◆作品紹介
3人の少女たちのありふれた日々は〈FCRIT〉によって一変する。屍肉たちに取り囲まれ、彼女らの〈王国〉は燃える。羽音だけを残して。果たして、その羽の行き着く先は。
百合+ゾンピアポカリプス、水町綜「蝿の姫君」をお届けする。(編・てーく)
以下、記事の本文です。
麗しき少女の人型が新鮮な生肉に爪を立て、齧りつく。
その狂おしい光景に、瑠智は目を注いでる。どこか愛おしげに、うっとりと。真っ赤にぎらつく瞳を曖昧に見開く意志なき屍者こそが、かつてのわたしたちの畏敬の対象だった彼女の――巡のなれのはてだった。
1
「あたしの言った通りになったじゃんね? あいつら、ちょっとボコるだけでピーピー泣き出しちゃってさ、ウケる。くそザコじゃん」
高々と手斧を掲げて、瑠智は得意気にはにかむ。すこし幼いところもあるが、瑠智はわたしたちよりもひとつ年上だった。もっとも、その手の年功序列的なスキームも、今となってはてんで機能していないのだけど。
ふたりでひび割れた高速道路の上をてくてく歩いた。真下には錆びた線路が縦横無尽にのたくっていて、もう何ヶ月もまともに列車が走っているのを見たことがなかった。
「いや、まじですごいよね? 肉だよ? 肉。優勝だよ、完全に優勝」
ビニール袋から透けてみえるつやつやした物体に目を落とす。鶏肉だ。羽を毟り、首と足を落とした肉の塊。それは瑠智が勝ち得た「報酬」だった。〈集落〉を襲いにきたどこぞの野盗くずれたち相手に大発奮して、めちゃめちゃに暴れて追い払ったのだ。
「まじで偉すぎる。このままじゃ、そのうち大統領とかになっちゃうかも? そう思うでしょ? 灯里も?」
「うん、そうだね。そうかもね」
実際のところ、連中が初手でその場で滑って転んで将棋倒しになったことが勝因だったのだけど、瑠智の機嫌は損ねたくなかった。そうして得意気に捲し立てる彼女の言葉を、わたしは「そうだね。瑠智の言う通りだね」と宥めすかし続けて、だしぬけに「あっ」と瑠智が声をあげた。
「ほら、見て」
壁高欄から身を乗り出して瑠智は足下を指す。摩耗した線路の先、はるか昔に横転してぐしゃぐしゃになった列車のすぐ近くで、誰かが歩いてた。その足取りはふらふらと覚束なく、てっぺんにある頭を振り回すようにぐにゃりと傾いでいた。全体的にずるずるとした姿勢を維持したまま、寄る辺なく彷徨っている。
「このあたりで見るの、久しぶりだね」
おもむろに、瑠智はその場に転がっていた拳ほどの大きさの石を拾い上げて「てやっ! 死ねっ!」躊躇うことなく、それを投じた。
投石は放物線を描いて線路上の人物の頭部に命中し、ぼくっと、鈍い音を発して、彼の人はその場に横倒しになった。しばらく、わたしと瑠智は固唾を飲んでその成り行きを注視し続けるも……程なくして、ぬるりと立ち上がる。投擲によってその頭部は陥没していたが、まるで意に会することなく、ふたたび歩き出す。
「だめか〜。これくらいじゃ、やっぱり死なんか」
「念のため、明日、上田さんに教えておこうか」
「そだね。増えたら危ないし」
それきり、なんでもなかったように足下の光景から視線を剥がした。行く先には黒焦げになった自動車なんかが転々と転がっていて、そういうものを乗り越え、踏み越えながら淡々と歩き続けた。
塒にしている、〈王国〉目指して。
それは海沿いの、小高い丘陵の上にある。王国といっても、べつに大層なものじゃない。わたしたちが住み着いている、すっかり廃墟になった〈靴流通センター〉の跡地を勝手にそう呼んでいるだけだ。「でっぱってる看板? の部分がさ、なんだか『王様の冠』みたいだね」と、でかでかと〈靴〉と表記された自己主張の強すぎる部位を瑠智がそう称したから、以降、そういうことになったのだ。
二人掛かりで鈍重なシャッターを持ち上げて、「王国入り」する。
「ただいま〜」
瑠智の弾むような声だけがむなしく響いた。内部は闇で満たされている。わたしがシャッターを抑えている間、瑠智が手慣れたようすでランタンに着火した。火によって顕わになるのは、乱雑に配置された拾ってきたソファや割れた姿見、冬用の防寒着や斧やノコギリ、箒の先にナイフを括りつけた槍、古びたカセットコンロや鍋、寝袋、それと拾ってきた唯一の娯楽である「ドカベン」の単行本(手元には中途半端な巻数しかないので、わたしたちは記憶を失った山田太郎のくだりを何度何度も読み返していた)、それとペットの「ピーちゃん」が入ってるプラ製のかごなんかで――これが勝手知ったる、住み慣れた王国の全貌だった。
わたしたち、三人の。
背負っていたナップザックを降ろしながら、ピーちゃんのかごに目いっぱい薄めた砂糖水を入れてやる。ピーちゃんはカブト虫で、当然、捕まえてきたのは瑠智だった。
だのに、早々に瑠智は飼育に纏わる一切を放棄して、けっきょくピーちゃんの面倒をみてるのはわたしだった。はじめはゴキブリみたいでどうしても好きになれなかったけれど、慣れてくるとこれが中々癒される。存外に巡も同じ気持ちだったようだ。早々に興味を失った瑠智とは違って、わたしたちはかさかさと籠の中で単純動作を繰り返すピーちゃんを飽きもせずに眺めていたものだった。
「お肉、どうするの?」身に着けていたスニーカーやソックス、手斧や関節を覆っていた自転車用のプロテクターをソファの上にぽいぽい投げ出しながら、瑠智は訊いて、
「うーん、干して保存食にしても良いけど……せっかくなら、食べちゃおうか」
どうせ明日のことすら保障できない身の上だ。楽しいことを先延ばしにしても、さして意味がないだろうという判断をくだす。
「やった〜! 生きててよかった!」
大袈裟に喜んでみせる瑠智をみて、わたしはなんとなくやわらかな気持ちがこみ上げてくるのを感じていたけれど、
「それでだけど――巡ちゃんにも、分けてあげて、いいよね?」
直後、ぎくりと固まってしまうも「……当然でしょ?」それだけのことをなんとか絞り出して、
「さすが灯里! んじゃ、さっそくあげてくるね!」言質を取りつけた瑠智は手羽先の部分を引きちぎり、弾むような足取りでフロアからバックヤードへ駆けていく。
しばし、広いフロアにぽつんと取り残されたわたしはかごの中でかりかりと蠢くピーちゃんを眺めていたけれど、観念したように息を吐き、瑠智のあとを追った。
その一室は王国の最奥にある。おそらく売上を管理する保管庫として使われていたのだろう。大きな金庫のあるその部屋はひときわ堅牢なつくりで、なによりも日当たりの問題で夏場でもひやりと涼しくて……そのすべてが、わたしたちが欲する用途を完全に兼ね備えていた。
「ただいま。巡ちゃん!」
室内から響く弾むような声を、どこか後ろめたい気持ちで聴いて――返事はなかった。すくなくとも、なにかしらの意味を結んだ、人語による応答は。
「うる……ぐ、ぐううぅ……」
獣染みた唸り声がこだまするだけだった。だけど、構わず瑠智は続けて「今日はね、まじでピンチだったんだ。前に一緒に観た〈なんとかマックス〉みたいな連中とバトってさ、灯里もめっちゃブルってて、あたしもさすがにバッド入ったけど……でもさ、前に巡ちゃんから教わった通り、その場に斧捨ててさ、釣られて拾いにきたところで顔面に『おらっ!』って膝入れたら鼻血出しながらめっちゃ泣いてんの。ウケるよね?」
「おっ、おう、おぐぅ……」
楽しげに瑠智は語り続けるも、返ってくるのはてんで意味を結ばない、粉々になった音の塊だけ。
