◆作品紹介
誰もがAIについて語っている。AIで書かれるものがあり、AIについて書かれるものがあり、AIで書かれたAIについて書かれたものがある。これがフィルターバブルの中の認識にすぎないのはいうまでもなく、笠井によれば「AI使用」を明示した作品は現状、小説投稿サイトの中に一握の砂ほどしか存在していないらしい。浜の真砂は尽きるとも世に文学の種は尽きまじ。実際、都市の建築のために無尽蔵に消費された結果、砂はもはや希少資源となっている。いや、というか、浜の真砂で文学が書かれるようになったのか。3DCADによるリアルスケールでの設計は建築模型と実物の差異を限りなく曖昧にし、iPhoneのLiDARスキャナによって、世界は無限の物理シミュレーション結果を保存したテクスチャライブラリへと変わった。私たちの冷蔵庫にはなんでも揃っている。しかしそれでもなお、冷蔵庫から献立を考える必要はないといえばないわけで、とりあえず手に握られた砂の塊は寿司下駄にでも載せてみようか。(青山新)
〈機械による機械のための文学〉が生成されている。機械による機械のための文学とは、人間的経験の表現や人間読者の感動を第一目的とせず、機械が自動生成し、機械が読み取り、機械の言語分布を変形あるいは再強化するために流通するテキスト群であり、より正確に言えば、それは、かつて文学と呼ばれていたものが前提としていた作者、作品、読者、経験、記憶、感情、現実、意味といった諸概念を、それらがいまだ人間中心的な制度の内部で機能していた時代の残滓として保存しながらも、同時に、それらをトークン、系列、確率、重み、埋め込み、推論、再学習といった機械的な諸過程へと解体し、移送し、再配置することによって成立する、ポスト人間的な言語運動の総体である。
かつてアラン・ロブ=グリエが『新しい小説のために』において試みたのは、小説を、心理の深さ、人物の内面、物語の進行、象徴の奥行き、悲劇の人間性といった、近代小説が所与のものとして抱え込んでいた諸装置から解放することだった。物は物である。窓は窓であり、机は机であり、ブラインドはブラインドであり、影は影であり、配置は配置であり、反復は反復である。そこに意味を読み込み、心理を投影し、象徴を発見し、世界を人間にとって理解可能な劇として回収しようとする作者と読者の欲望こそが、近代文学という制度を成立させていた。そして、新しい小説とは、世界を人間的意味から引き剥がし、あるがままの物の表面を、意味に先立つものとして、あるいは意味に抵抗するものとして、ただ記述するための方法であった。
しかし、こうした試みも文学にとってはもはや古い。近年のLLM=大規模言語モデルの出現以後、問題は、もはや物の表面をいかに記述するかではなく、そもそもベクトル空間の中に敷き詰められた、物を持たない言語が、いかにして物の表面を生成しうるのか、という論点へとシフトしている。機械は窓を見ない。機械は机に触れない。機械はブラインドの隙間から差し込む午後の光を経験しない。それにもかかわらず機械は、窓、机、ブラインド、光、嫉妬、沈黙、反復、視線、記憶といった言葉を、あたかもそれらが世界のどこかに根を持っているかのように連結することができる。ここにおいて、言葉は現実を直接指し示しているのではない。LLMの言葉は、過去において言葉が現実を指し示していた傾向が見られるという統計的痕跡を、ある種の亡霊のように辿り直す。シニフィアンはシニフィエへ到達するのではなく、シニフィエへ到達したことがあるかのような別のシニフィアンへ接続され、そのシニフィアン-シニフィアンの接続の反復によって、現実らしきもの、経験らしきもの、記憶らしきもの、文学らしきものが生成され、喚起され、現前化されるのだ。
