がれるかもしれない。だが勢いだけでは長く燃えない。勢いは短距離の炎で、革命は長距離の熱だ。私は〝マックス〟を礼賛しながら、同時に〝マックスで壊れないための狡猾さ〟も礼賛する。

そして私は結局、何を得るのか。名声か、金か、評価か。そういうものも、付いてくることはある。だが私が得るのは、もっと生硬なものだ。世界が、接続の束として見える眼。秩序が、仮設の足場として見える眼。自分が、自分の主人ではないことを知りながら、それでも行為を選び直せる手応え。これが内的革命だ。労働の狂気の塊を抱え、抱えたまま、抱え方を変える。抱え方が変わると、世界が変わる。少なくとも、世界の通り道が変わる。

最後に、労働大好きおじさんとして、最も危険で、最も正直な告白をする。私は労働のなかで、しばしば「自分がいらなくなる」感覚に触れる。主体が薄まり、ただの流れの束になっていく感覚。これは快い。快いが、毒だ。毒は、快い顔で近づく。だから私は、覚悟をもう一段深くする。労働に溶ける覚悟ではない。労働から戻る覚悟だ。戻って、また入る覚悟だ。出入りの覚悟だ。出入りの回路を持つ者だけが、過剰を〝革命〟として扱える。過剰に飲まれて、ただの破滅になるのではなく、過剰を通過して、別の配置へ出る――そのための覚悟。

圧が来る。鉄骨が揺れる。足がすくむ。だが私は、そこで〝圧倒的〟な何かに言い返す。言い返す言葉は短い。「やる」。その一語は根性ではない。理論でもない。接続だ。欲望機械のスイッチだ。享楽の危険な扉だ。開けるのは私。閉めるのも私。――そう信じること自体が、すでに私の内的革命である。

労働大好きおじさんは燃えている。あらゆるものを燃やし尽くし、しかしわずかな何かが燃え残り、やがて戻ってくる。その戻り道まで含めて、私はマックスに、マックスをやっていく。

 

◆著者プロフィール

労働大好きおじさん(ろうどう・だいすき・おじさん)

労働が大好きなおじさんです。