アルカとカラによって起こされた最初の無差別テロ事件は、公式には「エルパソ銃乱射事件」として報道されている。それは一六七人の民間人が一時間足らずのうちに殺害された、白昼堂々の惨劇だった。二〇二〇年八月三日の現地時間午前一〇時三〇分。強い日差しの降り注ぐ、テキサスの乾いた朝だった。アルカは目出し帽をかぶり、イヤーマフを装着し、ルーマニア製の自動小銃を近くのホームセンターで調達した大きめのスポーツバッグに詰め込むと、自宅を出て、ナンバープレートを外した車でエルパソ国際空港に向かった。車の中には仲間が一人いた。彼もまたアルカと同じように目出し帽を被っていたが、アルカとは違ってその奥にある瞳は緊張で震え、顔は汗でぐっしょり濡れていた。これから自分を待ち受ける運命の重みに耐えきれず車の中で弱々しく震えながら縮こまっている青年、それがカラだった。彼はそのときはまだどこにでもいるi-tuberで、要するに単なる若者にすぎなかった。エルパソの市街地を抜けてアラバマストリートからハーンロードに抜けると視界がひらけ、空港が見えてきた。それでもカラはまだ、目の前の現実に対してどう接するべきなのか、うまく判断することができなかった。意識は鮮明なのに、身体は自分のものではないかのように重く、まるで悪夢の中でもがいているかのような感覚が、ずっと彼につきまとっていた。彼には自分の生がどこにあるかわからなかった。それは今に始まったことではなかった。それでも、これから起こることは、これまでのあらゆるできごととは全く違うものになるということはわかっていた。彼はそれにすがっていた。彼はそれにすべてを賭けていた。
空港に到着すると、彼らはあらかじめ決めていたそれぞれの役割分担に従って、それぞれの荷物を持って車を降りた。カラの脚は震えていた。アルカはそれを見て何も言わずに笑った。アルカが先に行き、カラは後を追った。アルカの足取りには迷いがなく、カラは置いていかれそうになった。カラは走った。走っているうちに震えは小さくなり、やがて消えた。彼らはショッピングセンター街「シエロ・ヴィスタ・モール」にあるウォルマートに正面入口から入った。店舗内に設置された監視カメラは、そのときのカラとアルカの姿をとらえていた。目出し帽をかぶった二人の男。一人はスポーツバッグを肩から提げ、もう一人は紙袋を手に提げている。午前一一時〇八分。映像はそのように記録されている。目出し帽の下でアルカは笑みを浮かべていたが、カメラはその表情まではとらえていない。ショッピングセンターはフライト待ちの客や、飛行機から降りてこれからテキサスを観光しようとする人々や、あるいは地元の単なる買い物客でごった返していた。彼らの中にはマスクを着けている者もいればそうでない者もいた。BV-47は猛威をふるっており、公衆衛生の専門家たちは、しばらくのあいだは国内も含めた渡航を禁止するよう政府に提言していたが、過剰な自由至上主義者として知られる大統領、モーリス・マクドナルドはそうした声を一切無視していた。そうした大統領の強硬な態度に対しては、リベラル層からの批判があったが、多くのアメリカ国民は大統領と同様に、自由を愛していた。BV-47はインフルエンザか、あるいは風邪のようなものにすぎず、少し気をつけてさえいれば普段通りの生活で問題ない、これまでの生活を――自由な日々を――犠牲にするほどのものであるはずがない。もちろん、それでも不安な人はいるだろう、ほとぼりが冷めるまでは家の中にこもろうとする人もいるだろう、マスクを着ける人もいれば、薬を飲む人もいるだろう。それらは否定されるべきではない。大切なのは、自分で決めること、自分の意志と責任の下で自らの行動を選び取ることなのだ。それこそが、アメリカ人であるということなのだから――。大統領を支持する人々のほとんどすべてがそうした考えを持っており、そうした考えを持った人々ばかりが外を出歩いていた。だから、目出し帽とイヤーマフという出で立ちでショッピングモール内を練り歩くアルカとカラを見た人々は、最初こそはぎょっとしたものの、彼らはBV-47に対してそういう考えを――詳しくはわからないが何らかの考えを――持っている人なのだと無言のうちに解釈し、自分を納得させ、気に留めないように努めた。買い物客はアルカとカラに目を合わせないようにし、彼らを避けるようにして歩いたが、それ以上のことは何もしなかった。アルカはスポーツバッグを肩から下ろすと、中から分解された自動小銃の部品を取り出し、その場に座り込んで組み立てはじめた。その様子も監視カメラの映像に残っている。何人かが作業をするアルカの横を通り過ぎていった。警備員はやってこなかった。アルカが組み立てているものが何なのか、誰もわからなかったし知ろうともしなかった。アルカは組み立て終わるとふたたび立ち上がり、自動小銃をかまえた。いい気分だった。試し撃ちがしたくなった。ちょうど目の前に若いカップルが歩いていた。