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眞山大知「床男」

眞山大知「床男」

◆作品紹介

人間は顔で社会に接続する。だが、世界に接地しているのは顔ではない。足裏である。もしも人が足裏になれたなら、足裏という環世界では、電車、会社、ラブホテル、ファミマ、図書館、鶴見の街そのものが、巨大な接地面のネットワークとして認識されるだろう。それが人の生に救いをもたらすかどうかは別として。本作は足裏小説であり、弱者男性小説であり、会社員小説であり、同人作家小説であり、最終的には「人間であることに疲れた者が、いかにして存在論的に床になることができるか」を描いた、かなりまっすぐでゆえに普遍的な実存主義文学である。足裏というキャンバスは「人生が描きこまれる場所」であり、嘘をつくことができる顔という社会的インターフェースにはない事実の強さがそこには宿る。(編・樋口恭介)

以下、記事の本文です。

眠剤が切れて三日経つ。

休みの日も寝ることができず、ベッドで横たわりながら、ワンルームの部屋の虚空を見つめていた。

窓の向こう、第二京浜の方向から音の割れた軍歌が流れてきた。そして軍歌にかぶせるようにジジイの声がして独演会が始まる。妙にイケボなのが癪に障る。ジジイのイケボなどで耳を孕みとうない。

ジジイは語りだす。八紘一宇。闇の政府を倒せるのは天皇陛下だけ。いまこそ日本の力を。俺の頭は激しく痛みだした。なにか酒でも飲もうかと思ったが、まず先に図書館に本を返さなければいけなかったし、予定もある。デリヘル嬢に会いに行くという大事な用事が。

俺はベッドから起き上がり、台所のシンクに置きっぱなしのコップを取った。水を飲む。蛇口の水はひたすらぬるかった。

いつ買ったかも忘れた小汚いスニーカーを履き、玄関を出る。

たまたまアパートの廊下には、隣の部屋の男が歩いていた。髪は寝癖で跳ね、顔は青白く、ジャージ姿で、手にはファミマの袋を持っていた。

不眠の原因の半分は、こいつが夜中に吐き出すシャウトだった。敵が見えた。詰めろ。死ね。殺す。死ね。ふざけんな。コンプライアンスがうるさい現代社会だとめったに聞けない言葉をこいつは毎晩垂れ流す。文句を言ってやりたかったが男の目つきは殺気立っている。そそくさと俺は階段を下りることにした。

細くのたくった坂を下りて、第二京浜へ出る。国道一号線といえばいいのに、なぜかここらへんの人間は第二京浜と呼ぶ。

トレーラーが行きかうその道は男たちの楽園だった。少し行けばパチンコ屋やエロDVD屋の看板が嫌でも目につき、平日の昼間は駐車場に仕事をサボるサラリーマンがプロボックスを停めている。それらの近く、鶴見川沿いのスパ銭へ行ったときは、道端の茂みには妊娠検査薬の細長いピンクの棒が落ちていた。

……午前十時を少し回ったばかりだった。信号を渡った先、ブラジル料理屋の換気扇から肉の脂が垂れるような匂いが垂れ流され、フィリピンパブの看板は昼の光の下では場違いなほどけばけばしかった。

フィリピンパブはむかし、会社の忘年会の三次会で行ったことがある。月曜から金曜まで川崎駅前の産業機械の商社で働き、朝にタイムカードを打ち、朝礼で頷き、資料を作り、上司の曖昧な指示ででたらめな図表を載せる。会議室の白い壁、プロジェクターの青白い光、誰も最後まで読まない議事録。遅刻はしない。期限も守る。エクセルのセルを結合しすぎる奴を心底軽蔑するが、口には出さない。昼休みは近所のファミマでおにぎりを買って、事務所に戻り、職場の人間が話す、住宅ローンと子供の習い事と新車の納期の話、つまり小市民的な幸福の垂れ流しに、へえ、そうなんですね、と柔らかい声で対応する。

だが休みの日まで社会人を演じる必要はない。ポケットの中でスマホが震えた。規則的で、しつこい。通知を切り忘れていたらしい。取り出して画面を見ると、同人仲間の名前の隣に、数十件の未読が通知されていた。

ハンドルネームは弱虫水虫。本名は知らない。イベントでは何度か会っている。会うたびに足裏についてスピリチュアルなことを言う男で、いつも黒いジャージにサンダルを履き、冬でも靴下を履かない。なぜかとイベントの打ち上げのときに鳥貴族で飲みながら理由を聞いたら「足裏が呼吸できなくなるだろ?」と真顔で返していた。

〈起きてる?〉

〈起きてるよな〉

〈いま駅前にいる〉

〈鳩が大乱闘している〉

〈鳩の足ってさ〉

〈あいつら地球を雑に踏みすぎじゃない? 地球に踏ませていただいているくせにさ〉

俺は歩きながら、画面をスワイプする。あいつは酔っぱらうたびに、こんな奇怪な文章を送る。

未読のメッセージはまだ続いていた。

〈昨日コンビニで立ち読みしてたら急にわかった〉

〈足裏は常に監視されているんだよ〉

〈靴下、靴、家の床、道路、改札、電車の床、オフィスの床〉

〈全部、俺たちの足裏をじっくり見て管理しているんだよ〉

〈足裏なんだよ。マイナンバーどころの騒ぎじゃない。俺たちの足裏には番号がついていて、政府が管理しているんだ〉

頭の痛みが少し強くなった気がした。

既読をつける気にならず、画面を消した。ポケットに戻す。震えは止まない。連投が続いているらしい。弱虫水虫がいくら日曜とはいえこんな朝っぱらから飲んでいることに、ほんのわずかに心配になる。

坂の下からトレーラーが押し寄せてくる。遠くでまた軍歌が聞こえた。

俺は足を止めない。鶴見図書館へ向かうには、いちど曹洞宗の大本山の脇を通る必要がある。

坂を下りた先、総持寺の鬱蒼と茂る森はいつ見ても無駄に立派だった。

腹が立つ。ただ立派にそこに立っているだけで腹が立つ。俺みたいな弱者男性は、ただ立派であるというだけで平気で何かを恨める。ただ存在しているだけであいつらは尊ばれるからだ。上司から「大田くん、いいかげん大人になってよ」と言われることもない。枝は枝を伸ばし、葉は葉を広げ、根をペニスのように地面と、つまり地球へさしこんでいる。あれが許されるなら俺も木になりたかった。石畳を踏むたび、その硬さがスニーカー越しに伝わる。

足裏は正直だ。痛ければ痛いと感じてくれる。嘘をつけない。長さと幅のバランス、足の指の長さ、指と指の間の広がりにできた静謐と緊迫、かかとの角質、土踏まずの凹み、体重がどこにかかっているか。何を踏んできたか。どう立ってきたか。どう歩いたか、またはどう歩かされたのか。人生がすべて描きこまれている。……だから俺は夜ごと液晶タブレットに向かって、女の子の足裏ばかり描いている。顔は最後でいい。あんな嘘つきの器官なんて描くに値しないが、描かなければのっぺらぼうになってしまうのでさすがに仕方なく描く。かつて弱虫水虫がこう言っていたのを思いだす。人間は顔で生きるように思っているが、実際には足裏が世界と対峙している。人間は誰もが社会では役者なのだから、顔なんていうのは演技の達人だ。申し訳ありません、確認します、承知しました、なるほど、そうなんですね。そんな定型文を吐き出しながら、社会的にまっとうな顔をしながら、TPOをわきまえて顔の筋肉を上げ下げする。たったそれだけで、社会からまともで立派な人間だと勝手に判断される。

目も口も髪も後回しでいい。足裏さえ本物ならキャラは勝手に立ってくる。逆に足裏が偽物なら、どんな美少女を描いても印刷代が無駄になる。

そんなものに俺の人生を捧げたくなかった。

図書館の自動ドアが開くと、返却カウンターにはいつもの司書がいた。目の奥に感情のスイッチが見当たらず、事務作業を究めた女の顔をしていた。名札には三枝と書かれている。

「返却ですね」

「はい」

三枝は、俺が差し出した本を一冊ずつバーコードに通した。谷崎潤一郎、バタイユ、足病学の入門書。自分で借りておいて何だが、並ぶと最悪だった。

「延滞はありません」

「すみません」

「いえ」

三枝はそこで一瞬だけ手を止めた。俺の顔ではなく、俺のスニーカーを見た気がした。気のせいかもしれない。眠剤が切れて寝られなくなると、どんな些細なことからも悪意を読み取ってしまう。

「再来週の日曜ですが、おとなのための鶴見の歴史講座というイベントを行います」

「はあ」

「前回、郷土史の棚をご覧になっていたので」

俺は「考えておきます」と言って、借りる予定もなかった別の足病学の本を一冊借りた。何をしているのだろう。国家資格の勉強でもしているなら立派だが、俺はただ女の子の足裏をより正確に描きたいだけだった。知性の使い方として間違っている。

外へ出ると、街宣車の声がまた遠くから聞こえる。軍歌の音はあたりを走る佐川のトラックの音に消された。

総持寺の山門の脇でスマホを見た。弱虫水虫の未読件数はまた増えていた。

俺は返信せず、画面を閉じた。

弱虫水虫の言うことはいつも八割が気持ち悪く、二割が正しい。

自分の漫画が売れていないことは知っている。

弱虫水虫との出会いは去年の冬コミだった。ビッグサイトの馬鹿でかく無機質なホールで、島中の机に座り、印刷所の段ボール箱を足元に置き、通路を流れる人間の膝から下ばかり見ていると、売れていない作家には独特の時間が流れる。隣のサークルの新刊は開始一時間で半分なくなり、俺の本は十冊も動かない。表紙の女の子はそれなりに可愛く描けているはずだった。煽り文も入れた。流行りの構図も真似た。だが、立ち止まる人間は少ない。たまに手に取った読者も、数ページめくって戻す。物語が弱いのだろう。キャラが薄いのだろう。エロの導線が下手なのだろう。そう考えていた。

だが弱虫水虫だけは毎回買った。買って、足裏のページだけを開き、そこを熱心にじっと読むと熱く語る。

「ここ、いいんですよ。この足裏、縦と横の比率がすばらしくて、ギリシャ型の足裏だ。けど、これは没落貴族の足裏だ。みじめさも出ている。こんな精巧な足裏を描ける人、あんまりいないですよ。だいたい、いまの日本の絵描きにはろくに足裏を描けない。みんなたんなる体のパーツになるんですよ。でも大田さんのは違う。足裏に人生がある。床へのルサンチマンがある」

「ルサンチマンって? 社会へのルサンチマンなら聞きますが、足裏が床へ恨みなんて持つんですか?」と聞くと、弱虫水虫は目を見開いて話す。

「足裏は踏む側でもあり、踏まされてる側ですから。靴下に包まされ、靴に閉じこめられて、床に接触させられて、体重をかけられ、酷使される。床や地面みたいな汚いものを踏みつけている。そりゃ、ルサンチマンがたまりますよ。そこが描けている」

何を言っているのかわからなかったが、やっと救われた気がした。熱心なファンがついたからではなく、自分がうすうす思っていたことを言い当ててくれたことで救われた。

俺の絵の価値は物語でもキャラクターでもなく、足裏にある。

 

 

 

 

ファミマで少々買い物した後、ホテルに着いた。

部屋に着いて、少し水を飲む。電話をかけてしばらくすると、デリヘル嬢がやってきた。

あんなと会うのは三回目だった。写真より少し眠そうな顔をした女だった。化粧は濃くない。声も高くない。あんなは部屋に入ると、俺が何か言う前に靴を脱ぎ、洗面所で足を洗った。足の臭いが気になるから、サービスの開始前に足だけ先に洗いたいのだという。慣れているのだと思った。俺だけの異常だと思っていたものを、金を払いさえすれば、店のブランドに沿った形で現実化してくれる。

「今日は触る系?」

あんなはタオルで足を拭きながら、こちらを見ずに言った。

「いや、見ます」

「見るだけ?」

「あと、踏んでもらいます」

「どこを?」

俺はファミマの袋をテーブルに置いた。中身はポテトチップス、クリームパン、プリン、唐揚げ棒、安いシュークリーム。腹を空かせた部活帰りの中学生がコンビニで買うようなチョイスだった。

「これを」

あんなは袋の中を見て、少しだけ眉を上げた。驚きもせず笑いもしない。そこがよかった。

「食べ物を粗末にする系?」

「すみません」

「謝るならやめればいいのに」

「そうですね」

「やめないんだ」

「はい」

あんなはそれ以上聞かなかった。

料金を払った後、俺はかばんから、家から持ってきたビニールシートを取り出し、床に敷いた。シャワーは浴びなかったし、あんなも浴びなかった。どうせ、やることは足で遊ぶことぐらいだった。シャワーなんて必要なかった。

あんなはビニールシートの上に立った。エジプト型、親指が一番長いタイプの、平凡な形。全体的に色は濃くくすんでいて、形状はしまりがない。足の指は長く、薄いピンクのネイルがつけられていた。モデルみたいな足ではない。生活している足だった。かかとは若干ひび割れて、小さなタコもあった。あんなはまだ二十歳だった。足だけ見ればアラサーと言ってもよいほど老けていて、あんなの人生の苦労と闇がそこはかとなく感じ取れる。

「まずなにから?」

「ポテトチップスでお願いします」

俺はポテトチップスの袋を開け、中身をシートにばらまいた。薄い芋の欠片がばらばらと落ちた。

あんなは右足を上げた。俺は息を止めた。足裏が降りる。ぱき、と乾いた音がした。ポテトチップスが割れ、油と塩と一緒に、あんなの土踏まずに付着する。もう一度、あんなはポテトチップスの山に体重をかけた。

ぱきぱきぱきぱき。食品が食品であることをやめる音。袋に印刷されたキャッチコピーどおりなら、『噛むたびに、北海道の大地を感じさせる』ポテトチップスが、足裏の下で粉になった。北海道の大地なんて、なにからも感じなかった。

そして驚くことに俺は勃起していなかった。

うるさかった街宣車も、ゲーマーの声も、平日は会社で延々と聞かされる上司の曖昧な指示も、弱虫水虫の連投も、全部が遠くなっていた。ポテトチップスは役割を終えた。食べられることすら拒否され、踏まれ、粉になり、床に這いつくばる。……羨ましかった。食べ物ですら足裏に踏まれれば食べ物をやめられる。では、なぜ俺は人間を続けなければならないのか?

