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夜の中を二人は歩いている。街は熱を帯びている。歩くたびに人々の呼気と入り混じったぬるく湿った風が身体にまとわりついてくる。そこらじゅうでアルコールと油の臭いが漂っている。重い空気がゆったりとしたリズムで揺れている。二人はそれを切り裂くように早足で歩いている。遠くのほうから静かな音楽が聞こえてくる。音の輪郭はあいまいで、メロディのぬけがらのような間延びした残響だけがわずかに自らの存在を主張している。それは街の喧騒の中に溶け込んでいて、意識しなければ聞き逃してしまうほどかすかな音だったが、一度気づくと耳から離れなくなるようなたぐいの音だった。カラはそれを気に留めないようつとめたが、アルカはそれに興味を示したように、音楽が流れてくる方角に向かって足を運んでいった。カラはアルカの後ろについていった。カラは自分の行動の根拠のすべてをアルカに託していた。何も考えたくなかったし、そもそも何かを考えるということかどういうことか、カラにはもうわからなくなっていた。刺激に対する純粋な感覚と、それに対する単なる反射に近い運動だけがカラのすべてだった。少し行くと、音源のある地上からは薄い赤や青や紫色の光の柱が伸びていて空を貫いているのに気づいた。空に目をやると色とりどりの光が雲に反射して混ざり合っている様子が見えた。木々やビルの頭上で光のヴェールが揺れていた。近づくほどにその光は強くなる。音も大きく、明瞭になる。光は音に合わせて踊るように動き、絶えずその色を変えている。一つの推論が頭の中に浮かび上がり、視界の向こう側では何か催し物が行われていて、光の正体は人為的に操作されている巨大なライトなのだとカラは気づいた。風景が流れていく。夜が深みを増すとともに、行き先を照らす光を確かなものへと変えていく。二人は路地を抜けた。そして大きな光が闇を包んだ。視界がひらけ、何台もの車がクラクションを鳴らしながら二人の目の前を通り過ぎていった。大きな通りの大きな交差点で、信号が青になるのを待つ人々が群れをなしていた。二人も群れの中へと入り込み、息をひそめるようにして足を止めた。群れがふたたび動きはじめるまでのひとときで、二人は信号の先にあるものを見つめた。そこには大きな公園らしきものがあり、その中でテントがいくつも張られているのが見えた。あたかも公園中のすべての隙間を満たすようにして、無数の生きた人間たちが密集していた。音楽のフェスだか何かのパーティーのようなイベントが行われているのだとカラは思った。そう意識すると、何か、恐怖と不安と期待が入り混じったような感覚が、ゆったりと全身を満たしはじめ、筋肉を細部にいたるまでこわばらせるのをカラは感じた。カラはこれまでそういう場所には行ったことがなかった。高校の教室で、クラスメイトが話題にするのを聞いたことがあるだけだった。誰にも誘われたことはなかった。誰かが誰かに誘われるのを聞くだけだった。自分には一生縁のない場所だと思っていた。信号が青に変わり、雑踏が動きはじめた。二人もふたたび歩きはじめた。小さな人だかりが大きな人だかりに合流しようとしていた。けれどカラにはそれからどうすればいいのかわからなかった。そういう場所には自分は似つかわしくない人間だと思っていた。カラには人の輪の中への入り方もわからなかったし、入ったところでそのあとどう振る舞えばいいのかわからなかった。そんな状況に置かれた自分を想像しようとつとめるだけで、頭の中が泡立ったように思考はめちゃくちゃになり、叫び声を上げながら走り出したくなるような衝動に駆られた。公園の入口のあたりで、スタッフが拡声器を使ってマスクの着用とソーシャルディスタンスの確保を呼びかけているのが見えた。中に入っていく人々はみなマスクを着けていた。マスクを着けずに入ろうとした者は、スタッフに呼び止められて、その場でまだ封の切られていない使い捨てマスクを手渡されていた。それを見て、アルカはポケットからマスクを取り出して装着し、カラにもマスクを着けるよううながした。カラもアルカと同じようにポケットからマスクを取り出して装着した。二人はいつもマスクを持ち歩いていた。二人はそれが求められる場所ではできるかぎり装着するようにしていた。二人は、マスクをすることが求められる社会は二人にとって好都合だと考えていた。個人はその顔によってその個人として見なされるが、マスクは人から顔を奪う。特徴を奪う。肌の色や顔つきや表情を漂白し、人間が各々持っている固有の背景や文脈や属性を奪う。言い換えれば、顔という個性を無個性な布で覆い、隠すことで、人は自らの存在そのものを隠すことができる。交換可能で、無害で、清廉潔白な、匿名的な単なる情報となって、風景の中に溶け込むことができる。マスクを着ける、たったそれだけで、ほとんど自動的に公共的で従順で社会的に正しい人間として見なされるようになるのだ。そこには善も悪もない。そこに内面は存在しない。思考は存在しない。同じ顔をした大衆という概念がぼんやりと空間を満たしているだけだ。マスクを着けたアルカとカラは、係員のアナウンスにしたがって、公園の入口に設置されたオートディスペンサーに手をかかげ、エタノール消毒液をてのひらに噴霧する。