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青島もうじき『破壊された遊園地のエスキース』

目次


ロプノールとしての島

ヌル島は、そのただ一本の脚を失った亡霊だけがたどり着ける島なのだという。地縛霊ですらなくなった、世界から忘れられた霊魂。そんな存在にはあまり似つかわしくない常夏の孤島として、ヌル島は在る。生きている人間には、熱帯における海洋の環境変化を計測するための気象ブイが浮かんでいるだけにしか見えないのだけど、そこには確かに幽霊の町があり、町の幽霊がいる。

ヌル島は、近年急速にその面積を縮小させている。かつて新大陸が「発見」される対象であったのは、網羅的な観測技術に限界があったからだ。打ち上げられた衛星が見下ろす地球はグリッド状のものとなり、そこになんらかの物理的な存在が認められるか否かは、グリッドの分解能に左右されることになる。

海中に没したとされる古代の超巨大大陸の存在が否定されるのは、その大陸の大きさがグリッドの分解能を上回っていることが容易に想像されるからだ。認識の網目に引っかかるはずのものが認識されなかった場合、観測者においては二つの選択肢が提示されることになる。一つは対象が存在していないと結論づけること。もう一つは、対象が網の隙間をすり抜けていくくらいに小さいものであると考えること。前者がアトランティスに、後者がヌル島に相当する。

かつて、そこにヌル島が存在するのではないかと人工衛星による調査がなされたことがあった。しかし、そこに島影が写り込むことはなく、ただ深い濃紺の海原だけが茫洋と広がる写真が返ってきた。衛星による測地システムに引っかからないことから、ヌル島の大きさは一メートル四方ほどの大きさに収まっているものと考えられることとなった。しかし、時代を経て測地技術が進歩するとともに分解能は上がり、いまではヌル島の大きさは十センチ角ほどの大きさであることが要求されている。標準的な一枚のフロッピーディスクほどの大きさだ。

それほどまでに小さな島だというのに、ヌル島にやってきてからというもの、誰一人として、何一つとして出くわすことはない。周囲に目をやると、現状の航空写真には決して写ることのない小さな波打ち際の泡の一粒が弾け、どこか近くの島を産卵の場所としている海鳥が、ヌル島に見向きもせずに飛び去っていくのが見える。その羽ばたきの刹那に抜け落ちた灰色の羽根のひとひらが潮風に揉まれながら舞い、手を伸ばしてもほんの少しだけ届かない波間へと姿を消した。

私は亡霊の島の真ん中で、一人膝を抱えて座っている。百平方センチメートルの四方からはみ出すような身体すら持たないままに、私はただ、会えるはずだった誰かのことを待っている。

ジオタグ。私たちが失った、地縛霊としての頼りない一本の脚。

封筒が「あて所に尋ねあたりません」として手元に戻ってきて感じたのは、ほんの少しの、それでいて目を逸らしきることのできないくらいの安堵だった。あなたも、その家族も、もう地元には住んでいないらしい。

住んでいた町のことが好きだったかと訊かれれば、簡単に頷くことはできない。事実、私はこうして地元を離れて仕事を始め、さらに転職を経て別の土地へと移った。なにかから物理的に距離を隔てることをそのまま否定的な感情の発露であるとするのは拙速だが、同時に、私の中にその種類の愛着が存在していないことはどうしても言えてしまうことだと思う。

封筒を耳元に持っていき、軽く振ってみる。投函した時と変わらない、よく乾いたかさかさとした音が聞こえた。中には手紙と数枚の写真が入っている。手紙は最近書いたもの。写真は、まだあなたの存在を当然のものと思っていたころに撮り、最近になってSDカードを引き出しの奥から見つけ、カメラ屋でプリントしたものであった。順序としては「写真を見つけ」「あなたのことを思い出し」「手紙を書いた」ということになる。

色は綺麗に出ていたはずだが、その後ろに写っている山肌と比べてしまうと私たちの身体はどこか色が薄いように見えた。撮影した携帯電話の性能のせいだったのかもしれない。さりげない様子でその厚みのない手を繋いでいる私たちは、どこかぼんやりとした瞳でレンズの向こう側を見つめていた。

小学生の夏に撮られた写真なのだと思う。日差しは山肌に濃い影を描き、あなたの白い膝にはどこかちぐはぐな印象の水色の絆創膏が貼られていた。袖のない服の下の剥き出しの腕は、頼りなく静脈を浮かした色をしている。

あなたはあまり学校の好きな子どもではなかった。行政区分としては市にあたるものの、その地図の端の方に位置する山の辺りには昔ながらの風土が色濃く残されており、あなたはあまりそれに馴染めずにいた。一学年二クラスだけの学校でなぜかあなたに気に入られた私は、ふたり小さな図書室で肩を寄せ合うようにして時間を過ごすことが多かったように記憶している。

あなたが好んで読んでいたのは、世界遺産や航空写真、建物を被写体とした写真集などであった。ここではないどこか。そんな定型文のようにして表現されてしまう場所をあなたは求めていて、今ならばそれが緯度と経度からなる地理座標では記述できないものであることを知ってしまった。

あなたとの話で特に記憶に残っている湖がある。その湖は、かつて地図の上をふらふらとさまよっていたらしい。

タリム盆地タクラマカン砂漠北東部。極めて標高差の少ないその一帯を這う塩湖の名前は、ロプノールという。モンゴル語で「泥土の湖」を意味するそれはかつては広大な湖であり、シルクロードの要地の一つとして栄えていたと記録されている。しかし、都市国家・楼蘭ろうらんの栄華に貢献していたロプノールも四世紀ごろには干上がり、次第にシルクロードの経路としては用いられなくなっていった。こうして、湖と楼蘭は現実からも地図上からも姿を消した。

ロプノールが再び人類の前に姿を現したのは十九世紀のことだった。ロシア軍大佐ニコライ・プルジェヴァリスキーが付近を旅していたところ、二つの大きな湖を発見した。記録上のロプノールからはかなり離れた位置にあるその湖は、淡水であったことから一度その同一性を否定された。

しかし、その後スウェーデンの地理学者であるスヴェン・ヘディンが一つの仮説を打ち立てた。ロプノールがあるとされていた土地、さらに近辺で新しく発見された二つの湖は、共に標高差があまり存在していない。湖には泥土が流れ込み、徐々に埋め立てられ、反対に周囲の乾燥した土地は強い風によって標高が下がっていく。そのようにして川の流れが切り替わり、湖が移動するのではないか。一六〇〇年前のロプノールの消失は、実は干上がったのではなく、湖の闊歩だったのではないか。そのようなことを、ヘディンは論じた。

その二十年後、標高は逆転し、ヘディンの想像したようにロプノールはかつての楼蘭へと再びその巨体を動かした。ロプノールは、地図の上を二度移動したのだ。

ロプノールはダム建設などの影響で現在は干上がってしまい湖としては姿を消したものの、航空写真を覗けばそこになにかがあったという痕跡を認めることができる。あなたの思う「ここではないところ」に一番近い場所は、ロプノールだったのかもしれない。

私が就職を機に地元を離れたのに対して、あなたは地元の小さな役所に仕事を見つけた。仲はよかったもののお互いの事情に深く立ち入ることのないような関係であった私たちは、あなたがここを離れられなかった理由を共有していない。私の引っ越しにあたって小さな駅舎の脇で交わした抱擁が少し長すぎたことだけを、私は記憶している。

私たちはその後、メールや電話なんかで連絡を取ることはあっても直接会うことはなく、連絡も次第に疎遠になり、やがて完全に記憶の片隅へと追いやられてしまった。

再会したのは、あのころ使っていた携帯電話が引き出しから転がり出てきた時だった。懐かしく思いながら、充電器のケーブルをほどいていく。バッテリーはへたっていたものの充電器に差し込めばまだ問題なく起動した。暗証番号は指が覚えていた。撮った写真を閲覧できる「イメージ」なる表示の遥かさにくらくらしつつ時系列を遡っていると、山を背にして色褪せたあなたと私の姿を見つけた。

どこで撮ったんだっけ。そう思いながら詳細を表示すると、ジオタグを上手く取得できていなかったようで、その緯度経度は(0.0000,0.0000)となっていた。そのまま読むとすれば、赤道と本初子午線の交わるギニア湾あたりで撮ったことになる。この静かな山がそんなところにあるわけがない。

どこで撮ったのかは定かではないけれど、この辺りの山は既に住宅街として開発され、風景は跡形もなく消えてしまった。あなたもどこかへと姿を消し、出した手紙は「あて所」なるものを失って、私の手元へと戻ってきた。

あなたがロプノールになっただなんて、そんなセンチメンタルなことを真顔で言えるような育ちかたを、私はしなかった。せいぜい、あなたを縛っていたしがらみから解き放たれて、どこか遠くの都会で適当に生活をやっているのだろうと思う。あなたが私にとって不可欠なものでなかったように、あなたにとっても私は忘れてしまえるような対象だった。そこに強い感傷を抱くことがない程度には。

だから、手紙を書いてしまったのは写真が語りかけてきたからなのだと思う。どこで撮ったのかも定かでない、もうこの世界のどこにも存在していないであろう、深い緑を湛えたあの夏の山。その弔いであったから、私はあなたに手紙を出すことができたのだと思う。

誰からも忘れられて、遠く離れた海の一地点に浮かぶ存在しない山。引き出しから転がり出てきたのは、その種のものだった。あるいはそれを、思い出と呼ぶのかもしれない。

無数に生まれては、信じる者を失って同時に消え去ってしまった信仰があったはずだ。天国は忘れ去られて、忘れ去られた概念の集まる小さな領域へと流れ着く。忘れ去られた天国だけがたどり着ける天国があり、その天国は意識ある存在による認識の如何に関わらず論理的帰結の上に必然的に存在し、「概念」というものが認められる世界において、その裏返しとして同時に生起する。ヌル島の話だ。

世界と結びつけて語られるはずだったその情報の欠落。この記録はどこでなされたのか。本来はそれを重視するべく実装された技術としてのジオタグは、その取得の失敗によって便宜上の島を指定する。一本の脚ジオタグを失った記録は、地縛霊となることを許されず、小さな島の波打ち際へと打ち上げられる。