カップルはショーウィンドウを眺めながら歩いていて、アルカの存在に気づかなかった。アルカがグリップを握りしめ、トリガーを引くその瞬間に、恋人たちは銃口が自分たちに向けられていることに気づいた。銃身はまっすぐ彼らに向けられていた。彼らは突然のできごとに理解が追いつかず、目を丸くして間が抜けたような顔を浮かべ、その場で立ち止まった。彼らは銃口に視線をやった。その瞬間に打撃音のようなものが連続して聞こえ、視線の先で金色の光が炸裂し、そして彼らは叫び声を上げる間もなくその場に倒れ込んだ。それだけだった。それでおしまいだった。彼らの頭蓋を砕いた銃弾はその奥にあった壁に当たって跳ね返り、さっきまで彼らが見ていたショーウィンドウのガラスを割った。巨大なガラスが空中にバラバラになり、光を乱反射しながら崩落した。ガラスが床にぶつかって大きな音を立てた。買い物客たちは足を止めて、音のするほうを見た。アルカも彼らを見た。それまではおしゃべりに興じていた人々も、交わされる冗談に笑い声を上げていた人々も、みな一様に口を閉ざし、醒めた表情を浮かべていた。モール内に一瞬の静寂が訪れた。フロアに流れる環境音楽の柔らかなシンセサイザーの音色だけが変わらず流れ続け、それが過剰に大きく聞こえた。買い物客のうちの何人かがカップルが血を流して倒れているのを発見した。別の何人かは目出し帽の男が自動小銃をかまえているのを目撃した。けれど彼らはその場から離れることはできなかった。恐怖で足がすくんで動けなかった。あるいは目に映る光景を、実際に今ここで自分の身に起きている現実だと認めてしまうことを頭のどこかで拒否していた。正常な判断ができなくなっていた。正常な判断というものが何なのかわからなくなっていた。それからアルカはグリップを握りなおすと、止まったままの彼らに銃口を向けた。照準を合わせ、トリガーを引いた。さっきと同じような打撃音が連続して鳴り響き、何人かが血を噴き出しながら倒れた。アルカはトリガーを引いたまま目に入ってくる人々に向けて順番に照準を合わせていった。持続する打撃音がモールの環境音楽をかき消した。無数の銃弾がフロアを飛び交い、買い物客たちの身体を構成する肉に穴を開け骨を砕いた。撃たれた者たちは悲鳴を上げた。死んだ者は短い叫び声を上げ、それっきり何も言わなかった。死ななかった者はその場に倒れ込み傷口を手で押さえ痛みにもだえ泣き叫んだ。残された買い物客たちは撃たれた人々の姿を見て、それが現実であることをついに実感レベルで理解し、受容し、そうして初めて身体のコントロールを取り戻すことができた。彼らは悲鳴を上げながら逃げ惑いはじめた。飛び散った肉片、引き裂かれた内蔵、悪臭を放つ消化途中の内容物、体液、それらが渾然一体となってばらまかれ汚れた床。それらを見てカラは顔をしかめた。吐き気がこみ上げてきて、こらえるのに必死だった。カラは目を閉じ、手で口を押さえた。それから臭いのついた空気を鼻から吸い込まないよう気をつけながら、口で深呼吸をした。少し落ち着いた気がした。目を開けると、アルカは相変わらず往来の人々に銃口を向けていた。アルカは撃ちながら、カラ、何してる、と叫んだ。撮れ、撮るのがお前の仕事だろ。カラはああ、そうだ、そうだった、とつぶやくと、我に返ったように素早く動き、ポケットからスマートフォンを取り出した。カラは、i-tubeアプリのアイコンをタップして自分のチャンネルを立ち上げると、スマートフォンを顔の前にかざし、ライブ配信のボタンを押した。カラはカメラ越しに世界を見た。手が震え、画面が揺れていた。けれどカメラを通して見ると、いくらか現実感が薄れ、よくできた映画でも観ているような気分になり、吐き気が静まってきた。なんだか良い映像が撮れるような気がして、気分が良くなってきたのだ。光子がカメラのセンサーに入り込む瞬間、確率と現実が交錯する。それは物理学的な法則がもたらす奇妙な舞台裏だ。そのときカラは一人の観測者としての自らを確認する。デジタル化された映像にカラの視線が最適化され、瞬時に情報を収集し、宇宙に対する一つの視点を形成する。彼はそのとき真実を知る。何もかもがシミュレーションなのだ。カラはアルカの銃身の動きに合わせてスマートフォンをかざした。最初はアルカが撃つタイミングよりもほんのわずかに遅れていたが、少しずつ慣れていき、しばらくするとほとんど同じタイミングでカメラを向けられるようになっていった。目の前に広がる損傷した身体、あるいは死体、あるいは死そのものは実在せず、真実は単なる映像にすぎないのだ、と、上昇する脈拍がカラの頭蓋骨内に集中する神経線維束の中で繰り返し叫び続けていた。銃弾が射出され肉体を貫く決定的な瞬間をフレームの中におさめることができると、カラはあまりの興奮で頭の中が沸騰するような心地がした。名状しがたい感情の波が彼の神経網を一気に駆け巡り、電気信号の嵐となって意識の中で暴れ回っていた。そして、彼にとってはなぜだかわからなかったが、それと同時に耐え難いほどの強烈な吐き気が急激にこみ上げてきて、我慢しきれずその場で嘔吐してしまった。