Ⅴ
標高七一〇メートル。東京五角議事堂の中央塔の内部。
壁に螺旋状の階段が設置されているだけで、地上までは伽藍洞になっている。こんな深夜では人の影はない。申し訳程度の電燈。落ちれば死が待っている。
巨大な穴だった。
「よしよし。これから宵名物の垂直落下式根性試し遊戯だ。どっちかが死ぬか、両方死ぬか、誰も死なないかもだ。愉しめよ」
天井に付帯する作業用通路に立つ野獣道は俺の首根っこを掴んだままだ。武器の金属バットは持たせてくれているが、両脚はブラブラの状態だ。
隣では、拾得も蛸頭によって吊るされていた。
履いていた右足のスニーカーが脱げ落ちると、音もなく闇の中に吸い込まれていった。
蛸頭が微笑する。「私たちと一緒にこっからジャンプ。地面と激突しちゃう前に、階段の手すりを掴めばいい」
「しっかり邪魔はするけどなっ」
「千載一遇、あんたたちも私たちを殺せるかもね」落下中に階段の手すりを掴むなんて芸当、異端者でもない常人には無理だ。
これは実質的に処刑、たしかに命遊びだ。
「じゃア、行くか」
次の瞬間、俺と拾得の躰は宙に投げられた。血生臭い薬売りが続く。
闇に落ちる。
重力を全身で感じながらも、金属バットを構える。
そして、眼前に蛸頭。
もはや瞬殺だった。
「ふんばってね!」薙刀の一振り。
バットでなんとか防ぐが、落下速度は加速。地上まで六〇〇メートル。
次は野獣道が急接近。奴は空中で俺にまたがり、馬乗りの体勢をとった。まるで魔法のじゅうたんだ。
落下していく中、野獣道は俺の胸ぐらを掴む。耳殻には、少し上の高度で拾得と蛸頭が刃を交えている音が届く。
「さて、さらに遊ぶぞ。これから、隣の二人が落ちてくる。相棒が死ぬとこ、見とけや」
想像する。
薙刀が振り落とされ、拾得の首が斬。
眼前には落下していく拾得の生首と屍体。
次は俺。地面に激突、もしくは鉈で一刀両断。
こんな終焉なんて。
「……拾得ぅ」声が漏れた。地上まで三〇〇メートル。
意識が遠のく。視界が狭くなっていく。
そして、視界の外れをすっと影が落ちていった。
だが、思いもよらぬ状況だった。
落ちていたのは、首から血をまき散らす蛸頭だった。
蛸頭。
頸動脈を掻っ捌きされていた。
「え」声を発したのは、野獣道。
そりゃそうだ。当然だ。
で、俺にも変化。異常たる感覚。脳みそが急に滾った。
即座に。野獣道の腹に膝蹴りを突っ込む。
野獣道が宙に舞う。
全身に力がみなぎっていた。
「ふざけろ!」野獣道が吠え、空中で鉈を振り上げた。「貴様が目覚めし者だと!」
金属バット。振り落とされた鉈を受ける。不思議だ。怪力とは感じない。
弾く。
俺はバットを野獣道の顔面目掛けて振りぬく。
直撃。
派手に吹っ飛んだ野獣道、後頭部から階段に激突。衝撃でコンクリが砕け散った。
異端者への仲間入り。人としての非線形変化。
俺らは〈共時的〉に目覚めた。
まだだ。
間髪入れず。意識を失い重力に身を任せている野獣道に目がけて、連撃をぶち込む。反撃や抵抗もなく、毛だらけのマスクが割れて、髭もじゃの益荒男顔が露わになる。額や頬が赤黒く腫れあがっていて、すでに目は開けていなかった。
肉塊に稲妻電撃が奔り、脳が大炎上。さらに殴打。
抵抗はない。
もっと。
が、急に肉体の力が抜けた。
目覚めの反動。ガソリン切れ。
躰の痙攣。金属バットが手から離れる。野獣道を退治できたが、このままでは俺も地面に激突して死ぬ。
あと、地上まで五〇メートル。
気合を入れる。三〇メートル。やはり無理だ。
先に野獣道が顔面から地面と衝突。
一〇メートル。
死ぬ。目を瞑る。
というところで。
俺の右腕が掴まれた。
拾得だった。階段の手すりを左腕で、そのまま右腕で俺を掴んだ。かなりの衝撃だったのだろう、鉄製の手すりは大きく歪んでしまっていた。
躰をぶらぶらさせながら深く息を吐く。
「なァ、俺たち、どうなった」
拾得は笑顔で応えた。
「目覚めた。修羅っちまった。多分。わかるだろ」
「おう。なんか頭がヤバい。……さっさと退散しよう」
