Ⅲ
次の東京の宵は、前回からちょうど一カ月が経過した六月の半ばだった。
拾得に出会った夜以後、寝つきが悪化していた。目を瞑ると、天狗が息を引き取った瞬間やア美顕の日本刀が脳裏に浮かび恐怖している一方で、今夜こそ東京の宵があるかも、というヘンテコな期待を抱いてしまうのだ。
結果として、恒常的に午前二時まで起きているようになった。眠れない時間は、文章を筆記するか、ランニングや筋トレをして過ごす。肉体的な変調も感じた。下僕たる証明を介した調整なのか膂力や敏捷性、持続力などの身体能力が多少なりとも向上しているようであった。
その夜も腕立て伏せをしていたところで、全情報集受容疑似瞳に通知。
凡そ一時間後の開催。場所は、太平洋に沈みかけの港区。
俺は急いで服を着替える。拾得をお手本にして、全身黒のでかめのスウェット。
姿見に映るその出で立ちは、クソ弱い強盗の如くだった。拾得はこなれていて洗練された感があるのだが。
次に俺はメモ帳を取出し、拾得との合流地点を調べる。東京の宵では、通信が遮断されてしまうのだ。
『第一候補、第八台場駅改札口周辺』『第二候補、ダイバーシティ跡地』『第三候補、旧港避難所地下入口』
場所を事前に決めていても、合流が容易じゃないときもある。その付近で戦闘が始まっていたら、それどころじゃない。というわけで、第二候補、第三候補まで決めている。最悪、午前零時三十分ごろまでに合流できなかったら、その宵は解散ともした。その場合は各々で払暁まで逃げる。
俺はさっさと空中公道まで上昇、自動運転公共バスに乗車。
小一時間ほど南下してから、途中で臨海線に乗り換えると、地表七〇メートルに位置する第八台場駅までたどり着いた。港区。かつての都心三区でありながら、大災厄の影響で最も荒廃した区である。
電子装飾も乏しいしょぼくれた改札にたどり着くと、拾得が改札付近にあるトイレ横にて、大便座りで待っていた。まだ素顔のままだった。
俺は少し緊張していた。
周りの通行人は、下僕たる証明の影響でもう俺たちの存在を認知できなくなっているようだ。何人かを睨んだが、一切反応しない。
「寒山ちゃん、おっと、寒山。早いじゃない」寒山と言い直した拾得は俺を睨んだ。「今夜は気合が入っている感じじゃないの」
拾得はポケットから、スプレーを取り出すと、自分の目元に吹きかけた。独特な刺激臭が周りに拡がる。拾得の眼の周りは黒くなり、前と同じく不審人物の貌になった。
俺も目を瞑る。拾得はスプレーを吹きかけた。しばらくしてから、目を開く。額や目じりの辺りが少しひりひりする。
拾得は直近の一年で三人仕留めたらしい。真っ黒な服装や戦闘流儀を確立するまで、三カ月以上かかった。結局、東京の宵の経験者から助言をもらったらしい。
「バンダナのほうが良かったかな。楽だし」
「その選択は感覚だね」
「感覚ね。顔に巻くのは手拭いとかしか経験ないし。風邪除けのマスクじゃ、心許ないし」
ぐずぐず喋る俺の態度がおかしかったのか、拾得はすんと鼻を鳴らした。
「さて寒山、見つけたら逃げるのは」
拾得から教えてもらった危険人物を並べる。「まず【第三圏】。躰中に漢字の入れ墨を入れた小柄で筋肉質の中年、【第一圏】のア美顕、それと、【第五圏】の赤い恰好の血生臭い薬売り、その他諸々」
「正解だ、さすが物覚えが早い」
「外見に特徴がありすぎるんだよ」俺はポケットに突っ込んでいたペットボトルのミネラルウォータを取り出して、乾燥気味の喉を潤す。「拾得は全員遭ったことがあるのか?」
「一度、文京区の界隈で漢字男に追われた。あいつパンツ一丁でさ、胸に『心臓』、腕に『爪』、背中に『翅』って、文字が明朝体で彫ってあるんだよ。そんないかにも私はバケモンですっていうのが、目が合った刹那、弾丸みたいな速度で走ってくるんだぜ」