「次、これ?」

あんなが足でクリームパンをつっつく。

「はい」

彼女はクリームパンを置き、左足で踏んだ。最初は抵抗があった。パンの生地が足裏を押し返す。だが体重が乗ると、あっけなく潰れた。中のクリームが横から漏れた。むかしのスプラッターな時代劇で、切腹した武士の腹から腸がはみでたシーンのように、黄色いクリームはだらしなくシートへ広がった。あんなはさらに体重をかける。指の間からクリームが湧き出て、足の甲に出てくる。

あんなは足裏をクリームパンから離して、見せびらかした。クリームがべったりついた足裏。だらりとクリームが垂れ下がろうとしているが、なかなか落ちてくれない。俺はそれを見ながら、頭の中で絵を描こうとした。だがあんなの足裏を線にした瞬間、それは美しくなってしまう気がした。現実の足裏はもっとだらしなく、もっと疲れていて、もっと逃げ場がない。つまり、ひとりの人間のそれまで生きてきた生涯すべてを表している。俺が描くのは、はたして傲慢ではないだろうか?

「ねえ」

あんなが言った。

「はい」

「あなた、踏まれたいわけじゃないよね」

俺は返事をしなかった。

「踏みたいわけでもない。足フェチっていうより、なんか違う」

「違いますか」

「違うと思う」

あんなはプリンの蓋を剥がし、シートに伏せた。容器から出たプリンはすぐに自重で震えた。彼女はそれを足の指でつついた。黄色い肉がだらしなく揺れる。

「あなた、床になりたいんじゃないの」

床になりたい。

俺はその言葉を知らなかっただけだった。その言葉は、軍歌よりも正確に俺の耳穴へ入り、ジジイの妄想日本史よりも深く、弱虫水虫の足裏国家論よりもまっすぐに、俺の脳の奥に届いた。

床になりたい。俺は反論しようとした。違う。俺はただ足で食べ物を踏みつぶすところが見たかったんだ。絵の資料として。ストレス発散として。性欲を満たすため。社会に迷惑をかけない範囲内で。

そう言おうとしたがあんなが俺の前に足裏をさしだす。

「舐める? オプション料金が発生するけど」

俺はおそるおそる舌をさしだし、足裏を舐めた。クリームとポテトチップスが混ざって、甘くてしょっぱかった。

「たしか前に言っていたよね。足裏から人生が見えるって」

「言いましたよ」

「もうちょっと自分の足裏について考えたら?」

あんなはいたずらっ子のように無邪気に笑い出すと、クリームがべったりついた足裏を俺の顔面に押しつけた。

 

 

 

家路につく。鶴見の坂を上りながら考えた。平日は会社へ行く。鶴見から川崎へ出て、駅前の商社のオフィスへ向かう。エレベーターの床に乗り、廊下の床を歩き、会議室の床に座るわけではないが、椅子の下で足裏は靴を介してずっと床を踏んでいる。昼休みにはファミマのピカピカな真っ白い床を歩き、夜には帰宅して部屋の床を踏みながら漫画を描き、イベントではビッグサイトの床を歩き、ホテルでは風俗嬢の足裏を見る。いまの自分の人生は、すべて足裏を経由している。

なのに俺は、自分の足裏をまともに見たことがなかったし、ましてや考えてもみなかった。

アパートに帰り、夜、風呂場で片足を持ち上げてまじまじと見た。

あんなが足裏について考えろと言った理由は一瞬で理解できた……惨めな足裏だった。社畜の足裏。陰キャの足裏。社会的な男としても、生物学的なオスとしても、何の需要もない人間の足。踵はひび割れ、不格好で、ところどころ硬い皮ができていた。小指は靴の形に負けて変形し、ひん曲がっている。

俺の人生そのものだった。上司になにひとつ意見が言えない、出世が遅れたサラリーマン。同僚が撒き散らす幸福なプライベートの話に愛想笑いし、売れない漫画を描き、デリヘル嬢の足を見ている情けない男の、言い訳のできない敗北。吐き気がした。

 

 

 

 

それから不眠はさらに悪化した。会社を早退して心療内科で眠剤を処方してもらったものの、あまり効果がない。上司は会議のあと、俺の顔を見て「大田くん、最近ちょっと疲れてる?」と言った。疲れている人間に疲れているか聞いても無駄なのに。炎天下の街を歩いて汗で蒸れた足に向かって臭いますねと言うようなものだ。俺は「大丈夫です」と答えた。上司は安心した顔をした。

夜、部屋に戻ると、隣のゲーマーが叫んでいた。

「詰めろ! そこ詰めろ! 死ね! 死ね!」

俺は液晶タブレットを起動した。描きかけの漫画が表示される。女が主人公の顔面へ足を見せびらかす絵だった。男の顔はまだ描いていない。女の顔も描いていないが、あんなの顔を描くつもりだった。足裏だけはこだわりをもって描きこんでいる。親指の皺、踵の丸み、土踏まずの影。あんなの足を徹底的に描写した。

だが、何かが違う。何度描き直しても、あんなの人生が描ききれていない。いま描いている足は、平凡な人生を歩んだ平凡な女の足裏だ。ただのうまい絵だ。最悪だ。上手いだけの絵なんて、俺も弱虫水虫も望んでないし、本物のあんなの足裏も望んでないだろう。

線を消し、描き直す。消す。描く。消す。描く。指の腹を少し沈ませる。違う。踵をもうすこし円状に描く。違う。土踏まずの影を濃くする。違う。違う。違う。画面の光で目が乾く。頭痛がする。眠剤のない脳が、頭蓋骨の内側を爪で引っかいている。隣から壁越しにまた「エイムがクソだな!」と叫び声がする。今年は業績がよくひさしぶりにボーナスが出るかもしれない。もしボーナスが入金されたらさっさと引っ越してやる。第二京浜からバイクのブリブリとした走行音が幾重にも重なって聞こえだす。スマホが震える。弱虫水虫だろう。国家が足裏を管理しているのかもしれない。管理されているのは俺のほうだ。会社に、薬に、睡眠に、性癖に、足裏に。

そのとき、画面の中から声がした。

「全然ダメ」

俺はペンを止めた。

隣の声ではない。第二京浜からでもない。スマホでもない。液晶タブレットのスピーカーからでもない。画面の中、描きかけの足裏の、親指の付け根あたりから聞こえた。

「君はまだ、わたしを上から見ている」

ついにおかしくなったのだ。足裏が話しかけてくるなんて。

「誰だ、お前」と聞く。

「裏側」

「何の」

「君の描く足だよ」

「まったく意味がわからない」

「だからダメなんだ。君の描く足裏はいつも見られるためにある。足フェチの変態どもを興奮させるためにある。本当の足裏のように、大地を、地球を踏みしめるためでなく」

「黙れ」

「嫌だね。黙って自分を偽るのは顔のやることさ。足裏の美徳は正直なことだから」

俺は絵のデータを保存せずに、タブレットの電源ボタンを長押しした。画面が暗くなる。部屋の照明を反射して、黒い板になった液晶に俺の顔が映った。ひどい顔だった。

隣室でゲーマーが叫んだ。

「敵が見えた!」

俺は暗い液晶に映る自分を見つめた。敵ならたしかにタブレットのなかにはっきりと見える。

心療内科で相談したところでオチは見えている。生活習慣を整えましょう。朝日を浴びましょう。まだ眠れないならお薬をだしときますね。そういう健康な言葉が全部まとめて足裏が踏み潰す。足裏の指示は的確だった。すくなくとも、会社の、きちんと学校へ通えたかさえ疑問符が付く上司や、パソコンの画面ばかり見て薬を機械的に出す心療内科の医者よりは、はるかに。

俺は足裏の指示にしたがいペンを走らせる。

女が、寝転がっている男の顔を踏む絵だったはずだ。だが、絵を完成させたときに気づいた。女の、地面についているほうの足は、どう考えても、男の首の真上にある。当然、こんな絵は成立しない。

……いや、待てよ。この絵で男は本当に寝転がっているのだろうか? いや、男は、床になっているのかもしれない。あんなの言葉を思いだす。床になりたい。人間の身体を辞めて、足裏の下で、人間の尊厳を失い、無機物である床に同一化する。そしてそれはまんざらでもなかった。足裏に相談すると「ようやくわかったか、このポンコツが!」と吐き捨て、それから二度と喋ることはなかった。

俺はその絵をSNSに上げた。どうせ十数いいねだろうと思った。寝ようとした。眠れなかった。隣室からはゲーマーの声がしていた。

「見えた! そこ! そこいる!」

スマホが震えた。通知が増えていた。いつもより多い。いいね、リポスト、知らないアカウントからの引用。

〈足裏の圧がやばい〉

〈肉感が異常〉

〈え、これって女がもう片方の足で首絞めしてるってこと? 怖っ〉

〈この人、前から足裏だけ上手かったけどこの絵は、なんか恐怖を感じる〉

変。そうだろうな。俺もそう思う。

弱虫水虫からも来ていた。

〈大田さん〉

〈来ましたね〉

〈ついに来ましたね〉

〈おめでとうございます〉

〈あれ、上から描いてない。床が見てる絵になってる〉

俺はその文面を見て、手が少し冷えた。あの声と同じことを言っている。

〈大田さん、金曜の夜空いてます? ひさしぶりにうちに来ませんか? 話したいです〉

俺は「退勤がいつになるかわからないけど、それなら」とだけ返した。

すぐに既読がついた。

〈裸足で待ってます〉

返事をしたことを後悔した。

 

 

 

 

弱虫水虫の部屋は洗足にあった。

足がつく地名だから、という理由らしい。以前は代田に住んでいたという。代田には、だいだらぼっちの足跡の伝説があるのだと、いつか鳥貴族で聞かされた。俺は焼き鳥の皿に落ちたタレを見ながら、こいつはそのうちなにか巨大な足に踏まれて死ぬのではないかと酔ってぼんやりした頭で思った。

駅から遠い古いマンションだった。

外階段を上る。コンクリートの隅に雨の染みが黒く残り、踊り場には電子タバコの甘ったるい匂いが澱んでいた。ミントと果物と唾液を足して、薄めたような匂いだった。

三階の部屋の前に立つと、ドアの下から妙に清潔な空気が漏れていた。

変態の部屋は汚いというのは偏見である。変態は意外と清潔だ。異常性癖にストイックな分、自分の周囲の世界すらも整然とした完璧なものに変えたがる。変態が社会に適応しづらいのは、彼らが怠惰だからでなく、周囲と軋轢を生むほどストイックだからだ。

インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。

「お疲れさまです」

弱虫水虫は黒いジャージ姿だった。やはり裸足だった。足の爪は気味が悪いほど短く切り揃えられ、足の甲にはサンダル焼けの跡が残っていた。

「靴、そこに。揃えないでください」

「は?」

「揃えると社会性が出るので」

もう帰りたい。だが部屋に入った瞬間、その帰りたい気持ちは、喉の奥で変な形に折れた。

壁一面に、足裏があった。

正確には足裏そのものではない。成年漫画のコピー。アニメのキャプチャ。靴底の拓本。雨の日の駅構内に残った足跡の写真。学校指定の上履き。安全靴。パンプス。横断歩道。改札の足元。満員電車の床に並んだ靴。道路工事の現場写真。都市計画の本の切り抜き。監視カメラの配置図。コンビニの白い床に残った泥の跡。

気持ち悪い。気持ち悪いが整っている。壁の資料は種類ごとに分類され、付箋が貼られ、日付まで書かれていた。狂気がファイリングされている。ここはオフィスかと思った。地獄のオフィスだった。

「座ってください。椅子じゃなくて床で」

「なんで」

「床の話なので」

俺はフローリングに座った。弱虫水虫は向かいに正座する。膝の上に両手を置いていた。教祖というより、入信したての信者だった。教祖は壁に貼られた足裏たちだ。

「見ました。新しい絵」

「どうも」

「よかったです」

「ありがとうございます」

「でも、まだ逃げてますね。隠していることがあるんでしょう?」

俺は黙った。

弱虫水虫は、壁から一枚のコピーを剥がした。俺の絵だった。SNSに上げたあの絵だった。女の足裏が、画面の手前に迫っている。寝転がっているはずの男の顔は見えない。見えないというより、床に溶けているように見える。自分で描いた絵なのに友人の部屋の壁に貼られていると気恥ずかしい。

「ここです」

弱虫水虫は、女の足ではなく、その下の何も描かれていない床の方向を指さした。

「ここが、見てる」

俺は返事ができなかった。

「大田さん、足裏を見てるんじゃないです。もう床のほうから見てる。なのに、まだ絵として成立させようとしてる。顔とか、構図とか、キャラとか、読者とか。そういうの、邪魔です」

「邪魔ですか」

「邪魔です」

弱虫水虫はそれだけ言った。いつものような長い足裏陰謀論は始まらなかった。拍子抜けした。いや、助かったのかもしれない。

弱虫水虫はしばらく黙り、正座を崩すと胡坐をかいた。ただそれだけのことなのに、俺は目を逸らせなかった。指の腹が軽く沈んでいる。踵の皮が乾いて白くなっている。親指の爪は血色が悪く、やや薄黒い。死相が出ていると思った。足に人相みたいなものがあればだが。

「足裏だけ描いたらいいと思います」

弱虫水虫は言った。

「顔も、身体も、話も、要らないです。足裏だけで、たぶん行けます」

行ける。行けるってどこへ? イベントの壁サー? 電子販売のランキング? フォロワー数の桁が変わる場所か。委託書店から追加納品のメールが来る場所か。タグをつけ、説明文を整え、サンプルを切り、プラットフォームに手数料を抜かれながら、性癖を小分けにして売る、あの場所か。

弱虫水虫は俺を見ていた。こいつは俺のことを理解しているようで、していない。こいつは足裏を掲げている。足裏で社会を読み、制度を暴き、市場を抜け、信者を増やそうとしている。足裏を神輿にして担いでいる。担ぎ手として狂っている。

だが俺は担ぎたいのではない。担がれたいのでもない。神輿を担ぐ、担ぎ手たちの踏む地面になりたい。そこなら、いくらでも足裏を見ることができる。祭りのあと、誰にも見られず、熱気と汗と酒とゲロを吸って恍惚にふける、夜明けのアスファルトになりたい。

「大田さん?」

「いや」

「どうしました?」

「ちょっと、眠くて」

嘘だった。眠気など、とっくに死んでいる。

ふと壁の資料の中に、ひとつだけ妙なものがあるのに気づいた。灰色の紙だった。古いコピーで、足裏の絵でも写真でもない。道路の断面図のように見えた。地面の下に、配管があり、ケーブルがあり、古い地層があり、さらにその下に、黒く塗りつぶされた空間がある。

「これ、なんですか」

俺が聞くと、弱虫水虫は一瞬だけ口を閉じた。

「ああ、それは」

彼はその紙を壁から外さなかった。

「鶴見のほうで見つけた資料です。図書館の郷土史の棚にあったのでコピーしました。大田さん、鶴見でしたよね」

「そうですが」

「なら、図書館で見たほうがいいです」

また始まった、と思った。

だがその紙の黒い部分から目が離せなかった。……地面の底に黒い空洞がある。空洞というより、何かの口に見えた。大きすぎる口。街そのものを、下から舐めまわそうと、いまにも舌を出そうとする口。