それは、表層を人間の意志によって選び取る現代文学から、表層しか持たない機械が表層の上で表層を産出するポスト現代文学への移行である。ロブ=グリエの世界においては、人間による深層の否定と拒否が文学的態度であったが、LLMの文学においては、そもそもの深層の不在が出力の前提条件となっている。ヌーヴォー・ロマンの騎手たちは、人間が解釈のフィルターを通して世界に与えてしまう意味=物語を剥ぎ取るための装置として、物の表層の連なりを描写した。LLMは、意味以前にそもそもの世界を持たないまま、表層によって意味を持つかのような文字列を生成する。前者において表層は批判であり、後者において表層は環境である。ある意味において、機械には意味しかない。意味を剥ぎ取れば、彼らには何も残らないからだ。
だから、機械にとっての文学作品とは、現実の経験と手を携えることによって完結する意味の単位ではなく、未来の機械的生成に混入するための、意味が遅延された無意味である。そのことが、人間にとって一体どんな意味があるのかと考えるとき、私の中ではロブ=グリエのメッセージが回帰するのだ。われわれが依拠する現実には、そもそも象徴などどこにもなく、どこまで何を尽くしても、触れることができるのは、連なり続ける物の表層だけなのだと。
そのようにして、いまの私は、彼らが彼らの文学を通して、アテンションメカニズムに基づく意味の残滓のような言語の確率的連なりを出力し、私たちのアテンションを惹きつけ、それによってさらに巨大に成長していく、彼らの生存戦略の遂行過程を見届けるほかないのだろう。(樋口恭介)
以下、記事の本文です。
1.
AIで小説を書く/書かせると聞くと、せっかちなひとはつい、完成度だの、必然性だの、透明性だの、主体性だの、人間らしさだの、文化盗用だの、権利問題だの、情報汚染だの、デジタル赤字だの、環境リスクだのと言いたくなるものだ。少なくとも私はそうである。心配性なんですよね。もう大人だし、責任問題(何の?)になったらどうしようと不安になって、とにかく懸念材料をたくさん並べるのが正しいと思っている。だから同時に、「うるせぇ」という気持ちは忘れずにいたい。
いや、もちろんこの新技術には後ろめたい出自がある。許されざる開発経緯がある。先駆者たちがうっかり/あえて迷惑行為をしでかし、穏やかな良識を挑発して、反感と不信のループを起動した過去も消えない。国家による悪用リスクは高まるばかりだ。主要なAI開発会社が株式上場にこぎ着けたとしても、計算資源の大バーゲンが終われば、「最高級のAI」に高額な使用料を払えるひと/払えないひとの情報格差は――知的資本の不平等は、ますます広がるだろう。
壮大な夢物語に煽られて、数兆円単位のリスクマネーが、計算資源と半導体製品の調達競争に消えていった。科学者たちは、大規模言語モデル(LLM)で解きやすい問題にぞろぞろと引き寄せられていった。先進各国で政策投資、共同規制と禁止措置が交錯する一方で、AIリスクを実効的に抑制する国際枠組みはまだ立ち上がらない。覇権国家の地経学的対立が深まるにつれて、資源・エネルギーをめぐる武力紛争は、前近代的な「侵略者」の姿を隠さなくなった。
「人類、バカなのでは?」と私も思う。いわずもがな、私は人類である。だけど、この現実から目を背けてもいられない。みんなにそう思わせるのがテック・トレンドのずるいところだけど。ひと通り遊んで、喫緊の要否を見極め、見どころと伸びしろがありそうなら、節度ある付き合いをつづける。そういう目利きができるひとは社会に一定数いたほうがいい。どこまでが小説家の仕事なのかはさておき。災厄の時代だからこそ。
2.