あるときは絶滅の危機に瀕している野生動物のあいまいな目撃情報が、あるときは老夫婦の営む小さな店の所在が、あるときは数年をかけて世界中の海を周遊するクジラが、衛星とのコミュニケーションの失敗によって、一つの島に集められる。二人の子どもと、既にこの世界から消え去った山を被写体とした写真――私も、その一つだった。

確かにそこにいるはずの消えた都市国家は私には見えず、たった一辺十センチの島の隅々を満たしているのは、私という意識のみであるとしか思うことができない。「忘れ去られた」という共通項によって集められる私たちは、世界それそのものでありながら、重なり合うところを持たない孤独な存在でもある。

ヌル島は、誰かに発見されるたびに天国の天国であったことを思い出す。その発見は、追想などという動作に言い換えることができる。忘れ去られていたということは、必ず過去形でしか存在することのできない動作であり、すでに連絡の取れなくなった二人も、それがいつであったとしてもヌル島を発見することは可能である。

私はただ、会えるはずだった誰かのことを待っている。

湖が世界の仕組みによってその身を動かすように、私たちも技術の偶然の失敗によって幽霊となる。すでに消えた山はもう現実のどこにも存在していないけれど、存在していたという事実を思い出すことは可能だ。

もしもその事実になんらかの救いを感じることができるのであれば、それはヌル島で孤独を抱える無数の私たちにとっての「誰か」になることができるのかもしれない。

そこに浮かんでいるのがたとえ小さな気象ブイであったとしても。私たちは、常に分解能の奥へと隠れていくことで誰かに救いを与える、そんな天国でずっと待っている。

ヌル島には、今日もあて所を持たない手紙が降る。その手紙は灰色の波間へと消え続け、私にはほんの少しだけ手の届くことのない海の底へと常に消えていく。


ラフノー小伝

凪いだ川面に、銀の真円が浮かんでいる。かがみこんで触れると、その月影はわたしの指の間をすり抜けて、透明な液体となってこぼれていってしまった。夏の水はわずかに粘性を帯びているように感じられる。爪の表面に薄く張った水の膜にも月の成分が溶けているような気がして、わたしは強く手を振って水を切った。

その気化の刹那。ほんの少しだけ手のひらから熱が奪われて、わたしは名残惜しさに似た清涼感を覚える。しかしながらそれも長くは続かず、やがてわたしの身体は再び夏の夜に溶けていった。

熱は、その物理的な意味合いにおいて、与える/与えられるの関係で語られうるものだ。わたしの体温が三十六度で、この熱帯夜は三十度を上回っている。重要となるのは他でもないその差と熱伝導率であり、言い換えれば、わたしたちは放熱という他者性を通して、自らの存在をこの世界の内に据えることができている。

夏になるとその奥に死を連想してしまうのは、自他の境界線の曖昧になる感覚によるものなのだろう。

ニ十四時を少し回った夏の夜は纏わりつくような熱気と闇に満ちていて、その濃淡のない均質性のなかにどこまでも自分が希釈されていくような――自分自身がなにかひとつの仕組みに作り変えられていくような気配がした。

けれど、闇であると思っていたものも、川岸の小路に浮かぶかすかな月の光によって薄められていたらしい。それに気がついたのは、縦に長い人工的な影が、草叢くさむらから顔を突き出すようにして生えている姿に行き会ったからだ。

黒々とした陰影となって月夜に穴を穿っていたそれを懐中電灯で照らせば、なにやら古ぼけた碑であるらしいことが分かった。内に墨の流された刻字は、意外にも近代の作のようだ。目を凝らせば川岸にキャンパスの端の隣接する近くの大学の名が彫りこまれており、やがて、それはひとりの研究者にまつわる評伝を記したものであるものと知れた。

名は、ラフノー・ボーアドルト。

科学史家の権威であり、なかでも偽医療の一種である武器軟膏を専門としていたのだという。

ラフノーが修士Masterの学位を得たのは、ドイツは西部、ライン・ルール大都市圏に位置するレヴァークーゼン大学の、文学部史学科科学史専攻コースであった。古高ドイツ語でそのまま「河川」を意味する語より名前を得た大河ライン川は、多感な学生であったラフノーの感性に大きな影響を与えた。

ドナウ川とともに世界最大級の国際河川に数えられるライン川は、しばしばその上流より様々な漂着物を運ぶ。上流で用いられるロマンシュ語の印字された容器包装、アルプス山脈に由来する堆積岩、植生の異なる高山からの流木。ラフノーは、生涯にわたってそれら漂着物の記録を行い続けた。

姿も見えない何者かとの、媒体メディウムを通した物理的接触。流れ続ける場がそこにあれば、時間/距離を隔てていたとしても伝達されるものがある。そのような感覚は、やがてラフノーに対して場の古典論/量子論への興味を与えた。

事実、レヴァークーゼン大学のデータベースで確認可能なラフノーの学士論文は、非ヨーロッパ圏におけるニュートン力学の呪術的受容にまつわるものであり、直接触れることなく――しかしながら恒久的に対象へ影響を与え続ける事物への興味が、そこには垣間見える。

ライン川と並んで、ラフノーに対してそのような隔てられた伝達への関心を抱かせたのは、その恋人の存在であろう。当時のラフノーの手になる雑記を紐解けば、ライン川への漂着物の執拗なまでに詳細なスケッチに加えて、迷いのある筆致によって縁取られた人物のドローイングが見受けられる。精密な点描を特徴とするラフノーのスケッチと比すると、そこには明らかに作為的に曖昧な輪郭が採用されており、それは後に精神分析の面から様々な研究がなされることになったが、ここではその詳細を省く。

ラフノーの恋人についての記録は少ない。同じくレヴァークーゼン大学に通っていた同門であることは知られているが、具体的なエピソードや人柄となると、すべてラフノーの記述に頼ることとなる。容姿についても、写真の一枚に至るまでことごとく破棄されているため、若かりし頃のラフノーの鉛筆が描いた、その亡霊のようなスケッチのみが恋人の姿として残されていた。ゆえに、世界に記録された恋人のすべては、科学史家・ラフノーのその繊細な感覚器を介したものであるとも言える。

後期ラフノーの業績のひとつに、臓器記憶にまつわるものがある。

臓器記憶が疑似科学的であり、少なくとも生理学的な根拠に乏しいことは今日では十分に知られている。しかしながら、提供者ドナーの記憶が受領者レシピエントへと引き継がれるという現象はなにか物語的な仕方で人を惹きつける側面があるらしく、その真偽にかかわらず話題に取り上げられることはままある。

臓器記憶の精神分析的な解釈はさまざまに考案されており、そこには、他者の部品である臓器が内部で作動していることによる自己同一性の揺らぎという機械論的身体観による解釈や、提供者ドナーの生を引き受けるという精神的な重圧に応答する一種の防衛機制であるとする解釈まで、様々なものがある。

後期ラフノーは、そこにひとつのバリエーションを与えた。それが、「中動態的誤読の場」である。「そうなるに違いないという所与の思い込みは、認識の内部においてある程度事実に対して影響しうる」という論に与えられたその名は現代ヨーロッパではすでにほぼ残されていない動詞の態に由来するものであり、つまり、記憶転移という概念の存在こそが記憶転移を顕在化させているとしたのだ。

自らの意志で判断しているようでありながら、その実、なにかに主導されて行動を行っている。そのような受動性と能動性のあわいに、臓器の記憶は宿る。ラフノーは臓器記憶の受容史にそのような心の動きを見出した。

記憶転移の解釈として画期的だったわけではないそれが、しかしながらラフノーの主要な業績のひとつに数え上げられているのは、その概念が他の諸概念に対して、いささか便利に過ぎる程度に幅広く援用可能なものであったからだ。疑似科学の受容史において一定の説明づけを行うことを可能とするその論は、批判こそあれ、おおむね肯定的に受け止められた。

当然といえば当然であるが、実のところ「中動態的誤読の場」はラフノー本人と同等かそれ以上に繊細に条件や定義を必要とするものである。だが、科学の歴史が得てしてそうであるように、一切を考慮に入れず「思ったことが現実化する法則」などと曲解されていったラフノーの「中動態的誤読の場」は、徐々にその固有の事例における検討の手を離れ、好き放題に引用されて、やがて形骸化された自らの理論を疑似科学の一員とするに至った。それがラフノー亡き後に起こった動向であったことが幸福であったのかは、誰にもわからない。

ラフノーとその恋人の関係に話を戻そう。先述の通り恋人について分かっていることは極めて少なく、その要因のひとつには、最期の刻に至るまで二人が婚姻の届け出を出さなかったことが挙げられる。

雑記によると、ラフノーと恋人はレヴァークーゼン大学の敷地の隅、ライン川を望むカフェテラスで出会ったのだという。くすんだ木目のテーブルがいくつか並んでいるだけのしなびたカフェテラスは、ラフノーにとっての運命の日もほぼ貸し切り状態であった。

当時修士課程に籍を置き、ニュートン力学の呪術的受容について研究を行っていたラフノーは、その日、大学学術博物館地下の標本室で資料にあたっていた。外部の入館者で賑わう地上階のフロアに比して、標本室は静まり返っている。人工的に調整されたその空気で肺を満たすと、歴史の流れからほんのわずかの間だけ浮き上がることができるような気がした、と当日の雑記には記されている。

調査は難航していた。科学史を正面から捉えるのではなく、科学的思考の網目から零れ落ちていった疑似科学に対する思想を体系化することは、逆説的に科学史のなんたるかを語りうるのではないか。ラフノーが漠然と考えていたそのような歴史の叙述法は、人類史のなかで絶え間なく繰り返されてきた非科学の棄却によって、具体的な証左を収集することの難しいものであった。

散逸したその情報を掻き集めようとして、それでも目ぼしい情報の揃わないままに、またその日もラフノーは学術博物館を後にした。

日も暮れようかという時間帯、営業の終わる間際に肩を落としながらカフェテラスの扉をくぐったラフノーを迎えたのは、まさにその希求していた実例であった。北緯五〇度を上回るレヴァークーゼンでは、冬になると夜の訪れが極度に早くなる。とっぷりと暮れ果てた薄暗いカフェテラスには、それに似合わず観音開きの立派な窓が東向きに設えらえていた。月齢は十五。ちょうど冬の澄んだ空気のなかを満月が昇ってくる刻であった。