備え付けられたセンサーが二人の体温を読み取る。ディスプレイが緑色に点灯し、二人の体温が平熱であることを告げる。それまで降りていた入口ゲートが自動で上がる。それから二人は公園の中に入っていく。音楽がよりいっそう強くなる。喧騒が激しくなる。カラはあたりをきょろきょろと見回しながら進んだ。公園の中にはたくさんの人がいた。テントやフードトラックが点在し、食べ物や飲み物を提供していた。人々は思い思いの場所にいる。立っている人もいれば座っている人もいる。誰もが途切れることなく口を動かし、何かを食べたり何かを飲んだり何かをしゃべったりしている。カラは一度も話したことのないクラスメイトたちのことを思い出した。それからなぜだか、今の自分を、強くなった自分を、音楽が鳴り響く夜の公園を彼らと同じように堂々と歩けるようになった自分を、彼らに見せつけてやりたいような気持ちになった。カラは彼らのことを憎んでいたが、同時に憧れてもいた自分に気づいた。そう思うとなんだか恥ずかしいような、死にたいような気分になった。カラはその気分を忘れたいと思った。忘れるために、カラは足を止めずにそのまま進んでいった。奥には大きな広場があり、広場の中央にはステージが設営されていた。バンドが演奏していた。巨大なスピーカーから音楽が流れていた。それが外にまで漏れ聞こえてきた音の正体だった。ステージ前方に集まった人々はビールを飲んで音に合わせて踊っていた。そこにいる人々は身体全体で音楽を楽しんでいるようだった。みな一様に笑顔を浮かべていた。ときどき口を大きく開いて叫んだり、演奏にあわせてメロディをなぞったりしていた。そこでは入口とは異なり、誰もマスクを着けてなどいなかった。カラにはそれがおかしく思えた。それからそれは一種の儀式のようなものなのだと思った。共犯的行為により同質性を仮構し、その場限りの仲間になるということ。祝祭。非日常の空間。マスクとは異なる、別のペルソナを着けた状態で社交を楽しむこと。カラは知った、関係は内発的動機によって自律的に生成されるものなどではなく、外部環境がそれを求めかたちづくられるものなのだと。だから意志は存在しない。ステージ前の人々をずっと眺めているうちに、カラは、自分がいつまでもマスクを着けたままでいることが、なんだか恥ずかしいことのように思えてきた。マスクの中で充満する呼気はひどい悪臭で、不快感で息がつまりそうになった。内臓が腐って溶け落ちているような臭いだと思った。やがて臭いに耐えかねたカラは、周囲の人々がそうするのと同様に、マスクを外した。アルカにもそうするようにうながした。アルカは眉間に皺を寄せてあたりをきょろきょろ見回していた。マスクをとったカラが、何か飲み物でも買ってくるよ、と言った。カラはその場を離れた。アルカはその場に一人残された。アルカは一人で音楽を聴き、ステージ上で明滅するライトを見つめていた。しばらくそうしていた。その空間の目的や意味を理解しようと努めた。けれどアルカには理解できなかった。アルカにとって音楽は、スケールに沿って配置された高さを伴う音波の集合に過ぎず、聴覚的に認識された空気の振動に過ぎず、波動による力学的エネルギーの変動の帰結に過ぎなかった。アルカが頭の中で疑問を投げかけた。人はなぜ群れをなして音楽を聴くのか? 答えはすぐに返ってきた。「それは、彼らが同期性を求めて進化してきたからです」と頭の中の声が言った。「音楽によって報酬効果が得られる生物学的能力は、そもそもは発声学習などのほかの能力の進化の副産物として始まったものですが、後に同期性による相互の社会的信頼を構築することに対する有用な効果が評価され、それに基づき共進化していき、その過程で獲得されるようになったものです」。ですから、わかりますか、アルカ、と声は続けて言った。音楽とは、弱い者たちが弱いまま群れるために発明された技術であるために、強者であるあなたにその有用性が理解できないのは当然のことなのですよ。あなたには音楽なんて必要ない、だってあなたは群れる必要がない。強い者、正しさを知る者はみな、音楽を必要としないのです。そしてあなたは、その強さによって、音のない宇宙でも、永遠に生きながらえることができるのです。虚構の世界を滅ぼし、真実の世界を救うために。さあ、アルカ、もう一度目の前の世界をごらんなさい。そしてその先にある真実をつかみとりなさい。正しいものはいつも、目に映る世界の裏側で、強き者たちに救われることを待ち望んでいるのです。声はそこで途切れた。アルカは声の説明を踏まえてもう一度目の前の光景を眺め直す。音楽を聴き直す。世界を見つめ直す。現象として生成される情報パターンの裏側にある、宇宙の原理を把握しようと試みる。それからアルカは一つの結論にいたる。アルカの中で音の連なりが意味を持たなくなる。あるいは別の意味を持ち始める。間違いない、とアルカは思う。そこにいる人々に見えるものたちのうち、多くは地球由来の人類ではなく、太古の昔に別の侵略惑星から飛来してきたアルファ星系の支配者たちの末裔だ。彼らは弱く、そして弱いがゆえに群れをつくり、群れの力によって強さを得る性質を持つ。弱い彼らが音楽によって群れの結束力を維持・強化することで個体の能力を超えた集団の強さを獲得するというのは、たしかに理にかなっている。