図書館の講座に出ようと思った。申し込みの締め切りはたしか開催一週間前、つまり明後日の十七時までだったはずだ。

「ほら、大田さん。この空洞って、鶴見に向かって大きく開いた口じゃないですか。この口は、鶴見中の足裏を舐めたがっているんですよ」

弱虫水虫は笑った。俺は、こんなやつと考えることが同じだということに笑えなかった。

帰り道、洗足の住宅街は静かだった。夜のアスファルトは黒く、ところどころ街灯の光を受けて湿ったように光る。

駅へ向かう途中、スーツ姿の男がひとり、こちらへ歩いてきた。革靴の底が、規則正しく歩道を叩いている。かつ、かつ、かつ。顔は見なかった。見る必要がなかった。足音だけで十分だった。仕事帰りの男。疲れているが、帰れば、リビングには奥さんと二人ぐらいの子どもがいて、冷蔵庫にはキンキンに冷えたビールがある男。三十五年の住宅ローンを抱えていて、もう独身時代のように好き勝手はできないが、小市民的幸せに浸ってそのまま老いて枯れて死ぬ、幸福な男。……決して床になりたいとは思わない男。

交差点の信号は赤だった。俺とそいつは横断歩道の手前で立っていた。俺の横、男の靴と、ビジネスソックスの隙間から、くぐもった声が聞こえた。

俺は立ち止まる。気のせいだ。眠れていないだけだ。弱虫水虫の部屋の空気を吸ったから、頭がおかしくなったんだ。

だが足元から、かすかに声がした。

「今日も来てくれたね」

イケボだった。鶴見で軍歌を垂れ流しながら演説するジジイとは違って、若い男のイケボだった。足元には男の靴がある。そして男の隣には、仕事帰りだろう、パンツスーツを着た女がいた。見た目は新卒二年目ぐらいの女だった。

男の足裏から放たれた声は、クラブで姫をかわいがるホストを連想させた。

女の足裏は、「聞いてくださいよ、わたし、職場でこんなことがあったんです」と甘ったるい口調で愚痴を吐きだす。

俺はついに人間の足裏の声を聞いてしまった。

電車に乗ると、足裏はもっと騒がしかった。吊革につかまる人間たちの靴。革靴。パンプス。スニーカー。ローファー。踵の削れたブーツ。子供の光る靴。誰もが無言でスマホを見ている。顔は死んでいる。だが足元だけは忙しい。揺れに合わせて体重を逃がし、踏ん張り、ぶつかり、謝らず、譲らず、床に命令している。

「しっかり支えろ!」

「金払わねえぞ」

「適当な運転しやがって」

床はただ沈黙していた。俺は電車の床を見つめながら、たくさんの足裏の罵声を聞いて吐きそうになった。吐けばよかった。吐けば、床はそれも受けとめる。人間は汚いと言う。清掃員が来る。モップで拭く。消毒する。だが床は黙る。足跡も、汗も、雨水も、吐瀉物も、弁当の汁も、誰かの落とした髪の毛もすべて受け止めて、黙る。

 

 

 

 

土日で俺の絵はさらにバズった。一万リポストは初めてだった。眠剤を飲まなくてもひさしぶりに眠気が来た。しかし結局目をつむっても寝ることができず、眠剤を飲む羽目になった。

休み明け、会社では、足元ばかり見るようになった。

会議室の白い壁。プロジェクターの青白い光。誰も最後まで読まない資料。誰も責任を取らない議事録。

「大田くん、ここはさ、まあいい感じにまとめておいてよ。なる早でお願い」

定例会議のあと、課長の松野がいつもの調子で言うと、隣の課の課長と川崎駅前のキャバクラ品評会をはじめた。取引先への接待は社運をかけた大仕事で、しくじるわけにいかない。取引先のお偉いさんのタイプの女や性癖を忖度して、キャバクラへ連れていく。取引が成立するなら多少高くていい酒を飲ませる必要がある。キャバクラの質を常にチェックするのは管理職にとって重要な仕事のひとつである。

松野は悪人ではない。

悪人ではない人間が、いちばん面倒くさい。悪意がないから責任もない。責任がないから改善もない。ときおり大企業と取引するとわかるが、大企業では上司の太鼓持ちするだけでは絶対に出世できない。だが、俺のいるような中小企業だと太鼓持ちだけで課長や、はたまた役員にすらなることもよくある。

普段なら俺は松野の顔を見ていた。

眉の角度。口元の緩み。機嫌。会議後に余計な仕事を振られるかどうか、上司が「ちょっといい?」と言った瞬間に、残業時間を高速で見積もること。仕事で死にたくなければ、会社員の社内資格にしたほうがいい。

だがその日は、革靴を見ていた。右の踵が片減りしている。体重を右へ逃がす癖がある。つま先だけは磨かれているが、側面には細かい傷がある。見える場所だけ整え、見えにくい場所は放ってある靴だった。

松野そのものだった。

「聞いてる?」

「あ、はい。承知しました」

「頼むよ。大田くんはさ、ちゃんとしてるから」

この俺がちゃんとしている? 足裏の絵を描いて万バズする俺が? 人を見る目がねえなと心の中で中指を立てる。

松野が会議室を出ていく。革靴の底が床を叩く。軽い音だった。重みがない。責任の乗っていない足音だった。そりゃそうだ。松野は子どもが三人もいるくせに、足裏はひたすらうんことかちんちんなんて叫んでいた。コロコロコミックを読んでゲラゲラ笑う小学生レベルで成長が止まっていた。

足裏は嘘をつけない。嘘をつくのは顔の仕事だ。

オフィスに戻る途中、トイレに行く。

小便器の前に立つと隣から「大田さん」と呼ばれた。

入社三年目の芦沢だった。清潔な髪型。薄い笑い方。副業、転職、生成AI、投資。こいつの話題はいつも外へ逃げている。俺はそれを軽蔑していた。軽蔑していたが、本当はうらやましかった。こいつは自分の人生のためにいまはこんな会社の床を歩き回っているだけで、床から生えた鎖に足首をつけられていない。

「これ、大田さんですよね」

芦沢はスマホを見せた。俺のアカウントだった。女の足裏が画面の手前へ迫り、下の男が人間なのか床なのかわからないあの絵が、会社のトイレで後輩のスマホに表示されている。

俺のペニスは尿を小便器に垂れ流す。背後の個室から水の流れる音がする。胃の奥がぎゅっと縮んで、股間がひゅんとする。社会的死という言葉が頭に浮かんだ。トイレで便器にこびりついたザーメンを同僚に見られたような気分だった。しかもそのザーメンの脇に俺の社員証が貼りつけてある。

「いや、これは」

言い訳が喉に詰まった。趣味で。資料で。別人で。知り合いのアカウントで。どれも無理だった。このアカウントは、俺の人生を垂れ流している。

「普通にいいじゃないですか」

「え」

「尖ってるし。足裏、なんかすごいオーラがあって、俺、こういうの詳しくないですけど、刺さる人にはガチで刺さりそうですね」

芦沢はそれだけ言って、スマホを引っこめた。

軽かった。あまりにも軽かった。

俺がこれまでの半生をかけて肥大させた汚い欲動を、こいつはコンビニの新作スイーツを品評するように処理した。普通にいいじゃないですか。尖ってるし。

ふざけんな。俺はこれが生きがいだ。いや、足裏が生きがいって、さすがに三十を越した男が言うことではない。こいつは若い。清潔だ。俺よりずっと会社を信じていない。だから俺より生きるのがうまい。

俺は芦沢と取引しようと決めた。

「芦沢、絶対誰にも言うなよ? 何が欲しい?」

「言わないですよ。説明するのだるいし」

だるい。

俺の破滅は、芦沢にとって説明がだるい程度のものだった。俺は拍子抜けして、傷ついて、少し救われて、その救われた自分に腹が立った。見逃されて嬉しいのか。後輩に性癖を握られて、殺されなかっただけで尻尾を振るのか。俺は芦沢の犬か。

だが、そんな劣等感は、すぐに消えた。

芦沢は客先に行かない限り、スニーカーを履いている。黒いスニーカーだった。ブランド物ではあるのだろうが、ブランドを誇示するタイプではない。白いソールの縁に、薄茶色の汚れがこびりついている。スーツに革靴という会社員の正装から、半歩だけ逃げた靴。会社にいますけど、心までは売ってませんよ、みたいな顔をした靴。そういう小賢しい自由の演出が腹立たしかった。

だが、腹立たしさより先に、声がした。

「いや、マジで大田さんの絵、エモいですよ」

芦沢の口は動いていない。

芦沢はスマホを洗面台に置いて手を洗うと、鏡の前で前髪を少し直していた。なのに声は下から来た。トイレの白っぽい床。小便器の下に広がった微妙な黄ばみ。誰かが手を洗ったあとに落とした水滴。その床を踏む芦沢のスニーカーの、その奥。靴下と足裏の、蒸れた暗がりからだった。

「ていうか、足裏って普通にメディアなんですよね。身体のインターフェースっていうか、まあ、言い方キモいですけど、接地面じゃないですか。接地面ってことは、いままで歩いた人生が残っているんですよ。歩いた場所、逃げた場所、踏んだもの、踏まなかったもの、全部残っています。だから足裏を描くって、キャラデザじゃなくてキャラの人生を全部設計することなんですよ。そこ大田さん、無意識にやってるの、普通に強いです」

めちゃくちゃ喋る。芦沢の足裏は、めちゃくちゃ喋る。しかも痛い。聞いているだけで、大学のサークル棟の汚いソファに座って、徹夜で麻雀して、深夜二時にエナドリを飲みながら、誰にも頼まれていないアニメ論を語りだす男。そんな気配がした。自分が痛いことをそこまで自覚せず、無自覚と若さを武器にして痛いことをまくしたてる男の声だった。

「大田さん、まだ足裏をフェチとして処理してるじゃないですか。でも違うんすよ。フェチっていうより、むしろ反フェチなんですよ。わかります? いや、わかんなくていいです。俺もいま言いながら整理してるんで。えーっと、足裏って、普通は隠される部位じゃないですか。靴下、靴、床、マナー、臭い、汚い、見せちゃダメ、みたいな。でも隠されるからこそ、そこに社会への本音が全部現れるんですよ。足裏は、社会から最も低く扱われながら、社会を一番下から支えてる。これ、会社も同じっすね。もっとも低く扱われているひとが、会社の大事なところを支えている」

芦沢の顔は、鏡の中で眠そうだった。口元には、さっきと同じ薄い笑いが残っている。こいつの顔は、仕事のあとジムへ行くか、マチアプの女に返信するか、積立NISAの銘柄を見直すか、その程度のことしか考えていない。

なのに足裏は、こいつ本人よりずっと饒舌だった。顔は清潔。髪も清潔。ふだんは会社へスニーカーで来るくせに、ワイシャツはきちんとアイロンをかけている。口から出る言葉から察すると、自分の市場価値も、この会社を損切りするタイミングもわかっている。だが足裏は終わっていた。スニーカーの中で社会性を脱ぎ散らかしていた。靴という暗い空間のなかにひきこもり、芦沢の足裏は、湿気と熱とオタク的自意識を発酵させていた。

「大田さんの足裏ってすごく無口ですね」

俺は息を止めた。芦沢はまだ鏡を見ている。俺のほうを見ていない。

「大田さんって、実は足裏が好きなんじゃなくて、床になりたいんじゃないんですか?」

あんなと同じことを言ってきた。そのことに軽く戦慄したが、芦沢の語りは止まらない。

「みんな、主体的になれって言われすぎなんですよ。キャリアを自律してつくれ、資産形成しろ、発信しろ、好きなことで生きろ、個を出せ、差別化しろ、替えのきかない人材になれ。いや、だるくないですか? てか人間ってそこまで偉くなれますか? 替えがきくから休めるんでしょ。替えがきかないって絶対に休めないじゃないですか。それ普通に呪いじゃないですか。だから俺も床になりたい。主体性ハラスメントへのカウンターなんですよ。踏まれたいんじゃなくて、もう選びたくない。選ばされる側から降りたい。床って、究極の非選択じゃないですか」

やめろ、と思った。俺より俺のことをわかっているようにしゃべるな。言葉の軽さとは別に、芦沢の足裏は本気だった。スニーカーの中で熱を持ち、蒸れ、靴下の繊維に皮脂を擦りつけながら、こいつの足裏は俺のほうへ身を乗り出している。

足裏に身を乗り出される、というのも変な話だが、実際そうとしか思えなかった。

「ただ、大田さんの絵、まだちょっと足裏を神聖化してるというか。いや、わかりますよ。推してる足裏を汚したくない気持ち。でも足裏ってもっと終わってるんですよ。角質あるし、臭いし、靴下の跡つくし、爪にゴミが溜まるし、湿るし、冷えるし、水虫もタコもできるし。そこをちゃんと描かないと、足裏へのリスペクトじゃなくて、足裏のアイドル化なんですよ。足裏を清楚系ヒロインにするなって話ですよ。俺、二〇〇〇年代の鬱アニメ、大好きなんですよね。人間のきったないところを、本気で描こうとしていて」

こいつ、嫌なことを言う。痛いのに、嫌なところだけ正しい。

弱虫水虫とは違う。弱虫水虫の足裏論は抽象的でセカイ系だった。だが芦沢の足裏は違う。もっと俗っぽい。もっとネット臭い。タイムラインで炎上したネタと、動画の倍速視聴と、まとめ記事と、妙に器用な自己分析が混ざっている。

ありがたみはない。だが、刺さる。けっしてそれは俺の顔にではない。俺の心にではない。もっと下だ。つまり足の裏という、人のいちばん汚いところに刺さっている。

「だから大田さん、次やるなら、もっと汚くしたほうがいいですよ」

芦沢の足裏は言った。

「きれいな足裏じゃなくて、人生負けてる足裏。ルサンチマンが溜まってる足裏。爪先だけ若者ぶってるけど踵は終わってる足裏。靴の中ではイキってるけど、脱いだら臭くて自分でもちょっとドン引きする足裏。これからは、汚さが、バズりを決めるんです。てかこれだけ熱く語ってもなんにも言ってこないんですか。ガチで大田さんの足裏ってコミュ障ですね」

芦沢の手が髪から離れた。ハンドドライヤーは感染対策か節電か知らないが止まっている。芦沢はポケットからハンカチを出さず、濡れた手を軽く振った。床に水滴が飛んだ。小さな透明な粒が、トイレの床に落ちる。