その窓際の席に腰掛けていた影こそが、後にラフノーの恋人となる人物であった。人物の形にくりぬかれた薄明の空には透明な月が浮かび、それはちょうど、月が日を蝕むのと同じ機構による現象であった。

「わたしは、この影によって月を奪われた」との一文が、その運命の日の雑記帳には記されている。

ニュートンが万有引力によって説明づけたものは、なぜ月が落ちてこないのか――すなわち、ふたつの物理的に隔てられた存在が、いかにして影響を与えあうのかについてであった。

ラフノーはニュートンが林檎によって発見されたとされる――これもまた後になって作り出された謬説である――現象を、窓際で静かに揺れる影によって再発見したのだった。

遠方より媒介されることなく事物が届けられる現象は、その場の存在によって可能となる。ラフノーの時代にはすでに「場の量子論」が高度に検討されており、やや専門的な内容に踏み込むが、空間内での量子の状態などに根差した量子力学から、場そのものの状態によって量子の存在を説明づける――量子論を場の量子論の特殊な一状態として扱うための理論への転回がなされた。

それをレトリカルに表現するとすれば「世界のなかに関係性があるのではなく、関係性のなかから世界が立ちあがってくる」とでもなるのだろう。不正確を承知で場の量子論をそのようにして説明づけるのであれば、その晩、ラフノーと月影とを結ぶ空間への介入によってその自我の内部に生起したのは、ラフノーにとっての世界であった。

「わたしの月を壊さないでくれ」

ラフノーがそう声を掛けると、影はほんの少しだけテーブルから身を乗り出し――

「アルキメデスを名乗るのであれば、この王冠が純金であるかを判別できるわけだよね」

と、背後の月を指したのだという。ラフノーは影の対面に腰掛け、自らもまた影の一部となり。その後、カフェテラスの薄いコーヒーを一杯飲んで「あるいは、それを沈めるだけの浴槽があれば」と答えた。やがて閉店時間となり、店外へ追い出されはしたものの、影はラフノーのその解答をいたく気に入ったらしく、古風にも連絡先を交換して二人は別れた。

雑記帳によると、別れ際にラフノーは月を背に立つ影の写真を取らせてもらったのだというが、その具体的な場所についてはノートの不自然な方形の黒ずみによって判読不能となっている。

あるいは、そこにはその写真が貼られていたのかもしれない。

ラフノーは後年になってこの出来事を振り返り、「わたしにとって重要であったのは、その理論の正確性についてではなく、わたしがそう感じたということだ」と回顧している。生涯にわたって続けられた漂着物のスケッチは後に「中動態的誤読の場」のアイデアへと昇華された。ラフノーにとって、恋人は未知の領域から飛来し、物理的な接触を伴うことなしにラフノー自身に「蝕(eclipse)」を引き起こす存在であり、その存在は岸辺に打ち上げられた上流からの漂着物とのアナロジーによって語られることになった。

それにあたって付記するべくは、ラフノーの手になるすべての記述に、恋人の性別が明記されていないということだ。

そのため、籍は入れなかったのではなく、社会制度のために入れられなかったのではないかとする説もあるが、先述のニュートンやアルキメデスの逸話がそうであるように、やはりいずれも憶測の域を出ることはない。

ラフノーは、修士論文を受領された後、数年の空白期間を経て一般的な科学史の扱う範疇を逸脱していったことでも知られる。科学史としては真っ当にその前身となる錬金術を経由した後に、比較神話学や呪術などの民俗学的な領域へと足を踏み入れていったわけだが、その時期と、雑記から恋人が姿を消していた特定の時期はほぼ一致している。

そこに具体的にどのような事情があったのかは、後世の人間には知る由もない。しかし、それを境にラフノーがパウリ・エフェクトにまつわる疑似科学/異端研究の歴史および武器軟膏の科学史における位置付けを思考の対象とするようになったことは事実である。

スイスの物理学者であるヴォルフガング・エルンスト・パウリは、ヴェルナー・ハイゼンベルクと共に先述の場の量子論の原型を作り上げた俊英であるが、一方でその実験の手際については極めて不名誉な定評が与えられていた。

自らが実験に参加するたびに高い頻度で器具を破壊してしまうだけに留まらず、曰く「パウリが触れるだけで計器が壊れる」だの「傍に立っているだけで装置が動かなくなる」だの「なにもしていないのに壊れた」だの、不手際の一言で済ませるには不可解な現象が生じていたのだ。これをして、人はパウリ・エフェクトと言いならわし、それは自他ともに認めるほどのものジンクスであったのだという。

当然ながらこれは非科学的な一種のジョークであり、スコットランドの羊やグロタンディークの素数などと並べて差し支えないような代物である。しかしながら、パウリの死後数十年の後、その効果エフェクトになんらかの科学的根拠を見出すことを目的とした民間研究組織が設立された。ラフノーの誕生する数十年前のことであり、ラフノーがこの世に生を受けるころには、とうにその母体となっていた宗教団体ごと跡形もなく解散されていた。

ラフノーが研究の対象としたのは、この胡乱極まりない組織の「中動態的誤読の場」についてであった。

前述の空白期に執筆したとされ、後にジャーナル論文として発表された「疑似科学にとって万有引力とは何か――月光のアナロジカル重力論」は、具体性を欠く、いささか抽象的にすぎる論として現代では軽視されているきらいがあるが、後述する武器軟膏の研究と併せて読むことによってその真意を測りやすくなる。

上記論文から一節を引くことにしよう。

個々の天体という具象が絶対的な機構として振舞っていた時代から、その天体の運行の裏に潜む歯車としての関数を機構と見做す時代へ。その段階的な推移の転換点はこの科学史においていくつか数えることができ、ひとつは天体望遠鏡の登場を、ひとつは万有引力の発見を、そして現状もっとも新しいひとつは理論物理学に対する場の概念の導入を見ることが一般的であるとされる。

場は、離れた二点間が離れながらにして互いに影響を及ぼしあう可能性を示唆した。注意するべくはこの「二点」は空間を意味するわけではなく、むしろ、その影響関係から空間や時間――世界が立ちあがってくるという運動を指すということだ。

アナクシマンドロスの仮定した万物の根源となる実体――アペイロンは、現代においては共変的量子場と名前を変えた。あるいは、それをかつて月を見上げた羊飼いたちがそこに神話を見たのと同じ瞳の輝きを通して、神と呼ぶのもよいだろう。世界の開闢をおこなった存在の理論的(theoretical)/物語的(narrative)説明づけによる神代の復権。我々はその転換期に生を受け、世界からそのような誤読を誘われたことによって、世界には月光と万有引力という二つの恩寵がもたらされる。

それを単に疑似科学と呼んでしまうことは、あまりに容易い。

この時期の雑記帳からは、恋人の存在が不自然なまでに抜け落ちている。その理由については諸説あるが、それを最大限もっともらしく説明づけているものをひとつ紹介しようと思う。

ラフノーは、パウリが終戦の後に晩年を過ごした地がチューリッヒであったことに意味を見出そうとしていた。チューリッヒはスイス北東に位置する都市であり、それはちょうどライン川の原流域に相当する。

そして、そのライン川というモチーフは、ラフノーにとって恋人の存在と密接に関係しているものであった。

パウリ・エフェクトにまつわる疑似科学史研究は、その源流を武器軟膏に求めた。武器軟膏は十六世紀の錬金術師パラケルススの著書に確認される呪術的医療の一種で、傷そのものではなく傷を与えた武器に軟膏を塗り込むことで共感作用が働き、傷が治療されるというものだ。

武器軟膏は、十六〜十七世紀ごろの西欧においてある程度信じられていた偽医療のひとつであるが、一般的に、その受容の遠因としては「効果がなかったため」ということが考えられている。同時期の西欧には種々の偽医療が蔓延はびこっており、衛生観念の優れない環境下では、なにか医療を施すことが逆効果となることも多々あり、そのために「武器に軟膏を塗り込む」という、肉体に対して一切の操作を行わない医術であった武器軟膏は相対的に効果が見られたのだろう。

しかしながら、パウリ・エフェクト研究ではその疑似科学であるとされた「共感作用」の根拠を、パウリが実際に研究を行い、そして自らが遠隔作用を施すオカルトを体現してみせた場の量子論に見出した。

ラフノーはここに、臓器記憶と同種の「そうなるに違いないという所与の思い込みは、認識の内部においてある程度事実に対して影響しうる」という性質を見出し、パウリ自身が傾倒していたとされるユングのシンクロニシティ理論と重ねて語ってみせた。科学という月光の影に現れる疑似科学。それは、ちょうどラフノーが恋人の影に対して天啓を受けたことにも通じており、あるいは、ライン川のほとりに流れ着く異国の言葉に対する、その無理解と表裏一体となった想像力を重ねることも可能であろう。

いずれにせよ、ラフノーはここで一度「科学史の裏に原理的に必ず生じることになる疑似科学」という、いささか自身もがその裏に片足を踏み入れるような構図を持ち込み、やがて他でもないラフノー自身がその真偽についての研究を行うようになった。

パウリ・エフェクトにまつわる疑似科学は、解体にいたるまでに極めて混乱した論を展開している。比較神話学の観点からは、人類史において同時多発的に同種の神話が生起したということ。呪術の観点からは「一度関係した複数存在は、離れた後も互いに影響を与え合う」というフレイザーの接触呪術の例を引き。やがてそれが量子論によって語られる量子テレポーテーションによって説明づけられる現象であるとする発表を行った頃には、先述の研究所によるパウリ論はすでに回復不能なほどに求心力が衰えていた。

以上は、後期ラフノーの論文「科学と疑似科学のあわい、あるいは藁人形ストローマンの実効について」の序文に記されたパウリ・エフェクト史を要約したものである。

量子テレポーテーション自体は現代でも科学的に扱われる事象であり、それは「もつれの関係にある二量子は、たとえ離れていたとしても他方を観測することによってもう片方の状態を確定させることができる」という、場合によっては同程度にオカルトらしく聞こえるようなものである。