ゴシック体で彫らないのは感覚の問題だろう。「どうやって逃走したんだ」
「一巻の終わりってところで、ちょうど目の前を自動運転車両が通りかかったんで、飛び乗ったんだよ。肝をつぶしたね」
大袈裟だろ。
拾得は少し言葉に詰まらせた。「あんまり嘘はいけないよな。前のとき、寒山に二つくらい嘘を吐いた。一つ目は、区外に出るのも、宵に参加しないのも、命には支障がない」
前は最悪の事態とかなんとか言っていたな。なんだよ、気を張りすぎたのが、馬鹿みたいだ。
少しだけ声を荒げる。「どういう意味だ。なんだよ、支障がないってのは」
「謝るよ、寒山。ソーリーだ。大袈裟に誇張したんだ」拾得は顔を顰めた。「致命的なことはない。でも、祝福を受けにくくなる」
「受けにくくなるってのは」
「緩やかに不幸となる」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「宵に参加したくないなら、都内から脱出するしかないね」
神たる東京からの退去。みずから東京に忘れられた存在になるなどありえない。
「そりゃ論外だな」
「さあ、移動しよっか。まずは身支度だねェ」
駅構内から屋外へ移動する。低い位置の空は晴れていて、薄っすらと星が輝いていた。極東万里天蓋を支える郊外縁補柱が国際空港跡地からそびえたち、その麓で大災厄での犠牲者を鎮魂するために建造された巨大灯台が青い光を灯していた。南方では、ねじれ切れたビフレストが夜景から浮かび上がっている。
地上五〇メートルの低層空中公道を経て拾得が連れてきたのは、第八台場ビル内部にある貸倉庫置き場だった。向日葵色に塗装された倉庫用鉄匣が所狭しと並んでいたが、一つ扉が開いているものがある。
「好きなのを選べばいい」拾得が先に中に入る。
薄暗いコンテナの中には誰もいなかったが、代わりに大量の武器が置いてあった。
猟銃、日本刀、青龍刀、ヌンチャク、鉄扇、金属バット、ナックル、バグナグ。壁や棚の中には、殺傷能力が高い武器がずらり。一番奥には、火炎放射器が鎮座していた。
「拾得、好きなのってことは、ここにあるもの選べばいいのか」
「そうだ。俺たち【第二圏】の戦闘員向けに用意されたもんだ。だから、各区に供給場所が準備されているんだ。日が上った頃に、ちゃんと返還しにくればいい」
天狗を仕留めた九寸釘を思い出す。「前の九寸釘も持ち出したのか」
九寸釘というと、丑の刻参りで呪いを掛けるため藁人形に打ちつける、という安っぽい用途しか思い浮かばない。
「九寸釘は個人的な持ち物だ。前は立ち寄るのが面倒だったんで、あれだけ」
「私物か」
「自分でやすり掛けしているんだよね。バッグにも隠しやすいから、いつも持ち歩いているし」
つかみどころのない男だ。
拾得は壁に掛けてあった刃渡り三〇センチほどのサバイバルナイフを手に取る。
「それにするのか」
「シンプルでしょ」拾得は鼠色に艶めく手錠も手にして、ポケットに放り込む。「これもけっこう活用価値があるんだよね。嬲り殺しとかは趣味じゃないけど」
悩ましい。俺も取り急ぎ、手錠を手にするが、そこから困る。
ナイフなどの刃物は、昔からあまり好まない。自炊するときでも使うことは滅多にない。鉄扇やヌンチャクは悪ふざけにしか思えなかった。
俺は棚にあったリボルバー式の拳銃を手に取る。殺傷能力が高いはずだ。
「コルトパイソン、ね。拳銃はあんまりオススメじゃないなァ」
「なんでだ」俺はコルトパイソンを棚に戻す。
「素人じゃ、標的に弾を命中させるのは困難だし、一般人を誤射する可能性も高い。一般人を殺したら、バリヤバい事態になる。らしい。交差点みたいな密集地で交戦が始まったら、使い物にならないじゃない」
「じゃあ、じゃあ」