その水滴を、芦沢のスニーカーが踏んだ。

きゅ、と音がした。

「じゃ、戻ります」

芦沢はさらっとした口調で言う。足裏から発せられる熱っぽくていい意味で気持ち悪いオタク語りとはまったく真逆だった。

「あ、芦沢、日報なんだけど、もうすこしちゃんと真面目につけろよ。課長がそろそろ注意してくるかもしれないから」

俺はそれしか言えなかった。

「大丈夫ですよ」と言って芦沢がトイレを出ていく。スニーカーの底が、床の水滴ですこしきゅっと鳴った。芦沢の足取りは軽かった。薄くて、クールで、スマートだった。

だが足裏だけは違った。すごく変態だった。

俺はトイレの鏡を見た。

そこには、社会的に死にかけたのに、後輩の足裏のオタク語りに興奮しかけている三十過ぎの男が映っていた。

終わっている。だが、絵にできると思った。

やはりこのみじめさを絵にするなら、俺自身が床になればいいんだ。

俺は自分の足元を見た。小汚い革靴。紐は少しほどけ、踵は潰れている。昨日か一昨日か、雨上がりの道で踏んだ泥が側面にこびりついていた。社会人としてだらしない。変態としても中途半端。床になりたいくせに、まだ床を踏んでいる。そしてこんな人生の重大局面にたいしても、俺の足裏からは、まったく声が聞こえない。

 

 

 

 

退勤後、ファミマへ行った。

自動ドアが開き、あの軽快な入店音が鳴る。ファミチキの匂いとコピー機の熱と、濡れた傘の生臭さが混ざって鼻に来た。入口のマットは黒く湿っていた。細かな砂が毛の奥に詰まり、端のほうには白い埃と、誰かが落としたガムの銀紙が絡んでいた。俺はその上を踏んだ。靴底の下で、砂がわずかに潰れる感触がした。

店内の床は白かった。白いから、汚れがよく見えた。ぺたりぺたりと床を踏んで歩く。制服姿の女子高校生が二人、菓子パンの棚の前で笑っていた。ローファーが床をぺたぺた叩く音がやけに若い。アオハルの音だった。その隣を、クロネコヤマトの制服を着た男、汗臭いスニーカーを履いて雑誌棚の前を横切る。赤ちゃんを乗せたベビーカーの車輪には、道端の何かがこびりついていた。泥かもしれない。犬のフンかもしれない。

俺は棚の前で立ち止まった。今日は何を踏ませるべきか。唐揚げ棒は前にも買った。シュークリームは柔らかすぎる。プリンはよく震えるが、あんなの足の指の間に入り込みすぎて、あとが面倒だった。ポテトチップスは音がいい。

だが、そこで気づいた。シートを忘れた。家から持ってくるつもりだったブルーシートを、玄関に置いたままだった。唐揚げ弁当を選んでいた作業着の男が、俺の後ろで舌打ちした。邪魔だったらしい。

日用品棚へ行き、半透明のポリ袋を取った。四十五リットル、十枚入り。青ではない。家庭ゴミのための薄い袋だ。俺の欲望を受けとめるには、あまりにも頼りない。しかしホテルの床に直接食べ物を撒く勇気はなかった。

結局、ポテトチップス、クリームパン、プリン、安いロールケーキといつもどおりのものを買った。それとポリ袋も。

レジに並ぶと、前の女のパンプスの踵に、小さな傷があった。女はスマホを見ている。床は文句を言わない。どんな客の靴に踏まれても、すべてを受けとめる。

俺も、ああなりたい。役に立ちたいのではない。褒められたいのでもない。認められたいのでもない。すべてを悠然と受け止められる、あの床に。

セルフレジで会計を済ませ、ビジネスバッグに無理やりつっこむ。

店を出たところでスマホが震えた。

松野からだった。LINEだった。業務連絡をLINEで送ってくるなと思う。だが、それを言えば「大田くん、そういう細かいところ気にしすぎだよ」と、面倒くさい人間に対応するように冷たい視線で返事するだけだった。

〈さっきの資料、やっぱり方向性を少し変えよう。いい感じに再整理お願い。明日の朝、軽く見せてもらえる?〉

いい感じ。再整理。軽く。助かります。そのくせ超短期。上司でなければ蹴り飛ばしたい。俺は、ゴミ箱の脇に立った。割りばしだったり弁当の容器だったりが転がる、汚い地面を見ながら返信を打つ。

〈承知しました〉

既読はつかなかった。

ふたたびスマホが震える。今度は芦沢からだった。

〈なんか大田さんに言うべきことがあった気がするんですよね。うまく言語化できないんですが、すごく重要なことです〉

俺はしばらく画面を見た。芦沢の顔ではなく、トイレで見た黒いスニーカーを思い出した。白いソールの縁の薄茶色い汚れ。靴下の奥で発酵していた、あの饒舌な足裏。痛いのに、嫌なところだけ正しい声。

〈芦沢、むしろ静かにしたほうがいい〉

そう返した。少しして既読がついた。俺はスマホを閉じた。

今日遊ぶラブホテルは、京急川崎駅から少し外れた場所にある。

入口の自動ドアが開くと、横に造花が置かれていた。赤い薔薇の造花。花びらの縁に埃が溜まっている。誰も水を替える必要がない花は、死ぬことすら許されていなかった。受付から鍵をもらって、部屋に入る。

電話して呼ぶと、あんなは約束の時間どおりにやってきた。黒いパンプスの表面には細かな皺が寄っている。あんなは靴を脱いだ。汗の臭いが漂った。あんなはまっすぐ浴室へ行った。水の音がした。石鹸の泡を立てる音。足の指の間を指でこする湿った音。タオルで押さえる音。

俺はそれらの音をひとしきり聞くと、部屋の奥へ向かう。ベッドは天蓋付きで、ふわふわのフリルの布が覆いかぶさっていた。そのベッドの下には、透明なビニールの切れ端が落ちていた。たぶんコンドームの袋の切れ端だろう。

買ってきたポリ袋を床に一枚広げた。薄い。四隅を押さえても、空調の風でふわりと浮いた。

あんなが浴室から出てベッドのそばにやってきた。

「今日は何?」

「踏む前に、見てほしいものがある」

「また絵?」

「うん」

「このあいだバズったやつでしょ」

それでも俺はタブレットを開いた。あんなはベッドに腰を下ろし、タブレットを受け取った。爪の先で画面を少し拡大する。

「上手いね」

「本当に?」

「上手いよ」

彼女は画面から目を離さなかった。

「でも、気持ち悪くなった」

「前から気持ち悪かったでしょ」

「前のは、気持ち悪い人が描いた絵って感じだった」

「それも嫌だな」

「この絵は、なんていうんだろう、人間が描く絵じゃない」

あんなはタブレットをテーブルに置いた。ポリ袋の端が空調で揺れだす。

「そっち行くと、戻れなくなるよ」

「そっちって」

「知らない。でも、そっち」

彼女は右足を左膝に乗せ、足裏を自分のほうへ向けた。洗ったばかりの足はボディーソープの匂いがして、皮膚は少し赤い。親指が一番長く、指は細い。爪のピンクは薄く、少し剥げている。かかとの端に細かいひびがあった。あんなはそこを親指で少しこすった。乾いた皮が白く浮いた。

「私さ、足だけはガチで大事にしてるんだよね」

「足だけ?」

「うん。変でしょ」

「いや」

「高校のときさ、けっこう勉強できたんだよ。ほんとに。模試とかも悪くなかったし、先生に大学行けって言われてた。俗にいう優等生ってやつ?」

あんなは淡々と言った。自慢ではなかった。それこそ高校生が国語の授業で教科書を淡々と読みあげているみたいだった。

「でも、つきあった男がメンヘラ暴力男でさ。急に怒るし、急に泣くし、壁殴るし、死ぬとか言うし。あの当時のわたしは馬鹿でさ、一歳でも年上だったら言うことを聞かなきゃいけないって思いこんでた。男にわたしが悪いってさんざん怒鳴られたから、だんだんそうなのかなって本気で思ってきちゃった。成績もガタ落ち。学校も休んだ。親にも嘘ついて、夜遊び。自分がどんどん汚くなっていく感じがした」

彼女の足の指が、空中で少し丸まった。

「でも、そいつ、足だけは本気で褒めたんだよ。指が長いとか、爪の形がいいとか、土踏まずがきれいとか。キモいって思ったでしょ」

「……はい」

「でも、そこだけは嘘じゃなかった気がした。わたしの頭とか、顔とか、性格とか、成績とか、人生そのものとか、あの男のせいで全部ぐちゃぐちゃになったけど、足だけはまだむかしの優等生なわたしって感じがする」

あんなは足を下ろした。ぺたり、と床に触れる音がした。

「だから足は宝物なんだよ。やっすい宝物で、金のためなら食べ物を踏みつけるけどね」

俺は言葉に詰まった。あんなにとって足裏は、むかしの自分を思い出せる唯一の宝物。俺はその場所を、ポテトチップスやプリンや自分の絵を使って、汚そうとしている。

そのとき、あんなの右足の土踏まずのあたりが、ぴくりと動いた。

最初は血管かと思った。薄い皮膚の下を、細い影が流れたように見えた。だが違った。血管ではない。タコでもない。皺の集まりでもない。土踏まずの奥、薄い皮膚の向こう側に、誰かがいる。こちらを見ている。小さな女の顔が、足裏の内側に押しつけられているように見えた。

俺は息を止めた。

「なに?」

あんなが足を引こうとした。

「動かさないで」

「は?」

「そこに、誰かいる」

あんなの表情が消えた。仕事の顔になった。変な客にたいして警戒する顔だった。

「大田さん、そういうの、ちょっと」

「聞こえるか」

「やめて」

「聞こえるか」

土踏まずの奥で、影が止まった。

「聞こえるよ」

女の声だった。

耳から聞こえたのか、床から聞こえたのかわからなかった。疲れた声だった。夜勤明けのコンビニ店員みたいな声だった。

あんなの肩が固まった。

「今、何か言った?」

「俺じゃない」

「じゃあ誰」

足裏の中の女が、乾いた声で笑った。

「わたしはアカネ」

「なにこれ」

「やっぱりあんなの足裏もしゃべるんだ」

部屋の空調の音が遠くなった。テーブルのリモコン。ポリ袋の皺。プリンの丸い蓋。ベッドの白いシーツ。あんなの足裏以外のものが、世界から浮いて見えだした。

「アカネ?」

俺は聞き返した。足裏の奥の影が、皮膚の下でわずかに笑ったように見えた。土踏まずのくぼみの内側に、薄い膜を一枚隔てて、あんなとは別の顔、つまり足裏の顔がある。

「そう。アカネ」

足の奥から聞こえるその声は瑞々しかった。

「あんなじゃなくて?」

「あんなは、あとからつけた名前」

あんながつぶやき、みるみるうちに顔が青白くなった。

「ねえ、やめて」

あんなが懇願する。足裏の奥で、アカネが笑った。

「やめてほしいのはこっちだよ」

その笑い方は、あんなの笑い方に似ていた。いや、似ているというより、あんながいつも笑うときにわざと捨てている部分だけでできていた。客に向ける軽い笑いでも、店の女の子同士で交わす笑いでもない。もっと昔の、制服を着て、学校の机に頬杖をつきながら、先生の冗談に少しだけ笑ったときのような声だった。まるで高校生のような声だった。俺は見たこともないあんなの高校時代を想像した。放課後の廊下。雨の日のローファー。湿った靴下。制汗剤と教科書の紙の匂い。窓際の席。チョークの粉。黒板消しクリーナーの低い唸り。上履きの底についた埃。

「アカネって本名?」

俺が聞くと、あんなは俺を睨んだ。

「聞かないで。わたしはあんなよ」

「嘘を言っちゃって。あんなはアカネに戻りたがっているくせに」

アカネが言った。

「お客さん、あんなは自分を騙すのがうまいんだよ」

あんなは右足を引こうとした。だが足裏の皮膚の下で影がぐっと張った。土踏まずが、内側から小さく押されたようにふくらんで、いまにも皮膚を突き破る勢いで引っ張る。

「痛い!」

「痛いのは、ずっとこっちだったよ」

「うるさい。黙って」

「うるさいのは、あんたのほう!」

部屋の空調が止まった。

アカネは喋りはじめた。

「お客さん、わたしがどうしてこうなったか話すね。最初は、予備校の最寄り駅」

あんなは目を閉じた。

「やめて」

「雨の日。放課後。ローファーの中まで濡れてた。靴下がぐちゃぐちゃで、気持ち悪くて、早く家に帰りたかった。模試の結果がよくて、先生に呼ばれた日だった。国公立狙えるって言われた。ほんとは嬉しかった。すごく嬉しかった。お母さんに言おうと思ってた」

あんなの喉が動いた。唾を飲みこんだようだった。

「改札のところで、あいつが立ってた。黒いパーカー。傘もささないで。髪が濡れてぺしゃんこだった。『いまから遊ばない?』って言った。わたしは帰りたかった。でも一歳年上だったし、部活の先輩だった。わたし、運動部だったから、学年が上ならどんな男の言うことも従わなきゃいけないって思いこんでいた。馬鹿だよね」

アカネの声は淡々としていた。説明ではなかった。すでに何度も足裏の中で反芻され、角がすり減った記憶を、床に落としているようだった。

「最初は優しかったよ。勉強できるのすごいねって言った。駅前のマクドに行って、ちゃんと話を聞いてくれた。親にも先生にも言えない愚痴を聞いてくれた。クラスの女の子たちがだるいとか、指定校推薦の子がムカつくとか、先生が絶対国公立に行けって言うたび、わたしたちは先生が偉くなるための数字稼ぎに国公立の大学を受けさせられるように感じるとか。そういう、上京したいまならどうでもいい話を、真剣な顔で聞いてくれた。あいつはそのときだけ、わたしを世界で一番かわいそうな子にしてくれた」

「それ、優しさじゃなかったよ」

あんなが低い声で言った。

「知ってる」

アカネは答えた。

「でも、そのときはわからなかった」

あんなは黙った。アカネは紡ぐように言葉を続ける。

「手をつないだ。駅の床が濡れてて、靴底がきゅっ、きゅって鳴った。わたしはその音を覚えてる。あのときから、足の裏が変になった。どこに立っているか、わからなくなった。家に帰る道も、学校へ行く道も、あいつのところへ行く道に変わった」

俺は何も言えなかった。駅の濡れた床。改札前の水たまり。雨粒に濡れたローファー。女子高校生のふくらはぎ。黒いパーカーの男。自分をかわいそうにしてくれる手。そこから踏み外していく、小さな一歩。

「殴られたのは、三回目のデートのとき」

あんなの肩が跳ねた。

「言うな」

「言うよ。ずっと足裏に押しこめてたんだから」

「言うなって」

「ファミレスの駐車場。夜。テスト前だった。帰らなきゃって言ったら、あいつが泣いた。『俺より勉強が大事なんだ』って。わたしは違うって言った。違わなかった。実際、勉強のほうが大事だった。あいつより、大学のほうが大事だった。未来のほうが大事だった。でも言えなかった。言えばフラれると思った。捨てられたほうがよかったのに」

アカネはそこで少し笑った。

「頬を叩かれた。そんなに強くなかった。でも、音がすごかった。ぱん、って。わたしは足元を見た。あのときは眼鏡をしていて、眼鏡がローファーのつま先に落ちた」

あんなは「やめて、ゆるして」とつぶやきながら、両手で顔を覆った。

「そこから、何もかもが下がっていった。成績。偏差値。模試の志望校判定。先生からの期待。お母さんからの愛情。ねえ、お客さん、知っている? 下がるのって気持ちいいんだよ。上がるのは大変だけど、下がるのは楽だから。坂道を転げるみたいに、勝手にいける」