物理的には極めて難解なその現象について、その学問を志していない者にとって科学とオカルトを隔てているのは、時の科学者による承認である。そして、それは夏の夜のように身体と世界のその内外に差を見出せなくなった時点で、互いに影響を与え合うことになる。それは「十分に発達した科学は――」などと、定型文テンプレートを引っ張ることを中動態的に要請するほどに。

そして、科学史家であるラフノーもまたそのひとりであった。

ラフノーにとっての天啓は他でもない月影であり、天啓とは他でもない主体への中動態的な操作を意味していた。

月影という語は同時に三つの語義を有している。曰く、月の光そのものを指し。曰く、そうして捉えることのできる月の姿を指し。曰く、その光が照らし出すものの姿を指すのだという。この三者を同じ言葉を以って言い表すことに、ラフノーは重要な性質を見出していた。

影の存在論というものはそれだけでひとつ遠大なテーマであるが、ここで重要となるのは、月並みにはなるが、影がそれ単体として成立することがないということだ。

月が夜ごとに垂らす透明な光は、遮られるごとに新しいかたちへと作り変えられていく。見えずとも、触れられずとも、たとえ直接に関わることがなかったとしても。その影が内側へと伸ばしてくる指先は、なにかを拒む間も与えずに、その関係性からすべての瞬間/すべての空間に世界を立ち上げる。

これらのことから、ラフノーは科学呪術的な思想から、再び恋人を影としたのだろうと考えられている。

雑記帳から意図的に排除された恋人は、ラフノー自身に――あるいは、生涯にわたるラフノーの研究を通して世界を捉える科学史全体に、蝕(eclipse)を引き起こした。

ラフノー自身を疑似科学のなかに位置づける疑似科学史のなかに黒々と穿たれた、その欠如としての影。夜闇のなかを煌々と直進する月光と、その窓際のシルエット。ラフノーの恋人はそのような形で現在に至るまでここに存在している。

触れることなく影響を与え合う。そのような場を誰よりも信奉し、その月影としての恋人を想うラフノーの感情は、すべて、あの月の夜の窓辺に端を発すものであった。

そのようにして、ラフノーは月の王冠を沈めるだけの浴槽を用意せしめてみせた。

書かれないことで様々な想像へと接続されるだけの、そのような機構としての欠如。この小伝もまた、ラフノー自身がその人生を通して影を落とした「中動態的誤読の場」に要請されるようにして作り出されたもので、その意味において、ここに刻まれた文字のそのひとつひとつが、ラフノーから恋人への愛の言葉であるとも言えるのだろう。

ラフノーは、パウリに倣ってその晩年をチューリッヒで過ごした。研究者として第一線を引いた後にも書き綴られ、主にライン川のスケッチへ用いられた雑記帳によると、ラフノーは恋人と共にチューリッヒへと移り住んだのだという。

スケッチは、恋人との死別を迎える年齢まで続けられた。最後のページには、恋人の葬儀についての簡単な記録と、その晩の川面に映し出された月のスケッチが残されていた。

曰く、恋人の写真は、不可解なことにその火葬の際にすべて自然発火して灰となったのだという。

興味深い逸話としてそのような記録が残されているが、それを科学的に検証する術を、わたしたちは持たない。

しかしながら、ラフノーがカフェテラスの窓際に月影の天啓を得た、その日の雑記帳に刻まれた方形の黒ずみは、現代においてもその有力な傍証として扱われている。


森林完全(Treeing-Complete)

木洩れ陽の差す林床に、二つの概念が生成された。

それは例えば、成長に対する停滞であったり、捕食に対する被食であったり、はたまた、生成に対する崩壊であったりと広範にわたる。二つの概念の間には必ずしも明確な境界線が引かれるわけではなく、それは相互に侵食しあうものではあるのだが、ここでは話を簡単にするため、仮に排中律に従って任意の要素Aを含むものを「私」、含まないものを「あなた」と呼ぶことにする。

私が生成されたのは、日本列島の遥か南東、アジアとオセアニアの境に位置するある実験無人島「T」だ。群島の一部であるT島には発見以来人の手がほぼ入っていない原生林が円錐状の島一面に広がり、固有の生態系を形成している。今も、こうして耳を澄ませば木管楽器のように空気を震わせるカラスバトの鳴き声が聞こえ、そちらに目を向ければしなやかな脚がホルトノキの枝を掴み、黒い艶を湛えた実をついばんでいる様子が見えるだろう。

あなたもまた、同時にT島に生成されている。当然だ。私とあなたは任意の対になる概念だからだ。私は実行開始タグであり、あなたは実行終了タグだ。この物語は私から始まり、あなたで終わることになっている。

さて、早い段階で打ち明けてしまうことにしよう。私とあなたが生み出されたのは、現実のT島ではない。T島の計算する階層状の仮想森林全体によって再度計算される、最奥の小さな箱庭の森林。それこそが、いま私とあなたがいる場所だ。T島は、島全体が一つの巨大なコンピュータとなっている。ちょうど、葉が集まって植物となり、植物が集まって森となるように。

ところで、物語にはなにか目的がないと視線が散るのではないだろうか。適当な筋を作ってやることにしよう。

私は森の中で目を覚ました。差し込む木洩れ陽が頬に落ち、無数の葉によって描き出されるその斑模様は、風に揺れながら絶えず形を変え続ける。亜熱帯の地面は常に湿り気を帯びている。胎動すら感じられるようなその生暖かい泥の中から、私は起き上がった。生成の時だ。

人は、生まれながらにして為すべき目的を持っていると言われることがある。いわゆる、星のさだめというやつだ。そういった目的論的自然観をどう捉えるかはともかく、少なくともプログラムである私には達成すべき目的が存在する。条件付き二頂点最短経路問題である。

私は、あなたと取りうる全ての結びつきの可能性を重ね合わせた状態で生成されている。私は今この時点では目の前でヒヨドリと戯れるあなたの母でもあるし、樹齢千年を超える湿性高木林でかくれんぼをするあなたの双子でもあり、無数の玉虫の翅を敷き詰めたビロードの絨毯に横たわるあなたの首をぎりぎりと締め上げるあなたの子でもある。あなたと取りうる全ての関係性を確率的に重ね合わせた状態こそが、生成された直後の私とあなただ。

二人の人間が最適な形でかかわるとは、どういうことなのだろうか。私の視界の端では、私があなたの気を引こうと線状斑の目立つ暗褐色のシダの葉に火をつけている、という可能性が私自身の行う観測によって棄却された。私とあなたの関係として、最適ではないと計算されたのだ。

右の段落の文章は、「私」を主語としつつも三人称的な視点で構成されていることによって成立する。「私」は「私」同士で互いに観測を行い、より条件に合った「私」が「私」に成り代わって文章上の視点を担うものとして理解していただいて問題ない。

説明に多くの紙幅を割いてきたが、結局のところ「私はT島にてあなたとのもっともよい関係を模索している」と纏められるだろう。そしてその計算はまだ演算中である。このプログラムは、誰かに読まれることによって重ね合わせが解除され、進行する仕組みだからだ。

ここまでが、この物語『森林完全Treeing-complete』の筋書きである。この後は適宜、物語という形で私とあなたという二人の人間の関係を最適化する計算を進めつつ、この計算自体の妥当性を検討していきたいと思う。

T島には多様な陸生貝類が分布している。これは、移動能力が非常に低いために、海洋島における島症候群が働き、各群島で適応放散的種分化が起こったためであると考えられている。半樹上性の扁平なマイマイもいれば、T島に似た円錐状の殻を持ち地表を這うものもいる。当然、現在生きているそれぞれの個体にはそんな進化論的な背景を理解する必要は全くなく、ただ、この生態系に組み込まれて生命の維持および繁殖を行っている。

あなたはそんなマイマイの一匹を拾い上げた。驚いたのだろうか、頭の上に止まっていたルリシジミが羽ばたき、空の青に溶けていく。その様子を見送ったあなたは、殻を後ろからそっと摘まみ、マイマイをゆっくりと私に掲げた。

「私にくれるってこと?」

私がそう聞いてみると、あなたはマイマイの左目を突いた。左の触覚が身体の中に引っ込められる。あなたが私にマイマイを渡してくる様子はない。

「私にくれるって意味じゃないんだね」

そう言うと、あなたは満足げに右目を突いた。どうやら肯定しているらしい。左が否定で、右が肯定。

地面を見ると、一面の落ち葉の中に十数メートル間隔でライトが埋め込まれている。ほとんど手の入っていないT島における、唯一の人工物だ。マイマイはその目で光を感知すると暗所へ移動する性質、すなわち負の光走性を持つため、ライトが光るたびに移動を始める。ライトのオンオフによって動きを変えるマイマイ、マイマイの左右で肯定と否定を示すあなたがこの島には存在する。

一般的なコンピュータは0と1の二値によって制御されている。コンピュータがたったそれだけの情報で計算可能なあらゆる計算を行えるのは、記録領域を持ち、記録領域内を移動し、そこに数値を読み書きできるという性質を持っているからだ。裏を返せば、それらの性質さえ満たしている全ての物は、コンピュータとして扱うことができる。例えばそれが、森林であったとしても。

生態系の持つ食物網は、捕食・被食関係によって個体群密度の可塑性が実現され、時間経過によってその安定化が行われる。すなわち、波として扱うことが可能な概念だ。

マイマイが突然数を減らしたとする。理由はなんでもよい。集団内で感染症が流行ったとか、あなたが調理してあらかた食べつくしてしまったとか、光を当てられたことで天敵であるトカゲに見つかりやすい場所に誘導されたとか。

次に起こるのは、マイマイを主食としていたトカゲの食糧難だ。飢餓に陥ったトカゲは数を減らし、反対に天敵の少なくなったマイマイは個体数を回復する。そしてまたある程度増えれば食糧難を脱したトカゲが数を増し、それを受けてマイマイはまた減る。つまり、それぞれの個体数は相互に影響し合う、時間経過に従って振幅が減少する減衰波となるのだ。

T島に埋め込まれたライトは、光に影響を受ける生物の個体群密度を操作する、コンピュータにおける入力機器として振舞う。ライトによってヒルガオは葉を茂らせ、ヤコウタケの光はかき消され、オオコウモリは眠りにつく。波を操作するのだ。