俺は、入り口付近に立てかけてある銀色の金属バットを手に取る。何人かが使用したのだろうか、何か所かが凹んでいる。手に取って、振りかぶる。改めて持つと、とても振りやすい。表面には、『ALMINIUM BAT』と印字してある。
「いいね、シンプルで。不良少年ぽいから、寒山には似合っていないけど」拾得が茶化すように告げた。「野球、やっていたの?」
「小学生のとき、少年野球を少々」
出だしは予定通りだったが、その後はなかなかうまくいかない。
俺たちは、他圏の奴らを探し回った。台場公園はいかにも人目に付くので、田町方面へ北上した。細かい路地構造を中心に動き、たまに高いビルの屋上などから定点監視をした。
少なからず、交戦している場面には遭遇した。
地上一〇〇メートルに位置する屋根付きの三田第三公園の広場では、【第五圏】の老兵が、若い女二人、【第一圏】の戦闘員に首を極太鉄鎖で巻き上げられて仕留められていた。老兵は苦悶の表情で舌や目玉が飛び出しそうだった。第四首都高速の芝Pでは【第三圏】と【第二圏】が入り乱れ、殲滅戦と化していた。参加して応援するのは、やめとけと拾得に助言された。横取りは嫌われるらしい。
遺体は一体だけ。空中公道の欄干から首都高を見下ろしたとき、車道の端に影が横たわっているのを発見した。多分、死んでから何度も轢かれていたのだろう、真っ黒い塊と化して男か女かさえ判別できない状態だった。
徳川宗春ご公認暴力血祭。偉大な脳髄である摂政は、この電脳都市で狂騒する戦闘員たちに対してどんな所感を抱いているのか。侮蔑しているのだろうか。
気付けば、もう午前二時を過ぎていた。俺たちは麻布の第三空中公道層辺りまで歩を進めていた。一帯は静寂に包まれているが、いくつかのビル窓からは柔い灯りが漏れている。どうせ高級店だ。電飾制限もされており、他の場所と比して落ち着いた印象である。
「寒山、残念だけど、今日は不作だね」
バットを素振りする。期待通りにはいかない。今宵は打席にも立っていない。
「不漁のほうが表現として正しい気がするけど」
ちょっと安心もしていた。これで、一晩は逃げおおせる。
ビル内改装工事中区画の通廊に踏み込む。上の階層までぶち抜かれており、天井が遠い。無人トレーラ、重機。空気は湿っていて暗澹とした場所だ。ここ五年ほどで、高層ビル改修は増加の一途をたどっている。どこもかしこも工事中という時期も珍しくない。
神なる東京の人口は膨れ、面積当たり密度のみならず三次元方向都市過密も問題となっていた。まずは居住地を確保しなければならない。都の周囲は、堅固な聖なる立入禁止壁で覆われている。都内面積の拡張は困難である以上、延べ床面積を広げるしかないのだ。一度構築された建築物は基本的にその用途が固定されてしまい変更が容易ではないことも問題視されてきた。
第二圏で発布されている都市計画によれば、さらなる高層建築を目指し、五圏共同にて低階層補強と変形機構への変遷が進んでいる。アクチュエータを多用した変形都市主義は、ここ最近のトレンドだ。社會や経済の状況に応じて、フロア自体を変形させることにより、柔軟な用途確保を可能にすることが目論見らしい。人口対策のみならず、防災防衛防落の諸問題解決にも資するという。費用は莫大だが、神なる東京には世界中の資本や資材が集中している。
神なる東京を独裁する摂政の無謬性に基づき高層化、複雑化する大都市を、怪獣と呼ぶ学者たちがいる。一理ある。まるで生命体だ。かつて世界の周辺部だったアジアの一都市が、世界の中心となり、さらに深遠な叡智と未知の生態を有する魔獣へと変貌しようとしている。
経済や政治、法律といった中枢性が人々の手から離れていく。流通している情報のどこまでが妥当性の高い事実であるのか判別できない。各圏に都市計画をばら撒く徳川宗春は、五圏東京の全貌を覆い隠し、決して表舞台に出てこない。