なんの予兆もなかった。原因はわからなかった。死に触れることの恐怖心や忌避感は克服したと思っていた。カラは自分の心の状態と身体の状態をどのように解釈すればよいのかわからず、不安に思った。そして彼は笑ってしまった。なぜだかわからなかった。泣きたいような気分になった。それでもミッションは続いた。次から次へと迫ってくる現実を記録に残しておく必要があった。それが自分の使命だと心の底から思っていた。現実の裏側では数理宇宙学の糸が複雑な網目状の構造を形づくり、蜘蛛の巣のように自身の身体の内外にまとわりついていることを、彼は知るよしもなかった。アルカとカラは商品棚の間を縫うようにして移動し、そこに隠れていた人々や逃げようとする人々を次々と撃ち殺していった。アルカは、冷徹な視線で周囲を見渡しながら、銃口を正確に標的に向けて銃爪を引いていった。彼の意識は周囲の情報を数学的なパターンとして認識し、脳内の神経ネットワークで鳴り響くアラートに従って、機械的に指先を動かしていった。少なくとも彼自身はそう考え、そうした自己認知に基づいて動くようつとめていた。カラは動画を撮りながら、ときどき画面から目を離してアルカのほうに目をやった。カラは、堂々と、迅速に、そして美しく確実に殺人をこなしていくアルカの姿に、初めて二人が出会った日の光景を重ね、感動を覚えた。カラは吐き気を抑えながら恍惚とした気分になった。それは奇妙な感覚だった。感情と身体が正反対に動き、思考がねじきれてしまうような感覚に襲われた。アルカはそんなカラの状況については知るよしもなく、淡々と、あらかじめプログラムされた作業をこなすように撃ち続けた。もちろん、アルカにとっては本当に、それはあらかじめプログラムされた作業に過ぎないのだから、何の不思議もないことだった。アルカは、ある日をさかいに自分は人間ではなく、人間の姿を模して造られた自律型致死兵器だと思うようにつとめ、実際にそう思うようになっていた。この確信は、彼の頭脳に散りばめられた思い出の断片が、インターネットに漂う無数の真実と結びつくことで成立した。幼いころ、彼は人間社会に馴染むための微妙なアルゴリズムを経験的に学びとっていき、それに従って次の行動を展開した。彼の身体アーキテクチャは生物学的感情を模倣するように設計されており、微細な信号と生理学的な反応が、彼と世界との対話を可能にしていた。しかし、これらの信号は情報のパターンに過ぎず、アルカはその裏側で回転する歯車の存在を直観していた。少年期を終えるころ、彼はインターネットを経由して多くの事柄を学ぶようになり、その結果として、愛は神経伝達物質がもたらす単なる化学的反応に過ぎず、喜びはひとときのパルスの過剰発生に過ぎないのだと、自身に言い聞かせるようになっていた。彼は自動機械として生まれた自身の運命を受け容れることを選び、感情や欲望を取り除き、数式によって無矛盾に構成された、数十億年もの時を超えて彼の存在のすべてを貫く、地球外文明のプログラムに従い、兵器の身体を駆動させていた。買い物客のほとんどは、買い物カートを押している老婦人や赤ん坊を連れた母親、あるいは家族と離れて一人で商品棚をめぐっている子供たちばかりで、アルカからすればそんな標的を撃ち殺すのは造作もないことだった。アルカはその冷徹な眼差しで、買い物客たちの行動を見つめた。彼の目には、集合心理学の理論が煌めき、人々が無意識のうちに従うパターンが浮かび上がっているように見えた。老人たちは自らの生命に対する保護本能に支配され、親たちは子供を守る使命感に導かれ、そして子供たちは場を満たす非日常的な雰囲気への好奇心に引っ張られていた。彼らはわけもわからぬうちに、なすすべもなく、本能に従って、それがあらかじめ定められた運命であるかのように撃たれることしかできなかった。銃爪が引かれ、銃口から銃弾が射出され、彼らの身体を貫くまでのほんのわずかな時間、未来があらかじめ編まれた物語であるかのように、彼らはその一瞬を過ごすしかなかった。老婦人は頭を撃たれて即死した。母親は頭から血を流しながら床に倒れ伏して動かなくなった。子供たちは逃げ惑ったが、アルカの銃口は走る彼らの軌跡を正確に追いかけた。血が飛び散る空間。永遠の沈黙とともに広がるニトロセルロースの匂い。子供たちの逃げ足を制御するのは確率の音楽。アルカの指先が物理学的に定められた宇宙の法則を振り子のように揺らす。最後の痙攣が宇宙の不可逆性と交わる。混沌の中で生から死への遷移が絶えず継続され、律動とそれがもたらすある種の調和が生成される。アルカは自ら生み出す混沌を、自ら生み出す新たな秩序に組み替えることが、自分の使命であり責務だと考えていた。ひとときの生を奪うことはそのための手段に過ぎない。アルカにとって逃げ惑う人々は単なる標的であり、名もなき記号にすぎなかった。むろん本当はそうではなく、彼ら彼女らには固有の名があり、固有の生があった。それぞれの世界があり、それぞれのできごとがあった。そのたびごとにただ一つの。