俺は膝の下の床を感じていた。ホテルの床は冷たく、俺の体重を黙って受けている。

「でも、足だけは褒めた」

アカネの声が、少しだけ尖った。

「あいつ、本当にそこだけは見る目があった。指が長い。爪の形がいい。足首が細い。土踏まずがきれい。球技大会でバドミントンをしたあと、靴下を脱いだわたしの足を見て、かわいいって言った。キモいよね。キモいけど、嬉しかった。顔を褒められるより嬉しかった。頭を褒められるより嬉しかった。だって、足はありのままの姿で愛されたから。学校でも。塾でも、図書館でも、水族館でも、駅前のゲーセンでも。あいつの部屋でも」

あんなの手が顔から離れた。

「やめてよ」

声が震えていた。

「それ以上、私の足を汚さないで」

「もう汚れてる」

アカネが言った。

「でも宝物なんでしょ」

あんなは唇を噛んだ。

「そうだよ」

「なら、ちゃんと見なよ」

あんなの右足が、わずかに持ち上がった。足裏がこちらを向く。土踏まずの奥の影が、前よりはっきりしていた。目も鼻も口も曖昧な、女の子の顔だった。だけど、はっきり怒っている表情をしていた。

「わたし、薬学部に行きたかった」

アカネは言った。

あんなが息を止めた。

「白衣が着たかった。薬の名前をちゃんと覚えて、人に説明できるようになりたかった。お母さんが偏頭痛持ちで、いつも市販薬を適当に飲んでたから、ほんとはそういうのちゃんと勉強したかった。ドラッグストアの薬剤師でもよかった。病院でもよかった。研究なんて無理かもしれないけど、でも化学は好きだった。周期表、あの男に出会うまでは、けっこう覚えてた。ベンゼン環を書くのが好きだった。垂れ下がった目をした、ゆるキャラみたいだったから」

ベンゼン環ってなんなんだろうと思ってすぐにスマホで画像を出した。場末のラブホテル、ポリ袋とプリンとコンドームの切れ端と、天蓋つきのベッドの間に、場違いなほどきれいな六角形が画面に現れた。

「模試でさ、一度だけ薬学部のA判定をもらえたんだよ。すごくない?」

アカネは笑った。その笑いは少しだけ高校生だった。

「すごい」

俺は言った。あんなが顔を覆う手を外して俺を見た。そんなことを言うな、という目つきでキッと睨む。

「でしょ」

アカネは少し得意げだった。

「なのにわたしが高校時代唯一お世話になった薬は、アフターピルだった」

あんなが目を閉じた。

「笑えるよね。薬学部に行きたかった女が、そんな薬の名前を必死に調べてるの。スマホの検索履歴、最悪だった。妊娠初期症状。生理がこない。親にバレない婦人科。未成年。保険証。吐きそうだった。あいつは『大丈夫じゃね?』しか言わなかった。大丈夫じゃないのは、こっちの人生なのに」

あんなの足の指が、ぎゅっと丸まった。

「そこから、わたしは本当に転落した。高校は辞めさせられて、通信制のところに入りなおした。大学なんて当然無理で、専門も途中でやめた。嫌になってバイトを転々として、上京して金を稼げるならって夜の店に入った。あんなって名前をつけられた。わたしは、足裏にいろんなものを押しこめた。夢とか、怒りとか、恨みとか、まだ薬学部に行きたいとか、あいつを殺したいとか、お母さんにごめんなさいって言いたいとか、そういう、仕事の邪魔になるもの全部」

あんなは小さく首を振った。

「ごめんなさい。わたしがふがいなかったから」

「知らないふりしてただけ」

「知らない」

「知ってる」

「知らないよ!」

あんなの声が部屋に響いた。隣の部屋に聞こえただろうか。聞こえたところで、ラブホテルの壁は何も言わない。

アカネは黙らなかった。

「ねえ、あんな。わたし、まだ怒ってるよ」

その声は怒っていると言っているのに、静かだった。

「あいつにも怒ってる。先生にも怒ってる。止めなかった親にも怒ってる。何より、あいつの言うことを聞いた自分に怒ってる。足を褒められたぐらいで、自分がまだ汚れてないって思いたかった自分に怒ってる。でも、足だけは本当にきれいだった。そこだけは、本当だった」

あんなは右足を両手で包んだ。土踏まずを隠すように、指を重ねた。

「私の足だよ」

「うん」

「私のものだよ」

「うん」

「出てこないで」

アカネは少し黙った。

「じゃあ、ちゃんと自分の足で立とうとしてよ」

その言葉のあと、足裏の奥の影が薄くなったが完全に消えたわけではなかった。白い皮膚の下にうっすらと、丸い輪郭のような模様が見える。

あんなは足を胸のほうへ引き寄せ、しばらく呼吸を整えていた。俺は床に膝をついたまま、何もできなかった。俺の前には、ポリ袋が広がっている。そこに撒くはずだったポテトチップスは、まだ袋の中で乾いている。クリームパンも潰れていない。プリンも震えていない。踏み潰す予定だったものは全部、商品としての形を保ったまま、テーブルの上で沈黙していた。

その沈黙が、ひどく気まずかった。

「……ごめん」

俺は言った。

あんなは俺を見なかった。

「謝るところ、そこじゃない」

「どこですか」

「わかんないなら、いい」

あんなは肩を震わせた。

アカネは足裏の奥にいる。あんなの本名で、あんなの夢で、あんなの怒りで、あんなの失われた青春で、あんなの高校のローファーで、あんなの模試の成績で、あんなのアフターピルの検索履歴で、あんなの宝物だった。

あんなは足を引いた。

「今日は帰る。わたし都合のキャンセルだから、お金は返す」

あんなは、俺が払った現金をテーブルへ置いた。

「あんな。ごめん」

「無理。それと、わたしの心が落ち着くまで、あなたをブラックリストに載せてもらう。ただの足フェチの絵描きだと思っていたのに、突然、あの絵を見たら足裏がしゃべりだして、わたしの隠していることを、全部、吐き出した。もう、あんたなんなの?」

「よくわからないんだ。俺も、最近足裏の声が聞こえるようになって……」

「イカレていくのは別に構わないけど、わたしを巻きこまないで」

あんなは笑わなかった。

そのままドアへ向かうのかと思ったが、彼女は少しだけ立ち止まり、ホテルの床を見た。さっきまで自分の足が触れていた場所。ポリ袋の端。黒い擦り傷。俺の膝。

あんなは浴室へ向かった。

「足、もう一回洗う」とだけ言って、浴室の扉が閉まった。水が勢いよく出る音がした。スポンジで足をごしごしと強く洗う音。流した水が排水口へ吸いこまれる音。そしてあんなが激しく泣く声。

俺はひとりで部屋に残された。俺はふと床に手を置いた。冷たい。掌を滑らせると、細かな傷に引っかかった。見た目にはわからない。だが、触ればわかる。何か硬いものを落とした跡。ベッドの脚を引きずった跡。誰かがここで裸足になり、誰かがここで泣き、誰かがここで笑った。その全部を、床はきれいな顔で隠している。

俺は掌だけでは足りなくなった。頬を床につけた。

俺の足裏は、いつまで経っても喋らない。革靴の中で黙っている。小指が曲がり、かかとがひび割れ、靴下の繊維に汗を吸わせながら、それでも何も言わない。あんなみたいな怒りも夢もない。薬学部もない。高校の輝きもない。宝物だった時代もない。あるのは、会社の床を踏み、ファミマの床を踏み、ラブホテルの床を踏み、それでもどこにも行けなかった事実だけだった。

「俺は」

声がかすれた。

「足裏じゃない」

足裏が喋らない理由がわかった。自分でも驚くほど静かな声だった。俺には必要なかったんだ。流されて生きてきた。弱虫水虫や芦沢のような熱狂的な偏愛はないし、後悔も屈辱も感じているけど、それが足裏に溜まる前に、ぜんぶ地面に流れた。つまり、最初から俺は足裏で世界に文句を言う人間ではなかった。足裏の文句を受けとめる側だった。

「じゃあ、床だ。やっぱり床になればいいんだ」

床。頬から感じ取る床は冷たかった。埃の匂いがした。浴室の水音が、床を通して低く響いてくる。あんなの足を洗う音。石鹸。排水。泡。そして号哭。俺にはもうしばらく触れられないあんなの足が、何かを蹴る音。

ポケットの中でスマホが震えた。

床に頬をつけたまま、俺はスマホを取り出した。画面の光が床に白く反射した。弱虫水虫からだった。

〈大田さん〉

〈大変なことになりました〉

〈東京都庁、あそこが日本の足裏の中枢かもしれません〉

またわけのわからないことを言いだした。うんざりして続きを読む。

〈だって都庁の形、寝ているときの両足の足裏みたいでしょ〉

〈職員の靴を見ればわかる。エリートたちがどんな陰謀を抱いているか〉

〈わたしの見立てでは人類を絶滅させるため、巨大な足裏が地球を踏みつけます〉

〈人類踏みつけ計画です。フードクラッシュのように、人類は大きな足に踏まれてぐちゃぐちゃになります。この計画は世界中のエリートならだれでも知っているはずです。わたしがエリートの足裏をとっ捕まえて尋問すれば、必ず計画の全貌を吐き出してくれる〉

〈じゃ、行ってきます〉

行くな。絶対行くな。話を聞け。親指を動かしすぐさま入力する。お前は足裏を見ているんじゃない、誇大妄想を足裏陰謀論なんてものにかぶせているだけだ。お前を認めてくれなかった世界を破壊しようとしているだけだ。足裏は、お前が思っているよりとても人間臭いんだ。人間より人間臭い足裏に、巨大陰謀なんて企てられるわけがない。

だが送信ボタンを押せなかった。弱虫水虫は上へ行きたいのだ。足裏という道具を使って、正義の味方になって、大衆の支持と承認を求めている。

俺は違う。俺はそもそも人間臭い足裏がないのだから。

スマホの画面を消した。浴室の水音が止まった。

 

 

 

 

弱虫水虫が逮捕されたのは、翌日の昼前だった。

最初に知ったのはSNSだった。トレンド欄に〈都庁靴〉という、あまりにも嫌な文字列が浮いていた。

見たくなかった。しかしタイムラインに嫌でも動画が流れてくる。都庁の第一本庁舎前。灰色、天にそそり立つ巨大な建物の下、黒いジャージの男が警備員に取り押さえられていた。音声は途中からだった。スマホで撮っているやつの笑い声が入っている。

「足裏を見せろ! 都民の足裏を管理しているんだろ! 靴を脱げ! 靴を!」

地面に押しつけられていたのは弱虫水虫だった。間違いようがなかった。冬でも裸足にサンダルのあいつが、なぜかその日は運動靴を履いていた。都庁へ行くために多少の社会性をつけたのだろう。だが社会性は三分も持たなかったらしい。弱虫水虫は、職員らしき男の革靴に手を伸ばしていた。職員らしき男は迷惑そうな顔をして足で弱虫水虫を蹴飛ばそうとするが、なかなか手が離れず、弱虫水虫が革靴の紐をほどこうとして、警備員が腕を押さえつけると、弱虫水虫の顔が舗装に押しつけられる。

そこまでして、弱虫水虫はまだ叫ぶ。

「足裏は知っている! 人類踏みつけ計画を! 巨大な足が来るんだよ! 都庁は両足なんだ! 寝ている足裏の形なんだ!」

動画の撮影者が笑った。

「やば、なにこいつ」

俺はスマホの画面を消した。

その「やば、なにこいつ」は、俺にも向けられている気がした。いや、気がしたのではない。たしかに向けられていた。弱虫水虫が逮捕されたニュースには、職業不詳ではなく、自称同人作家の男、と書かれていた。自称同人作家。たった六文字で、世間はあいつの狂気を趣味の世界に押しつけた。足裏同人界隈がざわついた。

〈足裏界隈終わった〉

〈自称同人作家って書くのやめろ〉

〈都庁を足裏扱いは草〉

〈思想が強すぎる〉

〈こいつ前に即売会で見たことあるかも〉

〈ああ、『世界足裏新秩序』を書いたヤツ? YouTubeチャンネル、陰謀論界隈で少し有名だったのになあ。けどここまでしたら逮捕は残当〉

〈足裏は自由だが靴は盗むなよ〉

笑えるはずだった。

笑えばいい。弱虫水虫は馬鹿だ。都庁で職員の靴を奪おうとして逮捕されるなんて、馬鹿以外の何者でもない。足裏を制度批判にし、都市論にし、陰謀論にし、最後には都庁の職員の靴紐へ手を伸ばした。足裏を神輿にして担いだまま、神輿ごと警察に担がれていった。

だが笑えなかった。うらやましかった。あいつは上へ行こうとして失敗しただけだった。俺は下へ行きたい。下へ行きたいと思いながら、まだ会社の椅子に座り、まだ給料をもらい、まだ社会保険に守られ、まだ小汚い革靴で床を踏んでいる。弱虫水虫のほうが、少なくとも動いた。動いて、地面に押しつけられた。頬を都庁前の舗装に擦られながら、まだ巨大な足について叫んでいた。

その日の午後イチの会議でも、当然雑談でその話題が出てきた。

「見た? 都庁のやつ。テレビのニュースでやってたけどひでえよな」

松野が会議室で嬉しそうに言った。嬉しそうに、というより、他人の失敗を酒のつまみにする顔だった。

「なんか靴を脱がせようとしたんだって。怖いよねえ。最近、変なの多いよ」

松野の革靴は会議机の下で、ゆらゆらと揺れていた。右の踵がやはり片減りしている。今日もつま先だけは磨かれているが、側面の傷はそのままだった。見える場所だけ整える足。自分の立ち方の歪みには気づかない足。松野の足裏が、靴の奥から声を出した。

「えんがちょ! えんがちょ!」

俺は資料を見つめたまま、ペンを握る指に力を入れた。

小学生だった。松野の足裏は本当に小学生だった。机の下で、臭い靴下に包まれながら、ひたすらうんことかバリアーとかえんがちょとか言っている。課長の足裏がこれでいいのか。三人の子どもの父親の足裏がこれでいいのか。たしか長男はそろそろ中学生だったはずだ。反抗期が来たら松野は父親としての責任を果たせるのだろうか。社会には人格と肩書が全く釣りあわない人間がいるが、松野は完全にそのタイプだった。