拾得は欠伸をした。
「そういえば、みんなどうしてあんな派手な格好するんだ?」ア美顕もだが、他の連中もだ。「顔を隠すことで匿名性を上げること、あと、ある程度相手を威嚇するというのは理解できる」
戦闘服が地味さを志向するようになるのは、銃撃戦で勝敗が決定するようになった近代以後の現代戦だ。肉弾戦においては、派手な甲冑に身を包む文化は殊の外多い。敵味方や指揮官の区別など、目的も明確だった。
「わからないなァ。遺体の見過ぎか作りすぎで、脳がいかれちまったんじゃないのかい」
「ふうん。……そういやア美顕みたいな豪傑、一三英傑とかさ。【第二圏】にもいるのか」
「いるよ。クレイモアを使うお姉さまとか。特に強いのだと、一晩で一七人殺した中年男性がいる。生きる伝説だよ。僕は会ったことがないけどね」
「うへ。一七人なんて、そりゃ多いな」
「一応、宵史上最大の討伐人数とされているねェ。しかしその生きる伝説、全然姿を見せなくてさ」
「まあ顔を拝まれりゃあリスクだ。警戒するわな」
拾得が頷きながら、頭を掻いたときだった。
キィン。耳鳴り。
「寒山」拾得が右耳を指で押さえる。「来るぞ。正面だ」
背筋がぞわっとする。遂に遭遇。手が震えて落ち着かない。拾得の呼びかけにも、おう、としか答えられない。テンパっている。
路肩に停まっている重機の奥だった。
二つの影がこちらに向かっていた。
敵は二人。
大柄と小柄。
「こりゃ、遭遇したね」
大柄な影は、丸みを帯びた巨漢だった。身長は二〇〇センチ近く、横幅も一メートル以上ありそうだった。服装は深緑色の軍服。顔には、中国京劇で使う孫悟空のお面を着けていた。手には、三日月状に反り返った青龍刀を握りしめている。
もう一人は、スレンダーな体形の女だった。こちらは、ベージュの軍服にバックパックという出で立ちで、顔をのっぺらぼうに拡張現実化粧している。
「なかなかイカレてんなァ」拾得がつぶやく。「嫌いじゃないなァ」
手の震えが増す。全情報集受容疑似瞳で確認。相手は【第一圏】だ。
「有名なのか、あいつらは?」
拾得は平常運転、うっすらと微笑んでいるだけだ。
「知らんねェ。でも、新人じゃねえな。おい寒山、ビビりすぎ。また顔面が硬直しちゃってんじゃん。あのコンクリむき出しの区画がいいだろ」
拾得は視線を西の方向へ。
少し離れた場所に、鉄製の足場で覆われた吹き抜けのフロア。壁面にはなにも貼られておらず、荒々しいコンクリがむき出しになっている。
拾得と俺が走り出すと、敵も反応して追いかけてきた。
俺たちは建設現場に入ると、足場を伝って、さっさと一つ上の階層へ。コンクリートが打ちっぱなしの床はごつごつとしていて、鉄骨らしきものが飛び出している。
「戦いのときは、なるべく有利な状況に。高い場所を取る」
俺が呟くと、拾得はにやっと口元を緩ませた。
それぞれ武器を構える。
だが、静かだ。階段や足場を使って登ってくれば、物音も耳鳴りもするはずだ。一向にその気配がない。
静かすぎる。
拾得と目を合わせる。
登ってこないのか。離脱したのか。
カラン、コロン。
不意に、何かが地面に転がった音がする。
次の瞬間、「寒山」という叫び声と同時に、拾得は俺の腕を引っ張り、一気にフロアの外にある鉄製の足場まで飛び込む。
俺たちは、重力に身を任せてもみくちゃになりながら、足場を伝って地面へ着地する。
頭上から、なにかが爆ぜた音。
爆薬かよ。俺と拾得は体勢を整え、通路へ飛び出す。
だが、まだ窮地は脱していない。金属バットを構えなおす暇もなく、今度は躰全体に思いっきり衝撃。
はずみで、バットが俺の手元から離れて床面に落下する。
「寒山」拾得が俺の名を呼んだが、反応できない。
俺の脚が宙に浮く。
汗臭い。
「ふごぅ」太った斉天大聖だ。