アルカがそうした確信を持つにいたるまでの時間で、カラは近くのフードトラックにできていた行列に並び、コーラとビールを一つずつ買った。カラは両手にジョッキを持って席に戻った。アルカに声をかけた。アルカはカラに気づいた。アルカは思考を止めて、カラと一緒に歩いた。二人は空いているテーブルを探して座った。アルカは落ち着かない様子で、ステージを見たり、道行く人を眺めたり、ジョッキの中の泡が弾ける姿を眺めたりしていた。その行動は、アルカにとってはついさっきまで――カラと少しのあいだ離れるまで――とはまったく異なる意味を持っていたのだが、カラがそのことに気づくことはなかった。アルカ、こっちがお前のだ、とカラは言って、ビールの入ったジョッキをアルカに手渡した。アルカはジョッキを無言で受け取った。カラはコーラの入ったジョッキを持ち上げ、アルカのジョッキにぶつけた。乾杯、とカラは言った。カラはそのままジョッキを自分の口まで持っていくと、一口飲んだ。アルカは飲まなかった。アルカは眉間に皺を寄せ、物珍しそうに中身を見つめていた。これはなんだ? この飲み物は? 見たことないな、酒か? とアルカは言った。そう、ビールだよ、とカラは不思議そうな顔でうなずきながら言った。そうか、俺は酒は飲んだことがないんだ、とアルカは言った。へえ、意外だなと、カラは相槌を打ちながら言った。アルカはそのまま続けた。俺を育てたばあさんは、気分を変えたいだけなら、酒よりもドラッグをやったほうがいいと言っていた。酒は身体に悪い、ドラッグのほうが身体にいいと言っていた。だから俺の家には酒がなかった、ばあさんはいつもマリファナとか、幻覚剤とか、炙ったメタンフェタミンの結晶を吸っていた。いつも良い気分でいられるんだと言っていた。眠っているあいだも、起きているあいだも、ずっと夢を見ているんだと言っていた。いつもソファに座ったままで、何も食わずに、静かに部屋の中を漂う煙を眺めて過ごしていた。それでなんともなかった。なんともないと言っていた。ばあさんは死にたがっていた。いつも死にたいと言っていた。でも自分では死ねなかった。ばあさんは長く生きた。誰かが殺してやらなければ、ずっと生きただろう。そしてそのことはきっと、ばあさんにとって良くないことだった。俺のじいさんは酒を飲んだあとに路上で眠って死んだ。保安官が倒れているじいさんを見つけたとき、死体の顔は蟻と蝿に覆われていて、どこの誰だかわからなかった。俺が生まれるずっと前のことだ。ばあさんはそれから酒を飲んでいない。ばあさんはその話を繰り返し俺に話した。ばあさんは酒を飲むことを恐れていた。ばあさんは酒が悪いものだとよく知っていた。だから飲まなかった。死にたがっていたのに、酒を飲まなかったから死ねなかったんだ。ばあさんはもういない。けれど、死んだわけじゃない。ただいないだけなんだ。誰かが殺してやる必要があった。俺はこんな夢を見たんだ。それは静かな夜だった。獣の鳴き声も、風の音も聞こえなかった。カーテンの隙間から月の光が差し込んでいるのが見えた。ばあさんはいつもみたいにソファに座って眠っていた。俺は静かにソファに近づいて、ばあさんの上に覆いかぶさった。身体を取り押さえて、動けないようにした。ばあさんは目を開けていた。でも抵抗はしなかった。どこかで見たことのあるできごとでも思い出してるみたいに、遠い目をしていた。夢を見ていた。そう、夢を見ていたんだ。俺は納屋から庭作業に使う斧を引っ張り出してきていた。誰も、何年も使っていない斧で、持ったのはそのときが初めてだった。俺は左手でばあさんの頭をソファに押しつけて、右手で斧を握って、それから、力いっぱいそれをばあさんの顔めがけて打ち下ろした。ばあさんはずっと目を開けていた。顔面を割って突き刺さった刃を引っこ抜くと、ばあさんは痙攣したみたいに一瞬飛び跳ねて、それからはもう動かなかった。起き上がってこなかった。でも、それだけだった。誰にもばあさんを殺すことなんてできなかった。死なせることなんてできなかった。そのうちに朝が来た。昨日と変わらない朝だった。ばあさんはずっとそこにいた。ソファに座ったまま、いつもと同じように動かなかった。部屋はまだ、ばあさんの吐き出す煙の臭いでいっぱいだった。俺は部屋を出た。それからばあさんには会っていない。でも俺にはわかる。今もばあさんは自分の見た夢のどこかで、まだ夢を見続けてるんだ。そしてそれは俺も同じだ。俺もそうだと思う。だって俺もそうやって育てられたから。俺はたくさんの夢を見た。マリファナとか、幻覚剤とか、揮発したメタンフェタミンが充満した部屋で、たくさんの夢を見たんだ。本当にたくさんの夢を。今もそれは続いている。だから俺は死なない。俺は目を開けたまま夢を見るようになって、そして死ねなくなったんだ。それを聞いてカラは思わず笑った。なんだよその話は、アルカは大げさだな、とカラは言った。酒なんてそんな大層なもんじゃないよ、それはもっと、ずっと軽いものだよ。日常と地続きにある、日常に溶け込んだ、むしろ日常そのものみたいなもんじゃないのかな。それに酒が身体に悪いだなんて何かの間違いだよ、どこでだって買えるし、誰だって飲むものだよ。医者だって飲んでる。本当のところは知らないけどさ、きっとそうだよ。むしろ良いものなんじゃないかな。