「都庁の形が足裏って、発想はちょっと面白くないですか」

芦沢が横から言った。

松野は「え、そう?」と笑う。芦沢はスマホを軽く伏せて黙りこくる。ああいう世代には、炎上も、逮捕も、他人の破滅も倍速で流すべき動画のひとつにすぎない。

だが芦沢の足裏は違った。

「いや、都庁=足裏説、普通に悪くないんですよね。建築が身体のメタファーになるのは全然あるし、統治機構が接地面を管理するって読みも、雑だけど熱量はある。問題は、そこで実際に靴を奪いに行くところなんですよ。現実へのアクセス方法が最悪。批評から犯罪への導線が短すぎる。そこが平成後期のネット陰謀論っぽいというか、思想の足腰が弱いんですよね」

芦沢の顔は眠そうだった。松野に合わせて薄く笑っているだけだった。だが靴の中の足裏は、熱を帯びていた。黒いスニーカーの奥で、湿ったオタク語りが発酵している。

「でも、この人、たぶん本当は足裏を見たいんじゃなくて、足裏で社会に復讐したかったんですよ。足裏という、最も下にあるものを使って、上にある都庁を転覆したかった。発想はわかる。でも足裏を政治利用すると、足裏がかわいそうなんですよ。足裏はもっと個人的で、もっと汚くて、もっとどうしようもないものなんで。制度批判に耐えられるほど強くない。足裏を革命の旗印にするな。足裏は旗じゃなくて、泥臭い人生なんですよ」

「旗? 運動会? 赤組白組うんこ組!」

松野の足裏が叫んだ。

「いや、松野さんの足裏、いつ話してもすっげえわ……」

芦沢の足裏が少し引いた口調でつぶやく。

俺は笑いそうになった。笑いそうになったがすぐさま顔を社会人として許される程度の微笑みにする。

「大田くん、例の資料、よかったよ」

松野が突然俺をほめた。

「ありがとうございます、課長」

俺の口は答えた。だけど俺の足裏からはやはり何の声もしなかった。

 

 

 

 

日曜日、鶴見図書館の歴史講座を受けにいった。図書館の多目的室で高齢者たちが熱心に講師の話を聞いていた。パイプ椅子に座っていた高齢者たちの足裏は、ほとんどしゃべらなかった。

講師は終始穏やかな声で話していた。プロジェクターで映し出したのは、明治以降の鶴見の歴史だった。東海道。石川県から総持寺が移転。財閥による工業地帯の開発。鶴見線。ブラジルに渡った人々と戻ってきた人々。その代表である郷土の偉人、アントニオ猪木。九州、沖縄、はたまた東南アジアからやってきた出稼ぎ労働者。空襲。埋め立て。川。橋。坂。寺。商店街。外国人労働者。トラック。スパ銭。フィリピンパブ。ブラジル料理屋。

当然、弱虫水虫の語る、地中の巨大空間なんて登場しなかった。講座が終わったあと、郷土史の資料を読んで回ったが、洗足の家で見せてもらった絵はどこにもなかった。

図書館を出ると、夕方の空が灰色に濁っていた。

SNSのDM欄を見ても、あんなからの連絡がなかった。ブラックリストに載せると言っていたから、もう会うことはないのかもしれない。当然、弱虫水虫のアカウントは凍結されていた。凍結される前に誰かがTogetterで発言をまとめ、スクショが回り、笑われ、分析され、馬鹿にされていた。松野は月曜になればあんな事件を忘れ、芦沢の顔は忘れるだろうが足裏はしばらくこのネタについてオタク語りするかもしれない。

総持寺の森のほうから湿った風が流れてくる。第二京浜の音が遠くで鳴っていた。トラック。バイク。街宣車はいなかった。軍歌も聞こえない。

図書館脇の歩道には側溝があり、鉄のグレーチングがはまっている。細い格子の隙間から、暗い底が見えた。雨水の匂い。土。落ち葉。煙草の吸い殻。コンビニのレシート。誰かの髪の毛。小さな虫の死骸。

俺は立ち止まった。グレーチングの上を、人が通る。女子高生のローファー。老人の運動靴。ベビーカーの車輪。配達員のスニーカー。どれも一瞬だけ鉄の格子を踏み、音を鳴らし、去っていく。かしゃん。かしゃん。かしゃん。グレーチングは、床よりもさらに露骨だった。踏まれるたびに音を出す。痛いと言っているようにも、嬉しいと言っているようにも聞こえる。

「あんまりじろじろ見るなよ」

声がした。低い男の声だった。側溝の底からではない。鉄の格子そのものから聞こえた。雨と錆と土埃を混ぜたような声だった。

「誰だ」

俺は小さく言った。

「おお、俺の声が聞こえるのか。兄ちゃん、ただものじゃねえな。俺はな、人間時代は溝口って呼ばれていた」

グレーチングの隙間から、黒い水がわずかに光った。そこに顔はなかった。足裏の中のアカネのような顔もない。ただ錆びた鉄と、隙間と、下水に近い臭気だけがあった。

背後を通った自転車のタイヤが、グレーチングの端を踏んだ。かしゃん、と音がした。

「最初は見たかっただけだ。側溝の中に潜れば、足裏がよく見える。靴の裏、ストッキング越しの土踏まず、ローファーの底、夏のサンダル。人間の顔を見上げる必要がない。下からなら、世界は全部、足でできているように見える」

溝口の声は淡々としていた。

「俺も馬鹿だった。覗けると思っていた。見たいものだけ見れば満たされると思っていた。だが、側溝に長くいるとわかる。すべての足裏の声を聞くのは、つらい。急いでいる足。泣いたあとに帰る足。会社で怒られている足。これから誰かを抱きに行く足。誰かを捨ててきた足。さまざまな感情がうずまいている。まあ、だいたいうるさい足の持ち主は顔と喧嘩している。足裏ってな、本音で生きるようになると黙ってくるもんなんだ。本音を足裏に溜めずに口でしゃべるようになるからな」

俺はグレーチングの前にしゃがんだ。

通行人が怪訝そうにこちらを見た。俺は靴紐を結ぶふりをした。小汚い革靴の紐は、たしかに少しほどけていた。

「溝口さん。あなたは、どうやってグレーチングになったんですか」

「なろうとしてなったわけじゃない。呼ばれたんだ。そうしたら勝手に体がグレーチングに馴染んだ」

「呼ばれるって……。意味がわからないです」

「わからないうちは、まだ人間だ」

溝口は少し笑った。笑い声は、金属を軽く指ではじくような音だった。

「こうやって人と話すのは数年ぶりだ。前に喋ったのは大学生だった。たしか芦沢って名前だったな」

俺は息を止めた。

「その芦沢って男の足裏、とてもしゃべりますよね?」

「へえ、どうして知ってる? まさか知り合い? ありゃとんでもなく暑い夏のことだったね。安いスニーカーを履いて、ひとりで図書館へ来た。そいつは俺の声が少し聞こえていた。聞こえていたのに、いちどは聞こえないふりをした。夜になったらもう一度来て、俺と話した。あの男の足裏はよく喋るだろう」

「喋ります。同じ会社なんですけどね、延々としゃべってくるからこっちの頭がおかしくなりそうなんです」

「だろうな。俺の見立てだと、あいつは自分が狂わないために、他人を狂わせるほど喋っている。黙ると、俺みたく踏まれる側になってしまうから」

芦沢の靴を思い出した。主体性ハラスメントへのカウンター。替えがきくから休める。床は究極の非選択。あの痛い言葉たちは、芦沢の足裏が落ちないための抵抗だったのだ。

「俺は」

言いかけて、止まった。

俺は何なのか。足裏ではない。床になりたい。だが、床になるとは何か。

わからない。だけど、それでも言わなければいけない。

「床になりたいんです」

溝口は少しの間沈黙した。

「なら教えてやる」

グレーチングの上を、パンプスが踏んだ。かん、と高い音がした。溝口の声が少し震えた。痛みなのか、快楽なのかわからない。

「総持寺は曹洞宗の大本山。その曹洞宗の道元って坊さんはこう言った。『仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり』って」

「意味は?」

「自分のとらわれを忘れれば、自分も他人も自由の境地に入らせられるってことだよ。初対面の人間にたいして言うのは失礼だと思うけど、お前はまだ人間に囚われている」

「なんでですか。床になりたいって人間が、いまさら人間であることに囚われるわけがないでしょうに」

「床になることと、床としての役割をまっとうすることは違う。床はただ踏まれる。床になれば足裏がよく見えると思っているならやめておけ。床はひとつひとつの足なんて見えなくなる。数えきれないほどの足に踏みつけられて、区別がつかなくなる。そもそもなりたいって欲望がある時点で、まだ床としては三流だ。三流の床がおかしくなって壊れるのを、俺は何度も見てきた」

「だったら適性があるかないかぐらい教えてください」

「知らん」

溝口は言った。

「床に向き不向きはない。なるか、ならないかだ。ただし、床になったあとで、人間だったころの欲望だけを持ちこむな。見たい足だけを見るな。好きな足だけ選ぶな。若い女の足だけを待つな。老人の足も、子どもの足も、酔っぱらいの足も、警官の足も、上司の足も、嫌いな男の足も、自分を踏みつける。床は選べない。選べないから床だ。床になることに救いを求めるな」

胸の奥が、少しだけ冷えた。

それは恐怖だった。だが、恐怖だけではなかった。ようやく正しい説明を受けたような感じがした。会社の業務説明よりも、心療内科の問診よりも、あんなの拒絶よりも、芦沢のオタク語りよりも、溝口の言葉は正確だった。

俺はグレーチングに触れた手を離した。指先に黒い汚れがついていた。拭おうとして、やめた。指の腹に錆の匂いが残っている。

「また来ます」

俺が言うと、溝口は低く笑った。

「来てもいい。来なくてもいい。お前みたいなのが床になったら、この世が終わるぞ」

立ち上がる。俺は歩いた。鶴見駅のほうから、軍歌ではない音が聞こえた。バニラカーの音だった。

 

 

 

 

あんなから連絡が来たのは、溝口と話した翌日の夜だった。

会社から帰り、革靴を脱ぎ、玄関の床に座りこんだまま、俺はしばらく動けずにいた。靴下は湿っていた。親指の先に穴が空きかけている。

スマホが震えた。最初、弱虫水虫が保釈されてメッセージをよこしたのかもしれないと思った。あるいは芦沢の足裏が思想を顔に教えこんで言語化してきたのかもしれない。だが通知欄に表示された名前は、あんなだった。

〈アカネと少し話した。店にうまいことを言って、ブラックリスト、外してもらった〉

その一文だけだった。

俺はしばらく画面を見つめていた。返事の言葉が出てこない。謝罪は前にした。謝罪したところで何も戻らない。足裏の奥に押しこめられていたアカネを、俺は勝手に呼び起こした。ポテトチップスも、プリンも、クリームパンも、あんなの宝物を汚すための小道具だった。俺は床になりたいと言いながら、ずっと誰かの足裏を、自分のために使っていた。

〈大丈夫だった?〉

そう打って、消した。

〈ごめん〉

これは違う。

結局、俺はこう返した。

〈会いたい〉

既読はすぐについたが、返事はこない。俺は自分が人間に戻されるような気がしていた。待つ。返事を待つ。許されるかどうかを待つ。誰かに選ばれるかどうかを待つ。床は待たない。ただそこにある。俺はまだ、選ばれたがっていた。

三分ほどして返事が返ってきた。

〈いいよ〉

続けてもう一通来た。

〈でも、会うときはこっちの条件でやる〉

俺は、はい、と返した。

予約の電話を入れた。受付の声は事務的だった。あんなさんですね。九十分でよろしいですか。オプションは。場所は前と同じホテルでよろしいですか。俺は、はい、はい、と答えた。事務的な声に救われた。

急いでいかなければいけない。俺はタクシーを呼んで、川崎駅へ向かった。

川崎駅前は雨が降ったあとの匂いがしていた。アスファルトは黒く濡れ、赤い看板や青いネオンを乱反射する。客引きの男たちのスニーカーが水たまりを避け、酔ったサラリーマンの革靴が水たまりを踏みつける。床も道も、避けられたり踏まれたりしながら黙っていた。

ホテルに入る。入口には、例の造花がまだ置かれていた。赤い薔薇。埃の溜まった花びら。死ねない花。部屋に入ると、俺は床を見た。前と同じ部屋ではなかった。壁紙は妙に金色で、ベッドに天蓋はなく、天井には意味のない鏡がついていた。ベッドの脇の床には髪の毛が一本落ちていた。誰のものかわからない。ここへ来た誰かの頭から抜け落ち、清掃で見逃され、俺の前に残っている。店に電話をかけ、部屋番号を言う。

少しして、あんなが来た。

黒いパンプスだった。前にも見たパンプス。表面には細かな皺が寄り、つま先の端に、雨でも泥でもない、街を歩いた人間だけがつける白っぽい傷があった。あんなはドアを閉めると、しばらくこちらを見なかった。壁紙の金色を見ているのか、靴箱のうえに落ちた細い髪の毛を見ているのか、あるいは何も見ていないのか、わからなかった。

「今日は、食べ物なし」

あんなは言った。

「ブルーシートも、ポリ袋もなし。足を見たいって言わないで。アカネのことも勝手に聞かないで」

「わかった」

俺は頷いた。

あんなはそこで初めて俺を見た。顔色は悪くなかった。だが笑ってはいなかった。仕事の顔でもなかった。客を警戒する顔でもない。怒っている顔でもない。ただ、何かを決めてきた人間の顔だった。

「床になりたいって、まだ思ってる?」

すぐには答えられなかった。溝口の声が蘇った。床は選べない。好きな足だけを待つな。床になることに救いを求めるな。あの錆びた鉄の声が蘇る。

「思ってる」

俺はもう覚悟を決めていた。だから言葉をつけ足した。

「でも、床になれば救われるとは、もう思ってない」

あんなの眉が、ほんの少し動いた。

「誰かに言われたの?」

「鶴見図書館のそばの側溝に」

「なにそれ」

「説明すると長い」

「じゃあ、しなくていい」

あんなはパンプスを脱いだ。

俺は反射的に足元を見そうになった。見なかった。見るな。見たいものだけ見るな。床は選べない。若い女の足だけを待つな。きれいな足だけを欲しがるな。あんなの足はあんなのものだ。俺の資料でも、救済でも、床になるための踏み台でもない。

あんなは脱いだパンプスを揃えなかった。片方だけ少し斜めを向いた。黒い靴の内側は暗く、湿っていた。そこに、さっきまであんなの足が入っていた。そのことを考えそうになり、俺は視線を壁へ逃がした。

「見ないんだ」

「見るなって言われたから」

「えらいじゃん」

褒められたのか、試されたのか、わからなかった。

あんなはベッドに座らなかった。部屋の真ん中に立ったまま、しばらく俺を見ていた。俺はベッドの端に腰かけていた。スーツのズボンは皺になり、靴下の親指の先は薄くなっている。会社帰りの男。性癖をこじらせた男。床になりたいなどと言うくせに、まだベッドに座っている男。