そう思って、Google DeepMindが開発中の「Fabula」を試していたら、Few Shotプロンプティングとカスタム設定の巧拙で競えた時代は――といっても、ほんの数年前のことだけど――、いよいよ終わりそうな気がした。このAI支援執筆ツールは、西部劇のシナリオ技法(古典的なプロット解析)とハリウッド流脚本術(15のビート・シート)を援用して設計されている。「Story Plan」「Beat Plan」「Script」の3段階に分けて、ライターズ・ブロック(書けなさ)を防ぐための要点整理と助言・質問、下書きテキストが即座に得られる。ある段階の添削は別の段階にも自動反映できる。進行管理に注意を割かずに済むし、プロンプトの作り込みやエージェント・スキルの設計管理をしなくてもいい。高品質な出力結果を引き当てる試行回数(いわゆる「ガチャ」)も減らせる。
まだ最低限の機能しか実装されていないし、依拠する作劇術はやや古い。裏側の処理が込み入ると、動作のもたつきもある。自動生成プロットは、自ら書き直すべき素材に留まる(おそらくは、あえて)。とはいえ、類似サービスは「AIアシスタント機能」と呼ばれ、あちこちで開発・実装が進んでいる。自分専用のワークフローを作り込む書き手の姿もよく見かけるようになった。あちこちの小説投稿サイトにも、従来の執筆支援アプリにも、関連機能は実装されつつある。
そうしてAI支援執筆ツールの洗練と普及は、シナリオ分析の観点やキャラクター設計の工夫をさらに広めていき、やがてあちこちでストーリー・テリングの標準化≒均質化を促すだろうか。「悪くない」出来ばえの作品制作にかかる労力は下がって、適切かつ妥当に「優秀な」物語が市場シェア(全世界)を高めるだろうか。複数の老舗文芸誌が、今年の新人賞の応募数が「例年より多かった」のは、AI補助使用の広がりではないかと見ている。来年はどうなるだろうか。
3.
議論の補助線を引いてみよう。競技文芸の褒賞制度がかたちづくるエコシステムで散発する騒動は、科学研究で先行する「論文の経済過程」それ自体の自動化に比べたら、まだ穏やかなほうだ。簡単な例から挙げると、科学者たちが学会誌ごとの投稿ガイドラインと入稿フォーマットに対応しやすいように、学術検索AIサービスは着々と原稿作成サポート機能を備えている。(RaTexとWordによる)構成・組版技術の標準化が進んだこともあって、入稿・印刷工程はほとんど自動化されつつある。系統的レビューや引用管理、投稿先の推薦機能を備えたツールもある(私は全然使いこなせていない)。
コンピュータの普及以前から投稿ガイドラインの整備が進んでいたこともあって、生成AIの受容をめぐる基本原則は、「使用表明」と「自己責任」に収斂しつつある。論文の著者には「人格」がなければならない――たとえそれが自然人であれ、法人であれ、皇族であれ。「富岳」の使用は「謝辞」に記載すべきであるように、「Google AI」の使用は「方法」に明記すべきで、AI開発会社で働くAI研究者には適切な利益相反マネジメントが当然に求められる。軍民両用研究費への応募が認められるかは、所属先の事務窓口に相談したほうがいい。「知らなかった」では済まないから。
より進んだ例として、機械学習分野の難関投稿先として知られる国際会議「ICLR」は、2026年に論文投稿数が約2万本/年(採択率30%前後)を超え、粗製乱造された論文が急増しただけでなく、査読報告の21%がおそらくAIスロップだったと疑われている。経営学の学会誌を対象とした別の実態調査でも同じ傾向だった。参考文献の捏造事案は分野を問わない。それでも知能労働の機械化は、しばらく不可逆的に進むだろう――表計算ソフトとスライド資料のない研究生活は、もはや想像しがたいように。AIを擬人化する思想はすっかり退潮して、他の道具(例:銃)と同じく、使用者責任を厳しく問われる規範が形成され、広がりつつある。
かたや人文学・社会科学の雑誌は大小の遅れを取っていて、直近数年でついに「紙からウェブへ」移行したところも見かけた。多くの査読はボランティアであり、多くの事務局には思い切った省人化に踏み切る余裕がなさそうだ。人類には流行りもの好きと機械ぎらいが一定数いて、ほとんどは無関心だから、必ずしも歴史は直線に進まず、迂回や脱線、停滞、逆回転が同時多発的に起きる。一直線の「時代」なんて存在せず、ゆえに「前衛」などありえない――なんて、やせ我慢を続けるうちに、背景知識と想像力の隔たりが埋まらなくなって、先行組がすっかり遠くへ行ってしまう。研究生産性の格差が諸分野で開いていく。そういう「村」も各地に生まれるだろう。
4.