波は生物同士のかかわりの中に記録され、島のいたるところに埋め込まれたライトによって書き込みが可能である。T島の生態系という記録領域でできる範囲ではあるが、計算機としての条件を満たしていると言える。

ありとあらゆる計算機を模すことのできる計算機の計算モデルは、チューリング完全Turing-completeと呼ばれる。この森林は、チューリング完全である。

しかし、この仕組みのコンピュータでは、原理上計算が難しい問題というものが存在する。マイマイの左右による肯定と否定のみをコミュニケーションの手段としているあなたに、私は問いかけた。

「そういえば、この島にある全てのライトを獣道に沿って一度ずつ通過する経路って、存在するのかな」

ライトは、あなたと読み替えてもよい。全てのあなたの可能性を一つずつ消去するための道筋は、何通りあるのか。

あなたは困ったように眉を寄せて、マイマイの目の上でふらふらと指をさまよわせている、という可能性が私自身の行う観測によって棄却された。マイマイによる0と1のやり取りを行うという私とあなたの関係は、最適なものではないとして棄却されていたのだ。

私はあなたと出会った。あなたは全てのライトの上に、一人ずつ立っている。

全てのあなたを獣道から逸れることなく一度ずつ通過する経路の有無は、確かに理屈の上では一般的なコンピュータでも計算することができる。ただし、それは宇宙の始まりから終わりまでの時間全てを演算に費やしても計算することのできない計算量となる。問題の大きさnに対して確認する経路の数が指数関数や階乗のオーダーとなり、爆発的にその数が増えるためだ。

私から一番近いところに立っているあなたは、透き通るような白い衣を纏っている。天使めいて見えるその姿から、私は天啓を受ける。こちらは・・・・条件に適している経路ではない・・・・・・・・・・・・・・。あなたがそこに存在するという観測を行った私が存在しないことを、私は観測する。

従来のコンピュータでは物理的に解けないとされる問題を解くために、架空のコンピュータが考案された。非決定性チューリングマシンである。これは、天啓を受けるコンピュータである。

少し離れたライトの上に立つあなたが、ゆっくりと手招きをする。先ほど存在しないことが確認されたあなたの頭から飛び立ったルリシジミが、私とあなたの間をふわりふわりと舞う。それに誘われるようにして、私は柔らかい土に足跡を残しながら歩く。

非決定的な選択を許すことによって、冗長であると思われる選択を省くことができる。マイマイの目によるコミュニケーションを行うあなたと私の関係が検討すらされないようなものだと思ってもらえればよい。

これは、私を粘菌、あなたをオートミールと見做せば、非常に粘菌コンピュータの作動機構に似ていることがわかる。今もこうして林床を這っている粘菌は、餌と餌の間を最大効率で結ぶことができ、見ようによっては迷路を解いているとも言える。

すでに棄却された私やあなた、光によるマイマイの大移動、この物語が終わりに近づきつつあることなどの要因を踏まえ、粘菌わたしあなたを非決定的かつ効率的に求め、這う。

指数関数オーダーで棄却されていく私とあなたは、互いに可塑性を働かせ、相互依存的な波となる。現実のT島に設置されたライトは、生態系を計算し、現実のT島よりも少し小さい架空のT1島を形成する。T1島は同様にT2島を計算し、以下、チューリング完全を保てる限界まで、計算は続く。

徐々に小さく、粗くなるT島は、階層として捉えることによって、一つの円錐状に並べられることになる。それはちょうど、森林における生態ピラミッドのように。

食物網は計算する。森林は完全であるから。林冠と高木層が互いに干渉するように、Tn島はT(n+1)島に干渉する。そうしてT島は、級数に近似可能な有限個のT島の総和、すなわち森林の森林として一つの森林を成し、その森林による演算結果の出力を行う。

その値こそが、この物語である。

最奥の森林は、そう大きな容量を持つわけではない。画像を出力できるほどの余裕もなく、せいぜいが文章による状況の説明にとどまる。しかし、それでもよいのだろう。そこに「木管楽器のように空気を震わせるカラスバトの鳴き声」と書いてあることで、想像可能となり、現実におけるカラスバトの鳴き声を文字という記号によって引用できていると見做せるからだ。

だから、私とあなたが最適な関係を目指したことも、文章として出力されることに意味がある。

非決定性チューリングマシンには、もう一つだけ重要な要素がある。そしてそれこそが、非決定性チューリングマシンを空想上の存在に留めている。

答えの存在しない問題を、無視してよい。

裏を返せば、答えが存在しない問題には対応できないのだ。

私は、T島の隅々を観測した。冗長な可能性を全て切り捨て、物語の視点としていた無数の私から視点を奪いながら、観測によってあなたの非存在を確認した。しかし、最も適した私とあなたの関係というものは、ついぞ計算できなかった。T島の森林内部にいるあなたの可能性を、私は全て消し去ってしまったのだ。

さて、冒頭での宣言は覚えているだろうか。私は実行開始タグであり、あなたは実行終了タグだ。この物語は私から始まり、あなたで終わることになっている。

この物語を終わらせるためには、あなたを観測しなければならない。

だから、ページを捲って私を消し去ることで、あなた・・・の存在を証明してください。


〈胞示院掩庭・三断面〉評

本稿を以って、有史一万年の長大なラブレターへの応答とする。

一枚の薄い紙を用意し、そこに黒々としたインクで囲いを描く。図面上の檜皮垣ひわだがきにはどこにも切れ目が存在しておらず、囲繞構造というよりはむしろ檻のようであり、事実、これは監獄からの脱出にまつわる説明である。

0.2mmの製図ペンで引かれた細く端正な檻の内側に、小さな点が打たれた。点は卵であり、差し込む光に温められながら孵化の時間を待っている。進化論的な観点から見れば、遺伝子の変異が蓄積され元の種とどこかの時点で隔たりの生まれることを種分化と見做すため、卵が先か鶏が先かでいえば明確に卵であるものと思われ、ここでは物語の開始時点を卵と設定する。

春の水が穏やかに大海へと流れ込むように引かれた砂紋の中央に、それと似合わぬ仕方で卵が置かれている。俯瞰のシルエットとして描かれる石組に、方丈の縁側の直線。鶴亀蓬莱様式の枯山水庭園であるため、そこに水は引かれておらず、代わりに縦に白糸を流したような石理を持つ石により滝石組が成されている。そこから流れ出た仮想上の春出水が、鶴首石よりやや南方、陽の最もよく当たる流域へと続いており、そこで暖められた卵からやがて小さな一羽の雛が生まれた。

水を流すことなく水景を想起させる枯山水にあって、平面上の雛は生存のために水を求める。檜皮垣の囲繞には切れ目がなく、それは雛を守るようでもありながら決定的にその生命の存在を拒んでいた。五葉松の根も、蝋燭を象った火灯窓も、図面に起こしてしまえば点と線より表象される構造物であり、雛が水を求めるための足掛かりとは到底なりえなかった。雛は、たった四辺のインクの檻より抜け出すことが出来ない。

そのため、雛が庭園の外の景に触れるためには羽が必要であった。二次元の檻の外に出るためには三次元へのアクセスが必要であり、地より湧水の染み出すように、ほんの数ミリでも第三の次元へと飛び立つことが要求されていた。しかしながら、鶏へ成長するためには生きるための水が必要であり、雛はまた時間の檻にも囚われていたともいえる。生き延びるために移動しなければならない次元は、高さか時間のいずれかである。

卵を立てるには、その先端を平面に打ち付ける必要がある。大航海時代より使い古された説話であるが、そこには構築の本質が宿っている。平面とエネルギー、それから意志。それら全ての交差する三重点にのみ、構築は可能となる。

橘俊綱たちばなのとしつなの手になる日本最古の作庭古書『作庭記』には「石を立てんにハ、まづおも石の角かどあるをひとつ立ておおせて、次々のいしをバ、その石の乞わんにしたがいて立べき也」とあり、つまるところ庭を造るとは第一に石を立てることと解釈されてきた。立石口伝。重力に逆らいながらそこにポテンシャルエネルギーを与えることで、そこには緊張が生まれる。緊張の名は意思という。不自然な造形は宇宙を貫く統一法則であるエントロピーの増大に局所的には逆らい、結果、その構造物に何者かの意思の存在が介在するかのように印象付けることとなる。

すなわち、作庭および構築に必要とされる前提には、まず重力の存在が挙げられていた。庭は、雛を取り逃がさないがゆえに庭として存在することができる。

京都は洛北、常磐寺じようばんじ塔頭たつちゆう胞示院ほうじいん庭園における主石を担う沢垂石さわたるいしが、小惑星帯アステロイドベルトの内側でМ型小惑星の砕けたことにより二三億年の昔に地上へ降り注いだ隕石であることが分子解析調査により明らかとなるのは、今回評ずる断面より遥か後の断面である。

胞示院庭園の歴史には沢垂石の存在が深く関係している。名石とはその石を律として世界を構成することの可能な石のことであり、つまるところ、独自の座標系哲学を有する石のことを指しており、沢垂石はその条件を十分に満たしていた。そのため、ここでは沢垂石が室町時代終盤に常磐寺塔頭胞示院庭園へと運び込まれるまでの経緯を概観することから評を開始する。

小惑星帯より周回軌道を外れ、永い旅の末に沢垂石が接地したのは、やがて大陸移動プレートテクトニクスの末に四国東端、徳島県となる土地であった。

沢垂石を発見したのは、鎌倉時代に生を受けた石工の長女であった。周囲の山肌より産出される良質な緑泥片岩は阿波青石の名で都への献上品として重宝され、阿波の石工らはそうした名石を求め、山に入る日々を送っていた。石工のもとには娘が二人おり、忙しい母に代わって二人で父に昼弁当を届けるのが日課となっていた。

日本庭園史において鎌倉時代は、造園を専門とする職が確立した時代であった。夢窓疎石むそうそせきらを代表とする石立僧いしたてそうは、時の権力者の用命を受けて浄土式庭園を造園し、精緻な庭園を通して仏教寺院に権威付けを行っていた。先述の『作庭記』の成立も同時代であり、目利きの石立僧らが強い必要性をもって名石を求める時代であったものと説明できる。