あんなはコース説明や料金の受け取りをすっとばし、いきなり近づいてきた。

ストッキング越しの足先が、俺の靴下の先に触れた。ほんの少し。接触というより、確認だった。お前はまだそこにいるのか、と足で聞かれたような気がした。

俺の足裏は、やはり何も喋らなかった。

「あなたの足、ほんとに静かだね」

「聞こえるの?」

「アカネが聞き方を教えてくれた」

あんなは俺の前にしゃがんだ。膝を曲げる動作が、少しぎこちなかった。右手が、俺の靴下に触れる。風俗のサービスというより、包帯を外すときの手つきに似ていた。そこに傷があることを知っていて、けれど見なければならないから外す手つき。

「脱がせていい?」

頷きかけて、止まった。

これは俺が望んだことではない。いや、望んでいないと言えば嘘になる。だが、俺が欲望で引き寄せた場面ではない。あんなが決めて、あんなが聞いている。だから、ここで頷くだけでは駄目だと思った。

「……大丈夫ですよ」

「そんな他人行儀じゃなくていいよ」

「じゃあ、脱がして」

あんなは俺の靴下を脱がせた。

ひどい足だった。ひび割れた踵。靴に押されて曲がった小指。湿った指の間。爪の端に残った垢。親指の腹には、いつできたのかわからない硬い皮がある。会社の床を踏み、ファミマの床を踏み、ホテルの床を踏み、女の足を見たいなどと思いながら、何も選べず、どこにも行けず、ただ靴の中で蒸れてきた足だった。生活の敗北が、そこにそのまま出ていた。

俺は目を逸らしたくなった。だが、あんなは逸らさなかった。笑わなかった。顔をしかめもしなかった。気持ち悪いとも、かわいそうとも言わなかった。ただ見ていた。

「汚いね。でも、汚いだけじゃない」

「そうかな」

「うん」

あんなは俺の足の甲を指先で軽く押した。くすぐったいというより、そこに血が通っていることを確かめられている感じがした。

「ずっと我慢してきた足だと思う」

その瞬間、喉の奥が熱くなった。泣きそうになった。だが泣かなかった。泣けば、あんなは慰めることになる。俺はまた、人間として扱われたがってしまう。人間として扱われたがっているくせに、床になりたいなどと言っている。そういう卑怯さまで、あんなに踏ませるわけにはいかなかった。

あんなは俺の足を床に戻した。

足裏がホテルの床に触れた。冷たかった。俺の足は、やはり何も言わなかった。

「合格」

「どういうこと?」

「わかんない。アカネがつくったテストに、合格したってこと」

あんなは立ち上がった。

「今日は、普通にしよう」

「普通に?」

「そう。普通に。足とか床とか、そういうのをいったん置いて」

それから先の細かなことは、よく覚えていない。

なにがなんだかわからず、ふたりでぐちゃぐちゃになったあとベッドのうえで寝ころがっていた。あんなの足がシーツの上で丸まり、指先が俺の足に触れた。その瞬間、遠くでアカネの声がした気がした。

ありがとう。

俺は小さく、「どういたしまして」と返事をした。

あんなは聞こえたのか聞こえなかったのか、何も言わなかった。

あんなは俺の横で仰向けになった。天井の鏡を見つめていた。鏡の中のあんなは、実物よりも少し遠く、少し他人のように見えた。

「ねえ」

「はい」

「床になったら、私のことも忘れるの?」

「わからない」

「そこは忘れないって言いなよ」

「床は選べないんだ」

「むかつく」

「ごめん」

「でも、たぶんそれでいい」

あんなは目を閉じた。睫毛の下に、疲れが薄く溜まっていた。

「私、もう一回勉強しようかな」

俺は彼女を見た。

「薬学部?」

「さすがに今から薬学部はわかんない。お金も時間もないし。頭も、昔みたいに動くかわかんない。でも、登録販売者とか、調剤事務とか。そういうのなら、できるかもしれない」

「できると思う」

「簡単に言わないで」

「ごめん」

「でも、言って」

「できると思う」

あんなは少し笑った。

その笑い方は、客に向ける笑いではなかった。アカネの笑いでもなかった。あんなが、あんなとして、少しだけ自分のほうへ戻っていくときの笑いだった。完全に救われた顔ではない。救われるということ自体を信用していないが、それでも信用しようとする、人間の顔だった。それでよかった。

しばらくして、あんなはシャワーを浴びに行った。浴室の扉が閉まる。水音がした。強すぎない水音。石鹸の泡を立てる音。髪を濡らす音。足を洗っているのかもしれない音。俺はそれを聞きながら、ベッドから降りた。

床に足を置く。冷たかった。

ホテルの床。誰かの髪の毛。誰かの汗。誰かの涙。誰かの使用済みの欲望。裸足。靴下。ストッキング。パンプス。スニーカー。清掃員のモップ。安い消毒液。全部を受け止めて、それでも床は床だった。

俺は裸のまま、床に座った。その瞬間だった。足裏からではない。天井からでも、壁からでも、スマホからでも、側溝からでもない。床から声が聞こえた。

言葉ではなかった。音でもなかった。耳で聞いたのではない。ただ意味だけが、俺の中に入ってきた。

明日、お前はアパートの部屋で床になる。

俺は驚かなかった。恐怖はあった。もちろんあった。喉の奥が少し冷え、胃が小さく縮んだ。だが、思ったより小さかった。むしろ、ずっと遅れていた電車が、ようやくホームに入ってきたような感じがした。乗りたかったのか、乗りたくなかったのか、自分でもわからない電車。だが、ドアは開く。乗るか乗らないかではない。もう足元のホームが、静かに動きだしている。

浴室から水音が聞こえる。あんなが鼻歌のようなものを歌っていた。歌というほどではない。調子外れの、短い音の連なり。高校の帰り道にひとりで口ずさむような、すくなくとも、仕事中なら絶対に聞くことのない音だった。そして、あんなの声に、もうひとり分の声が混ざる。アカネの声だった。あんなとアカネが楽しげにしゃべりあっていた。

俺は床に頬をつけた。人間最後の思い出となる音がこの音でよかった。

スマホが震えた。

ベッドの上ではなく、小さい丸テーブルの上で震えていた。

画面を見ると、芦沢からだった。

〈大田さん、明日の朝出社します? それとも取引先のところへ直接行きます?〉

俺はしばらく画面を見ていた。芦沢の黒いスニーカーを思い出した。白いソールの縁にこびりついた薄茶色の汚れ。靴の中で発酵していた、あの痛いオタク語り。あいつなら、俺が床になると言っても、少し笑ってから「いや、それ普通に思想としては強いですね」と言うかもしれない。顔は軽く、足裏だけが本気で震えるかもしれない。

返信をしようと、親指を動かす。

〈明日は〉

そこまで打って、止めた。明日は出社しない。取引先にも行かない。体調不良でもない。有休でもない。無断欠勤でもない。俺は床になる。それを芦沢に送る必要はなかった。床は人間ではない。明日の仕事の心配なんてしない。俺は文字を消し、スマホを伏せた。浴室の水音が、まだ続いていた。あんなの鼻歌は、もう聞こえなかった。水だけが流れていた。流れた水は排水口に吸いこまれ、配管を通り、下へ行く。

俺は頬を床につけたまま、目を閉じた。

 

 

 

 

朝、スマホにはあんなからメッセージが送られていた。

〈昨日のこと、店には言わないでね〉

〈あと悪いこと言わないから、病院に行って。とても疲れてそうな顔をしてた〉

俺はしばらくその文字を見ていた。普通だったら「悪いこと言わないから」は命令だ。あなたのためを思っている。だから反論せずに従え。だけどあんなの言葉には、そういう押しつけがましさはなかった。本当に、悪いことを言うつもりはないのだと思った。

あんなの言うとおり、病院に行くべきなのだろう。そうすれば診断名がつく。幻聴。妄想。解離。睡眠障害。異常性癖。名前はいくらでもつけられそうだ。名前をつければ、会社は安心する。大田くんは病気だったんだね。じゃあ休職させよう。産業医と面談しよう。復職プログラムを組もう。主治医の意見書を提出しよう。薬を調整しよう。そうやって俺はもう一度、人間に戻される。

だが、もう遅い。俺は床になる。その言葉には、昨日まであった焦げつくような欲望がなかった。風呂に入る。歯を磨く。ゴミを出す。床になる。それくらい平らな予定だった。もちろん怖い。怖くないわけがない。だが怖がっても、これからすることは、確実に自分の意志でやることだ。

会社へ行く時間だった。

目覚ましは鳴っていなかった。止めた記憶もない。スマホの画面に表示された時刻を見る。八時四十二分。川崎駅前の商社では、朝礼が終わり、松野が俺の席を見て、あれ、大田くんは、と言っているころだ。誰かが「まだ来てないですね」と答える。芦沢はスマホを見ながら薄く笑っているかもしれない。俺の足裏が黙っている理由を、あいつのスニーカーの奥の足裏が勝手に語って、松野の足裏は大田くんはずる休みしたんだ、ばーか、うんこなんて言って笑っているのかもしれない。

スマホが震えた。

〈大田くん、寝坊? 連絡よこしてよー〉

松野だった。

返信しようと文字を打つ。

〈体調不良のため休みます〉

違う。嘘だ。

〈すみません、起きられませんでした〉

違う。これも嘘。

〈床になります〉

正しい。だが送らなかった。俺はスマホを床に伏せた。

部屋はひどかった。シンクにはコップがある。昨夜飲みかけた水が残っている。机の上には液晶タブレットが置かれている。タブレットの画面には、描きかけの足裏が表示されていた。あんなの足ではない。芦沢の足でもない。俺の足だった。俺が最後に描こうとした足裏だった。汚く、情けなく、つまらなく、熱のない足。だけど、床になる前に、描き終えることはできなかった。

俺は床に横たわった。

頬をフローリングにつける。冷たい。昨日まで、俺はこの床を踏んでいた。会社から帰ってきて、靴下のまま歩いた。風呂上がりに裸足で歩いた。コンビニ袋を置いた。抜け毛を落とした。眠れない夜に爪先で叩いた。液晶タブレットを抱えて寝落ちしかけた。デリヘル嬢の足について考えながら転がった。あんなから連絡が来ない夜、ここに座ってスマホを見た。床はずっと黙っていた。

俺の生活を、こいつは全部受けていた。俺がどれだけ人間として薄く、情けなく、だらしなく、救いようがなかったか、この床だけは知っている。

それなのに、俺はこの床に礼を言ったことがなかった。

「いままでありがとう」

床は返事をしなかった。

俺は目を閉じた。

骨が横へ広がる違和感があった。背骨が一本の柱であることをやめ、ばらばらにほどけていく。不思議とまったく痛みはない。肩甲骨と肋骨がめりめりと開く。腹が裂け、内臓がむき出しになる。胃袋も、肝臓も、腸もあらわになるが、まるでアイスを床にひっくりかえしたときのように、次第に内臓は液体となっていく。当然身体じゅうの骨も液体になる。皮膚が薄く伸び、木目の隙間へ入りこむ。血管も、神経も、だんだんフローリングになじむ。

俺は六畳一間の床全体に広がった。部屋の隅へ薄く流れ、冷蔵庫の下へ入り、机の脚を囲み、玄関やクローゼットの段差の前で止まる。俺はようやく、自分の身体がどれだけ小さかったかを知った。

頭もどろどろになる。髪の毛が落ちる。目玉も転がる。歯は小石のようにぽろぽろ落ちたがすぐに液体になる。耳たぶも一気に落ちた。鼻は消えた。唇も消えた。

名前。

大田。大田くん。大田さん。大田先生。

会社のメールアドレスに入った名字。同人イベントのサークルチケットに印字された苗字(ハンドルネームの苗字は本名のままにしていた)。弱虫水虫が妙に尊敬を込めて呼んだ名前。松野が仕事を振るときだけ甘くする名前。芦沢が説明するのだるいと言いながら軽く扱った名前。……体が消え、名前は意味をなさなくなった。

顔。

液晶タブレットの黒い画面に映った顔。三日眠れていない顔。会社で人畜無害を演じる顔。あんなに「床になりたいんじゃないの」と言われて固まった顔。アカネの声を聞いて、変な使命感みたいなものを宿してしまった顔。昨日、あんなを抱いたあと、天井の鏡に映っていた情けない男の顔。

顔は床の木目になった。

声。

申し訳ありません。確認します。承知しました。大丈夫です。考えておきます。違いますか。お願いします。すみません。たぶん。できると思う。

声は床のきしむ音になるだろう。

ようやくわかった。俺が苦しかったのは、悪い人間だったからではない。弱い人間だったからでもない。才能がないからでも、売れないからでも、会社が向いていないからでも、足裏が好きすぎたからでもない。

俺は、人間に向いていなかった。

床にふさわしい魂で、無理やり人間をやっていた。だから俺の足裏はなにも語らなかったんだ。床に足裏なんてあるわけがない。フローリングにスーツを着せ、名刺を持たせ、朝礼に出し、議事録を取らせ、上司の曖昧な指示に頷かせ、夜には液晶タブレットで美少女の足裏を描かせていた。そんなもの、壊れるに決まっている。畳にスマホを持たせてマッチングアプリをやらせるようなものだ。

人間だったころの俺は、ずっと間違った場所に置かれていた。さあ、これから正しい場所に行こう。

意識が薄くなった。眠りに近かった。

スマホが震えている。画面は見えない。だが床に伝わる振動でわかる。松野。芦沢。もしかしたらあんなかもしれない。同人仲間かもしれない。弱虫水虫の逮捕について語りたいだけの連中かもしれない。人間の世界が、俺をまだ呼んでいる。

呼ばないでくれ。俺はもう、床がきしむ音でしか返事ができない。

……やがて、部屋が静かになった。

 

 

 

 

それからどれくらい時間が経ったのか、わからない。

最初に来たのは管理会社だった。ゴム底が二つ。硬い足と、少し軽い足。鍵の音。ドアが開く音。外気。俺の上を歩き回る足。

「大田さん?」

返事はできなかった。

「いないですね」

「風呂は?」

「いないです」

「荷物、そのままだな」

「スマホもある」

男のひとりが、床に落ちていたスマホを拾った。いや、俺の上から引き剥がした。画面は真っ暗だった。スマホですら、俺より先に死んでいた。

警察も来た。硬い革靴だった。事務的で、疲れていて、偉そうな革靴。写真を撮る足。押し入れを開ける足。風呂場を見る足。机の上の液晶タブレットを確認する足。彼らの足裏も何かを喋っていたが、床になった俺にはうまく聞き取れなかった。床になればすべてがわかるわけではない。むしろ、あらゆるものが同時に落ちてくる。体重、靴底の癖、汗、職業、疲労、興味のなさ。全部が一枚の面に広がって雑音になる。