「そんなわけでさ、あたしが頑張って勝ち取ってきたお肉だから、しっかり味わって食べてね?」
瑠智は肉を持った手を伸ばす。その先にあるのは、ぱさぱさに痛んだ長い髪と、その真下で無残に変色した鈍色の膚。口先へ差し出された鶏肉に、それは躊躇うことなく歯を突き立て、獰猛に齧りついた。「えう、えう」と涎と声をまき散らしながら。
「美味しい? 足りなかったら、まだあるからね? たぶん、灯里が自分のぶんを我慢してくれるだろうから……」
甲斐甲斐しく食餌する瑠智の姿から、わたしは思わず目をそらしてしまう。その姿はあまりに痛々しくて、とてもじゃないけど、見ていられなかった。
それはばりっと音を立て、与えられた糧を骨ごと噛み砕く。巡のかたちを有した、甘く腐ったなれはてが。
2
「てかさ、アメリカ人ってゾンビ好きすぎじゃない?」
箸の先でポテチを摘まみながら、どうでも良さそうに瑠智は言う。
その日も三人で、瑠智が選んできたなんだかよくわからない映画を三人で観ていた。堕落の現場はわたしの部屋で、卓上に置いたPC画面の中では、バイクに乗った主人公が日本刀でゾンビの首を軽快に刎ねて回っている。
「あー、それね」勝手知ったる態度でわたしのベッドに横たわり、咥えたポッキーを唇の先で上下させながら、巡は答えて「イギリスは幽霊、日本は妖怪、ドイツは魔女ってカンジで、なんか国ごとに代表的な『モンスター』がいるじゃん? で、アメリカって歴史の浅い国だからさ、コンプレックスだったんじゃないの? 自分の国を代表する、モンスターがいないことに」
軽薄な口ぶりとは裏腹に、流麗に言葉を重ねる。
「だからさ、愛おしくて仕方がないんじゃないの? ゾンビと、ついでにUFOは比較的手垢のついてない、自分たちが手に入れた文化のひとつだから。まー、厳密にいうと、そのゾンビだって元々はハイチの伝承だから、まるきりアメリカの文化というと、それもビミョーなんだけど」
「テキトーすぎでしょ」
「うん。テキトー。だからこれは特に根拠のない、ただの与太話」
悪びれもせず、へらへら巡は笑って、それでも、彼女の話は変に真に迫っているところがあった。
「あとさ、ゾンビものってだいたい『なんか文明が荒廃している感じのやつ』とセットになってることが多いから、開拓者精神みたいなのがビシビシ刺激されるんじゃないの? 英国仕込みの、DNAに刻まれた略奪者の魂が、さ」
「そーゆー冒険みたいなのって、しんどくない? あたしは絶対に嫌だなぁ。ぶっちゃけ、キャンプとかもなにが楽しいかわかんないし」
「『不自由さを楽しむ』って、なんだかマゾの遊びっぽいよね」
「こうして三人でだらだらしているほうが億万倍マシだよね。あ〜! 平和で安全な世の中に生まれてきて良かった〜!」
際どい発言を繰り返すふたりをわたしは苦笑しながら見送って――そのような気だるくも愛らしい日々が永遠……とは言わないけど、それなりに長く続くものと信じて疑わなかったけれど……だけど残念ながら、そうはならなかった。
それは特に前触れもなく、あっけなく、突発的にはじまった。
今となっては直接的な原因やきっかけはさだかではない。一説によると某社が大々的に広めていたキャンペーン中の食品化合物が体内で変異しただの某国の生物兵器が逃げ出しただの南極に飛来した遊星からの隕石Xが諸悪の根源だの色とりどりの風説や陰謀論がまことしやかに流布されているけれど、とにもかくにもそれはあっという間に広まって、あまねく各地へ拡散されたのだった。
〈FCRIT〉――Fading Cognition and Rationality Induced Transmutationと銘打たれた、人間を物言わぬ餓えた屍者へと置換させる、凶暴で獰猛なウイルスが。
- Fading Cognition/意識の稀薄化
- Rationality Induced Transmutation/理性喪失による変異
- Transmutation/身体の変異
段階的に訪れる主症状の頭文字を取って、ウイルス罹患者は〈Fritter〉と呼ばれるようになった。〈FCRIT〉は世にも珍しいレトロウイルス? というものらしくて……なんでも、それは人間様の脳みその奥深い部分までカジュアルに到達してその中身? をテッテー的に書き換えてしまうらしい。理系全般が毎回赤点スレスレだったわたしには、正直それはどう大変なのかちんぷんかんぷんなのだけど、ともかく、「それ」に感染した人々は映画の中のゾンビそっくりになった。
絶えず歩き回り、涎を垂らしながら人を襲い、噛みつき、捕食しながらウイルスを媒介し、更に眷属を増殖させる悪夢の存在は爆発的に増え広がり、ウイルスが認知されてもののひと月程度で各国の主要都市やインフラは機能不全に陥った。
ご多聞に漏れず、お偉いさん方はまっさきに安全な場所に逃げ出してしまったので国全体が無政府状態になって、みんなめちゃくちゃになってコンビニとかスーパーを襲って食料を奪い合っていたし、あちこちで火があがって人間同士でガンガン殺し合って……幸い、わたしはまだ巡と瑠智と合流できたので助け合うことができたけれど、そんなふうに、それから向こう半年くらいはもう思い出すのも鬱になるくらい無軌道だった。
以上がだいたいのことの顛末で、そしてこれらの事象は、わたしひとりが懇切丁寧に整理整頓したことではない。
巡はその手の情報を積極的にかき集めて、自分なりにノートに記載していた。
「学者でもないのに、意味ないでしょ」そう問うと、
「こういうのって、後々なくなっちゃうからさ、むしろ私みたいな一個人目線の記録が残っていたほうがなにかとレアだと思うんだ。『アンネの日記』とかもだいたいそんな感じだし……ほら? 若い女の子がやるとみんなありがたがるでしょ? 知らんけど」
いつもの調子で、あっけらかんと巡は答えてみせて――漠然と考えていることがあった。今のところはお先真っ暗だけど、だけどもしもこの先の世界、なんとか建て直せる感じになってきたら、次の世界に一番必要なのは、間違いなく巡のような人間なのだ。彼女なら、巡ならすっかり壊れてしまった人間の世界を上手いこと創り直せるかも知れないから……実際に口に出したことはないけれど、きっと瑠智も多かれ少なかれ、同じ気持ちを共有していたと思う。
わたしたちは、巡の盾になろう。お姫さまを守る騎士のように、この生命すら捧げて、最後まで守り抜く――そう決めていたのに、でも、そうはならなかった。
実際にフリッターから噛まれてしまったのは巡のほうで、わたしたち二人はうっかりおめおめと生き延びてしまっていた。
ただそれだけのまぬけな話で……だからこれは罰なのだろう。
わたしたちの怠惰な生に対する、死ぬまで続く罰。
そういうものの中に、わたしたちは閉じ込められているのだ。
「ぐっ、ぐうぅ……ぐっ、ごぁ……」
暗く冷たい部屋の片隅で、くぐもった奇声が籠っている。
首輪で繋がれ、胸の下ではガムテープでぐるぐる巻きにされた両腕が窮屈そうに拘束されている。この状態まで持ってくるまで、相当な忍耐と努力を強いられた。その甲斐もあって、今の彼女からは完全に脅威が剥ぎ取られている。