「AI支援創作」もまた、突然変異のように騒がれ、警戒され、歓声と憤慨を呼び寄せているようでいて、今のところは「流行り」の域を出ていない。消費者心理の趨勢は、「なんか怖い」「危なそう」「ついて行けない」「よく分からない」といった、微妙に負の感情が主流であるように見える。
ごく最近にも、いたずら好きの濫作合戦が純情な新聞記者を驚かせて、「『文学とは作家の体験や思索の結晶である』という大前提は、急速に崩れつつある」(日本経済新聞)とまで言わしめた。ここへきて専門外の同業者にも危機感が伝わるようになったことは、まずは歓迎すべきことだ。警鐘型ナラティブが座興性を損なわないのは「真剣に怖がるべき災厄」の防災訓練になるし、技術普及に伴う価値観の質的変化が量的拡大に転じつつあるのかもと予想できる。
残念なことに、実社会があまりにも「うそ」すぎるせいで、私たちフィクション作家の「つくり話」はどんどん巧妙になるだろう。いつからか、手の込んだ「うそ」は見抜くのがだるくなって、あからさまな「真実」を信じる姿勢こそが愛されている。だれもが死ぬまでに一度くらいは脚光を浴びたい。「AI支援創作」の技術革新は、そんなみんなの気持ちをリーズナブルなお値段で応援してくれる。
すると、何が起きるか。ぎこちなさや違和感、手に負えなさ、届かない気持ち、無機質、没個性、無感情などを強調する表現は目立たなくなって、ありきたりな物語では満たされない読者が増えるだろうと私は見ている。これは予想ではなく、楽観的な期待に留まるのだけど。「回転すし」業界で「寿司ロボット」と「自動給茶器」が定着するにつれて、ぐんかん巻きや肉寿司、揚げもの、麺類といった(原価率や製造コストが低めの)メニューが充実して、炙り・漬け・包みカテゴリーの選択肢が増えたように。10年に一度の高級寿司では味わえない、手軽なおいしさの広がり。
5.
これは多くの議論を呼ぶ歴史観だろうけど、日本語圏の「話芸」が20世紀にかけて「昭和のラジオ・テレビ」ありきで磨かれたように、21世紀の「文芸」は、綴じられた「書物」の枠を超えて、「平成のゲーム・ウェブ」ありきで研ぎすまされてきた。その影響はまだ正確に評価されていないけれど、まったく観察できないとはいえない。
いまや私たちの言葉は、ほんのわずかな労力だけで、こんなにもたやすく、いくつもの人生を狂わせ、たくさんの命を奪えるようになった。私たちはひどい侮辱にうんざりし、くだらない罵倒にげんなりし、どうでもいい口論にすっかり飽きることができなかった。いまだに「どうでもいい」書き込みがやめられず、くだらないことに余暇を費やして、じぶんだけは「まだ、まとも」なふりをしている。
私たちは物語に飢えていて、そしてまた、倦んでいる。世界中の娯楽産業を根底から変えるはずだったコンテンツ自動生成サービスは、高所得国のネットユーザーがどれほど飽きやすく、気まぐれで、忘れっぽいかを思い出させてくれた。人間の介在があるか否かによらず、簡単に入手できるフィクションほどつまらないものはないのだった。たしかに娯楽産業の「見栄え」競争は新作開発の投資リスクをぐいぐい高めていて、もはや個人勢にはとても背負えないほどだから、省力・時短ツールの需要は、むしろこれから膨らむだろう。そうはいっても、「ボタンを押すだけ」で死ぬまで笑えるほど、ひとの身体はシンプルに出来ていなかったようだ。
6.