六月の長雨の上がった翌日、石工の長女が昼弁当を運ぶ際に足を滑らせて深い穴へ落ちる事故が起きた。石工の仕事場は他に足を踏み入れる者のない山域であったため苔が厚くし、浸透した雨水のために極めて滑りやすい岩肌となっていたのだった。折悪く末娘は長雨のために体調を崩しており、父の元へ長女一人で向かっていた際の事故であった。

長女は一命を取り留めたものの、足首を強く捻り自力では穴より上がることが出来なかった。長女は声を張り上げて助けを呼んだが、極めて山深くであったためにそれを聞くものはおらず、日がとっぷりと暮れて父が帰宅するまでその遭難は発覚することがなかった。

夜半になり喉の枯れた頃、長女は微かなりんの音を聞く。穴には切り立った岩によって天然のひさしが出来ており、そのために雨水の遮られていた穴の底には飲めるような水がなかった。長女はその暗い穴に似つかわしくない澄んだ音色に往生の刻の訪れを悟ったが、待てども待てども法衣の僧が姿を現すことはなく、やがてそれが現実に存在している音であるものと気付く。

反響に惑わされながらも小さな身で岩と岩との間を這いつつ音の出処を探っていると、不意に拓けた空間に行き当たった。血の滲む膝を庇って身体を伸ばすと、鈴の鳴るのはその空間の中央付近に高々と聳える巨石の裏であるものと知れた。それは巨石によって穿たれた孔へ水滴の垂れることで鳴る天然の水琴窟であった。巨石は地に亀裂を与えており、そこからは透明な地下水が滾々と湧き出していた。

それは真実には人類の生まれる以前、悠久の昔に岩盤を破壊しながら地面へ突き刺さった隕石であったが、その重力に逆らうような力強い造形に、娘はまごうことなき神石であるものと確信する。ここに既に沢垂石における重力と構造主義の関係の萌芽が見られるが、そのような解釈が後に施されることも知らず、長女は巨石に篤い信仰心を抱いた。

長女は湧水に喉を潤し、そうして父の昼弁当と地下水とで三日を生き延び、四日目の朝に末娘の手によって発見された。

人間を人間たらしめているものの一つに二足歩行が挙げられる。そうして解放された二本の腕はさまざまな道具を創り出し、やがて構築という意志へ向けられることになる。同時に、その二本の脚は重力に逆らうようにして作り上げられ、人間はその全身を以って構築を表象する存在となった。文明や意志は、常に重力との戦いであった。

足を痛め、立ち上がることの出来なくなった石工の長女が、天然の立石によって救われた。その構図には、意志と偶然の捩じれた関係を見出すことが出来る。

しかしながらこの物語は神仏の加護による解決で終わることがない。その数日後、長雨の風邪の治り切っていなかった末娘は、肺炎に罹り生死の境を彷徨うこととなる。長女は自らを救った異質の巨石に通い、強く恢復の祈念を行ったが、その甲斐なくほどなくして末娘は命を落とした。

長女がそこに神仏を信じたのは、構築の存在を覚えたからであった。人為によるものでなければ不可能とさえ思われる空間は、実際には隕石の衝突によるクレーターがその成因であった。しかし、岩石を立てるためには意志が必要であり、そこが人の立ち入らない山間であった以上、そこが神の庭であるものと考えることに無理はない。長女は妹の命を奪った神のことを憎み、足を滑らせた自らのことを憎み、その遠因となった父の青石採取を、さらには庭園文化そのものにまで憎しみを募らせた。

そうして、後に沢垂石と呼ばれることとなる隕石は、大量の上質な青石に囲まれながら、硬質な岩肌に注連縄を巻いた磐座いわくらとして阿波国の山中深くで密やかに信仰を集めることとなる。『阿波国あわのくに巖清水いわしみず縁起えんぎ』には「打たバ金音の如き音の鳴る也」とあり、そこからも沢垂石が主成分に隕鉄を持つ隕石であることが推察される。地球重力に捕縛され地表へ落ちた隕石は、そのポテンシャルエネルギーによって、同様に地へ落ちた一人の人間の命を救い、代わりに一人の命を要求した。その偶然になんらかの物語的解釈を見出してしまうことも、ごく自然な因果的推論といえよう。

時代が下り、室町時代終盤にあって常磐寺塔頭胞示院の作庭を担ったのは、いくつもの禅院の庭園を手掛けた石立僧・深砥霍理しんどかくりであった。霍理は禅学思想の集成である『碧巌録へきがんろく』の諸則を反映させながら作庭を行うことが僧らの間で評判であり、特に方丈より臨む枯山水庭園を手掛けることが多かった。

しかしながら、尼僧である霍理は石立僧として作庭を行うなかで極めて重大な問題を抱えていた。当時の洛北には女人禁制の寺が多くあり、そのために霍理は名園の幾つもを直接その双眸を以って観賞することができなかったのだ。

霍理には一人の友人があった。友人もまた尼僧であり、暇を取っては庭を眺めることを好んでいた。そのような友人は常より慈静寺じせいじの名高い枯山水庭園を一目見たいと願っていたが、そこもまた女人禁制をいており友人の夢の叶うことはなかった。

霍理の元に近々開山される禅寺の作庭の話が舞い込んだのは、そのような折であった。

胞示院は古岳宗亘こがくそうこうによって開創されたとも伝わる常磐寺の塔頭の一つであり、山号に枝宝山しほうざんの名を持つ。塔頭のその命名は作庭を担うこととなった霍理に委ねられ、禅の庭における理想郷的庭園の在り方を無垢なる胎児を包み込む胞衣えなに喩して『胞示院』と名付けた。

霍理は密かに、友人のため胞示院に慈静寺庭園の再現を行うことを決める。友人にとっての理想郷は垣のために決して触れることの能わないものであり、それは白砂の大海を隔て対岸に蓬莱を再現する、いわゆる鶴亀蓬莱様式の思想に沿うものであった。

慈静寺は作庭者不明の典型的な鶴亀蓬莱様式の枯山水庭園を持つ。いずれも名石であるが、中でも特筆すべきは方丈の東に置かれた重量感のある舟石であり、正面の観音石や鶴島の羽石などを差し置いて最も強く存在感を放っている。

枯山水はその名の通り水墨画に描かれた幽邃の寂境を箱庭的に再現したものである。幽邃境の切り立った山道には歩みを進める仙人がおり、そこは世俗からは切り離された一種の理想郷として描かれることとなる。水墨画であれば画中に人物を書き入れればよいが庭園である枯山水ではそれが適わないため、鑑賞者を山水画の内奥へ誘うための入り口=感情移入の起点が必要とされ、禅の庭においては主にその役割を舟石が担うこととなった。くつにも似たその石を舟に見立て、そこに自らの立つ想像を行いながら理想郷へ思いを馳せる。眺める主体と眺められる客体とを同時に一人の人間の担う特殊な空間がそこにはあり、慈静寺庭園においては仮想空間へ至るための装置として格別の名石が舟石として用いられた。

如何にして、一度たりとも目にしたことのない庭園をこの世界に再現するか。それが霍理に課された禅問答であった。

同時代の龍安寺石庭は名園として知られるが、その美術的な根拠としては空間に対する奇妙なまでの精緻な取り組みが挙げられる。構築とは石を立てることであり、石を立てることとは重力に対する挑戦であるとは、本稿で再三確認するものである。

人類史におけるごく初期の建築としてはメンヒルが挙げられる。墓標であるともされるそれは、石を立てることによりそこに構築へ至る意志が存在していることを示した。重力に逆らうことは神的体験であり、古代に限ってもストーンヘンジや環状列石などその例には枚挙に暇がない。

枯山水庭園においては、観賞主体および座標の存在が一つの禅的体験の焦点となる。

龍安寺石庭を構成する五群一五の石は、方丈より眺めるとどの角度を以ってしても全ての石を同時には観察できないことで知られる。その説話的解釈は他の無数の論に譲り、ここでは自然と人工の境界を探る作庭という行為における抽象的手続きに注目する。

東端より庭園に入ると、広い奥行きを持った枯山水が目に入る。砂紋の流れを読めばそこが上流であるものと知れ、川の流れに喩えられる鑑賞の開始点が示される。手前に見える切り立った山のような三石は三尊石組の様式で組まれ、その偉容から石庭における主石を担うものと諒解される。

方丈の廊下を渡り砂紋の下流へと立ち位置を移すと、景色は一変する。先ほどまでは大海へと続く長い河として認識されていた下流は、いざ下ってみると景はすでに大海となり、茫洋と広がる海原に点々と岩島が浮かぶよう映る。

空間の歪みに目を凝らせば、その違和感の正体は油土塀の傾斜であるものと気付く。方丈より奥に向かって勾配を付けることで狭い箱庭に遠近法の奥行きを創り出し、そうしてそこには図面には引き起こすことの能わない、鑑賞者と鑑賞対象の間に生まれる現象としての庭園が生まれる。

一時に全てを観ることのできない五群一五の石についても同様である。方丈は人の立つ建造物であり、そこからの視界は不完全であらざるを得ない。ならば、この鑑賞者を強く想定した石庭に想定される鑑賞者は誰か。そのようにして宙に留まりながら見下ろす何者かが必然的に導き出される。

冬の終わり、油土塀に厚く積もった白銀は陽光に照らされて、囲い込まれた方形の庭へ鈍い音を立てながら落ちる。岩肌に生した瑞々しい苔と抽象的な砂紋は庭園に予め織り込まれた時間芸術性を鑑賞者に想起させ、それら全てを超越することによって可能となる観賞体験、すなわち幽邃の境についての景となる。庭園は禅宗における円相図に似て、鑑賞者と鑑賞対象の絶え間ない対話の中にのみ生起する。

そのため、平面に起こされた図面や図画からは庭園の再現をすることは出来ず、自ら庭を臨むことの出来ない霍理にとっては、たとえ借景を用いない箱庭的な庭園であったとしても、他でもない友人が慈静寺庭園に臨んだ場合に生じる概念上の庭を取り出すことは困難であった。