まるで六号戦車。恐るべき重量級。
ラグビータックルの要領で、俺を抱きかかえて、そのまま重機に向かっていく。
このままでは圧死。
俺の二倍以上はある巨体と重機に挟まれて。
「寒山、これ使え」拾得は俺に向かって、何かを投げた。
無我夢中。右手で受け取る。硬くて細い。
太っちょ斉天大聖はなおも唸っている。
咄嗟に、それを左耳の中に刺しこむ。今まで味わったことがない触感。
九寸釘。少し抵抗があったが、それどころじゃない。
思いっきり、突っ込む。
「ご、ごう」徐々に太斉天大聖から力が抜け、速度も落ちていく。
勢いが衰え切ったところで、ちょうど重機にたどり着く。
だが、激突ではない。
斉天大聖は巨躯を小刻みに震わせながら、俺に覆いかぶさっていた。もう声を出していない。汗の臭いが尋常じゃない。俺は耳から九寸釘を抜き取ると、脱力した巨躯の脇から抜け出し、金属バットを拾う。くそ、拾得はどこだ。
俺は汗をぬぐう。
拾得は足場の脇で、顔なしのノッペラと交戦していた。
ノッペラは、躍動的に青龍刀をブンブン丸。豪雨の如き乱撃。
対する拾得は踊るように立ちまわり、ナイフで攻撃を捌いていた。
拾得が不利そうだった。左足を引きづっている。きっと現場から飛び降りた時に、足をくじいたのだ。
「うごぅ、ふご……」
耳殻に荒々しい呼吸音が届き、振り向くと立っていたのは、太った斉天大聖。
九寸釘が突き刺さる耳から血をどくどくと垂れ流し、明らかに満身創痍だが、よたよたと俺に向かってくる。
武器はある。今度は冷静だった。
右ひざを金属バットのフルスイングで打ち砕いて、動きを止める。そこからは連撃。股間に右拳、左拳、腰、肩、肋骨。膝をついたところで側頭部に一撃。
南無三。巨躯は崩れ落ちた。
「どうだ! みたかよ!」思わず、俺は吠えた。
殺した。
「くそどもが!」拾得と戦うノッペラが奇声を上げた。「あんたら、前回ア美顕閣下から逃げたんだろ! ウラヤマぁ」
横一文字に振るわれた青龍刀が拾得のさらさらヘアーの頂点を掠める。
助けなきゃ。
「拾得」俺は震える膝を押さえた。
異様な感覚。頭がくらくらする。斉天大聖を殺したからか。
と、ノッペラは俺を一瞥しつつ舌打ちをすると、背を向けて逃げ出した。
拾得に駆け寄る。
ノッペラの姿は既に通廊の闇の中に消えてしまっていた。拾得の顔は蒼白としていたが、視線を斉天大聖のほうへ向けると、口元を緩ませた。
「童貞、捨てたね、寒山」
「おう」うまく答えられない。激しい動悸。
「面でも拝んでおくかい」
人間山脈。亀のようにうつ伏せている巨体に動く気配はない。
「いや、結構だ」
「ったく、あの見た目で爆弾女子ってのは、フェイクきついよねェ」
「肉体派爆弾魔。太っちょが囮だったんだろ。あいつの姿や武器を目にしたら、近距離戦闘が好きそうだって錯覚する。で、奴らは人がいないところまで引きつけて、中距離から爆弾で殺す」
俺は血まみれの九寸釘を手渡す。
拾得はパーカーの袖で血をふき取りながら、苦い顔をする。「こりゃまあ、だ」
「……足は大丈夫なのか」
「超痛いし」拾得は右足を摩る。「今日はもう無理しないよ。さっさとこの場から退避しよっか。さっきの爆発音で、誰か来ちゃうかも」
確かにそうだ。
最後にもう一度確認したが、やはり太っちょ斉天大聖は微動だにしない。
俺は人を殺したのだ。
俺がかなり消耗していたので、拾得は残りの時間をやりすごそうと提案してきた。
案内されたのは、同じビルの低階層に設けられている下水道エリアだった。二人がかりでマンホールの蓋を押し開けると、梯子を使って中へ侵入した。