俺は飲んだことないけどさ、俺の父さんも母さんも毎日仕事が終わるとまずは必ずビールを飲むんだ。それで疲れが吹き飛んで、どんなみじめな気持ちもあっというまに消え失せて、何を食べてもおいしくなるんだって言ってたな。つらいことがあっても、酒さえ飲めれば人生はなんとかなるって、父さんは近所の人たちと酒盛りをしながら笑って言ってたよ。たぶんアルカのおばあさんがやってたドラッグと何も変わらないよ。どっちも気分を良くするためにあるものだろ。それに、疲れたときに飲むと疲れが一気に吹き飛んで、元気になるって聞いたことがある。まあ、よく知らないけどさ、たぶん悪いものじゃないよ。とりあえず、ちょっと一口飲んでみなよ、ためしにさ、ほら。カラはそう言って、アルカのジョッキを指さした。アルカは黙っていた。カラはその様子を眺めていた。カラはコーラを一口飲み、アルカもコーラにするか? と訊いた。アルカは黙っていた。しばらくして、アルカはジョッキを手に持った。そのまま口元まで運び、ジョッキに口をつけようとした。そのとき、突然アルカの背中が横に引っ張られ、ジョッキを持っていた手がバランスを崩した。ジョッキが揺れ、中に入っていたビールがこぼれてテーブルを濡らした。アルカが振り返ると、黒い革のライダースジャケットを着た男がカラの後ろを通ろうとして、アルカのスポーツバッグに引っかかっていた。アルカが男の顔に目をやると、男はアルカをにらみつけた。男はスポーツバッグを片手でつかみ、それを持ち上げながら、おいなんだこれ、クソみてえにでけえゴミじゃねえか、と言った。男はバッグを地面に叩きつけた。バッグはガシャン、と鈍い金属音を立てたが、男はそれを気に留めなかった。あるいは気がつかなかった。なあお前、田舎者か? と男はアルカをにらんだまま続けて言った。フェスにこんなでかい荷物持ってきてんじゃねえよ。邪魔だろうが。迷惑だろうが。わかるか? こんなクソゴミ持ち込みやがってよ、俺の服がお前のきたねえ唾液まみれのビールで汚れるところだったじゃねえか。なあ、聞いてんのか? 迷惑だって言ってんだよ。お前みてえな田舎者がうろちょろしてるとな、せっかくの楽しい気分が台無しなんだよ。男は怒気をはらんだ声でそう言って、スポーツバッグをもう一度つかむと、アルカに向かって叩きつけるようにして放り投げた。わかったか? わかったらさっさとどけ、このクソゴミ持って田舎に帰れ、カス野郎、目障りなんだよ。男が話し終えると、アルカはゆっくりと立ち上がった。おいアルカ、やめとけよ、とカラは小さな声で呼びかけ制止しようとしたが、アルカには聞こえていなかった。アルカはその場で立ったまま、何も言わずに男の目を見つめた。男もアルカの顔を覗き込んだ。男は男が想像しうる、最大限に威圧的な表情を顔に浮かべられるよう努めた。一方、アルカの顔に表情はなかった。アルカはただ、じっと男の目を見つめていた。アルカは男の目の中だけを覗き込んだまま、目をそらさなかった。男は、アルカが好戦的な態度を示すとは思わなかったので、少し驚きはしたが、それでもひるんだ様子は見せない。男は自分に立ち向かってくる男よりも自分を強く、大きく見せ、そしてその姿勢を崩さないよう意識を集中させた。男は自分に自信があった。自分の力に対する信頼を捨てないことが、男に自分らしさを与えていた。少なくとも男自身はそう思い込んでいた。いつだってそうだった。気に食わないやつら、立ち向かってくるやつらはみな力でねじ伏せてきた。子供の頃から、高校を卒業して自動車工場で働きはじめてからもずっと、男は力を示し、強さを示し、他の誰かに自分の人生を奪われないよう努めてきた。男はそうやって生きてきた。今夜も同じことだ。男はこれまでの喧嘩の経験に照らし合わせながら、アルカと自分の外見を比較して、分析する。どちらがより強いか。この場を掌握するのはどちらか。どちらが主人でどちらが奴隷か。こいつはなぜ怖気づかないのか。ただ粋がっているだけか。それとも何か粋がるだけの根拠があるのか。男はアルカの身体のつま先から頭までくまなく視線を走らせる。こいつの身体は俺よりも小さい。筋肉もそれほど盛り上がっていない。目は据わっていて表情は読めないが、ただ酔っ払っているだけのようにも見える。そして、男は結論を導き出す。こいつは弱い、こいつと喧嘩になっても、自分が負けることはない。そして男はもう一度口を開く。「なんだよお前、さっきから何見てやがる。ガキが調子に乗りやがって。なんか文句でもあんのか?」。弱いくせに態度だけは一人前のゴミがよ、文句あるならかかってこいよ! 男は笑いながら大きな声でそう言って、挑発するようにアルカの頬を二回軽く叩いた。その瞬間、アルカは目にも止まらない速さで右手を男の首元にやった。それとほとんど同時に、男の首はぱっくりと割れて、ゴムみたいな白い皮膚からピンク色の肉がのぞき、そこから真っ赤な血液が一気に溢れ、塊になり、次の瞬間には風船が破裂するようにあたりに散った。男は返り血に染まるアルカの顔を見た。男はまだ笑顔を浮かべていた。男は自分の身に何が起きたのかわからなかった。痛みは後からやってきた。それは痛みというよりも熱だった。燃えた鉄板を首筋に当てられたような感覚が襲ってきた。熱を持つ首に手を当てると濡れていた。濡れた手を見ると、ペンキ缶につっこんだみたいに真っ赤だった。