冷たく暗い室内では、床に据え置いたランタンだけが唯一の光源だった。頼りなく、揺らぐ火の光に照らされた巡はその相貌に埋め込まれた赤い眼球――そう、赤い瞳。フリッター化した人間の眼球はどろりと黄色く濁るのが通例だったが、兎のように深紅色に彩られたその色彩は、巡だけが持ち得る特異な性質だった。どうして彼女だけにそんな形質が発現しているのか? この異様な目の色は、いったいなにを意味しているのか? 疑問は尽きなかったが、しかし無知なわたしたちにはその謎を解き明かすこともできず、なによりも因果だったのは、その目の色にわたしたちが勝手に意味を見出してしまうことで――きっと、屍者と化しても彼女は「特別」なのだと、そんな幻想を捨てきれずにいる。
「いつか巡ちゃん、また前みたいにお喋りできるようになるかなぁ?」
巡の膚を、日に日に黒ずんでゆく彼女の皮膚の上を甲斐甲斐しくアルコールで浸した綿で消毒しながら、思い出したように瑠智は言って――たしかに幾ばくかは効果はあったかも知れないが、その行為はさもしい「延命行為」に過ぎなかった。すくなくとも、それなりに貴重な消毒液を浪費するに足る行為ではなかった。
甲斐甲斐しく巡の面倒をみる瑠智をみながら、わたしは思い出す。何度も何度も思い返したことを、思い出す。
巡が巡でなくなるまでに過ごした、最期の数時間を。
「――私、もう駄目っぽいね」
千切れた首筋から赤い鮮血を零しながら、息も絶え絶えに巡は言って、彼女を王国に運び込んだわたしたちは彼女の手を取って、無力に泣き続けていた。めそめそと、べしょべしょと。
「私が死んだら……動き出す前にちゃんと殺してね? ゾンビになるなんて、死んでも厭だから……。絶対に守ってよね? これ、約束だから――」
涙と洟で顔面をぐちゃぐちゃにしながら、わたしと瑠智は何度も頷いたけれど――わたしたちは巡の望みを叶えることができなかった。約束したのに。けっきょく口約束になってしまった。
フリッターと化した巡が動き出す前に、ウイルスの根城である頭蓋を破壊する必要があった。だけど、わたしたちにはできなかった。まるで生きてるみたいに巡の死体は綺麗で、そのくせ、触るとぞっとするほど冷たかった。
彼女を本当に尊重しているのなら、やるべきだった。何度も斧を手に取って、その錆びついた刃先を彼女の相貌に振り下ろそうとしたけれど、けっきょく、わたしたちにはできなくて――そうこうしているうちに、ついに巡は動き出してしまった。
その時は、わりと「イケる」と思った。死んだ彼女は、他の曖昧なフリッターたちと比べれば、圧倒的に賢そうだった。やっぱり巡は「特別」だ。彼女は超克しているのだ……! なんて、無邪気に信じていたのだけど、でも実際のところは、そうでもなかった。
数日経つと、大人しかった巡が活発に動くようになった。ぐにゃりと弛緩していた手足に活力に力が宿り、以前のように歩き回るようになったけど、しかしそこにはまるで理性というものが見出せず、言葉を話すこともできなかった。それから一週間も経つとしきりに唸り声をあげ、あろうことか歯を剥いてわたしたちに噛みつこうとした。そのあたりで薄ぼんやりと蟠っていた不安は致命的な失望へと遷移して、わたしたちは色濃い絶望を湛えながら巡を拘束して、鎖で繋いだ。
そして数ヶ月が過ぎた。もはや巡は完全にフリッターと化していた。定期的に餌付けしているので餓死することはなかったが、それでも日に日に死んでいく彼女を押しとどめることはできない。だからだろうか? あてのない奇跡に、ありもしないチャンスに縋りついたわたしたちは何処にも行けなくなってしまった。
「灯里はさ、巡ちゃんが、また前みたいにお喋りできるように、なると思う?」
目を細めて、訊く。
「……そうなると、いいね」否定も肯定もしなかった。断言を避けるかたちで、わたしは目先の答えを先送りにする。
きっと瑠智だって、はなから答えは期待していなかったのだろう。洗浄を終えると、続けて拘束した彼女の爪の先を、丁寧にやすりで磨き始めて「あたし、巡ちゃんのお話もだけど、声も好きだったからさ。小難しい話が多かったけど、でも好きなことを話してるときの巡ちゃん、いつも楽しそうで、まるで天使みたいでさ……」
「天使」と呼ぶには、今の彼女はあまりにその手の神聖さからはかけ離れていると思ったけれど、
「もう一度、声、聴きたいなぁ……」 ぽつりと、瑠智は言う。
いつになく、その口ぶりは真に迫っていて「……瑠智?」
いつの間にか、瑠智は巡の口元へゆっくりと手を差し出していた。わたしはそれを呆然と見送っている。行為の意味を、汲み取ることができなかった。それはあたかも、姫君にかしづく騎士のようで――刹那、かちりと、巡の歯先が空を噛んだ。
空振ったわけではない。咄嗟に瑠智に縋りつき、引き離したのだ。
「あっ、あんた……! いったい、なにを……!?」
思考よりも先に身体が動いていた。息も絶え絶えに、わたしは瑠智を問い質して「あたしも……あたしも巡ちゃんみたいになれば、お話できるかな……って、思って……」そう言って、悪戯を見咎められた子どもみたいに瑠智はふにゃりと笑ってみせた。
笑っている場合ではなかった。怒ればいいのか、悲しめばいいのか、その無邪気な稚拙さを嘲ればいいのか、わたしにはどれも選べなくて……そんなどこにも行けないわたしたちを、巡は黙って見ている。なにも語ることなく、意志なき赤い眼で。
◆
瑠智が眠ったころを見計らって、金庫室へ向かった。
部屋の片隅でそっぽを向いていた椅子を引き寄せる。そのまま前後を入れ替えることなく、鷹揚に背もたれに体重を預けながら、かつての親友を凝視する。
巡は繋がれたまま、赤い瞳を爛々と輝かせている。フリッターは眠らない。身体を動かすエネルギーが尽きるまで、昼夜問わず彼らは蠢き続けて……その無尽蔵の活力が、常に覚醒状態にある心身が、屍者の脳髄が生者のそれとかけ離れていることの証左になっていた。
巡の首元にはペット用の首輪が宛がわれている。そこから伸びた鎖は壁面を這うパイプにぐるぐると巻きつけられていて、捕まった猛獣みたいに自由を奪われた彼女からは、かつての敬意を吸引するだけの叡智やセンスがごっそり抜け落ちている。「抜け殻」だ。まるで価値のない出涸らしだけがそこにある。
だのに、わたしと瑠智は後生大事に、宝物みたいにして彼女を守り続けていて……なんとなく、巡から聞いた話を思い出してしまう。
「――けっきょく友情とか愛情とか、そういう『健全で円満な人間関係』なんてものは『損得』でしか生じなくない?」
いつかのどこかで、いつもの歯切れのいい語調で、歌うように巡は言って「あ、ここでの『得』ってのはなにも即物的なものでなくて、単純な『心地よさ』とかも含まれて……要するに、その人と一緒にいることが自分にとってプラスになること。そのプラスの面が、服のセンスがださいとか眠るときに歯ぎしりしたりだとか、その手の負の側面よりも上回っている限りは、〈友情〉というものはそれなりに円満に続くんじゃないかなぁ?」
ひどく適当そうに言うけれど、それはある意味で「正解」だと思えた。いつもそうだ。この世に真理というものがあるのなら、巡はたやすくそれに触れることができた。こともなげに、あっさりと。
「そういう意味じゃ、尊敬とか畏敬とか、そういう一方的な感情とか献身とか、どちらかが捧げるだけで成り立つ友情……って言っていいのかな? そういうカンケーは、ちょっと不健全、っていうか、ぶっちゃけあんま長続きしないと思う」
いつかのその話を踏まえるに、わたしたちは「プラス」になると思うから巡を手の届く場所に置いていることになって……ほんとうに、そうだろうか?