円形の内部は存外暗い。電光装飾も拡張現実表示も施されていない。持参した小型のマグライトで道先を照らしても、三メートル先しか見えない。加えて、臭いも強烈だ。俺も拾得も耐え切れずに、バンダナを顔に巻きつけた。濡れていく運動靴はもう二度と履けないだろう。各ビルの中央部、廟に鎮座している管理人工智脳くらいしか、こんな場所には興味がないはずだ。
拾得も下水道には滅多に足を運ばず、半年くらい前に一回使ったきりだという。
「緊急脱出なら、区外まで避難するっていうのも手なんだけど。区の外に出ると、その宵は強制的に終了だ。相撲で例えるならさ、場外みたいなもんでさ」
「今日は駄目なのか」
「僕は試したことがないからわからないけど、祝福の効果が薄れるって噂なんだよね。だから、バリヤバい時しか使わないつもり」
「そういう情報はどこで仕入れるんだ」
「うーむ、宵に詳しい先輩」
「……で、なんで下水道なんだ?」
「誰も来ないからだねェ、そりゃ」拾得は汚水を指さす。「不衛生な場所にはなかなか足を運ばない。摂政の巧妙なところはみたいものを見せ、それ以外は隠すところだ」
なるほど、神たる東京の隙間という感じか。
「学校の先生に、太平洋に流れ着いた放浪者や密輸業者、人さらいがいるとか脅されたな」
数少ない来訪者。外の人々からすれば、天国東京こそが逃亡先だ。
「ああ、怖いもんだよ」
と、一瞬俺の頬を何かが掠めた。頬に掌をあてると、バンダナがざっくり切れていた。
「伏せろ」俺は拾得の躰を抑え込み、何かが飛んできた方向へマグライトを向ける。
水中から人影らしきものが出ていた。ここで耳鳴りがする。
そいつは、釣用装具で躰半分を覆っていた。顔は拝めないが、なにかゴーグルらしきものを装着している。
罠師。暗視ゴーグル。手元にあるのは、ボーガンだった。
「寒山、逃げよう」
俺たちは身を翻して、水路を駆ける。
飛んで火に入る夏の虫。
背後からバシャバシャと水を飛ばす音。
と、奇妙な感覚が頭をよぎった。
それは罠師が抱いている明確な敵意だと思われた。
斉天大聖を殺した時も感じたような異変。
罠師がボーガンを構えたのがわかる。背後を見ていなかったのにも関わらず、だ。
なんだ、これは。
敵意が飛んでくる。
俺たちは同時に身をよじる。
矢はどっかへ飛んでいった。
「今の……」拾得がつぶやく。
やがて、入り込んできた場所までたどり着き、急いで、梯子を上り始める。
「あいつ、下水道専門じゃないのか? 水に入れる格好だし、ボーガンで俺らの尻の穴を撃ち抜こうとしていやがったぞ」
罠師はまだ追撃を狙っているのか、水をはじく音は段々と近づいてくる。
先に梯子を上る拾得が声を荒げる。「だから、謝ってんじゃないの」
やっと、マンホールの蓋がある位置まで登り切ると、拾得が無理やりにこじ開ける。
外の人工光が入りこみ、視界が急に明るくなる。拾得が胴体を捩りつつ飛び出た。
と、またも矢が俺の背中を通り過ぎる。矢はそのまま外へ。虚空に消えた。
くそ。
真下を取られた。今のは急に外の光が入って、狙いが合わなくなっただけだ。
俺も一気に這い出る。路地裏。周囲に人影はない。街灯が連なっているだけ。
「最悪だ。早く閉めようぜ」
鋼鉄製のマンホールの蓋を押す。意外にずしりと重い。
「まだだねェ」拾得は意味ありげに微笑んだ。
「何言ってんだ」俺は声を張る。「あんな陰気くさい輩と付き合っていられるか。ドブまみれで死にたくないぞ」
「誤解するなよ、寒山。僕も手柄を稼ぐよ」
拾得はフードから深緑色の手榴弾を取り出した。
「いつの間に」
手癖が悪い。「さっきのノッペラと功夫している間に、失敬したんだよね。こういうのを、鹵獲っていうのかな」
「まじかよ」
拾得は破顔すると、安全ピンを抜いてマンホールの中へ落とす。
「走るよ、寒山」
と告げる拾得は既にスタートをしていた。
俺も後に続く。
「なあ、さっき。変な感じしなかったか」
「寒山もか。宵に参加すると、躰が強靭になるのは知ってっけど。なんだろな、あの感覚」