吐き気を催す。世界が歪んでて、俺を圧し潰そうとしてくる感触。
二人でふらふらと階段を下りて、地面まで。
冷たいコンクリートの上には、血だるまになって心肺停止の野獣道と蛸頭の抜け殻。
落ちてきた方向を見上げた。中央塔の広い空間は闇で満たされ、静謐を取り戻していた。
視界が揺れる。
だが、まだ終わりではなかった。
「ああ寒山」拾得がナイフで中央塔出口の白い扉を示した。「まだかも」
「は」
俺は視線を向ける。
拾得が顔を歪めた瞬間だった。
耳鳴りと同時に、影が扉を突き抜けてきた。
「うわ」拾得がふらつきながら動く。「くそ」
俺も続こうとするが、酔ったように千鳥足。
乱入者。
全身を空山基風鏡鎧で覆っている妖艶な細身の女。顔も銀色塗装。手元には鎖鎌。
確か、【第四圏】所属の宍戸某。一三英傑ではないが名は通っている。
宍戸某は無表情のまま、八の字軌道で鎖鎌を振り回しはじめた。空山基風鏡鎧が仄暗い照明を反射して、目がチカチカする。
二人とも確変の反動で、満身創痍だ。躰が悲鳴を上げている。
防御しきれるか。
が、次の瞬間。
扉からもう一人、すいっと入り込んできた。
「バリヤバい」その影を見て、そう口にしたのは拾得だった。
男だった。
紺の背広。顔の中央を境に半分が真白、半分が迷彩柄。右手元には、自動拳銃が握られていた。半分迷彩はスラックスに左手を突っ込んだまま、鎖鎌を振り回す宍戸某の背中に銃口を向ける。
敵か味方かを判別する間もなかった。
炸裂音。
宍戸某は脳漿をぶちまけてコンクリートの床に崩れた。
硝煙の匂いが辺りに漂う。鏡鎧と血液。耳鳴りも消えた。即死だ。
半分迷彩は、野獣道や蛸頭の遺体を交互に見つめながら、流れる液体やら体液を踏まないように、俺たちの前まで移動してきた。
「こんばんは」落ち着いた声だった。年齢は四〇代半ばというところだろうか、迷彩と白の化粧を歪ませ、白い歯を見せた。「自分は弐号というんだけど」
「寒山、この人は【第二圏】の伝説だ」拾得は緊張が解けたのか、微笑んだ。「こりゃ、まあな展開だよ」
弐号と名乗った男からは威圧感が漂う。
「おかしな二人を殺すとは、大活躍だったみたいだね。どうだ、目覚めた感触は? 躰も満足に動かないんだろうが。……ちょうどいい。説明してやろう、これからどうするべきか」
拾得は視線を俺に送った。
俺が決めろと言うことだ。
「わかりました」俺が答える。
「話が早い」
東京の宵は終了。朝日が昇っているが、まだ帰路にはつかない。
俺たちは、自動運転車両に乗せられ弐号と名乗った半分迷彩の家に招かれた。
六本木の中規模ビルディングの屋上に造設された格子状ドーム内にある純和風の邸宅だった。
松の木、鯉が泳ぐ池、千鳥打ちの飛び石。朝とはいえ、まだ暗い。連なっている石燈籠のやさしい灯りに呼び込まれるように、俺たちは庭を進んだ。
玄関、ホールを抜けて待っていたのは、白黒を基調としたシンプルな広間。大画面のディスプレイが鎮座し、壁面には超高額現代アートが並ぶ。
女王陛下への落書き。オバマ大統領。便座、早死にまで。
俺たちはソファーに座らされた。目の前のガラス製のテーブルには、丸みを帯びた焦げ茶色の火酒のボトル。部屋の隅に埋め込まれているスピーカーからはエディット・ピアフの『愛の賛歌』が流れている。
「すげぇ部屋」拾得が間抜けな声を出す。「何LDKなんすかこれ」
メイクを落とした弐号さんは拾得の言葉に反応せず、向かい側のソファーに腰を下ろした。
覚醒の影響か、全身が軋むように痛む。だが、脳味噌のほうは回復していた。
「私ほど祝福を受けている都民はいないだろう。東方不敗浄土の心得も十分に持ち合わせている。まず住む場所だ。ほんものの金持ちは、高いところに住まないんだよ」
「ですよねェ」拾得は首をすくめた。
弐号さんはグラスに入った火酒を一口含む。
空笑いをしながら、俺は質問した。「弐号さんは、いつも東京の宵に参加するんですか」
「なるべく。が、この生活を維持するには、年に数人を狩れば十分だ」