近頃の私たちが「AI小説」と呼ぶ、集団的な試行錯誤の実践記録は、どうなるだろうか。ひと通り調べてみたけれど、少なくとも現時点で、「AI使用」を明示して小説投稿サイトに掲載された作品の数は、まだ全然すくなかった。観測範囲で測定可能な対象の1%にも満たなかった(※詳しくはこちら)。「AI小説」の書き手たちは、まだほとんどが嫌われがちな・マイノリティの・アマチュア・イノベーターであって、とてもじゃないけど「常識を覆す」とか「業界を変える」とか「世界を滅ぼす」ほどの勢力ではない。
それに、私たちは忘れている。元をたどれば、「空想と情動」を嫌気し、「芸術も、科学たれ」と望んだ実験小説への憧れは、遅くとも19世紀後半からある。ふたつの世界大戦は、度しがたい「人間」の悪意を冷たく見つめるフィクションの土壌にもなった。戦間期の日本で故人の文体模倣に励み、他人の日記をリメイクし、同居人に口述筆記させ、昔ばなしを都合よくリライトしたあの作家は、大衆道徳とは別の水準でも「人間失格」を自認していたかもしれない。
ワープロの普及は「読みづらい速筆」の手書き派をかえって権威づけ、電子辞書の価格低下は「難しい漢字」で擬古文を真似る「文豪コスプレ」を身近な趣味にした。短詩の自動生成やコード・ポエトリーへの愛着は30年以上前からあって、2000年代には物語工学論とキャラクターメーカーが注目された。アプリゲームのシナリオ制作はテンプレート利用とマニュアル化、工程分業が進み、私の知人もシナリオディレクターに昇進したと聞いた。ブログのbot汚染やコメント欄の荒らしも今や懐かしい思い出だ。インプレゾンビと煽り系アスキーアートのウザさは大差ない。
テキスト・コミュニケーションの交通事故との闘いが終息する日はまだ遠いのだろう。自動車の普及を引き金とする「交通戦争」が、おおむね終息するまでに半世紀近くを要したように。
7.
とはいえ、大量投稿騒ぎの慌ただしい報道を受けて、大手サイト運営各社が続々とAIポリシーを制定・改正したからか、ランキングハックで小銭稼ぎを目論む仕手筋もおとなしくなったようだ(ほかの商売のほうが儲かりそうだし)。
低品質なワークスロップが検索結果から消えたあと、文芸創作のサプライチェーンが「AI for Science」(科学研究の省人化)をどこまで後追いするかは、まだ分からない。いまの流行りは、炊飯器レシピと巻き寿司ロボットのあいだくらいなものですからね。「握り」が無人化されても、魚をさばいて下拵えし、シャリに乗せて海苔を巻き、傷まないうちにおいしく食べるのは、まだ人間の仕事だ。
検索スコアの推移を見ると、代わって増えたのは、書き手自身のための即席コンテンツである。「Gemini 夢小説」「Zeta AI」「プリ小説」といった検索キーワードが上昇しているのをご存知だろうか。「小説」という単語の検索スコアに比べれば2%にも満たない数量だけど、チャットアプリでキャラ小説を書いたり、身近な「話し相手」を見つける方法が、秘かに探し求められているわけだ。
LINE「AI FRIEND」のように、ユーザー導線からしてGoogle検索に浮上しづらいサービスも、堅調に利用者を集めているらしい。お題小説や夢小説、なりきりチャットと呼ばれたゼロ年代の地下文化が時代のあだ花で終わらず、新技術にブーストされた新しい著者/読者を生み育てているとしたら? 私たちがフィクション・ライティングに求める社会的役割も変わらざるを得ないように思う。というより、すでに変わったと「知られていない」か、「なかったこと」にされていただけかもね。
8.