「――だったらさ、灯里はどう思うわけ?」
聴こえないはずの声を聴いた。懐かしい声色に釣られて視線を滑らせると、視界の端で、黒い塊がわしゃわしゃと蠢いていた。それは輪郭を膨らませたり、縮めたりと奔放に見かけの面積を変えてみせて、絶えずわしゃわしゃと軽やかな音をこぼしている。
そのうち、気がつく。音は羽音で、蠢く質量の塊は蠅だった。すさまじい数量の蠅の群れが凝り固まり、押し合いへし合い、偏執的に絡まりながらその場に質量のかたまりを設えている。
そう遠くない未来……いや、もしかしなくても、今すぐにでも彼女が至るかも知れない風景。その末路。なれの果て。そのようなものとわたしは対峙していて「あーあ、約束、守ってくれなかったんだ」
億千万の蠅の奥から、声が零れる。わたしは目を凝らす。蠅の奥に彼女の顔があった。首から下は見当たらない。蠢き、ざわめく不定形の波に食まれている。
「お陰で私は友だちの目の前で赤ちゃんみたいにだらだら涎を垂らして、ぐずぐずに腐ることになっちゃってさ……ほんとうに、参っちゃうなぁ」
「だって、巡はわたしの一番大切な……」
「嘘つき」
にべなく、彼女はわたしの弁明をはたき落として「――瑠智のためなんでしょう?」
わたしは答えなかった。ただ唇を固く結んで沈黙し続けたれど、それは「肯定」と同義だった。そうだ。ぜんぶ聡明な彼女のお察し通り。たしかに巡は大切だけど……だけど、瑠智はもっと大切だった。
「瑠智がやろうとしたこと、怒ってる?」
巡は日中の瑠智の行為を蒸し返す。あろうことか屍者と同化しようとした、彼女の……。
「そりゃあ、怒るよ……」
「だってそうなったら、ひとりが置いていかれちゃうものね」くすりと、蠅の奥で巡は笑みを含んで「もしそうなったら灯里も――私たちの仲間になってくれる?」
「巡がそう望むなら……すこし怖いけど、でも前みたいに、三人一緒なら……」
探り探り、わたしは言葉を探すけれど――「そうじゃないでしょ?」
切って捨てるように、巡はわたしの「模範解答」を叩き潰した。
「一番気に食わないのは、あの子が私を選んだこと。灯里じゃなくて、私を」
わしゃわしゃ渦巻く蠅の奥で、赤い目がわたしを視ている。赤は危険色で、「停まれ」のサインだ。だけどわたしはわたし自身を律することができず――いつの間にか、手の中には瑠智の手斧があった。
掲げたそれを、振り下ろす。なめらかに、さくさくと。落下した鈍く光る刃の先が彼女のやわらかな肉を掻き分けるたびに、黒い羽虫たちがふわりと舞い上がる。わたしは斧を突き立てる。挽き肉をつくるみたいにして、何度も何度も。懇切丁寧に。みちみちと、ねちねちと。濁った臭気が糸を引いた。
「そうこなくちゃ。ほんとうに欲しいものがあるなら、殺してでも奪い取るくらいのまじででかい気合とか、そういうのが必要だもんね」
「黙れ……」
「図星? 痛いトコ突かれて、ざまぁないじゃん。きゃは! きゃはは!」
「だから黙れって、言ってんの!」
そのお喋りな口を塞ぐために、振り上げた斧を力の限り叩きつける。腐った血しぶきをばら撒き、蠅の奥で蠢く額を、その奥で腐ってる脳みそを叩き潰した。何度も何度も、すり潰すように。
きゃは! きゃはぶぶぶきゃぶぶぶぶんきゃはぁはぶぶぶぶんきゃはァぶぶぶぶぶん――
狂気を滲ませながら、それでも蠅の奥で巡は嗤い続けていた。
ああ、きもちわるくて、きもちいい。
がばりと、上体を起こす。
まず頭の中で暴れ出すのは「とんでもないことをしてしまった」という後悔の念で……怖さで奥歯が震えてくる。恐ろしいことをしたのは、他ならないわたし自身なのに……。しばらくその場で息を出し入れして、暴れる呼吸と気持ちを整えた。
そうしてわたしは今にも壊れそうな心臓の速さに耐え、染み出した汗がすっかり体温を奪ったころ、意を決して、ゆっくりと前をみる。果たして巡は、あの真っ赤な眼球は健在だった。
全身から安堵の息を絞り出す。どうやら夢をみていたらしい。おぞましい、濃密な悪夢を……。続けざまに認識されるのは、ぞっとするほど冴えた感情と意志の向き。依然として瑠智が、あの子がわたしよりも巡を敬愛しているというのなら……去来するのは、どうしようもなく胸が詰まるような赤黒い感情で――ああ、そうか。わたしは理解する。凝り固まったこの気持ちを。
救いのないその感情の正体は――嫉妬だった。
あろうことかわたしは巡に、物言わぬ屍者に嫉妬しているのだ。
3
竹の穂先を、手にした鉈で斜めに寸断する。繊維が裂けないように、小さなナイフでちまちま加工して鋭利な断面を設える。ある程度目途がついたら最後に薄く油を塗って、ライターの火で炙って先端を硬くする。
横倒しになったゲーム筐体を椅子替わりにして、単純作業を繰り返す。筐体にはすっかり色褪せた〈北斗の拳〉のパネルが掲げられていて、その上で両足を投げ出し、黙々と手を動かし続けた。
フリッターや、それ以外のものにも使うための竹槍を量産しているのだ。こんなものでも役に立つことが存外に多いから、地味でも手の抜けない作業だ。周囲にはわたし以外にも、いかにも普通っぽいおじさんやおばさんたちがいて、みんなで黙々と武器になる道具を黙々と加工している。
逃げ延びた人たちは各地に〈集落〉と呼ばれる共同体を形成していた。
都市部の場合、それは大きなショッピングモールや野球場、図書館や病院の跡地に作られることが多い。だけど人口が多いと相応に危険も多く、そのような場所はタフだったり偉かったりする人たちがあっという間に占拠してしまうので、熾烈な生存競争から弾き出された人々は必然的に閑散とした地方都市や田舎町まで追いやられることになる。
現に、今のわたしたちが身を寄せている〈集落〉もそのひとつで――すっかり寂れてしまったシャッターだらけの商店街を封鎖して、まるごと生存者たちの生活の拠点として利用していた。物資に乏しく、慢性的に貧乏だったけれど、そのぶん〈集落〉を襲って略奪するような無法な連中や、思い出したように増殖するフリッターたちの襲撃も比較的控え目なのはせめてもの利点だった。