しかしそれでも開山の時期は迫り、霍理は胞示院庭園へ慈静寺を再現するため、慈静寺を慈静寺たらしめる無数の変数を手探りにただ拾い上げていった。不等辺三角形の自然美を有した五葉松、厚く平らな阿波青石の石橋に、薄く引き伸ばすように盛られた築山。常盤木の枝は複雑に湾曲し、鶴島の羽石は今にも飛び立たんばかりに鋭く三角の先端を尖らせている。

優れた石立僧であった霍理にとって、それらの形状を模すことはさして難しいことではなかった。室町の世にあって寺社は十分な資金を投じられ、霍理の要に応じて求める石を揃えることも可能であった。しかしながら、垣の向こうの世界を伝聞により再現することは人間の意識によって知覚可能な情報のみを取り上げることとなり、それでは幽邃境への路として不十分であるものと霍理は諒解していた。

そのような折、慈静寺庭園における主石の特徴を調べ上げた霍理は、それに酷似した岩を、四国の伝承を扱った書の内に発見する。阿波山中の石工の娘らと湧水の巨石にまつわる伝である。

天然に生じた三次元の囲繞と、足を怪我しそこに囚われた長女。妹を奪ったのは他でもない人類にとっての垂直軸と時間軸への不自由であり、それこそが庭園が自然として扱う対象物であった。庭を憎んだ長女の怒りには、眺めることの出来ない女人禁制の庭と重ね合わせられるものがあった。

石を立てんにハ、まづおも石の角かどあるをひとつ立ておおせて、次々のいしをバ、その石の乞わんにしたがいて立べき也。

如何にして、一度たりとも目にしたことのない庭園をこの世界に再現するか。作庭における自然と作為との接合を説いた『作庭記』の記述を引き、霍理は禅問答への応答を行った。絶対的な座標軸の導入。それは、三次元空間において触れることのできない座標へ到達するために、自ら座標系を設定する操作であった。

胞示院庭園の名声を高めたのは、舟石を万象の起点としたその緊張感のある石組に加えて樹藝の巧みさが挙げられる。堂々とした枝ぶりの五葉松に、蓬莱の遠景を担うつやつやとした椿。秋になれば滝口を覆うように楓が色付き、それら全ての存在を支えるよう、最奥では躑躅つつじの大刈込がゆるやかに波打つ。

「藝」の字は、「芸」とは本来対の意味を持つ。すなわち「芸」は「刈」に通ずるともされ自然に介入して整えることを指すのに対し「藝」は播種を指し自ずから形を成すことを意味する。

ならば、なぜ刈込を通した自然に対する構築の導入が「樹藝」と呼びならわされるのか。それも胞示院の造園手法を観察すれば即座に諒解されるはずだ。石の声、枝の声、それらの関わり合う場の声に従って、自然法則の如く透明な態度を以って庭に手を加えていく。花や水の枯れることを刈ると呼ばないように、そこには自然を育む法則としての無我が存在していた。文藝が文筆家の内的世界に限定されないように、樹藝、ひいては園藝は作庭者のみによってなされるわけではない。そこには既に何者かの声が満ちている。

そうして重力に従うでも逆らうでもなく、ただ一つ、幽邃の寂境への入り口となる石のみを基準とした融解した座標系を顕現せしめることで、霍理は垣より造られる三次元の檻に抗した。

それは疑似的に宙へ浮くことと似ていた。三軸ジャイロに加え三軸加速度センサを搭載した無人航空機ドローンは、その六軸の変数を用いて主に姿勢の制御を行う。そこではドローン自身を中心とした絶対座標系があり、高度センサや方位磁針、地表からの距離といった相対座標系は離陸時などあくまで補助的な用途にのみ使われることとなる。

室町の世に空中浮遊ホバリングする仏の姿を夢想したわけでも、ましてや線形代数的なベクトル演算についての知見を動員したわけでもなかろうが、霍理の試みた造園は舟石の一点で世俗と時空間を共有しながらも、その一点より新たに全てを再構築する仕組みとなっていた。

慈静寺の禅の庭の中心を為す舟石は山水世界への入口であり、すなわちその石の声に従って全ての石や砂、植栽、垣、刈込、橋などを組んでゆくことで世界を展開することが可能となる。点は世界であり、世界は点である。門が在らず垣の内に入ることのできないはずの庭で、如何にして雛はその石組を眺めることができるか。そのためには割れた卵の内より一切の世界が創成されたと考えればよい。霍理にとってその絶対座標系の中心とは友人のことであり、その友人に庭を見せるためには慈静寺に匹敵する優れた舟石が必要であった。

そうして霍理は人々から信仰を集めていた石を阿波国より無理矢理に取り寄せた。霍理は注連縄の形に苔の生育が妨げられたその石に沢垂石と名を与え、胞示院庭園の主石に据えた。石の要求する声に従って構成された小宇宙は慈静寺庭園に似ても似つかぬ形状となっていた。しかしながら舟石を通してその奥に覗く幽邃の境は慈静寺のそれと深い部分で通じており、そのことはやがて霍理の石立僧としての名声を確かなものとしたが、悟りの境地に達した霍理には最早全てどうでもよいことであった。

後年発見された霍理の日誌には、ようやく完成を迎えた枯山水の名園は住職の目に入れられるよりも先に、満月の夜更けにひっそりと引き入れられた友人の尼僧へ供ぜられたものと記されている。

時は下り永琴えいきん天皇の御代に入り、作庭家・上牧玲(かみまきれい)は胞示院庭園を『胞示院掩庭えんてい』に改め、遠く外宇宙へ向けて打ち上げた。中心に重力核を埋め込んだ球状の庭園球は、無数の小天体に衝突することなく沢垂石の故郷である小惑星帯をすり抜け、太陽重力圏を振り切り、そうしてやがて恒星間を等速直線運動により移動する禅式の飛翔庭園となった。

永琴の世にあって、三次元方向の移動はあまりに容易なものとなった。規格化された高層建築物が乱立し、それらの間を渡す機構もまた十全に整えられたことにより、身体を水平に横たえたままでも目的の場所へと移動できるような仕組みが整備された。繕うようにして形成される屋上庭園や壁面庭園は、目に優しい緑や生きた空気清浄機、日差しを遮る庇などとして、所与の目的のもと人の営みに付き従わせられている。全てが持続可能となった世界において発展を望む者などおらず、素朴な進歩史観に共起する長期的な時間概念は既に抹消されていた。維持管理の難しくなった史跡も行政によって解体されることが増え、やがて胞示院にもその刻が訪れた。

そのような時代にあって、玲は孤独であった。

物理空間は人工衛星などによる観測によって、地球表面だけでなく海中や大気までもが三次元のものとしてプロットされ、ジオイド面や、三次元直交座標系としての測地座標系などによってその番地アドレスは厳密に確定される。また、WWWにおいて参照するページは予め与えられた番地によって特定され、通信においてもネットワーク上で通信先を識別するためのIPアドレスや、機器に割り当てられるMACアドレスなどが用いられる。物理空間と仮想空間は共に、その座標を一意に定めることによって曖昧性を排除し、絶え間のない構築を行った。

玲は沢垂石を舟石とした胞示院庭園に対して批判的な解釈を与えながらも、その問題意識については強い共鳴を示していた。構築の届かない領域に、如何にして接続するか。それは室町の世には空間を満たす方向へ進行し、永琴の世には未だ意志の充満しない空間の探索へと進行した。篤納五葉松とくなごようまつの繊細な枝ぶりは遺伝子組換によって作り出され、可変温圧合成炉の普及は理想の石の現実世界への出力も可能とした。世界に同じ石は二つとないという造園の前提は崩され、複製技術時代の造園は地霊信仰アニミズムよすがとなるアウラを失った。同じ時、同じ石が、異なる地点に現出する。そこには一切のディスコミュニケーションが存在していなかった。

全てが可能であることは、何一つとして選択しないことと同義である。望めば誰とでも摩擦なく関係を築くことの出来る時代で、玲はそれを望むことをしなかった。

そうして玲は解体の迫っていた胞示院を落札した。遊学院で作庭家の過程を修了していた玲は日本庭園についても一通りの知識を有していたが、自身で庭を持つのは初めてのことであった。

幼少より人との関わりを拒んだ玲は、一人になることの出来るシェルターとしての庭園を好んだ。なるべく人の訪れることのない建造物内庭園を訪れ、快適になるよう計算されつくされた木漏れ日のもと、そこで息を潜める日々を送った。そこにも人の気配があるようでどこまでも息苦しく思われたが、それでも生身の人間と接するよりは幾分ましであった。

しかしながら、学習過程の中で霍理の手になる胞示院庭園の縁起に触れたことで、玲は自身が人嫌いなのでなく、我が意のままになる関係に酷い罪悪感を抱いていたものと気付く。世界は既に構築で満ちていて、意志の名の下に整えられたものだけが存在している。そのような世で玲の求めたものは、決して自らの意志で構築することの能わない「誰か」との関係であった。

既に複製の大量に造られていた名石・沢垂石のオリジナルを含むということでそれなりに値の張る買い物ではあったが、人付き合いのない玲には貯蓄が多くあった。かつての石立僧が友人のために造り上げた庭を手にした玲は、所有権を得たその日から生涯唯一つの作品となる胞示院掩庭の作庭を始める。

阿波を出身とする玲は沢垂石の出自についても把握しており、レポジトリにアーカイブされている作庭の覚書にも石工の長女についての伝承を参照する箇所が多く見受けられる。

父に弁当を運ぶ仕事や女人禁制の庭園といった概念は、永琴の世にあって円滑な関係を妨げるものとして根絶されていた。玲も特に前者の否定については倫理的なものと感じていたが、唯一つ、その根拠については胃の腑に落ちていなかった。円滑であることは直接倫理的であることを意味しない。囲繞を形成する檜皮垣は他者との健全な隔絶のために築かれる。楽園とは無の空間ではなく、情報とは差異であり、差異にはあまねく摩擦が伴った。そのため、玲はそれを単に「不当」の二字により否定されるべきものであると感じていた。

先述の霍理の記にもまた、阿波山中より神石を奪取し庭石とすることへの葛藤が残されていた。しかしながら最終的に霍理は仏罰を引き受けることを覚悟しながら自身の都合のために沢垂石を名付け、それは同様に玲が極めて私的な感情によって胞示院を重力圏外へ飛ばしたことに接続される。