さらっと自慢話をしてくる弐号さんは視線を俺から逸らす。「拾得君、どう思う」
「弐号さんは一晩で大勢の戦闘員を殺した。生活水準は祝福のおかげで、飛躍的に跳ね上がったはずっす。今のようなまあ、優雅というか上品な生活水準まで」拾得は眉を上げた。「で、そんなもん努力すりゃあ、誰にだってできます。過去にも似たような人たちはいたでしょうから」
「ふうむ」弐号さんはやっと口角を上げた。
「そこからが賢い。あなたは、この生活を維持するために、どれくらい殺せばいいのか、調査している。生活水準を上げたり下げたりして。結果、今の暮らしが一番適当だと把握しちゃっています。この意味不明で摩訶不思議な東京の宵の仕組みを使いこなしているなんて驚きですねェ」
「働かなくてもいいし、派手に目立ちもしない」弐号さんは肯定も否定もせずに、続けた。拾得の指摘が、おおむね正しいのだろう。「株や債券を手にしておけば、勝手に金が転がり込んでくる。まあ、この幸福を分け与える家族はいないがね」
「ご結婚は」
弐号さんは自嘲気味に嗤った。「しなくても済む。恋愛の駆け引きなんか不要だ」
「家族がいなくて寂しいなってだけじゃ、僕らを呼びつけている理由は意味不明ですけど」
「理解不能」俺も続く。
「深読みし過ぎだ」弐号さんはまた火酒を口に含んだ。「趣味だよ。たまに誰かを招きたくなる。先々月は、花子さんという方だった。彼女も渋谷区の宵で活躍してね。彼女も君らに近い、異端者の候補だ。大事にしたい」
『花子』なんて偽名丸出しだな。だが、嫌いじゃない。まあ、弐号だってどうせ本名ではない。
「なぜ俺らの場所が」
「そういう勘は冴えている」弐号さんは首筋を撫でた。下僕たる証明の導きということか。「日常生活でつきあう連中は私に才能があって、努力して、つまり、実力でこの生活を築いていると思い込んでいる。だけど、そうじゃない。この心情を共有できるのは、同じ立場、祝福を受けている人たちだけなんだ」
「いや、弐号さんの実力かも」
拾得が皮肉めいた言葉を放つ。
「違うということくらい、自分が一番理解しているよ」
酔った言い方だ。まあ、弐号さんにはこれくらいのことを口にする権利は十分あるはずだ。
「ちなみに、弐号さんはどなたかと組んでいるんですか?」
「孤独生。特定の誰かと同盟を結ぶような真似はもうしない。とはいえ若い頃は、君らのようにコンビで動いていた」
「相方はどうなったんですか」
「死んだ」
拾得はパーカーのポケットから煙草を一本、すっと取り出した。「弐号さん、これ、吸ってもいいすか。あんまりいいお宅なんで、ちょっと落ち着かなくなってきまして」
「構わない」弐号さんは一瞬眉をひそめた。「どうせ、数カ月で出て行く棲家だ」
「引っ越すんですか」
弐号さんは、一旦席を立ち、キッチンへ向かった。
俺は拾得へ視線を送る。冷たい目をしたままの拾得は煙草を指先でくるくると回しながら、弐号さんを見つめていた。
この部屋に来てから、拾得の発言は冗談というより皮肉が多い。弐号さんが気に入らないのだろう。
弐号さんは席に戻ってきて、灰皿を拾得に渡した。「有名税ってところだ。一か所に住み続けるだなんて、危険だ。あらぬ恨みを買って、襲われる可能性もある。名前だってたまに変えちゃうからね」
拾得は煙を吐く。「弐号さんが超経験豊富なのは一目瞭然ですけども、一番大変だったことはなんすか」
「転機だ」弐号さんはうっとおしそうに煙を目で追いかけた。「目覚めし者を含め、成功しそうな奴には、必ず訪れる。そこでどんな判断をするのかを試される」
「誰に試されるんですか?」
弐号さんは首を横に振る。「人間などではない、神たる東京だ」
「神たる東京がいったい何を……」
「時機が来れば、理解できる。私の事例は秘密だ。だが、そこで的確な判断をすれば、成功が約束され、栄光に浴することができる。私の場合、一夜で一七人も始末できた」
「寒山、なんだかな」
帰り道。日はすっかり昇り切っている。
雰囲気がよくない。拾得は珍しくご機嫌が悪く、俺もどうしたらいいかわからない。