「お疲れさま。毎日、精が出るね」
背後から中肉中背の男性が声をかけてくる。〈集落〉の管理者のひとりである上田さんだった。年齢は四十代の半ばほどで、やさしそうな顔立ちなのに髪型は稲妻型の剃り込みが入ったモヒカンヘアーで、胸元に〈マノウォー〉と書かれたヘヴィメタルのTシャツを着ている。昔はふつうのサラリーマンだったらしいけれど、こういう世の中ではそうも言っていられないらしく、みんなそうだ。以前とは違う暮らしに順応するために、新しい生き方を強いられている。
「瑠智ちゃん、今日はお休みなんだね」
「ええ、そうですね。なんだか今日はあまり調子がよくないみたいで……その、頭とかの」
上田さんの手前、適当に誤魔化してやる。見張りの仕事は当番制で、今日はいわゆる内職――作物の栽培や生活必需品、武具の作成に従事する日だった。場合によっては襲撃者や不審者相手に大暴れできるので、歩哨の仕事は瑠智も進んでやりたがったけれど、それ以外の単調な作業はさぼりがちだった。今ごろ瑠智は〈王国〉に籠って紐で括ったピーちゃんを散歩させて遊んでいることだろう。いい気なもんだ。
「ふうん。仲のいい友だちがいないと、さみしいね」
頭頂部に残された毛をしゃりしゃりと撫でながら、上田さんは周囲をそれとなく窺って「……それで、灯里ちゃんたちがこないだ見つけたって言ってた、〈例の人〉のことだけど……」低い声色で、本題に入る。
「教えてもらった場所に、〈ライミ隊〉の人たちと一緒に様子を見に行ったんだよね」
〈ライミ隊〉はフリッターの駆除を生業としている荒事専門のチームだ。人のかたちをした屍者を眉ひとつ動かさず「駆除」する、無慈悲な処刑人たち。
「で、言われた通り近くに『一人』うろついてたから、そっちはさっくり『処理』出来たんだけど、念のため付近を探ってみたんだよね。そしたら生活の痕跡のあるシェルターを見つけて、どうも一家三人で隠れ住んでたみたいなんだよね。たぶんなんだけど……たぶん、子どもが、ね……? そういう形跡が、まぁあったわけだ。だけど上手くいかなくて、けっきょくみんな噛まれちゃったみたい」
「そうですか」なんでもないふうに相槌を打つ。かすかに震え出した、指先の揺らぎを気取られないように。
「家には二人ぶんの死体が転がっていたよ。たぶん母子だろうね。お母さんの遺体はまだ綺麗だったけど、子どもの方はかなり症状が進んでいたよ。で、外をうろついてたのは父親で……いやぁ、悲劇だね」
「そう、ですか」
想像した。どうしてフリッターと化した父親だけが往来を練り歩いていたのか。そこにあった、どうしようもなく行き詰った顛末を。生じたであろう、臓物を吐き出すような絶望の行き先を。わたしにはありありと想像することができた。おぞましくも卑近な、その質感を。
「ところでさ、話は変わるんだけど――」唐突に、上田さんはきゅっと目を細めて「灯里ちゃんたちさ、前は三人で仲良く出歩いていたけど、さいきん、ひとり足りないよね? ――彼女、いったいどうしちゃったのかな?」
「……病気なんです。彼女は病気で、その、ちょっと、こじらせちゃってて……」
嘘は吐いていなかったけど、ただそれだけだった。
「へぇ、それは困ったね。かわいそうに」
いかにも気遣うふうに上田さんは唇を窄めるも、そのまなざしは鈍重で冷ややかだ。値踏みするような視線が真上から覗いている。まるで、なにかを見極めるように。
「病気かぁ。困ったねぇ。いやね、最近、なにかと物騒だからさ。どれだけ直してもすぐにバリケードに隙間が出来てるし……あちこちわざと壊して回ってる人がいるのかねぇ? なんて噂になってて……なんだろう? 破滅願望でもあるのかなぁ?」
その声色はぞっとするほど硬質だった。上田さんは悪い人ではない。〈集落〉を預かる人間として、ただ事前に脅威の芽を排除しようとしているだけなのだろう。そして、その「芽」というのは……。
「すみません。今日のところは、これで上がらせてもらいます」
労働の対価として持ち帰ることが許される食糧をいくつか鞄に詰めて、逃げ出すようにゲームセンターの出口に向かった。上田さんは「ああ、そう。お疲れさま。気をつけて」と通り一遍のねぎらいの言葉を吐いて、
「友だちの病気、はやく治ると良いねぇ」朗々と、声を張った。
返事はしなかった。背中越しに浴びせかけられる善意とも悪意ともつかない言葉を振り切るようにして、わたしは急いだ。
◆
決戦は深夜に始まる。
金庫室には冷たい闇が詰まっていた。この部屋に、すくなくとも生きてる人間はわたしひとり。あとは鎖につながれた屍者だけが真っ赤な瞳でわたしを見返している。
揺れるランタンの炎が、わたしたちの影を奇妙に歪めながら壁面に焼きつけていた。
わたしは瑠智から拝借した斧を手の先にぶら下げている。彼女を解体するための、その死にきれない余生を抹消するための、そのための器官が影色の輪郭からにょきりと生えている。対する巡は身動ぎすることなく、ぺたりとその場に座り込んでいて、これなら楽にやれそうだ。
微かな違和感が頬に触れた。わたしの触覚の上で、貼り付いた小さなそれはぶんと羽音を鳴らして――蠅だ。いつの間にか、室内には無数の蠅が飛び回っている。その不快な羽音は決意を呼び込んで――湧いたのだろう。つまり、瑠智が愛した「かたち」が保たれるのは、ここらが限界ということで……厭な冷たさがどんどん自分の内側へ拡散されてゆく。やらないと。今すぐに。
だけどどうしても、手が動かない。やることは簡単で、手にした道具で目の前の彼女を叩き壊す。ただそれだけなのに、呼吸だけが無駄に暴れてる。ぜぇぜぇと、荒い息遣いだけが強調され続ける。鼓膜に刺さるそれはいつしか不快な雑音と混ざり始めて――わしゃわしゃぶんぶんと、耳障りな蠅の羽音だけが世界のすべてになる。
ぶんぶんわしゃわしゃぶんぶんわしゃぶぶぶぶぶ――ぶっちゃけ私のことが、憎くて憎くて仕方なかったんでしょ?