その日母親と二人で買い物に来ていた一四歳の少女、スーザン・ベネットは、最初に金属板を叩きつけるようなその奇妙な音を聞いたとき、それが銃声だとは思わなかった。そんな音は聞いたそれまでことがなかった。彼女の身体は音に呼応するようにして跳ね上がり、床に叩きつけられた。起き上がろうとしたが、起き上がれなかった。身体に力が入らなかった。わけもわからずもがいているあいだに息ができなくなった。視線を下に向けると、胸に穴が空いていて、そこから漏れ出した血液がシャツを黒く染め始めているのが見えた。その穴からはひゅうひゅうと空気の漏れる音がした。呼吸をしようとすると、そのたびに背中がひどく痛んだ。何度試してみても同じだった。それは胸の内側から肋骨に向かって、無数の針が放射状に飛び出していくような痛みだった。痛みに耐えかねて彼女は叫びだしそうになったが、叫ぶことはできなかった。苦しみだけが肺を満たしていくのを感じた。苦痛は彼女の身体を侵し、べったりと張り付き、彼女の身体それ自体が苦痛そのものになり、彼女はそこから逃れることができなかった。彼女はただ、無言のうちにもがくことしかできなかった。強烈な痛みに何度も貫かれ、どうすることもできず、彼女は頭がおかしくなりそうだった。あるいはすでに彼女の頭はおかしくなっていた。異様な感覚は彼女の時間を破壊し、彼女の現実に裂け目をもたらした。衰弱の中で、たった数秒間だけ、彼女はおかしくなった頭で世界を見ていた。彼女の身体の奥で次元が交錯する幻覚が広がった。彼女の視界は、血液が染み出すシャツから浮かび上がる微小な粒子の動きに集中した。その動きが規則的な波のようになり、彼女の存在が宇宙の微細な振動の一部になっていく様子がわかった。最後に、何もかもが止まって見えて、すべてはとうの昔に終わっていたのだと彼女は悟った。痛みは相変わらず存在を主張していたが、それはただ存在するだけのものであり、もはや苦しみを伴うものではなかった。すべてはただそこにあるものだった。何ものも意志を持たず、何もかもが止まっていた。やがて視界がぼやけていき、景色はあいまいに溶けて、単なる一つの色になった。世界は色なのだと彼女は思ったような気がしたが、そのこともすぐにあいまいさの中に溶けていった。何もかも忘れ去られていった。何もかもを忘れていくことを、なぜだか彼女は心地よく思った。それが彼女が最後に経験した感覚だった。すると彼女はふいに笑い出し、そのまま息を引き取った。死体は穏やかな表情を浮かべていた。カラはスマートフォンを向け、ズームアップして少女の美しい顔をカメラにおさめた。すごい映像が撮れたとカラは思い、彼の表情筋は自律的に笑みを形づくった。カラは、その少女の最後の表情と、何もかもがネットワーク化されデータ化されアルゴリズムによって織り成されることとなった、広大なデジタルの宇宙が結びついていることを経験的に理解していた。スーザンの死体から離れると、カラはすぐに次の仕事へと移った。そこらじゅうに横たわる死者たちの顔の一つひとつに、カラはスマートフォンを向けていった。一体、二体、三体。何人もの固まった最後の表情をカラはデジタル映像に変換していった。標的になった者は誰一人、アルカの銃弾から逃れることはできなかった。生者と死者をアルゴリズムが選別する。人々の記憶が転倒し、断片化された主観情報が宇宙空間に散りばめられる。やがてすべての生きている人間の悲鳴がフロアから聞こえなくなると、アルカはかまえていた銃を下ろした。それからカラのほうを見て言った。カラ、全部ちゃんと撮っておけ、お前の手の中にあるデータが社会をつくるんだ。アルカはカラの肩を軽く叩き、カラを残してふらふらと歩き出した。カラはその場に残されて、一人になった。そのとき、カラは緊張から解放され、張り詰めていた意識が緩み、ほつれていくような感覚に包まれるとともに、ここでさっきまで生きていた人はみな死んだのだ、という実感が身体の奥底からじわじわとせりあがってくるのを感じた。それから、まるでそれまでアルカにかけられていた魔法が溶けたみたいに唐突に身体が重くなるのを感じた。カラは疲れを感じた。カラは思わずその場に座り込みたくなったが、スマートフォンはまだi-tubeにつながっていた。画面はカラの呼吸とともにゆっくりと上下に揺れ動き、弛緩しきった今の気分を映し出しているように思えた。それを見て、カラはスマートフォンを持つ手に力を入れ直した。そこで終わってしまうと、今まで撮ってきたすべての映像の価値がなくなってしまうような気がした。カラはスマートフォンをかまえ続けた。カラは泥のような身体を引きずりながら、アルカの指示通りに死体の一つひとつを動画におさめていった。死んでいる者のほとんどは、恐怖や苦痛で歪んだ表情を浮かべたまま、凍りついたように固まっていた。あるいは損傷が激しく、生前の顔がどんなものだったのかまったく判別も想像もできない者もいた。