弐号さんの尊大さが原因だろう。会話をしたいだけならば、別に邸宅に招く必要性もなかったはずだ。実際、拾得と俺も数カ月の付き合いになるが、互いの住居に関する情報は披露していない。
「弐号さんはどういう魂胆かは知らんが」俺は推測を話す。「わざと俺たちにあの生活を見せつけているのかな」
拾得は眉をひそめる。「いい人生を維持するためだ」
「えっと、祝福の恩寵を俺らに教えることがか?」
「それが弐号さんの目的だ」拾得は棘のある話し方をする。「僕らみたいな端くれでも、弐号さんになれるかもって錯覚させるんだろう。殺しまくればいい生活ができるってのが刷りこみされれば、宵でどうするかねェ」
「気合出して殺そうとする、だな」
拾得は煙草を吸いはじめる。「今までを思い返してほしいな。そんな一気呵成で宵に参加しちゃったら、その分危険性がぐんと高くなる。猿猴取月、僕らが異端者に目覚めたとはいえだ。力を発揮したあとだって、俺ら反動でフニャチンだったろ」
「俺たちが死ねば、その分競争相手が減るってことだな」
拾得は鼻から煙を出す。「弐号さんは、超自己中心的なんだって。自分のメリットを最大限にしたいんだよね。手段は戦闘員を殺しまくる、僕らのような有望株を潰す、かだ。僕らみたいなのが減れば、戦闘員を仕留めやすくなるしねェ」
「それくらいロクでもない発想力がないと、あんな情緒的で偉そうな中年にはなれないだろうしな」
「厳しいことを仰るじゃないの、寒山」
落下防止策の上にカラスが止まっていたが、地べたを進む自動清掃機械が寄ってくると、飛び去っていった。
「ムカついたってことだ。ところでさ、転機だかなんだかってなんだ」
「知らんね。あれだって、一種の誘い水かもしれんさ」
「賢いのは確かだ」
勢いのあるビル風が鬼哭のような音を伴って吹きすさぶ。
思わず目を瞑る。パーカーのポケットに手を突っ込む。
「なんかなァ、腹立つわ、あのあほんだら。血生臭い薬売り倒したから充実した日々が待っているはずだってのにさ」
「同感」俺は頷いた。ついでに眼がしぱしぱする。急に眠くなってきた。
「久々に親とかに会ったら、あんな感じなのかなァ」
「かもな。拾得、お前の両親ってどんなん?」
「うぅん。常識的だったかな。もう一年以上顔を合わせちゃいない。僕、元々みなしごで、育ててくれたのは義理の両親だった。まァ、ねぇ、育ての親なんてさ、どうでもいい存在だねェ」
「へぇ。そりゃ初耳」
親子や兄弟姉妹、親類など血縁関係に関する思想は、大災厄以前を知っている世代と、以後の世代ですぱっと断絶が起こっている。
「で、そっちは?」
「別に。母親は会計士。父親は食用植虫の飼育業者だったな。まあ、会っちゃいないさ」
食用植虫。イナゴを基に遺伝子操作を加え、甲殻や脚などの昆虫的な特徴を排除し植物的な存在に変えた人造生物である。タンパク質摂取を目的とした代替肉としての効率を最大限に高めたものであり、都内の総食糧における二割を占めている。食用植虫の八割以上が周辺地域で飼育されているが、父親は貴重な都内産を飼育していた。父親の職場へ足を運ぶと、プラスチック製の湿った容器の中に白い脂肪の塊みたいなものが並んでいたのを覚えている。
「寂しくないのかい?」
「まったくだ。顔も忘れちまいそうなくらいさ。お前は、義理の両親のことどう思う?」
「同じかなァ」
拾得は顔を顰めて、さらに煙を吐く。
夕方。もやっとしたまま目が覚めた。
腕輪型万能端末でメッセが溜まっているのを確認した。
シャワーを浴びてから、全情報集受容疑似瞳を装着して読む。
戌猫だけでなく、大手の出版社数社からメッセが届いていた。平成時代の極道映画に関する批評記事が爆発、で、連載や出版、インタビューの依頼が殺到。
まじかよ。呼吸を整える。
で、拾得に通信。
「典型的な祝福だよ、寒山」
拾得はあっけらかんとしていた。
「お前はどうなの。いいことあった?」
なんか一緒に神社のくじ引きした結果でも、報告しあっているようだった。
