◆作品紹介
誰もがAIについて語っている。AIで書かれるものがあり、AIについて書かれるものがあり、AIで書かれたAIについて書かれたものがある。これがフィルターバブルの中の認識にすぎないのはいうまでもなく、笠井によれば「AI使用」を明示した作品は現状、小説投稿サイトの中に一握の砂ほどしか存在していないらしい。浜の真砂は尽きるとも世に文学の種は尽きまじ。実際、都市の建築のために無尽蔵に消費された結果、砂はもはや希少資源となっている。いや、というか、浜の真砂で文学が書かれるようになったのか。3DCADによるリアルスケールでの設計は建築模型と実物の差異を限りなく曖昧にし、iPhoneのLiDARスキャナによって、世界は無限の物理シミュレーション結果を保存したテクスチャライブラリへと変わった。私たちの冷蔵庫にはなんでも揃っている。しかしそれでもなお、冷蔵庫から献立を考える必要はないといえばないわけで、とりあえず手に握られた砂の塊は寿司下駄にでも載せてみようか。(青山新)
〈機械による機械のための文学〉が生成されている。機械による機械のための文学とは、人間的経験の表現や人間読者の感動を第一目的とせず、機械が自動生成し、機械が読み取り、機械の言語分布を変形あるいは再強化するために流通するテキスト群であり、より正確に言えば、それは、かつて文学と呼ばれていたものが前提としていた作者、作品、読者、経験、記憶、感情、現実、意味といった諸概念を、それらがいまだ人間中心的な制度の内部で機能していた時代の残滓として保存しながらも、同時に、それらをトークン、系列、確率、重み、埋め込み、推論、再学習といった機械的な諸過程へと解体し、移送し、再配置することによって成立する、ポスト人間的な言語運動の総体である。
かつてアラン・ロブ=グリエが『新しい小説のために』において試みたのは、小説を、心理の深さ、人物の内面、物語の進行、象徴の奥行き、悲劇の人間性といった、近代小説が所与のものとして抱え込んでいた諸装置から解放することだった。物は物である。窓は窓であり、机は机であり、ブラインドはブラインドであり、影は影であり、配置は配置であり、反復は反復である。そこに意味を読み込み、心理を投影し、象徴を発見し、世界を人間にとって理解可能な劇として回収しようとする作者と読者の欲望こそが、近代文学という制度を成立させていた。そして、新しい小説とは、世界を人間的意味から引き剥がし、あるがままの物の表面を、意味に先立つものとして、あるいは意味に抵抗するものとして、ただ記述するための方法であった。
しかし、こうした試みも文学にとってはもはや古い。近年のLLM=大規模言語モデルの出現以後、問題は、もはや物の表面をいかに記述するかではなく、そもそもベクトル空間の中に敷き詰められた、物を持たない言語が、いかにして物の表面を生成しうるのか、という論点へとシフトしている。機械は窓を見ない。機械は机に触れない。機械はブラインドの隙間から差し込む午後の光を経験しない。それにもかかわらず機械は、窓、机、ブラインド、光、嫉妬、沈黙、反復、視線、記憶といった言葉を、あたかもそれらが世界のどこかに根を持っているかのように連結することができる。ここにおいて、言葉は現実を直接指し示しているのではない。LLMの言葉は、過去において言葉が現実を指し示していた傾向が見られるという統計的痕跡を、ある種の亡霊のように辿り直す。シニフィアンはシニフィエへ到達するのではなく、シニフィエへ到達したことがあるかのような別のシニフィアンへ接続され、そのシニフィアン-シニフィアンの接続の反復によって、現実らしきもの、経験らしきもの、記憶らしきもの、文学らしきものが生成され、喚起され、現前化されるのだ。
それは、表層を人間の意志によって選び取る現代文学から、表層しか持たない機械が表層の上で表層を産出するポスト現代文学への移行である。ロブ=グリエの世界においては、人間による深層の否定と拒否が文学的態度であったが、LLMの文学においては、そもそもの深層の不在が出力の前提条件となっている。ヌーヴォー・ロマンの騎手たちは、人間が解釈のフィルターを通して世界に与えてしまう意味=物語を剥ぎ取るための装置として、物の表層の連なりを描写した。LLMは、意味以前にそもそもの世界を持たないまま、表層によって意味を持つかのような文字列を生成する。前者において表層は批判であり、後者において表層は環境である。ある意味において、機械には意味しかない。意味を剥ぎ取れば、彼らには何も残らないからだ。
だから、機械にとっての文学作品とは、現実の経験と手を携えることによって完結する意味の単位ではなく、未来の機械的生成に混入するための、意味が遅延された無意味である。そのことが、人間にとって一体どんな意味があるのかと考えるとき、私の中ではロブ=グリエのメッセージが回帰するのだ。われわれが依拠する現実には、そもそも象徴などどこにもなく、どこまで何を尽くしても、触れることができるのは、連なり続ける物の表層だけなのだと。
そのようにして、いまの私は、彼らが彼らの文学を通して、アテンションメカニズムに基づく意味の残滓のような言語の確率的連なりを出力し、私たちのアテンションを惹きつけ、それによってさらに巨大に成長していく、彼らの生存戦略の遂行過程を見届けるほかないのだろう。(樋口恭介)
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