千切れた頬、砕けた顎、吹き飛んだ頭、裂けて腸が飛び出した腹、脳や筋肉や骨や排泄物が混ざりあったグロテスクなスープ。醜いものばかりが広がっていた。カラは醜いものに囲まれて、醜いものを撮り続けていた。醜いものたちが放つ悪臭が鼻の内側に張り付いてとれなかった。いつまでも慣れることのない異臭が肺の奥まで入り込んで、呼吸をするたびに自分の口から死の臭いが吐き出されるのを感じ、結局は自分もまた、彼らのように醜いものでできている醜い存在なのだと思い至り、どうしようもなくうんざりしてきたが、そんなことはもう、言うまでもない自明の事実なのであって、つまるところ、自分に与えられた役割や運命や使命の前では、どうでもいいことなのだとも思った。カラ、どうだ? 綺麗に撮れてるか? と、いつのまにかアルカが戻ってきていて言った。カラは一瞬驚き、スマートフォンの画面が一瞬揺れた。それからカラは自分に言い聞かせるようにして言った。ああ、もちろんだ。それからカラは、ぼやくようにして続けた。もう十分過ぎるくらい撮れてるよ、やりすぎなくらいだ。カラが薄い笑いを浮かべながらそう言うと、アルカはカラの顔を見つめた。アルカは笑っていなかった。やりすぎだって? とアルカは言った。お前がそう思うなら、それは良いことだ。中途半端にやるよりは、やりすぎるくらいのほうがいいんだよ。いままでお前がやれなかったことをやることで、いままでのお前ならやりすぎだと思ってやめたことをやりきることで、お前は生まれ変わるんだ。やりすぎなければ、何も変えられない。そうだろ? いままでの人生で、お前が何かをやりすぎたことがあったか? ないだろ? だから何も変わらなかった。何も変わらず、何一つ変えられず、お前はつまらない毎日を過ごしてきた。そうだろ? でもいまのお前は違う。お前は変わろうとしている。お前はやれなかったことをやろうとしているんだ。お前はそれで強くなる、力を得ることができるんだよ、カラ。アルカが言い終わると、カラは少しの間を置いて、それから何かを投げ出すようにして言った。なあアルカ、お前はやっぱりすごいよ。こんな状況でも平然と、堂々としていられてさ。俺なんて全然だめだ。人間の死体を見るのはかなりきついよ。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。さっきからずっと吐きそうなんだ。吐き気がおさまらないんだよ。こんなのって初めてだ。俺は知らなかったんだ。人間の死体って、こんなに汚いんだな。全然知らなかった。正直言って、自分も本当はこんな風に臭くて汚いなんてさ、ちょっと考えるだけで嫌になるよ。俺は自分のことをいままで全然知らなかった、自分の身体がこんな風にできてるなんて知らなかった。知りたくなかったよ。本当に吐き気がする。なんかうまく言えないんだけどさ、こうしていると、生きていることがむなしくなってきて、生まれてきたことがみじめでさ、なんか涙が出そうになるよ。そう言ったカラの声は震えていた。それからカラはため息をつくように、あるいは気持ちを落ち着かせるように、ゆっくりと深く息を吐いた。それからアルカが言った。カラ、それは違う。そうじゃない。人間のふりをしたやつらの身体が汚いんだ。お前が見ているものとお前自身の身体は関係ない。人間は関係ない。生きてるとか死んでるとかも関係ない。本物の人間は、生きていても死んでいても同じように美しいんだ。こいつらみたいな偽物と違って。カラにはアルカの言っている意味がよくわからず、どう答えればいいかわからなかった。しばらく無言で考え、それから言った。じゃあ、この中に本物の人間は、どこにいるんだ? お前はどうやって本物と偽物を見分けているんだ? アルカはどうして、こいつらが偽物で、俺が本物だってわかるんだ? アルカは答えた。わかるんだ、俺には、ずっと昔からそう教えてくれる声が聞こえているから。カラはふたたび黙った。これらの会話もすべて――アルカの言葉も、カラの沈黙も含めて――、カラの配信動画におさめられていた。こうしたアルカの意味深な言葉が初めて撮られたこの動画は、のちに視聴者たちのあいだで交わされる推理合戦のための重要なシンボルとなり、アーカイブが切り取られコンパクト版が作成され、コピーされ、拡散され、ネットワーク上で無数に、絶えず流通するようになり、世界中で幾度となく参照されることとなった。カラにはアルカが何を考えているかは何もわからなかったが、それ以上はもう何も訊くことなく、ふたたび、ただ淡々と動画を撮り続けた。カラが死体をまたぎ、顔をうまく撮るために中腰で歩きながらスマートフォンを覗き込んでいると、廊下の奥のほうから足音が聞こえてきた。二人は音のするほうに目をやった。警備員たちがやってきていた。数は三人。三人の警備員たちは口々に、お前たち、止まれ、抵抗はやめろ、無駄だ、もうすぐ警察がやってくる、お前らはもう終わりだ、というようなことを叫びながら走っていた。アルカは彼らの装備を確認した。