幻聴はここには居ないはずの誰かの言葉を引き連れて、わたしは「違う」と否定する。そんなわけはない。わたしたち三人はいつも一緒で、仲良しで――瑠智から尊敬され、その寵愛を一身に受ける巡のことは恨んだことはなかった。そうに、決まっている。
『健康に悪いからさ、認めちゃったほうがよくない? 自分が思ってる程度には、自分って良いものじゃない、ってさ』
羽音が、いつだって頭の芯にこびり付くあいつの聲が五月蠅くて仕方がない。ぶんぶんぶんぶん、いつも自信たっぷりで、煩わしくて、わたしたちを甘やかに誑かして……ああ、頭がおかしくなりそうだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? どうしてこんなにも、死にたいんだろう? 羽音に塗れたわたしの脳みそはその理由を必死に手繰り寄せて……そうだ。ぜんぶ、ぜんぶ巡のせいだ。わたしたちがまともじゃなくなったのも。わたしがおかしくなってしまったのも。わたしはただ、昔に戻りたいだけで……世界がおかしくなる前の、わたしたち三人の、仲良しで、穢れない、元の正しい姿に――。
『そうはいうけどさぁ、そもそも世の中がこうなる前に――それが確かにあったって、保証はあるわけ?』
刹那、わたしは斧を振り上げて「死人は一生、死んどけ、よぉ!」
目の前の屍者は瑠智から愛される天使なんかじゃない。蠅だ。汚らわしい蠅にまみれた哀れで惨めなお姫さま。それがお前の末路、お前の正体だ。
そのおぞましさ目掛けて、わたしは憎悪の切っ先を叩きつけようとしたけれど――「灯里?」
背後から撃たれた声に、制止する。
「それ、どうするの……?」頭上に掲げられた斧に視線を縫いつけたまま、震える声で瑠智は訊いて、
「殺すの。巡を」淀みなく、わたしは答える。
「は? どうして……? なん、で……?」
「だってもう、だめじゃん。全然まともじゃないじゃん、わたしたち……」 聞き分けの悪い子どもを叱りつけるようにわたしは声を荒げて「ねぇ? わかってる?『この子』のせいで、わたしたちだいぶおかしくなってるんだよ? ……わかってるでしょ? 巡はもう戻らない。一生、このままだって……だから、ちゃんと終わらせないと」
きっと、強く反論されるだろう。激昂した彼女から、めちゃめちゃに暴れられるだろう。なんて、わたしはいつもの「聞き分けの悪い」瑠智を想定していたのだけど――「そんなこと、言わないでよ……」
しおらしく瑠智はうつむいて、「言わないでよ、お願いだから……だって、それを認めて、ほんとのことにしちゃったらさ……ほんとに、終わっちゃうじゃん……」噛み千切るように、ぽろぽろ言葉を落とす。目元を抑えて、その隙間から零れる綺麗な水の粒を隠すように。
わたしはぎくりと、砂を噛むような想いをする。同時に、見誤っていたと悟る。わたしが思っていた以上に瑠智は分別がついていて――だからこそ、なおのこと救いがない。
なにも知らない巡だけが、真っ赤な瞳で愚かなわたしたちを見上げている。
「やっぱり、こうなっちゃった、か……」
観念したように、わたしは斧を降ろして――タイミングを見計らったかのように、がしゃんと、〈王国〉を取り巻くシャッターが揺れた。がしゃがしゃと、音と震えは連鎖する。輪唱するように、頼りない金属の壁面は全身を揺らしている。
「なに、これ……?」びくりと肩を跳ね上げ、瑠智はぎくしゃくと身体を強張らせて、
「わたしが呼んだの」打ち明ける。静やかに。すべてを諦めて、手放すように。
「こんなこと続けちゃ駄目だって、けっこう真面目に準備してたんだけど……でも、無理だった……ばかみたいだよね? 一番大切な自分たちのことなのに、そんな基本的なことすら、自分で決められないなんて……」
実際のところ、これまでにチャンスは何度もあった。だからわたしは、何度も試していた。
巡を解体しようとしていた。巡のかたちを、何度も、何度も、壊すことを試みていた。だけど、一度として成功したことがなかった。
巡のことは憎くて仕方がなかったけれど――同時に、やっぱり彼女のことは今でも好きだった。
賢しらによく回る口も、愛嬌で誤魔化しているけれど、じつは打たれ弱くて悩みやすいわりと面倒な性質も、食い意地が張っているところも、「三歳までバレェやってたんだ」といって、機嫌がいいときに見せてくれた優美なバレェとは程遠い変てこなダンスも、みんなみんな、大好きだった。
今でも巡はわたしの大切で最高の友だちだから、傷つけることはできなかった。それが一番良い、合理的で得なやり方だってわかっていたのに、それでも。
「もうさ、疲れちゃった。だから――」
わたしは選ぶことにしたのだ。三人で仲良く、この世から滅び去る方法を。
巡が残したノートには一通り目を通していた。
いつの間にか、彼女はフリッターが持ち得るある「特性」を見出していた。彼らには、一部の昆虫と同じように光に集まる習性があって――走光性というものらしい。おそらく、人間の集まる場所を探知する過程で身に着けた習性ではないか? とかつての巡は推測していたけれど、真偽はどっちでもよかった。わたしはただ、その仕組みを利用するだけだった。たっぷりひと月ほどかけて、わたしは「下準備」を進めていた。生活圏内から彼らを遠ざけるためのバリゲードなどをこつこつと破壊して回り、買い叩いたりちょろまかしたりした照明器具を〈王国〉へと至る道程に配置して――果たして願い違わず、愚直に誘われた屍者たちはわたしたちを完全包囲したわけだ。
ひときわ大きな怒号が金音を含んで浸透して、続けて地響きのような震えが大気を打つ。わたしは確信する。波濤のように、屍者たちが押し寄せてくるのだ。
想像する。
王国に、神聖だった領域に、ぼろを纏った屍者たちが無分別に踏み込んでくる痛ましい情景を。ソファが、寝袋が、何度も読み返したドカベンが、日々の暮らしを構成していたすべてが無残に踏みつけられ、意味を解体されてゆくのを幻視する。
彼らが持つのは巡のそれとは似ても似つかない、白く濁った眼球で、限界まで開け広げた口腔からは黄ばんだ歯の先が覗き、その皮膚はだらしなく弛緩して、あるいは腐敗している。彼らや彼女たちも、家族や友人と笑い合ったり、誰かを好きになったりした時代があったのだろう。だけど今ここにあるのは、原始的な衝動に突き動かされた渇望だけで――わたしも瑠智も同じなのだろう。巡という光に吸い寄せられた、哀れで無力な虫けらだ。その光はあまりに強すぎたから、眩めきに惑わされてしまったわたしたちはすっかり立ち位置を見失ってしまっていて……でも、それも今日までのことだ。
これはいつかの間違いのやり直しで、姫君のために、騎士は死ぬ。王国は終焉を迎えて、わたしたちはあの日の約束を果たす。
すべてが正常になるのだ。
「なんで……どうして……? どうしてこんなひどいこと、するの……?」
瑠智は目元に込み上げる水分を千切って捨て続けるだけで……彼女にこんな表情をさせてしまったことにずきりと心が痛む。だけどすぐにわたしも瑠智も泣いたり笑ったりできなくなるのだ。問題はない。
背後から「うぉん」と間の抜けた声が響く。廊下まで侵入してきた屍者たちが金庫室まで到達したのだ。
「ひっ」悲鳴を上げて瑠智は後ずさりして、投げ出した足の先で、がしゃりと、音を立ててランタンが倒れた。一瞬、暗闇が世界を支配するものの、ほどなくして広がった燃料をたっぷりと吸ったフリッターに炎が引火する。見たこともないほど、王国の内部は煌々と照らされていた。燃える人型が身を焦がしながら、ゆらゆら歩み寄る。
「あっ、ああ……あっ、うあぁあ……」
いよいよ瑠智は色を失ってその場に座り込み、わたしはぴたりと彼女に寄り添った。手をつなぐと、彼女の小さな手が、その先にあるからだ全体が震えていた。