男は叫び声を上げようとしたが、喉の奥で空気の抜けるような音がするだけで、声は出なかった。男はそれから身体から急速に力が抜けていくのを感じた。それまで感じたことのなかった寒さ、まるで氷の柱が突き立てられたかのような激しい冷たさが背骨の中心を駆け抜けていった。男はよろめきながらどこかへ向かおうとし、それまで手に持っていたジョッキを足元に落とす。ガラスが割れ、ビールが飛び散る。白い泡があたりに一瞬広がってすぐに消える。血は次から次へと溢れて止まらない。鼓動にあわせて傷口が盛り上がったり引っ込んだりを繰り返し、そのたびにごぼごぼと音を立てている。アルカはその様子を上から見下ろしていた。それは詰まった下水のようだとアルカは思った。逆流し、汚物を噴出する排水口。祖母と暮らしていた家ではいつも下水が詰まっていて、シャワーも、トイレも、キッチンも、水が流れるすべての場所は不快な音を立てながら悪臭を撒き散らしていた。雨が降ったあとは廊下まで逆流した汚水が溢れ出てきた。それは抑えることはできない。抑えようとしても無駄だ。どうすることもできない。水が引き、雨が干上がり、動きが止まるのをただ待つことしかできない。そして止まったあとにはドロドロになった排泄物とヘドロのスープと、肺の奥底まで染みついて一生とれない強烈な腐臭が残される。壊れた排水口になった男は目を見開き、脂汗を浮かべ、そのときを待っている。何かを言おうとして打ち上げられた魚のように口をぱくぱく動かしているが、アルカには何を言おうとしているかわからない。傷口が相変わらずぼこっぼこっと低い音を鳴らしながらポンプのように血液を中から外に押し出している。ライダースジャケットの下に着ていたシャツは真っ赤に染まっており、元がどんな色だったのか誰にも判別できなくなっている。男は右手で首を押さえ、左手はアルカの身体をつかもうと前に向けられている。しかしその左手は空中をさまようばかりで何もつかむことができない。腕はがたがたと震え、指は弱々しく開いたり閉じたりを繰り返している。アルカはその様子を見て笑う。アルカは振り返って席に座り直す。テーブルの上のジョッキをつかむ。一口飲んで、舌でよく味わう。それからアルカは顔をしかめる。眉間に皺を寄せて口を開き、舌を出しながら言う。ビールって苦いんだな。あんまりうまくない。というか全然うまくないな。笑えない冗談みたいな味、夢から覚めて、無理やり現実に引き戻されるみたいな味だ。やっぱり酒なんて飲むべきじゃなかった。こんなの何杯も飲むなんてどいつもこいつも頭がおかしいとしか思えないよ。それとも、カラ、俺がおかしいのか? そう言ってアルカはカラのほうを見る。カラは何も答えない。突然のできごとの前で、カラはなんと言うべきかわからなかった。まあ、そんなことはどうでもいいな、とアルカは続けた。俺はもう酒はいらない。最初からいらなかったんだ。ほら、カラ、残りはお前にやるよ。アルカはジョッキをカラに向けて差し出す。カラはわけがわからないまま笑う。ああ、ありがとう、そうか、アルカにも苦手なものってあるんだな、カラは冷静さを取り戻すよう努めながら言う。カラはアルカからジョッキを受け取る。そのとき二人の後ろで大きな音がする。カラは振り向く。ライダースジャケットの男が大の字になって地面に倒れている。料理や飲み物が床にぶちまけられている。その上に血だまりが広がっている。音の正体は、ライダースジャケットの男がバランスを崩して倒れ、近くにあったテーブルや椅子をつかもうとし、つかみそこねてぶつかり、崩れる音だったことをカラは知る。周囲の人々は、そのとき初めてライダースジャケットの男の存在に気づく。男の顔は血の気を失い青ざめている。男の目は大きく見開かれ、口は開かれ、隙間から赤い泡が伝っている。首元の傷口はもはや役目を終え、体内を流れるすべての血液を押し出したあとだった。男が既に死んでいることは誰の目にも明らかだった。汚物を避けるようにして、死んだ男の体の周囲から一気に人が引いていく。男の死体を空洞の中心として人の輪ができあがる。驚きと恐怖の悲鳴、あるいは単なる叫び声がそこらじゅうで上がりはじめる。空洞は少しずつ広がっていき、それに合わせて悲鳴も大きくなっていく。そのあいだも相変わらず音楽は流れ続けている。公園の内周に沿うようにして等間隔に配置されたスピーカーから穏やかなカントリー調の音楽が鳴っている。ときどき女たちの甲高い叫び声や男たちのくぐもった怒声がカントリー音楽のボーカルの間の抜けたような歌声をかき消す。叫び声は、はじめは散発的に、やがて持続音のように絶えず上げられはじめる。恐怖が人々の思考を奪い、混乱が彼らの肉体を操作し始める。公園の外に向かって足早に歩く者、そして走り始める者が現れる。右に向かう者、左に向かう者、前に向かう者、後ろに向かう者たちが入り乱れ、押し引きし合う巨大な波を描き出す。カントリーバンドは演奏を続けている。混沌の中で人が少しずつ引き始めていることに、彼らはまだ気づいていない。誰もいない場所を目指し、巨大な肉のかたまりのようになった人々が押し寄せる。人々は互いにぶつかって転びながら出口を目指す。その動きによってさらに混雑が増してゆく。