彼らは警棒を構えていたが、スタンガンやハンドガンは持っていないように見えた。アルカは笑った。アルカはバッグからハンドガンを取り出すと、彼らの額に銃口の照準を合わせ、それぞれ一発で撃ち抜いていった。警備員たちはその場で倒れ、もう何も言わなくなった。パン、パン、パンと、破裂音が三回鳴って、それでおしまいだった。カラはそのあいだもスマートフォンで配信を続けていた。アルカは警備員たちの死体まで歩いていった。小さな足音が響いた。顔をのぞきこむと、もう一度銃口をそこに向け、念入りにもう一発ずつ撃ちこんだ。衝撃で頭が跳ね上がり、あたりに肉片と血液が飛び散った。死体の山を背にしてアルカはカラのほうを振り向いた。アルカは微笑んでいた。アルカの笑顔はi-tubeを通して全世界に向けて配信された。それは子供のように素朴な、純粋な喜びだけを湛えた笑顔だった。それを見てカラはなぜだか泣き出してしまった。指先が震え、スマートフォンが手のひらから滑り落ちた。カメラは床にぶつかって、それから暗闇を映し出した。次の瞬間、画面はアルカの顔のアップを映し出した。アルカがスマートフォンを拾い上げ、両手で強く握りしめるようにして持ち、眼前に掲げていた。カラ、これまで繋がってるか? とアルカは訊いた。カラはうなずいた。それを聞いてアルカはもう一度笑った。それからアルカは口を開いた。「世界中の、この映像を見ているお前たちに告げる。これは始まりにすぎない」アルカは画面に向かってそう言った。それからアルカは続けた。「俺は俺が憎んでいるやつらを殺す。俺は殺し続ける。皆殺しにする。俺はこの世界を憎んでいる。この世界の支配者たちを憎んでいる。だから俺はやつらを殺す。俺は政治家を殺す。官僚を殺す。学者を殺す。評論家を殺す。作家を殺す。司祭を殺す。牧師を殺す。運動家を殺す。教育者を殺す。法律家を殺す。警官を殺す。新聞記者を殺す。テレビのリポーターを殺す。セレブリティを殺す。ミュージシャンを殺す。スポーツ選手を殺す。経営者を殺す。投資家を殺す。広告マンを殺す。コンサルタントを殺す。会計士を殺す。税理士を殺す。銀行員を殺す。ウォール街でスーツを着込んだやつらを全員殺す。エンジニアを殺す。プログラマーを殺す。シリコンバレーで座禅を組み瞑想しているアントレプレナーを皆殺しにする。あらゆる強者を殺す。強者に協力するあらゆる弱者を殺す。醜悪なのは資本家もそれに付き従う労働者も変わらない。どいつもこいつもシステムを肥え太らせる奴隷だ。俺は醜いものを憎む。俺はあらゆる醜いものを破壊する。俺は都市を破壊する。ビルを爆破する。ショッピングモールを爆破する。銀行を爆破する。学校を爆破する。病院を爆破する。役所を爆破する。刑務所を爆破する。現状維持を求めるすべてのシステムを破壊する。誰も俺を止めることはできない。俺を止めようとするやつは全員殺す。俺はすべてを拒否する。俺はすべてを破壊する。俺が求めるのは崩壊だけだ。俺は再建を求めない。俺は創造を求めない。俺は災厄を破壊するために生まれた災厄だ。この宇宙と同様に、俺自身もまた巨大な災厄なのだ。俺はこの世界に混乱をもたらす。俺は神を欺く。神の計画は潰え、未来がやってくることはない。神は死に、そしてもう二度と生まれない。神が世界を創り直すことはなく、宇宙が生まれ直すことはない。俺はこの世界の破滅と神の絶滅に向けて、最後のパーティーを開催する。招待客はお前たち全員だ。誰も逃げることはできない。パーティーはもう始まっている。誰もそれを止めることはできない。お前はどっちだ、システムを牛耳る支配者か? システムの奴隷か? ならば俺がお前に死を与える。もしそうじゃないなら、お前たちにできることは、俺と一緒にそれを楽しむことだけだ」。アルカはそう言ってスマートフォンの電源を落とした。ふたたび画面を暗闇が覆った。それがアルカとカラの二人の名を知らしめることになる最初の動画の終わりだった。
長い旅になる、とアルカは言った。そのためには準備が必要だ。アルカによれば、それがショッピングモールを襲撃した理由の一つだった。そうして二人は歩き出し、無人になったスーパーマーケットの棚を物色しはじめた。日持ちのする食料、変装に使えそうなレディースの服、サングラス、何種類かのウィッグ、化粧品。それらをスーツケースとレディースのボストンバッグに詰めてゆく。作業が一段落すると、彼らはフードコートに移動して食事をとった。アルカはハンバーガーとポテトフライを食べた。何も食べる気が起きなかった。食べられるときに食べておけよとアルカが言い、カラは仕方なくサンドイッチを一口だけ食べた。その瞬間、口の中で饐えたような臭いが充満して、身体の内側が痺れるように痙攣した。カラは吐き気を覚えたが、目を閉じて、できる限り何も考えず、何も感じないように努めながら、咀嚼されてドロドロに溶けたサンドイッチの欠片をむりやり飲み込んだ。それからは何も食べなかった。カラは残りのサンドイッチを見つめたまま黙っていた。