「自殺の可能性は?」

「遺体が見つからないので何とも」

「トラブルは?」

「趣味関係でありそうですね。この前、都庁で靴を脱がせたあの男のスマホを解析したら、ここの住所が出てきました」

「SNS上の知人ですね。本名は知らなかったようです」

「同人イベントで何度か会っている、と」

警察はつまらなそうな顔をして出ていった。しばらくして清掃業者が来た。薬品。ブラシ。バケツ。業務用の靴底。俺の上に液体が落ちる。冷たい。臭い。刺激がある。だが痛みではない。ブラシが擦る。埃が集められる。こびりついたものが剥がれる。剥がれないものもある。

「ここ、何か染みてますね」

「張り替えたほうが早いんじゃないですか」

「予算次第ですね」

張り替え。その言葉に恐怖する。俺は床になった。だが床は永遠ではない。床材は交換される。傷めば剥がされる。

だが俺が張り替えられることはなかった。クリーニングでいけると判断された。俺は残った。消えたのに、残った。失踪扱いの男がいた部屋として、少しだけ家賃を下げられ、少しだけ説明を濁され、床のうえに人間を住ませる準備がされた。

いつの間にか春になっていた。そうして、俺の上に新しい生活が来た。

不動産屋の革靴が何度か部屋を踏み、内見の女のパンプスが一度だけ部屋に来て引き返し、親に連れられた新社会人のスニーカーが「ちょっと古いですね」と言い残して去ったあと、その男はやってきた。

男は十八歳、新大学生だった。

髪は長く、目の下に薄い隈があり、痩せているのに腹だけ少し出ていた。人間というより、夜更かしが服を着て歩いているような男だった。靴は安いスニーカー。踵を少し踏んでいる。歩き方に緊張がない。社会へ出る前の、まだ誰にも本格的に叩き直されていない足だった。

「前の人、失踪したんですよね」

男は不動産屋に聞いた。

「死亡確認とかはされていないので、いわゆる事故物件という扱いではないんですけど、前の方が失踪されたという説明はしています」

うまくごまかしたなと思った。

「最高じゃないですか」

大学生の口調が弾んだ。不動産屋が一瞬黙って目を見開く。

「最高、ですか?」

「普通の部屋より物語あるんで」

人間だったころの俺なら、心底軽蔑しただろう。だが床になった今、軽蔑はしない。

大学生は入居初日から床に座った。

椅子を買わなかった。机も組み立てなかった。段ボール箱を横に倒してテーブルにした。コンビニ袋を置き、レシートを落とし、ペットボトルの水滴を垂らし、靴下を脱ぎ捨てた。部屋はすぐに大学生の部屋になった。若い男の汗。カップ麺の汁。安い柔軟剤。充電器のコード。読みかけの漫画。開きっぱなしのノートパソコン。床に置かれたままのリュック。人間は、自分の生活を床に少しずつ漏らしながら、自分の居場所をつくる。

大学生の足裏は軽かった。社会にまだ本格的に踏まれていない足だった。踵は薄く、指の腹も柔らかい。だが爪の端には汚れが詰まり、親指の付け根には、小さな硬い皮ができかけていた。だらしないが、まだ終わってはいない足。逃げられると思っている足だった。

しばらくして家具が搬入され、まともな人間の部屋になった。夜になると、大学生は人を連れてきた。最初は同級生の男たちだった。コーラ。ポテチ。コンビニの唐揚げの衣。男たちは靴下のまま上がり、すぐ裸足になり、胡座をかき、寝転がり、俺の上に汗と皮脂とスナック菓子の粉を塗りつけた。

「この部屋、前の住人消えたんだろ」

「え、こわ」

「でも家賃二万って勝ち組じゃん」

「俺なら住む」

「じゃあ住めよ」

「嫌だよ」

笑い声が降ってくる。

重みが来る。膝。踵。爪先。尻。落ちた氷。空き缶。スマホ。笑いすぎて倒れた背中。安い友情。誰かが隠している劣等感。誰かが雑に扱っている若さ。男たちの足裏は無遠慮だった。俺を床だとしか思っていない。いや、正しい。俺は床だ。踏むもの。座るもの。汚すもの。寝転がるもの。何かをこぼして、あとで拭けばいいと思われるもの。

別の夜は女が来た。大学の同級生らしい女だった。白い靴下を履いていた。部屋に入るなり「うわ、男の部屋の匂い」と言った。

男の部屋の匂い。それはかつて俺の部屋にもあったのだろうか。眠剤の切れた汗。液晶タブレットの熱。洗っていないコップ。孤独な性欲。コンビニ弁当の油。あんなを待っていた夜の湿った空気。人間の男は、部屋に自分の失敗を蒸発させる。

女の白い靴下は俺の上を歩いた。

軽い。

だが遠慮があった。足裏が直接触れていないのに、身体の輪郭が伝わる。爪先立ち気味。警戒。好奇心。少しの優越感。帰るべきか、残るべきか、まだ決めきれていない足だった。女はベッドの端に座り、床に足をつけた。

「ここ、ほんとに前の人いなくなったの?」

「らしいよ」

「何それ。事件?」

そのうち大学生は、この女以外にも女を連れてくるようになった。

マッチングアプリで知り合った女。SNSで引っかけた女。デリヘル嬢。大学の後輩。高校の同級生。髪の長い女。香水の強い女。ずっとスマホを見ている女。最初から帰りたそうな女。帰りたそうなのに帰らない女。靴を揃える女。揃えない女。足の爪に赤いネイルを塗った女。踵の荒れた女。ストッキングの足裏が汗で湿っている女。サンダル焼けの女。ブーツの中で一日蒸れた足を、玄関で申し訳なさそうに解放する女。

女たちは俺の上を通った。踏んで、座って、立って、うろうろして、逃げだして、戻っていく。

そしてやはり、足裏は正直だった。男に気に入られたい足。早く帰りたい足。自分を安く見せたくない足。今日だけはどうでもいいと思っている足。触られたくて仕方がない足。触られたあとで急に冷めた足。誰かに愛されたい足。愛されるより先に値踏みされることに慣れすぎた足。

靴を脱いだ瞬間、その人間がどれだけ歩かされ、どれだけ待たされ、どれだけ自分を守ってきたかがはっきりとわかる。

女たちの足裏はよく喋った。顔は笑う。口は嘘をつく。帰りたいとき、人間は顔では笑えるが、足は玄関を向く。まだ抱かれたいとき、人間は口では「帰ろうかな」と言いながら、足で相手をつつく。

大学生の部屋に、誰かが来て、誰かが帰る。足が乗り、足が離れる。湿り気が残る。匂いが残る。重みが残る。俺はそのすべてを受けた。

そのたびに、あんなの足を思い出した。あんなはあの夜、俺を踏まなかった。

いや、違う。最後の夜、彼女は俺の足に触れた。俺の汚い足を見て、我慢してきた足だと言った。だが、床になろうとする俺を、あんなは自分の足で踏まなかった。踏んでほしかった。

だけどそれはあまりに人間臭い欲望で、床にはふさわしくない欲望だった。

 

 

 

 

床にとって季節は足の湿り方でわかるものだった。

梅雨には靴下が重くなり、夏には裸足が増え、秋には乾いた靴底が砂を運び、冬には冷えた足が俺の上で少しだけ縮こまる。大学生の足も、そのあいだに少し変わった。最初はだらしなく、軽く、何も考えずに俺を踏んでいた大学生の足が、季節が数回めぐると、いつのまにか革靴に閉じこめられるようになった。

大学生は女遊びをやめてリクルートスーツを着だした。安物の黒い革靴は、大学生の足にまったく似合っていなかった。説明会、面接、グループディスカッション、適性検査。大学生は毎日のように黒い靴で出ていき、夜になるとくたくたになって帰ってきた。

そのころ、大学生の足裏はよく喋った。

「第一志望群って何だよ。第一志望ならひとつだろ」

「御社の理念に共感って、誰が本気で言ってんだよ」

「多様性の時代って言ってるくせになんで全員同じ靴履いてんだ」

「俺は俺らしく働きたいです、って言った瞬間に白い目向けてくるの、マジでウザい」

靴の中で蒸れ、黒い靴下に包まれながら、大学生の足裏はずっと文句を言っていた。顔は面接官に向かって笑い、口は「成長できる環境で働きたいです」と言っているだろうが、足裏は正直だった。革靴の中で、社会にまだ飼い慣らされきっていない若さが、汗と一緒に発酵していた。

やがて内定が出た。内定が出た日の夜、大学生は部屋に戻るなり、バッグを俺の上に投げた。黒い革靴を脱ぎ、靴下のまま床に倒れこんだ。足裏は喜びの声をあげるのだろうと思ったが違った。

「これから、社会人として床を踏むんだ。満員電車の床。オフィスの床。取引先へ行く車のアクセルとブレーキ。会議室の床。駅の床。居酒屋の床。これから何十年も踏むことになる。俺はそのまま枯れて死ぬんだ」

俺は黙って、大学生の重みを受けた。

大学生の靴下が厚くなった。大学生はずっとパソコンで卒業論文を打っていた。しかし、いつからかだんだん楽しそうな顔をしだした。

大学生は無事に論文を提出できた。靴下が薄くなった。

引っ越し業者がやってきて、ギラギラした革靴の営業が電卓を叩いて見積もりを取った。大学生は品川で働くらしく、新居は大森にした。

それからしばらくした、春雨が降る夜。卒業式の前の日だった。

窓の外で、第二京浜を走る車の音が濡れている。タイヤが水を跳ねる音。遠くで救急車のサイレンが鳴り、だんだん強くなり、途中で遠ざかり、また少しだけ戻ってくる。

鍵が開いた。

「ここ。ちょっと散らかってるけど」大学生はいつものように笑っていた。

「男の人って、ほんとに全員それ言うよね」

女の声がした。玄関で、女が靴を脱いだ。

黒いショートブーツだった。合皮の表面に雨粒がついている。ジッパーを下ろす音がして、片足ずつ、ゆっくりと抜かれる。湿った靴下ではなかった。裸足だった。

最初に右足が、玄関のたたきからこちらへ出た。

爪は短く切られていた。派手なネイルはない。踵にはまだ硬い荒れが残っていたが、以前ほどひび割れていなかった。足首は細い。だが前より、少し肉がついている。青白さの中に、ちゃんと血が通っている。足の指は長く、親指がいちばん前に出ていた。床に触れる直前、一瞬だけためらった。

あんなだった。

あんなが、俺の部屋にやってきた。いや、俺の部屋ではない。もう俺の部屋ではない。ここは大学生の部屋で、俺は床で、あんなは客だった。そういう配置になっていた。世界はいつのまにか、それで問題ない顔をしていた。

最後に会ったのはもう五年近く前だ。だからいまのあんなは二十五歳になるころだった。二十歳だったころの足にあった、無理やり大人にされた感じは薄くなっていた。

「あー、床冷た」

あんなはそう言って、俺を踏んだ。

軽かった。

それだけで、俺は床のくせに泣きそうになった。もちろん床は泣かない。涙腺もない。顔もない。泣くための器官がもうどこにもない。だがフローリングの継ぎ目の奥に、雨でも結露でもない湿り気が生まれたような気がした。

「めっちゃ古くない? ここ」

あんなが言った。

「でも安いんだよ。あと前の住人が失踪してる」

大学生が得意げに言った。

「それ、女の子に言うことじゃなくない?」

「いや、ウケるかなって」

「ウケないよ」

あんなは笑った。

昔より、少しだけ明るい笑い方だった。完全に救われた人間の笑いではない。あんなの足裏には、まだ夜の匂いがあった。知らない男の部屋の匂い。ホテルの床の匂い。シャワーで落としきれなかった金の匂い。だが、その奥に、以前はなかったものがあった。

ドラッグストアの床の匂いだった。

あんなはちゃんと勉強したのだろう。薬学部ではないにしても、登録販売者か、調剤事務か、あるいはその途中か。白い床の上に立ち、棚に並んだ市販薬の名前を覚え、客の質問に答え、レジを打ち、薬局を閉めた後に足をむくませて帰る。そんな生活の重みが、足裏の奥に少しだけ残っていた。

あんなは部屋の中を歩いた。俺の上を。かつて踏まなかった場所を。

あんなの足裏が、俺という床に触れた。あんなはベッドの端に座った。足をぶらぶらさせ、踵で俺を軽く叩いた。とん、とん、と小さな音が鳴る。その音は、昔ホテルで聞いたシャワーの音よりずっと軽く、ずっと近かった。

足の指が、俺の上でゆっくり開いた。親指が木目をなぞる。人差し指が少し曲がる。

大学生がコンビニ袋を漁り、缶チューハイを差しだした。

「飲む?」

「いらない。水ある?」

「ある。たぶん」

「たぶんって何」

あんなが笑い、立ち上がった。

キッチンへ向かう足音がする。ぺた、ぺた、と裸足が俺を渡っていく。そのたびに、俺の中の何かが少しずつ満たされた。

あんなが戻ってきた。コップを持っていた。水を少しこぼした。透明な滴が俺の上に落ち、あんなの足裏がそれを踏んだ。水と皮膚と体温が、俺の面で混ざった。

「あ、こぼした」

「拭く?」

「いい。あとで」

あんなの足裏は水滴を薄く広げ、俺の上に小さな足跡を残した。

その足跡はすぐに消えるだろう。乾けば何もなかったようになる。明日には大学生が卒業式へ行き、やがてこの部屋を出ていく。あんなも鶴見でなく大森の新居にいくようになり、俺のことを思い出せないまま、もしかしたらこの男と結婚するかもしれない。

あんなは水を飲むと「引っ越し手伝うから今度、大森に行くね」と言った。

あんなはデリヘル嬢として大学生の部屋に来たわけではなかった。二人はつきあっていた。それでよかった。

そしてもっと嬉しいことに、あんなの足裏からはアカネの声が聞こえなくなっていた。怒りも、夢も、恨みも、薬学部に行きたかったという声も、もう俺には聞こえなかった。消えたのではない。あんなの中に戻ったのだろう。足裏の奥に押しこめられていたものが、少しずつ、あんな自身の声になっているのだろう。

夜が深くなった。

大学生は酔って眠り、あんなも寝ていた。あんなはベッドの端にいて、片足だけが布団から出て、俺の上に落ちていた。二十歳ではない足。まだ若く、もう若すぎない足。傷があり、荒れがあり、冷えがあり、けれどちゃんと血の通った足だった。

俺も寝ることにした。床の睡眠は人間のように目を閉じるわけではない。木目の奥へ意識を沈めるだけだ。

それでも人間時代には考えられないほど、深く静かに眠ることができた。

 

◆著者プロフィール

眞山大知(まやま・だいち)

1992年、宮城県仙台市生まれ。オンライン文芸誌『破滅派』同人。自動車エンジニアとして働くかたわら、コロナ禍を機に小説の創作をはじめる。短編集に『サティスファクションセンター』、『国会議事堂が妊娠して九ヶ月が経過しました。』(Kindle、株式会社破滅派)

※次回作の公開は2026年6月3日(水)18:00を予定しています。

※本稿の無料公開期間は、2026年6月3日(水)17:59までです。それ以降は有料記事となります。

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