しばらく走ると、背中の方向から、鈍い爆発音が響いた。
目を覚ますと、午前九時だった。
結局、拾得と朝日が昇るまで、びくびくしながら逃げ回った。薄暗い路地を音立てないように進んだり、廃墟を探して潜伏したり、気を使いまくった。
起き上がると、脇腹あたりが痛む。姿見で確認すると、太っちょ斉天大聖の腕に締め付けられた跡が青あざとなって残っていた。
頭を抱えた。俺は何をしているんだ。
急いで、ラップトップで電脳網を調べる。記事を検索したが、港区辺りで殺人事件の記載はない。まあ、他圏の事故は調べられない。昨晩のことを思い出すと、目からぽろぽろと涙があふれたが、しばらくそのままにしていた。シャワーを浴び終えて、さっさと服を着替えて外出した。
目的もなく歩き、気付けば、路上ライブハウスが展開されている高円寺ビル群を抜けて、渋谷区の特高層ビル群、その低層に所在する怪しげな領域まで足を運んでいた。
全情報集受容疑似瞳の制限を超えて、「人生楽しんでますかァ」と違法な客引きが潜入してくる。昼間だというのに道玄桃色宿泊街の辺りは、カップルが屯していて賑わっている。
身体情報を全情報集受容疑似瞳で確認するが、血圧や脈数に異常はない。
と、腕輪型万能端末にコールが入る。
「ども、何しているのかな、源治」
相手は、連載を載せてもらった経験がある映画雑誌の編集長、戌猫繭糸だ。
「久しぶりっす、姉さん。散歩っす」
「へえ愉しそ」戌猫は乱暴な口調で続けた。「で、相談があるんだよねえ」
「はい」
「かなり前に書いてもらったアンタの自主製作系映画短評が、いまさら急に好評しててさ。社内でも話題になってんだわ。で、善は急げだ。単独著書を出さないか。もちろん、紙で出版する」
戌猫は直球タイプだ。
本。稀少な紙書籍。
「え、あ」
「どうすんの?」
「もちろん。やりますよ」
「よし、また依頼文書を送るからさ、しっかり読んでおいてくれ」
通信が切れる。
高揚がだいぶ収まった頃、低階層の自宅にたどり着いた。
扉を開くと、玄関には紺色のパンプスがあった。葉霊だ。部屋の鍵を渡してある。勝手に部屋にあがっていることはたまにあるが。一方で祝福があるはず、と頭の片隅で期待している。スニーカーを脱いで中に進む。
部屋の中央にある座卓の前、葉霊が正座していた。
「ごめんなさい」俺を見るなり、葉霊は謝った。
座卓の上には深緑色の紙袋がある。俺の好物である羊羹の箱詰めだろう。
「なにが」
そういえば、今日は平日だ。仕事があるはずなのに。
「前遊んだ時のこと、謝ろかなって」葉霊は眉間に皺を寄せている。「態度が滅茶苦茶悪かったからさ」
全情報集受容疑似瞳や腕輪型万能端末を確認するが、葉霊からの連絡履歴はない。「来るんだったら、別に、コールでもしてくれればいいのにさ」
「自己嫌悪がすごくてさ。きちんと面と向かって謝らないといけないかなって」
「そうか。いや、その、俺も悪かった。ちゃんと説明しとくべきだったよな、失職のこととか。ごめん」
葉霊はうっすら笑みを浮かべた。「今日は私がご飯作るから。源治、羊羹も買ってきたから、あとで食べよっか」
背筋がぞっとした。
これが、祝福。神の恩寵。
同時に仕組みを理解する。簡単だ。
我らは全員、全知全能たる東京の子。摂政の駒。都市と俺たちを繋ぐインターフェースでもある下僕たる証明を通じて、子らは脳を操作される。俺、俺の著作に対して、脳内報酬系が反応する。ひとびとは快楽を覚える。
同時に、全情報集受容疑似瞳がメッセを受信。
開くと、拾得からの手紙。
内容はシンプルで、返信しやすい内容だ。
『拝啓、寒山
なんかいいことあったか?
拾得』
*本記事のキービジュアルの素材の一部には、MidJourneyによる生成画像が含まれています。