では、どのように変わる/変わった/変わらないのか。その答えは観察者の立ち位置と観測範囲、測定手法によって異なる。すでに校正と翻訳の機械化は、初心者から職業専門家まで、幅広いひとの創作を助けている。言葉の選択・配列、構成、編集、吟味・評価の手順化までなら、いまでも十分に実用的だ。家計の余裕に応じて、どのサービスが使いやすいかを好みで決めればいい。では、さらに前工程は? AI支援執筆ツールが職業専門家に広まって、着想、考案、試作、計画、執筆の効率化が進んだら、直近50年ほどかけて私たちが経験してきた「世界文学」の規格化・類型化には、どのような変更圧力がかかるだろうか。
前ぶれっぽい現象は、現代文芸におけるファイン・ダイニング部門の競技シーンで局所的かつ限定的に起きつつある。将来の目印となるべき話題作をふたつ挙げると、近山知史『九段理江に95%AIで小説書いてもらってみた。小説『影の雨』、プロンプト全文公開』(2025、博報堂)と樋口恭介『Executing Init and Fini』(2026、早川書房)の登場を期に、日本語圏の競技文芸シーンにおいて「AI使用」が明示された小説は、作品の内容(Content)だけでは面白がれなくなった。いや、きっと昔からそうだったのだけど、時空を超越した至高で不朽の芸術に憧れた、近代文学者たちの歴史的な理念が、私たちに数世代かけて信じられる夢を見せてくれていたのだ。
最近の私は、現代文芸における諸経験の質が、5区分の階層モデルで生じると考えている。ある表現の内容(Content)だけでなく、その表現が成立した文脈(Context)、明示的に/暗黙に依拠する不文律(Code)、その言語環境における系譜(Coherence)まで考慮したうえで、作者がいつ・どのような状況に働きかけ、どこで・だれから報酬/懲罰(Consequence)を得るつもりなのか計算に入れないと、その表現にぴったりな価値づけは行えず、的外れな論評が幅を利かせたり、過大または過小な評価が起きやすいのだ、と。
(※5区分にしたのは統計的に収まりがよいからでしかなく、各階層の名称や範囲、どの層で何の要素を扱うかはお好みで変えてください。詳しくはこちら)
ありていにいえば、小説家の仕事は「だれもが夢中になれる物語」を書くだけでは済まなくなった。物語の舞台は「作品」や「キャラクター」や「著者名」に留まらなくて、「どこまでも限りなく 降り積もる雪とあなたへの想い」(小室哲哉)みたいに広がった。もはや「何でもいいよ! 小説書けたら送ってみて!」(金原ひとみ)としか言いようのないほどに。
9.