「お願いだから、一緒に死んで? 巡と一緒に、三人仲良くゾンビになろうよ」
揺れる彼女の耳朶に言葉を注ぐ。それは不器用なわたしなりの精一杯のお願いで、この世に残ったたったひとつの希望だったけれど――だけど、残念ながらそうはならなかった。
無闇矢鱈に暴れるフリッターが籠を壊したのだろう。巡の肩口に、カブト虫のピーちゃんがふわりと着地する。わたしと瑠智はそのあとの推移を、固唾を飲んで見守って……そしてわたしたちの目の前で、巡は限界まで、あんぐりと口を開いて、ばくりと頭からピーちゃんを頬張ってしまう。唖然とするわたしたちの目の前で、ばりばりと。口の端から節くれだった黒い足先を覗かせながら、巡は軽やかな咀嚼音をまき散らして「――こいつ、巡ちゃんじゃないよ!?」
今さらながら、瑠智はわかり切ったことを口走る。しかしながら、それは一種の真理だった。
巡はもういない。かろうじて「かたち」はまだ残っているけれど、ただそれだけだった。わたしたちが慈しんだそれは、この世から消え失せてしまったのだ。そんなとうの昔にわかりきっていた事実が、嫌悪感を伴う現実として唐突に立ち上がってきて――「行こう」弾かれるように瑠智は立ち上がり、わたしの手を強く引いた。
「行くって、今さら、どこに……」
「さぁ? 知んない。でも、このままここで死んじゃうのは、なんかヤじゃん?」
そんなことはない。ここで終わらせるほうが、だらだら無為に生きてくよりもずっと有意義に決まってる。そう反論したかったけれど、
「こうみえて、あたしはきみたちよりも一歳『お姉さん』だからさ、たった一年だけど、それでも人生のセンパイなんだよ?」今さらしかつめらしく、瑠智は言って「そういう小難しいことは生き延びて、それからたとえば……たとえば、お腹いっぱいのときとかに、考えよう」
瑠智はわたしの手を力強く引いて、有無を言わさず逃げ出そうとするけれど、それは無駄な悪あがきだ。目の前には、燃え盛る屍者たちが織り成す死の壁があった。逃げ場はない。そうだ、どうせこうなる。運命はいつだって底意地悪く、無慈悲で、やることなすこと上手くいかなくて……そのあまりの非情さに、わたしは静かに冷笑するけれど――その時だった。
「ぉあああっ、ああっ……ああっ……!」
獣染みた唸り声が、光る熱と冷たさの奥で朗々と響いた。
「ぐっ、ぐうぅ……おん、ぐるぅうううぅ……!」
異音の震源地は巡だ。いつの間にか立ち上がっていた彼女は前傾姿勢になって、ぶちぶちと両の手を封じていた拘束を膂力で捩じ切る。そのまま彼女は、なおも前へ前へ出ようとして「巡……ちゃん……?」
唖然とするわたしたちの目の前で、ばちん、と火花を吐いて鎖を引き千切り、そのまま巡はすばやく前へ出た。
「――きぃ、やあぁ、ああああぁ!」
凄まじい金切り声を吐いて、巡が腕をしならせる。刹那、ぴゅんと鞭みたいに振り抜かれた彼女の腕が、フリッターたちの首から上を薙いでゆく。ひとつ、ふたつ、みっつ、いっぱい。頭部を破砕された屍者たちは切断面からどろりと濁った体液を吹き零しながら、やがて活力を失うまでよたよたと寄る辺なく歩くけれど、力なく突き出されるその手の先に、彼女はもういない。次の犠牲者目掛けて、すっと身を沈めて駆け寄ってゆく。真っ赤な眼光を滑らせて、巡が――巡のすがたを持つものが、踊るように屍者たちを破砕していく。腐った血飛沫を振りまきながら。鮮やかに。
その艶姿に、わたしは畏れとも羨望ともつかない見知らぬ憧憬を抱いて――「行こう」
呆けるわたしの手を瑠智が引く。そのままわたしたちは屍者たちを避けながらバックヤードを進み、天井に据えつけられた隠し扉から屋上へと上がる。〈王国〉の内外はわたしが引き寄せたフリッターたちでいっぱいなので、逃げ場としてはたしかに的確だった。
そのまま靴流通センターの凸字状に貼りだした「靴」の看板に身を隠し、身を寄せ合ってちぢこまった。生き延びるために、今だけ息を殺して……生き延びる? 先ほどとは矛盾する自分の振る舞いに困惑してしまう。さっきまで、あんなに終わりたかったのに……。だのに身体が、全身が、ぶるぶる震えていた。軋むように、背骨から。手の先には、熱さがあった。それは皮膚を通して伝わる脈打つような瑠智の血潮、つまり、いのちのあかしで、目の奥から、だばだばと熱い水が込み上げてくる。馬鹿みたいだった。あれほどわかったようなふりをしていたのに。なのに、こんなにも――。
遠くからはうぉんうぉんというフリッターたちのもの哀しい唸り声と、そして真下からは騒乱が暴れている。命無き者たちが紡ぎ、巻き起こす騒乱を聴きながら「ごめん」とわたしは謝った。それを引き起こしたのはわたしだったけれど、今はそれが自分にできる精一杯だった。
「いいよ。とくべつに、許したげる」
聞いたことがないくらい、やさしい声音で彼女はそう言って、恨んだり、口汚く罵倒したり、それ以上のことをされても当然だったのに、だのに瑠智はなにも言わなかった。
わたしは瑠智に全身の体重を預けた。頭を、胸元にぴとりと沿わせる。すると彼女の薄い身体の真下からどくんどくんと心臓の音が聴こえてきて、ああ、生きているんだな。と当たり前のことを思った。わたしからも同じ音が聴こえるだろうか? わたしの心臓は、ちゃんと動いているだろうか?
「……仮にここを切り抜けられたとしても、この先、上手くやっていく自信なんてないよ」込み上げた不安をふっと唇に乗せてみる。すると、
「それはあたしも同じだって」と、当たり前のように、瑠智はそう返して「でもさ、この先いっぱい失敗してドジ踏んで、死にたくなるくらい間違いまくったとしてもさ……それはもう、巡ちゃんには二度と出来ないことだからさ、だから目いっぱい、噛み締めていこうよ? 楽しいことも、悲しいことも」
できるだろうか? そんな途轍もないことが……。巡にもできなかったことなのに。
眩暈を感じながらわたしは脈打つ命に耳を傾け続けて……それから、いったいどれだけの時間が経っただろうか。
いつの間にか、まどろんでいたらしい。
ほんの短い間だけど、夢をみた。
わたしと瑠智と、それと巡の三人でいつも通りにだらだら過ごしていて、場所はよく覚えていないし、具体的な時期も曖昧だ。だけどどうでもよかった。三人一緒ならどこでもよかったし、どこだって世界の中心だった。
「とどのつまりさ、異常か正常かなんて、ただの多数決の結果だよ」
いかにも高尚ぶって巡はそう言うけれど、酢豚にパイナップルを入れるかどうかでちょっとした口論になって、「ふつうに意味がわからない」と真っ当に切って捨てるわたしたちに対して「は? 酸味が加わって美味しいじゃん!」とひとりで抗議し続けた巡が露骨に不貞腐れたのがきっかけだった。
「実際測ってないけどさ、なんとなく今は人間のほうが正常みたいな感じがするけど、この先もしも世界中の人間のほとんどがフリッターになっちゃったら、そっちのほうが正常ってことになるじゃん?」
恐ろしいことを平気で言う。それはぞっとしない考えだったし、なによりもあながち絵空事でもないという部分が一番おそろしい。
「世界中のひとがフリッターになっちゃったら、それってどんな世の中になるわけ?」無邪気さを滲ませながら、瑠智は訊いて、
「う〜ん、そうだなぁ……」巡は顎先に指を添えて、本気で考え始めてしまう。
「まじめに取り合わないでよ……」
「まぁアリとかハチとか、あとハダカデバネズミも一種の社会を形成するっていうし、まるきり与太ってわけでもないんじゃない? フリッターの社会って」
「や、無理でしょ」
わたしにはそれが実現できるとはとうてい思えず……せいぜい、共食いし始めるのが関の山だろう。