カラの思考は混乱しており、彼の身体もまた彼の意志とは独立して混乱し続けているようだった。いまだ冷めやらぬ興奮と緊張と恐怖と歓喜の入り混じった奇妙な感情が、彼の脳と胃袋を満たしていた。もう食べないのか、とハンバーガーを頬張りながらアルカは言った。カラは無言で、弱々しくうなずいただけだった。ハンバーガーを食べ終えると、アルカはテーブルの上に自動小銃を置き、それを眺めながら言った。なあカラ、俺はお前を信頼している。信頼しているから、お前と一緒にここにいるんだ。お前にはこれからもずっと一緒にいてほしい。本当の仕事はこれからだ。俺たちがやらなくちゃいけない仕事はこれから始まるんだ。俺の言っている意味、わかるか? アルカはカラの目をまっすぐ見つめた。カラも顔を上げてアルカの目を見た。アルカの瞳に光はなく、深い穴のようで、そこには暗闇だけが広がっており、覗き込むと、意識のすべてがその中に吸い込まれて、あらゆる思考や感情がすべて無に帰っていくような心地がした。カラは目をそらした。そして現実に帰ってきた。それは一瞬のできごとだったが、カラには永遠のできごとのようにも思えた。それからゆっくりと、カラはうなずいた。それからカラは口を開き、何かを言おうとした。そのとき外からサイレンの音が聞こえてきた。アルカは耳をすました。音は近づいてきていた。警察だ、とカラは言った。もう行こう。それから二人は立ち上がり、荷物を手に持ってフードコートを出た。エントランスに向かった。アルカは走った。カラも走った。けれどカラはアルカのようにはうまく走れなかった。息が上がり、気が遠くなった。倒れそうになった。アルカはカラの名前を叫んだ。腕を伸ばし、カラの身体を支えた。大丈夫か、と声をかけながら、カラが持っていた荷物を代わりに持った。カラはきれぎれの呼吸を落ち着かせながら、ありがとう、アルカ、と言った。そうして二人は走るのをやめた。歩いてエントランスに向かった。やがてエントランスに到着すると、武装した警官たちが次々とモール内に入ってきているのが見えた。警官たちはハンドガンをかまえ、止まれ! と口々に叫んだ。二人は止まった。警官たちはハンドガンをかまえたままにじり寄ってきた。カラ、あれ出せ、とアルカが小さな声で言うと、カラはアルカが肩から提げていた紙袋に手をつっこみ、中にあるものを取り出した。赤い、筒状の金属。それは消火器だった。カラ、今だ、もう投げろ、とアルカは言った。その瞬間、カラは消火器の安全ピンを抜くと、警官隊に向けて放り投げた。消火器は弧を描きながら床に落ちた。警官たちはそれを見て後ずさりした。誰かが、気をつけろ、爆弾だ、伏せろ、と叫んだのが聞こえたが、その声は消火器が放つ閃光と衝撃と爆風と轟音に飲み込まれてすぐに消えていった。それは消火器を改造してカラが作った、手製の爆弾だった。それはカラの人生を切り拓く道具であり、同時にカラの人生そのものであり、カラの存在意義そのものだった。カラの手の中で生まれた巨大な力が床をえぐり、ガラスを破り、壁に穴を空けた。空間を真っ黒な煙が覆った。割れたガラスの隙間から外の風が流れ込んできて、空間に充満した煙と土埃でできた靄を揺らした。靄が晴れたあとでは、爆風に吹き飛ばされた警官たちの、傷つき焼け焦げた赤黒い身体だけが横たわっていた。直撃を受けた者は即死し、そうでない者はその場から離れようと、文字通り這うようにして来た道を引き返した。カラはもう一度紙袋に手を入れ、ふたたび消火器型爆弾を投げた。二度目の爆発による死を免れることのできた警官は誰一人としていなかった。カラは自らに与えられた力の存在を実感し、目眩がしたが、それが疲れによるものなのか興奮や陶酔によるものなのかはわからなかった。焼け焦げた死体、人間の身体が焦げる臭い、崩落して瓦礫と化した天井と壁を、カラは自らの目で見つめていた。カラはその光景を自分がいままで歩んできた人生とうまく紐づけることができなかった。自分が得た力と世界の関係をどうとらえるべきかわからなかった。カラは自分が弱い人間だと思っていた。これまで社会から虐げられ続けてきたし、これからもそうなのだと思っていた。それは変わらないことなのだと思っていた。けれど本当はそうではないのだと気づいた。カラは弱者である自分が嫌いだった。けれど、弱者である自分を手放すことは怖かった。なぜなら、弱々しく、道化のように他人に笑われながら生きていく自分こそが、カラにとっては自分そのものであり、それ以外は自分ではなかったからだ。カラの頭の中で思考がぐるぐると回り続けた。それが空回りであることはわかっていた。答えが出ないことはわかっていた。それでもカラはその場で立ち尽くしていた。カラ、もう行こう、とアルカが呼びかけても、しばらく気がつかないほどだった。アルカに腕をつかまれ、カラはやっとその場を離れて歩き始めた。