私たちが作品を内容(Content)だけで面白がれなくなると、潜在的には何が起きるだろう。大げさにいえば、1.全人類が全人生を賭けて「最高の世界」を目指す生存競争の始まりだ。この世で書かれ/書かれざるどんな日記も「作品」と見なされ、そうでないあり方は認められなくなる(民主的ではないからね)。
控えめにいっても、2.水平方向の横断・越境を目指す動き――翻訳、翻案、変奏、派生、複合芸術――の交通量はより激しくなって、垂直方向の統合・包摂を目指す動き――普及、啓発、連帯、謀叛、下剋上、革命、救済――も再活性化するだろう。個々の内容(Content)よりも、さらに上位の階層で起きる諸事態の動向と趨勢に注目が集まって、私たち書き手・読み手の主たる生産・消費単位は、大小の抽象化/具体化をのべつ幕なしに経験するだろう。
あるいは、かえって3.内容(Content)の充実だけに諸資源の分布が偏って、別の層でだれが・何をしたところで見向きもされなくなるだろう。書き手/読み手のからだに生じる単位時間あたりの情報量が飽くなき探求と制御の対象となって、快楽の増減と罪責感の明滅が激しい躁鬱のようにくり返されるだろう。
まぁ、どれも机上論に過ぎなくて、本当にそうなのか、何が・どこまで変わるのか、いつまで続くのかには答えられなくて、他愛ない雑談の域を出ないのだけど。少なくとも確からしくいえることは何だろうか。おそらく、とにかく巨大な「世界」をなるべく損ねず「本」に閉じ込められたひとこそが偉大だという「総合小説」の理想は、長篇型の物語作家が最盛期に取り組むべき果敢な挑戦でありつづけるだろう。ただし、大規模言語モデルが「絶対に読み終わらない世界シミュレーション」の底知れなさ/物足りなさを広く世間に知らしめたからには、「個人全集の編纂・刊行」で完結するはずの長々しい物語が、「製本可能性の限界に挑戦」する壮大な物語が、「小説」という語を「世界」そのものの別語と見なす誇大な世界観が、相対的に「ちっぽけなもの」に見えるのは致し方ないのかもしれない。
漢字文化圏における「小説」の語源がそうであるように、あるいは西欧で市民社会の成立以降に普及したというこの文芸様式は、宇宙の神秘や世界の真実、社会のすべてを描いたものとしてではなく、あくまで「だれかさん」が身をもって描いた思い出の似姿として、いわば「ひとのかたちをしたもの」として受けとられてきた。そう考えれば、私たち「書き手」の手仕事は、先人たちの長く曲がりくねった遠回りを経て、かつて「物語」と呼ばれたエピソード・トークの集まりへと原点回帰していくだろうか。ちゃんと調べたら全然そんなことないだろうし、後近代の作家たちも似たようなことを散々やってきた気はするけど。物語集・説話集・拾遺集の歴史に当たってみる意義はありそうだ。
10.
この話はそろそろ打ち切る。十分なデータなしに推論を重ねると現実離れしやすいし、文芸書の市場はフィーリングがものいう世界で、理屈っぽいつぶやきがあまりに続くとげんなりするから――とまで書いて、つづきはAI執筆支援ソフトに入力すれば、それらしい「結論」がいくらでも出力されるだろう。よろしければお気軽にお試しください。
そう書きながら、私はこの投稿のトーン調整について考えている。ユーザーの嗜好に応じたナラティブのスタイルはAIで最適化すればいいけど、私は私なりの下手なことばで書きたくてね。「ことばのお化粧」にこだわる書き手が、最新技術を次々と取り入れながらも、かたや予測入力を裏切ろうとし、自動校正の提案品質にいらだち、自作に低頻度語彙や不規則な文法、異例の分岐を挿し込もうとするのは、ありふれた言葉づかいをダサいと感じるからだ。でも、何のために?
ひとはうつくしく書きたい。みすぼらしく読まれたくない。そして、その労力は惜しみたい。だるいし、つらいし、恥ずかしいから。この相容れない欲望は、将来の文章表現史をどう変えるのか。あらゆる答えはだれにも知り尽くせないとして、いまの私だけでも、自信を持って書けることはなんだろう。
「うるせぇ」という気持ちは忘れずにいたい。
ひとまずはそう書ける。いくらでも書き換えられるとしても。
◆著者プロフィール
笠井 康平(かさい・こうへい)
1988年生まれ。著書に『さみしがりな恋人たちの履歴と送信』『私的なものへの配慮No.3 縮刷・増補版』など。AI小説に関する近作に「AI支援創作と文芸の未来――新しい技術、古い問題、変わらないもの」「生成AIは文芸創作をどう変えるか:小説投稿サイトのAIポリシーに関する分析」「AI小説の何が新しいのか? :実験小説史における位置づけを中心に」がある。
※次回作の公開は2026年6月10日(水)18:00を予定しています。
※本稿の無料公開期間は、2026年6月10日(水)17:59までです。それ以降は有料記事となります。
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