人混みの中で転んだまま立ち上がれない者、立ち止まって呆然とする者、座り込んで泣き叫ぶ者、何十人もの足に蹴られ踏みつけられ肺が潰されそのまま意識を失う者たちがいた。彼らは自分たちの身に何が起きているのかわからなかった。彼らは音楽を聞きに来ただけだった。パーティーを楽しみたいだけだった。家族や恋人や気の知れた友人たちと酒を飲み交わし語らい合いたいだけだった。どうしてこんなことになってしまったのか、誰にもわからなかった。何もわからないなかで、彼らは走り続けていた。出口に向かって。出口はなくとも。そうしてアルカとカラだけが残される。彼らだけがステージ前の広場に留まり、椅子に腰掛けてバンド演奏に耳を傾けている。彼らの周囲にはもはや誰もいない。それでも夜は続いている。夜はただ続いていく。騒動のあとの、何一つとして動くことのない、静かな夜がそこにある。アルカとカラは空間をたっぷり使ってゆったりとした調子でジョッキに口を運んでいる。アルカはコーラを飲み、カラは生まれて初めて経験する強烈な苦味に耐えながらちびちびとビールを飲んでいる。カントリーバンドのメンバーたちは当初、客席で起きている狂騒を単なる演奏による盛り上がりだと思っていたが、やがてそうではないことに気づく。人だかりが前から後ろへ、内から外へ向かって移動していく。それは明らかに異常事態で、長いバンド経験で初めて目にする光景だった。最初に異変に気づいたのはボーカルだった。客席からは絶えず嬌声が聞こえ、イベントはいつにも増して盛り上がっていると彼は思っていた。彼はリズムに合わせて拍手や合唱を求めた。けれど一向に反応がなかった。そこで初めて違和感を覚えた。よくよく見てみればオーディエンスたちの楽しみ方もおかしい。まるでパンクロックだかヘビーメタルだかのライブのようにモッシュピットができあがっていて、互いに激しく身体をぶつけ合ったり殴り合ったりしている。それは明らかに音楽とは無関係に起きている現象だ。彼は不審に思い、それと同時に直感は彼に危機を訴えかけ、歌うのをやめるかどうか逡巡した。それでも演奏を中止するほどのことではないようにも思った。彼は歌い続けた。けれどさっきまでとは異なり、単に歌うことを楽しむというよりも、訝り、戸惑い、不安を覚え、躊躇しつつ、歌うことをスケープゴートにしながら、あたかも探偵のような心持ちで、その違和感の原因を突き止めるために、客席の様子を丹念に調べ上げるようにして冷静に注視しながら歌い続けていた。そうしてステージ上からオーディエンスたちの様子をじっと眺めていると、やがて、大きなモッシュピットの中に一箇所だけ、ぽっかりと、何かの意図をもって空けられた穴のように、綺麗に欠落した空間があることに気づいた。彼はそこに視線を集中させた。テーブルがあり、椅子があり、飲み捨てられたアルコールのジョッキや瓶が散らばっていた。空洞の中心には赤いシャツの上に黒い革のライダースジャケットを着た男が倒れていた。それに気づいたとき、ボーカルの男は自分の身体がすくみ上がるのを感じた。喉の筋肉がこわばり、息がつまり、短い叫び声が肺の奥から絞り出されてくるのを感じた。それでも彼は歌うのはやめなかった。歌いながら倒れた男の周囲に目をやると、赤いのは男のシャツだけではないことに気づいた。男の首から下、手も真っ赤に染まっていた。ジーンズには大きな黒い染みが広がっていた。それが人間の血液であると気づくまでに長い時間は要しなかった。男は血溜まりの中で倒れている、そしておそらくは生きていない。単純な論理がボーカルの男の脳内を一気に駆け巡った。そのとき初めて男は、その場で何か、明らかに危険なできごと、自分の想像を超える異常なできごとが起きていることを悟った。彼は歌いながら考えた。事故か、事件か、事件だとしたらどんな類のものなのか、自分に危害はおよびうるものなのか。犯人は何者か、動機は? 人数は? それは既に終わったことなのか、あるいはそれとも――。男は考え続けた。けれどどれだけ考えてみても、考えるだけでは、目の前の光景を完全に理解するための糸口は見つからなかった。その事実が彼にさらなる恐怖を与えた。一度恐怖に取り憑かれた人間の思考はさらなる恐怖を引き連れる。時間経過に従って恐怖は自律的に増殖していく。そして恐怖に取り憑かれたボーカルの男はやがて取り乱し、歌詞を間違え、音を外した。呼吸が乱れ、リズムが乱れていた。演奏は続いているが、もうボーカルは持ち直すことはできない状態になっていた。そうしてバンドメンバーたちも異変に気づく。ボーカルがマイクを捨て、ステージから降りる。演奏が乱れはじめる。カラはその様子を見てジョッキをテーブルに置く。アルカ、もう潮時だな、とカラはつぶやく。初めてのビール、せっかくだから、好きになるまでゆっくり味わいながら飲んでみようと思ったのに。カラはそう言うと、もう一度ジョッキを手に持ち、ビールを一気に飲み干して立ち上がった。その直後、カラの視界は歪み、空間はぐるぐると回転し、前後不覚に陥り、次に強烈な苦味と酸味が混ざりあった曰く言い難い不快な味が腹の底からこみ上げてきて、カラは胃の中のものをすべて吐き出してしまった。なんだこれ、ちくしょう、気持ち悪い、カラはそうつぶやきながら手の甲で口をぬぐい、呼吸を整えた。それから顔をしかめてよろめきながらスポーツバッグをつかむと、すがるようにジッパーを開けた。