「でもさ、フリッターって、そもそもがウイルスで変異した存在だから、だったら、目まぐるしく変異するウイルスが更に彼らを高次元な存在に押し上げたりしたら……今はただ『うーうー』唸ってるだけの赤ちゃんみたいなものだけど、そこから今のわたしたちなんかより、ワンチャン、ずっともの凄いなにかに進化したりして……?」
「あいつらは、ポケモンみたいに今まさに成長してる途中、ってコト? え、やばいじゃん。やばっ」
「どうなっちゃうのかな?」「瑠智ちゃんはどうなったら嬉しい?」「えー? 羽とか生えたらかっこよくない?」「天使さまみたいな?」「あー、でもフリッターっておっさんばっかりか。やっぱり、今のなしで」「おじさんの天使もかわいいかもよ?」
物凄い速度で脱線し始めた他愛のないお喋りに苦笑して――それはひどく寂しくて、やさしい夢だった。夢をみているわたしは、それがすこし哀しい光景だと知っていた。どれほど焦がれても、もう二度と手に入らないものだから。
目を覚ます。真上には紫とオレンジをかき混ぜたような白けた空の色があって、夜が明けていた。
一瞬の気だるい混乱のあとで、すぐに連続性を呼び戻したわたしのたましいが「生きてる」と言葉を落とす。
生きてる。死んでいない。その事実は安堵感をもたらすが、でも「生きたい」というほどじゃなかった。そこまでのエネルギーは、まだわたしの内側には充填されていない。
眠る前には相応に庇護してくれたように思えた瑠智は、いつの間にか覆いかぶさるようにわたしに全体重を預けていて、重い。「起きて」
「むにゃむにゃ……あと六発だけ、ぶん殴らせて……」わけのわからない寝言を零す瑠智をゆさゆさ揺すって、彼女を眠りから解き放つ。
あたりは嘘みたいに静まり返っていった。わたしたちは恐る恐る梯子を降りて、手斧片手に警戒を怠らずにフロアまで戻って「わっ」と、瑠智が間の抜けた悲鳴をあげる。
四散したフリッターたちの断片の真ん中で、巡がすっと立っていた。
破けたシャッターの隙間からきらめく朝日の光帯がいくつも突き刺さって、祝福するように彼女を照らしている。数々の言葉を操った口元も、すらりとした手足もどろどろとした体液に塗れていたけれど、それでも屍者の頂点に立つ彼女は気高く、美しかった。
きっと錯覚だったのだろう。だけどわたしたちはその崩れた相貌の中に、たしかにみとっていたのだ。かつての、穢れなき彼女の笑顔を。それは心中に、ひどく懐かしいあたたかさを灯して――永遠にも思える一瞬の会合を挟んで、直後、ぐしゃりと巡が崩れた。
4
屍者たちを埋葬するのに、丸一日を費やした。
埋葬といっても立派なものじゃない。ただやけくそみたいに掘った穴に屍体をぽいぽい投げ入れてから埋め直すだけだったが、それでも野晒しにするかはずっとマシだろう。
巡の墓、というか土饅頭には、墓標のかわりにアイスの棒をさしておいた。もっと代わりになるものはいくらでもあったけど、こういうシュールな扱いが一番喜ぶだろうから、故人の想いを尊重することにした。
「……たぶんだけど、巡ちゃん、わたしたちを守ってくれたんだよね?」
神妙な面持ちで瑠智は言って、「そうだね」とわたしは相槌をうつ。実際のところ、どうなのかはわからない。単純に、ウイルスによって極限まで研ぎ澄まされた破壊衝動が暴発した結果かも知れなかったし――これはあまりに都合がよすぎる考えだけど――彼女の頭の片隅にかすかに残っていたわたしたちへの思慕が、死にかけた身体を通して発露されたのかも知れない。
なんにせよ、死人は弁明する口を持たないので解釈するのは自由だ。だから、後者の方が気分がいいのでわたしはそう思うことにするし、こればかりは生きてる者だけが持ち得る特権なので、甘んじて行使させてもらう。
〈王国〉にはもう住めない。いや、あれこれ必死こいて復旧すればまだ十分に使えたかも知れないけれど、少なくとも、わたしたちにはもう必要なかった。だから荷物をまとめて、ここを立ち去ることにした。
君主なきわたしたちの国は、その役目を終えたのだ。
去り際に、瑠智は王国を見上げていた。まぶしさに耐え兼ねるように、じっと目を細めて「なんだったんだろうね? あれ?」
それは彼女一流の不明瞭な問い掛けだったけれど、訊かなくてもわかっていた。
わたしは洗い出す。思い出を、ここにこびり付いた月日のことを、清算する。
「損得」という意味なら、わたしたちのそれはひどく歪な間柄だったように思える。いつかの彼女は捧げるだけの感情を「不健全」と呼んだけれど、でも、それはちょっと違う――と思った。あの子はいつも正しいことしか言わなかったけれど、それでも「間違い」だって断言したかった。
「ああ、そっか」納得したふうに、瑠智はうんうんと頷いて「きっと愛だったんだよ。愛」
歪で異常だったけれど、わたしたちが送った日々の中にその異常さは片時も途絶えることなく、いつでもすぐそばにあって――そうだ。それこそが世間で「愛」と呼ばれるもので、見返りを求めない純粋な感情で、あるいはみっともない感傷で、とどのつまり死にもの狂いの献身だった。
愛は捧げることだという。
だったら大前提として、それは異常なものなのだろう。
そんな異常さの中で、わたしたち三人は日々を過ごしていたのだ。
救われない絶望と、精一杯の愛おしさを抱えて。
それは今でもわたしの中に、あの姦しい羽音と一緒に埋め込まれているから、これで良いと思えた。ぜんぜん綺麗じゃないけど、それでも、それでも、それでも、だ。
「それじゃあ、行こうか」
そう促すと、瑠智は「ばいばい。今まで、ありがとね」と彼女の墓標に別れを告げて――わたしたちは並んで歩き出す。彼女の居ないこれからの未来へ、屍を越えてゆく。一歩一歩、踏みしめるみたいにして。
さようなら。わたしたちの愛しい姫君よ。
少女たちが去ったあとのことだ。
亡き人を葬った新鮮な墓地の真下から、ずぼりと長く細い腕が差し伸ばされた。
空を掴むようにその指先は踊り、続けて肘から下が頭部が、華奢な上半身が、被さっていた砂と土を盛大に振り落とし、半身を露出させ、ついにその全身を顕わにする。
ゆるやかに立ち上がりながら弓のように全身をしならせて、少女は天を睨む。真っ赤な色彩をきらりと輝かせて。そして次の瞬間――か細い少女はずるりと、纏っていたヒトのかたちを脱ぎ捨てる。鮮やかに。艶やかに。
足元に、ぺしゃんこになった表皮と衣服が折り重なるように堆積して、その内側から発現したもの――集積した純白の筋繊維のかたまりが、美しい曲線を描いていた。常人よりもはるかに長く、しなやかな手足が陽光を跳ね返す。つるりとしたその相貌は陶磁器のようになめらかなで、鼻口に類する器官は見当たらなかった。肥大化した真っ赤な眼球だけが穿たれている。肩甲骨のあたりからは薄い、透明色の膜が伸びていて、その淡やかな表面では張り巡らされた神経と血管が複雑な模様を描いている。
天からの使者を思わせる、ある種の「神聖」さを感じさせる存在がそこにいた。
おもむろに、それは薄膜状の翅をふわりと広げて、軽やかに地面をたたき、浮上する。
〈天翅〉が飛翔する。重力の軛から解き放たれて、そんなもの、はじめから存在していなかったかのように。その飛躍は一見して完成されたアラベスクのように優美だったが、しかし微かに、どこかぎくしゃくしたぎこちなさもある。
天翅は少女たち――長い月日をかけてそれを育くんだ者たちとは反対方向へ飛んでゆく。その行き先は高く、勝手気ままに奔放で、すぐに地上からみえなくなる。
ぶんと、羽音だけがあとに残った。
◆作者プロフィール
水町綜(みずまち・そう)
福岡出身。インターネットでキングペンギンの雛や象のきょうだいの動画を注視したり新年早々航空会社のストに巻き込まれるなど、その猟奇的な活動は多岐に渡る。好きなゾンビとサメが戦う映画はサンゲリア。