「あったに決まっているじゃないの」拾得の声はいつにもまして明るい。「今日だけで、三人くらいからデートの誘いがあったし、仕事では急きょ部内再編の話があって、係長昇進が決定しちゃったよ。基本給もぐんと上昇したし」
「猛烈だな、拾得」
とはいえ、こいつがいまいち祝福を喜んで享受しているようにも思えない。
「すごいだろう。で、どうするの?」
「これからカノジョと会うんだ」メッセで呼ばれた。「ちょい不安なんだけど」
「寒山、弱気だね。めずらしいね。結婚とか申しこまれちゃうかもなァ」
冗談か本気か。判断しかねる。
「そりゃ、あれだよ。そうなのかな」
「寒山、東京の大いなる愛を受けられるというのにさ、全然うだつが上がっていない。情けない」
根本的に不快で気色が悪いのも事実だ。
祝福の結果。俺が葉霊を下僕たる証明経由で隷属させているだけだ。
それは依存性の高い違法薬物のようでもある。俺は祝福を手放せないのだ。
待ち合わせ場所は、葉霊の住む中階層、自宅の近所にあるハンバーガーショップ前だった。ちょうど帰宅混雑で人通りも多い。
人ごみの中、一人だけ異様な雰囲気の人間が歩いていた。人々は、その男か女か判別できない修道士のような人物を避けていく。神たる東京の忠実な殉教者。管理者。黒地に銀の刺繍で縁取りをしてある僧衣。露出している頭は、昆虫のような形状をした巨大な対話頭蓋で覆われている。各ビルに一人の管理者。無期常駐を課せられた超圏的な世捨て人であり、常人立入禁止の廟に唯一入室できる権限を持つ。各ビルの廟には、ビル管理を司る人工智能が鎮座しており、管理者のみが接触可能だ。
ただし、彼らは頭を覆う対話頭蓋の代償として追憶衝動を簒奪されており、市井の都民とはろくに会話できない。あくまで人工智能からの指示で動く有機的な使役体でしかない。
目の前を通りすぎていった管理者は虚ろな様子で、呪文めいた言葉をぼそぼそと吐き続けていた。管理者が姿を消すのを待ってから、葉霊を探す。
ショップの前で立っている葉霊は青紫のモヘアカーディガンにカットソー、ラウンドタイプのサングラス、気楽な格好だった。うつ向き加減で両手を前で交差し、もじもじとしている。
「お疲れ、源治」
俺に気付き、少しはにかんでいる葉霊はサングラスを外した。
拾得との会話が思い浮かぶ。少し高揚感がある。
「どうしたの、今日は急に」
葉霊は歩きはじめる。だが、葉霊の自宅とは逆の方向だ。
「あの、源治にちょっと言いたいことがあって」
俺もついていくが、なんだか胸が痛い。沈黙。段々不安になる。
別れたいとか言い出すんじゃないよな。逆プロポーズ、という拾得の戯言も過る。祝福ってこんなにすごい心持ちにさせられるのか。
後ろめたさもある。下僕たる証明が葉霊に影響を与えたから、この状況になっている。それは、本来の葉霊ではない。修正された態度と言動。
葉霊の表情。いつもの凛とした印象が消えうせ、眉が垂れて弱弱しい。
「私、浮気していたの」
おっと。
結婚でも、別れ話でもないが残酷な告白だ。一気に頭が真っ白になる。
「え、まじ。ちょっと待って、え、どゆこと」
火遊び。
葉霊は視線を外す。
「源治、ごめんなさい」気付けば、ぼろぼろと涙を流している。「会社の同期と後輩。もう二人とは連絡していない」
「おう」
二人かよ。一人じゃねえのかよ。叫びたいが、唇が震えて口が開かない。我慢できず、俺は葉霊に背を向ける。どうしていいかわからないが、葉霊の顔を拝めない。
それに。同期ってまさか。
「亜鉈?」
俺の同級生。疎遠になっている友達。
葉霊は否定せずに、頷いた。「源治、ごめん。でも、源治と別れたくない」
「いや」冷静になれない。ちょっと待って。祝福ってことなのか。どこが。ねえ、どこが。
拳銃で脳味噌をぶちまけたい。
不意に、服の袖に掴まれる。
「ごめんなさい。ごめん、ごめんね」
葉霊は表情を崩して、さらに落涙していた。
「え、ああ、そっか」
やはり、拳銃で脳漿をぶちまけたい。
俺は振り切って、立ち去るしかできない。
*本記事のキービジュアルは永良新が作成しました。