カラは中から自動小銃を取り出すと、あたりを見渡すように、その場でゆっくり身体を回転させながら引金を引いた。それを見て、アルカも続けてスポーツバッグの中に手をつっこむと自動小銃を握りしめ、カラと同じように、あるいはカラとは違って、軽やかに、あたかもダンスでも踊るようにして、でたらめに撃ち始めた。人々の悲鳴が強く、大きくなった。音楽が止まった。逃げようとして逃げられず、混沌とした密集の中で蠢く人々の動きがさらに激しくなる。アルカが銃口を向けしばらくすると蠢きは収まる。静止画のような死体の山ができあがる。演奏を放棄したバンドメンバーたちは楽器を置いたままステージを降りる。ステージ脇で控えていたスタッフたちも同様に自分たちの仕事を放棄してステージから降りる。彼らは出入り口には向かわず、近くの塀を飛び越えようとしている。何人かがへりに手をかけて壁をよじのぼろうとしている。塀に並ぶようにして人の群れができている。カラはそれを見た。まるで銃殺刑の執行から逃げ出そうとする死刑囚のようだとカラは思った。カラはそこにできた人の群れに向けて撃った。カラが自動小銃を使うのはその夜が初めてだったが、群れに向かって撃つのは、狙いを定めずとも、トリガーを引き続けるだけで弾が当たって楽だと思った。自動小銃のグリップは手によくなじみ、トリガーはほとんど力を加えずともなめらかな動きで引かれた。それは美しい道具だった。殺人に最適化された美しい道具だった。適切な道具さえ使えば、人は、一人殺すよりもたくさん殺すほうが簡単なのだと思った。カラはアルカのようにナイフや素手で人を殺すことは難しいと感じていたが、自動小銃で人を殺すことは自分のような人間でも何の障壁もなくできるのだと知り、喜びと楽しさに満たされるような心地になった。こんなに簡単に人が殺せるのは、あまりにも楽しくて、そのことが――その喜びに人生のすべてが吸い込まれていってしまうことが――危険なのだとカラは思った。やがて塀のあたりから生きている人間はいなくなった。みな血を流して倒れていた。出入口のほうを見るとそこにも死体の山ができていた。生きている者と死んでいる者の数が入れ替わってもなお、アルカは相変わらず四方八方に撃ち続けていた。死体の山はいたるところで積み上がり、それは少しずつ大きくなっていった。どこかで拡声器を使って公園のスタッフが叫んでいた。密集しないでください! 距離を取ってください! 落ち着いて、ゆっくり進んでください! 公園のスタッフは繰り返し呼びかけていた。大きな声だった。機械的に増幅された、とても大きな声だった。アルカはその声を不快に思った。アルカはあたりを見回し、声の主を探した。声の主はすぐに見つかった。白い屋根をしたテントの中に、拡声器を持った中年の白人男性がいた。白人男性は太っていて、醜かった。それが本当の人間でないことは明らかだった。消去する以外の選択肢はなかった。アルカはまず耳障りな音を止めようと拡声器に照準を合わせて撃った。タタタタ、と短い銃声がしたあとで、悲鳴が聞こえ、つんざくようなハウリングが鳴り響き、やがて止まった。アルカはスコープ越しに男の顔を見た。男は顔一面に恐怖の表情を貼り付けていた。男の手の上で拡声器が粉々に砕け散っていた。ばらばらになった拡声器の破片が男の顔面に突き刺さっていた。無数の傷口から血が噴き出し、何本もの赤い筋を描き出していた。アルカはそれを見て満足した。次にアルカは男の頭に狙いを定めて撃った。もう一度短い銃声が鳴った。何発かの銃弾が骨を砕き、肉を貫き、男の頭だったものは先ほどの拡声器と同じように無数の破片に姿を変えた。アルカがスコープを使ったのはそのときが初めてだった。狙いを定め、引き金を引き、狙ったとおりに銃弾が命中することはアルカにそれまでにない喜びを与えた。アルカはその遊びに取り憑かれた。そしてアルカとカラのあいだで分担された役割のようなものが生まれた。カラは集団に向けて撃ち、アルカは狙いを定めて撃った。カラは人間の蠢きを見かけるとそのあたりに向かって円を描くように銃身を動かしながら撃った。アルカは声が聞こえるとそこに銃口を向け、スコープを覗き込み、照準をあわせて撃った。アルカは怒声を上げている男を撃った。悲鳴を上げている女を撃った。泣いている子供を撃った。誰かと電話で話している男を撃った。転んで脚を折って立ち上がれなくなり、うめき声を上げながら周囲に助けを求めている老人を撃った。スマートフォンのカメラを笑いながらアルカとカラに向け、興奮気味に実況配信している青年を撃った。アルカは聞こえてくるすべての声が止まるまで静かに撃ち続けた。死体の山の上で手をついて、這うようにして歩く若者の頭蓋を砕いたとき、すべての声は消え失せ、静寂が訪れた。アルカは撃つのをやめた。カラも撃つのをやめていた。あとには公園の外で車が流れる音、風が吹き木の葉が擦れ合う音、どこかで吠えている犬の声だけが残っていた。