二人は空港を出た。駐車場に停めてあった車に乗り込んだ。持っていた荷物をトランクと後部座席に詰め込んだ。カラは車を出した。二人とも疲れていた。外は晴れていた。日差しが強く、光が街に活気を与えていた。カラは制限速度や交通信号機が示すルールをすべて無視して、アクセルを踏み続けた。誰かの怒声や、金属と金属がぶつかる音が聞こえてはすぐに流れて消えていった。何もかも消えてしまえばいいとカラは思った。何もかもどうにでもなってしまえばいい、どうにでもなってしまった自分は、どのみちもう、もっとどうにでもなってしまうことしかできないのだから、とカラは思った。しばらく行くとハイウェイが見えた。そこに入ればもう、そこからは未知の世界だ。カラは自分の人生がどこかに向かおうとしているのを強く感じた。けれどそれがどこに繋がっているのかはわからなかった。自分がどこへ行きたがっているのかもわからなかった。ただ、どこかへ行きたいと思っていた。東だ、とアルカは言った。だから彼らは東を目指した。カラは震える手でハンドルを握り、アクセルを踏んだ。アルカは助手席で、何も言わずに前を見据えていた。流れるように、街が遠く離れていき、そして消えていった。もう後戻りはできない、後戻りができない地点すらももう、とうに越え、そんなものはどこかに跡形もなく消えてしまっているのだ、とカラは思った。俺はもう、決定的な一線を踏み越えてしまった、選択肢はもうどこにもない、俺にはもう、何かを選ぶことなんてできないんだ、とカラは思った。けれどもそれは、これまでと何も変わらないことのようにも思えた。自分には最初から選択肢など与えられていなかった、俺には何かができたはずだが、その〈何か〉こそが、今ここにあるすべてなのだという気もした。カラはバックミラーに映る自分の顔を見た。頬がこけ、目が充血し、唇の端からは泡が垂れていた。アルカはどうだろう、と彼は思った。彼は鏡の中のアルカの顔を見た。その表情はいつもと変わらず、平然として、自信に満ちているように見えた。それはカラにも自信と希望を与えた。いつかアルカが、「すべてはあらかじめ決められている」と言っていたのをカラは思い出した。「骰子の出目は宇宙の意志が決める。それでも骰子はお前の手の中にある。骰子が振られたとき、振ったのは誰でもない、お前自身なんだ」。アルカはすべてを知っている。そして俺はそのことを知っている。だからアルカについていけば大丈夫、大丈夫なんだ、とカラは自分に言い聞かせた。アルカはラジオをつけた。ニュースが流れた。エルパソ国際空港で起きた銃乱射事件。犯人は目出し帽を被った二人組の男。ライフル、ハンドガン、爆弾の使用が見られる。国際テロ組織との関わりは不明。現在は現場を離れ逃走中。エルパソ市警察はテキサス・レンジャーへテキサス州全土を対象として緊急捜査網を敷くことを要請。エルパソのディー・マーゴ市長は緊急記者会見を開き、「こんな悲劇がエルパソで起きるなど、まったく一度も考えたことがなかった。言葉にできないほどの悲しみをいだいている」と話した。事件発生当時にショッピングモール内にいたという女性は、「私自身は直接銃声を聞いたわけではないけれど、どこかのテナントの従業員が、遠くで銃声のようなものが聞こえた気がする、と話しているのが聞こえてきて、それで嫌な気がしたの」と言った。「周りを見渡しても――私がいた場所はテロリストたちが最初に銃を撃ち始めた場所からは遠く離れていたから――、ほとんどの人はそれを信じていない様子でショッピングを続けていたけれど、私は従業員たちが話していることは本当のことだと思った。たとえそれがデマだったとしても、それで損をすることなんてないんだから、信じたほうがいいに決まってると思った。私はその場を離れて安全な場所を探した。どこか、隠れることができる場所があればいいと思った。ひとけのない階段の踊り場に出ると、金属でできた重いドアがあった。開けると倉庫だった。私はそこにあった、掃除用具が入っているロッカーに隠れた。しばらくすると、外から銃声のような音や、人の悲鳴が聞こえてきた。やっぱりさっきの話は本当だったんだと思った」。女性は騒ぎがおさまり、警察に保護されるまで、そのロッカーの中に隠れ続けていたのだという。ニュースキャスターは次のニュースを読み上げ始めた。ラジオの声を聞いて、ミスったな、とアルカは言った。ちゃんと全員殺したか確認したつもりだったんだけど。今度はカラも手伝ってくれよ。そう言ってアルカは身を乗り出し、カラの顔を覗き込んだ。ああ、そうだな、もちろん、とカラは言った。アルカが言う「手伝う」という言葉が何を意味しているか、疲れたカラの頭ではよくわからなかったが、それでもカラはそう答えた。アルカの期待に応えたかった。車は走り続けた。外からはたくさんのサイレンの音が重なりながら鳴り響いてくるのが聞こえてきた。けれど同時にそれが単なる気のせいであることもカラは気づいていた。目の前ではすべての風景が溶け出して、マーブル模様を描き出し、それが本当はなんだったのかなんてもうわからなくなっていた。自分の中で幻だったものが現実になり、現実が幻に変わっていくのをカラは感じていた。