アルカとカラはその場で合流し、あくびをしながら身体を伸ばす。二人は銃をスポーツバッグの中にしまいこみ、人のいなくなった公園を歩き始める。アルカは歩きながら地面に倒れている人々の様子をまじまじと見つめた。人々は皆死んでいて、動く者はいなかった。脚を前に進めるたびに、雨が降ったあとの道のように、血溜まりで靴が音を鳴らした。青色や黄色や紫色やピンク色をしたライトの光が、そこかしこに積み上がった死体の山と、崩れたテーブルや椅子を照らし出していた。アルカは無人のフードトラックに入り込むと、調理台の上に並んでいたナチョスとドーナツを食べた。冷めて固くなっていたことを少し残念に思ったが、味は悪くなかった。カラもアルカの真似をして食べた。食べ終わるとアルカは糞がしたくなった。アルカはトイレを探した。カラはまだフードトラックの中にいて、ペットボトルに直接口をつけてコーラを飲んだ。ビールは飲まなかった。腹がいっぱいになるまでコーラを飲むと、カラはフードトラックを出た。アルカがいなくなっていた。カラがアルカを探しながら歩いていると、足元に転がる死体につまずいて転びかけた。カラは死体に罵声を浴びせながら半分砕けた死体の頭を蹴り上げた。骨が割れて靴が肉の中にめりこみ、つまさきに血まみれの肉片がくっついて不快に思った。何か気分転換がしたいと思った。カラはその場にしゃがみこみ、死んでいる男のポケットをまさぐった。何かおもしろいものがないか探した。煙草とライターとそれから財布が見つかった。カラは煙草に火をつけて吸った。ついでに財布を奪った。カラは煙を吸い、それから吐き出しながら、これから自分が金を払って何かを買うことなんてあるのだろうか、わからない、でもたぶん、無いよりはましだろう、しかし使ったところで足がつくことはないだろうか、というようなことをぼんやりととりとめもなく考えていた。煙草を吸い終えてふたたび歩きはじめると、なぜかわからないが、何もかもどうでもよくなっていた。それまで自分が何を考えていたのかなど、何一つ思い出せなかった。何もかも忘れていく。何も残らない。カラはそれについて自分がどう感じればいいのかわからなかった。それでも現実は続いている。カラは次から次へと目の前に現れる奇妙な未来を受け入れるしかなかった。アルカは見つからなかった。アルカ、どこだ、出てこいよ、とカラは呼びかけながら歩いた。そのときアルカはトイレを探して公園の奥に向かって歩いていた。いくつかの死体の山を踏み越えた。壊れたスピーカーが断続的に電子音を発していた。色とりどりの光を放ち空を照らすライトは、何事もなかったかのように相も変わらずくるくると回転しながら夜空にオーロラのような光のヴェールを浮かび上がらせていた。そのまましばらく行くと、コンクリートでできた小屋のような形をした簡易トイレが見つかった。入口から見てちょうど反対側にあるひとけのない暗がりを歩いていたときにそれはあった。ドアを開けると先客がいた。トイレの中で子供を抱きかかえた男と目が合った。男は震えながら泣いていた。子供も泣いていた。子供の目は恐怖で大きく見開かれていた。男は泣きながら命乞いをした。頼む、見逃してくれ、子供だけは助けてくれ、と男は言った。まだ三歳になったばかりなんだ、やっと言葉を話すようになったんだ、生まれてすぐにBV-47がきて、都市が封鎖されたんだ。ずっと家に閉じこもっていて、今日が初めての外出だったんだよ。なあ、わかるだろ? この子にとって、今日が初めての外の世界なんだよ、だから、頼む、頼むよ。男は嗚咽混じりにそう言った。男の顔は涙と鼻水でまみれ、まるで腐った肉が溶けたみたいに汚れていた。アルカは何も言わずに男を見下ろしていた。それからズボンのポケットに手をつっこんで中からハンドガンを取り出すと、男と子供の頭に銃口を向け、一発ずつ撃ち込んだ。撃たれた衝撃で男は頭を便器に突っ込んでしまった。男はそのまま動かなくなった。静かになった、とアルカは思った。アルカはハンドガンをふたたびポケットにしまった。男と子供の死体を脇にどけると、アルカはそのまま便器に腰掛けて糞をした。用を済ませて外に出ると、遠くのほうでサイレンが鳴っているのが聞こえた。広場のあたりに戻ってくると、カラが死体の山を巡るようにうろうろ歩いていた。カラはアルカを探していた。アルカはカラの名前を呼んだ。カラは声のするほうを見て、アルカの姿を見つけた。カラは小走りでアルカの元へと駆け寄っていった。スポーツバッグを背負い、両手には紙袋を持っている。スポーツバッグの中で自動小銃がガシャガシャと音を立てた。どこ行ってたんだよ、とカラは言った。サイレン、聞こえるだろ? もうすぐ警察が来る。逃げたやつらが通報したんだ、もうここにはいられない、すぐ行かないと。カラは息を荒げながらアルカの肩を叩いて急かした。アルカはカラに押されるようにして歩きながら、今夜は楽しかったな、よく休めたか? と言った。それを聞いてカラは笑った。そんなわけないだろ、とカラは笑って言った。二人は公園を出て、車に乗った。そう言えば、紙袋、使わなかったな、と助手席で窓の外をながめながらアルカは言った。いつでも使えるだろ、とカラは言った。使いたいときに使えよ。足りなくなったらまた作ればいい。そうだろ? アルカは窓から目を離した。それから目を閉じた。微笑むような表情を浮かべて眠った。途中で何台かのパトカーとすれ違った。けれどそれだけだった。パトカーの群れはサイレンを鳴らし、速度を上げながら二人が来た道を辿るようにして走り抜けていった。誰も二人を止めなかった。呼びかけられることもなかった。二人を乗せた車は夜の闇に溶けていった。新しい街を探した。