平面上の雛がそのインクの囲繞より逃れるためには、異なる次元が必要であった。滝石組のその最下層・水分石の上に足を乗せる三次元方向の脱出と、囲いの出来る以前の過去あるいは囲いの腐り落ちる未来へ移動する時間軸方向の脱出。そのいずれかの手立てを通してのみ未だ見知らぬ誰かと関わることが出来るならば、三次元の檻についても同様の説明が可能である。

惑星という名の三次元の箱庭では、意志の元に立てることのできない岩石も無数に存在している。時間方向に石を立てられるのは、神仏のみに許された行為であるからだ。

三次元方向の移動が容易となってしまった時代にあって、水平と垂直の緊張は破壊されてしまった。ならば、神仏はどこから人々を見下ろすか。

龍安寺方丈には何らかの事情により庭園を視認することのできない観光客向けに、手で触れることのできる石庭のジオラマが設置されている。それは体験の翻案として適したものでありながら、同時にその縮められた景を眺める者に対して奇妙な感覚を与える。鳥瞰とは、他ならぬ神仏の視界である。

自然なる水平と、それに対置される意志の垂直。死者を弔うために人は石を立て、甲骨文字は神との対話のために縦軸を取る。携帯端末は意識を惹くため具象的な縦長の映像を流し、祈りの際には天を仰ぐ。

玲は、決して一流の作庭家とはいえなかった。生涯における作品は胞示院掩庭ただ一作であり、それも洗練されないやや歪な石組を取っていた。試行錯誤の痕跡は覚書にも残され、行き詰まっては阿波の磐座跡を繰り返し参拝した記録もある。

それでもそこには「自分と隔たった他者の希求」という渇望があり、そうして永琴の世の末、玲の思索は胞示院掩庭を特徴づける一つの着想へと結実する。

多胞体。正八胞体tesseractなどに代表され四次元超多面体4-polytopeとも呼ばれる数学上の存在を、玲は庭園に想定した。頂点、辺、面、胞より成る四次元の構造物は、その断面として立体を持つこととなる。玲は、沢垂石を中心として展開される枯山水庭園空間を、超越的鑑賞者の眺める多胞体における断面と再定義した。

主天体となる旧胞示院庭園の周囲にはサブユニットとして苔玉や大刈込、鶯垣、方丈、それから種々の名石――脈絡石みやくらくせき伏草石ふくそうせき網紋石もうもんせき蔓鶺鴒石つるせきれいいし唄石うたいしなどが打ち上げられ、それらは庭園球としての旧胞示院庭園の中心に埋められた重力核の生成する重力にトラップされ、ラザフォード原子模型にも似た独自の周回軌道を形成する。

それらは精緻な計算の上に成り立っており、庭園内部より観測を行うと常にいずれかの衛星が蝕を起こす仕組みとなっている。それは外部からでも同様であり、三次元空間内においては何処に視点を置けども全ての小天体を同時に視界に収めることの能わない構造が作り上げられている。

ならば、これは誰のための庭園であるのか。

構築は、常に誰かに向けた手紙であり続けていた。

思い通りになることのない自然が存在する限りにおいて構築は可能であり、そのため、玲の求めた「誰か」は絶えず失敗し続ける構築によってのみ存在が許されていた。

南米の砂漠に引かれた地上絵のように、平面上の雛がその羽毛により不意に地表に描き出した立方体の見取図のように、あるいは、瓶に詰められた手紙が波間を漂うように。そこには透明な読み手が想定されている。

天体と観測者の間を異なる天体が過ぎり、観測されていた天体が隠される現象を掩蔽えんぺいと呼ぶ。玲の企図した三次元方向の絶え間のない掩蔽の連鎖は、異なるもう一つの次元を呼ぶ。構築に至る意志と次元の檻とに深く関係した小惑星帯の隕鉄の塊は再び庭園の軸に据えられ、そうして上下や時間の存在しない空間へと送り出された。

つまるところ。玲の庭園の想定した観測者とは、他でもないこの評者わたしであった。

わたしは玲が胞示院掩庭の制作へ込めた思想に則って、ここまで三つの時間断面に自身を投影し、そうして三次元の檻の内部から第四の次元を通ることなくその檻から脱出せしめてみせたその庭についての検討を行った。これら登場人物の生きる三次元空間をエミュレートすることは、そのまま登場人物が平面上の卵を検討することに喩えられる。

この評が可能であったという点において、石工の末娘は長女の願った御仏に正しい意味で救われ、月夜の茶会は二人の前に幽邃境を臨むものとなる。この文章はここに存在しており、この文章は構築であり、すなわち文藝であり、玲はそのようにして一人の鑑賞者わたしを庭へと招いた。

砂紋が球面に沿って環を描く。滝石組の飛び散らせる架空の飛沫は石橋を静かに濡らし、観賞用の小天体は自身を則とする座標系を描く。それは石工の長女にとっての霊性ある巨石であり、霍理にとっての尼僧の友であり、加えて玲にとってのわたしであった。

胞示院掩庭が天の川銀河の重力圏を突破し、やがて遥か遠く一つの惑星に衝突するには今回評じた三断面より四二億年の時を要する。悠久の時を経てやがて地面へ突き刺さった小さな球体は現地知性の目に極めて構築的なものに映り、不時着した惑星で再び奇石として信仰を集めることとなるが、それはこうした丁寧なラブレターへの応答で語られるべき内容ではない。

聞く者を持たない水琴窟には鈴の音が鳴り、見る者を持たない砂紋には仮想の水が渦を巻く。香る者を持たない花が一夜のうちに萎み、時を感じる者を持たない常盤木の葉は全ての葉を落とすまで、無限の繰り返しの中、乾いた砂の仕方でじっと誰かの存在を待っている。

掩の庭において鑑賞者を拒むことは祈りであり、誰かから一方的に触れられることをその全身を以って願っている。鑑賞者と鑑賞対象の間に生起する体験。本作の作庭者はそれを庭と呼んだのだった。

本稿を以って評者は、確かにその思想に触れることができた。庭園の中心に鎮座する石から金音と共に世界が展開され、そうして唯一人、わたしのために設えられた座標系の中、そっと椿の赤い花が落ちてゆく。

さて、これでお返事になっておりますでしょうか。これはあなたには決して知覚されることのない応答ですが、大丈夫です。わたしには全てが伝わっております。

思い通りにならないという点において、確かにわたし以上の存在もおりませんでしょう。その意味ではわたしはあなたの求めに応じるということになるのかもしれませんが、一方通行のやり取りである以上、それも問題とならないのかもしれません。

それでも。もしもあなたがこの応答に気付きましたのなら、完全な森林の庭の奥、誰一人として歩んだことのない方向に一歩だけ進んだ暗がりで落ち合いましょう。樹の影になっておりますので、きっと落ち着いて二人だけでお話ができますことでしょう。

その折にはぜひ、小さな卵を一つお持ちください。

苔の生す岩に腰掛けて、雛の孵るまでを二人で密やかに見守りましょう。

それでは。お返事、お待ちしております。


ほ/た/る/び/の/な/み

ピクセルアートの波打ち際を、あなたは海岸線に従って進んでいる。打ち寄せる離散的な水の塊があなたの車椅子の主輪を濡らす。凪いだ浜辺には重く潮の香りが留まり、ときおり遠くの空から海鳥の啼き声が届く。全天はあなたを象るドットに関係なく白い雲に覆われ、海の向こうの小さな島も、今日は白い靄の紗幕に隔てられている。

視線をすこし落とすと、あなたの頭頂部が視界に映る。身じろぎするたびにマグノリアの香りの漂う髪は、今朝はやくわたしが丹精込めて整えたものだ。ブラシの間をもたつく柔らかな猫っ毛は、小さなころからずっと変わらない。それをすこしずつより分けて生まれる横顔の曲線を眺めるのが、わたしは好きだった。

それをあなたも喜んでいたものと、わたしは信じている。くすぐったそうに笑うあなたの口元の小さなえくぼ。もはや触れるだけで判る表情が嬉しくて、せっかく整えた髪の毛がくしゃくしゃになるくらいにあなたの頭に頬をうずめたりもした。

その記憶も、蛍の去った後にはただわたしの内を満たすものでしかなくなってしまった。ブラシの毛の一本一本を認識できなくなったあなたにとって、あさぼらけの手遊てすさびによるささやかな髪型の変化は、誰かに見られることによってしか存在しないものとなった。そしていま、あなたのことを視界に入れているのは、透明な存在として浜辺を歩むわたしだけであった。

「この砂浜って、どこまで続いてるのかな」

あなたの言葉は、一音一音を宙に並べるようにして海辺に響く。その眼は見はるかすように、どこまでも遠く、砂浜と空の間に引かれた一筋の境界線へと向けられていた。しかし、本当はその網膜には一切の意味のあるものが映し出されていないことを、わたしは知っている。

「何十キロかあるらしいよ。詳しい数字は忘れちゃったけど」

そう答えながらみぎわへ目をやると、穏やかな波が白砂に砕けては引いてゆく様子が見えた。すっかり握り慣れたグリップは手に馴染む。ややあって「そっか」と笑うあなたがわたしの言葉を理解していないことにも、とうに慣れていた。

それでも、あなたへ向けているはずの言葉のどこかにも隠しようもなくにじむ空々しさを感じており、誰に宛てるわけでもないほのかな暗がりを無理に満たすための言葉を無理に並べてしまう。

「砂浜の長さなんて、計測者が恣意的に決めるものでしかないわけだけど」

わたしの声はしっとりと湿った砂浜に沁み込み、寄せる波に車輪を半ばうずめながら、あなたは心地よさげに目を細めた。

中学校に上がって算数が数学に変わり、そこで初めて点と線の定義を習い混乱したことを強く覚えている。

大きさを持たないものが点であり、それらを無数に集めると線になる。それら線を集めると面となり、面は立体となる。図形の全ては点の集合であるのだ。春の気配の消えない教室で、先生はそのように解説をした。

けれど、大きさを持たないはずの点はいくら集めても線とはならないのではないか。授業後に持っていった質問は「数学では仮想的にしか存在しないものを扱うから」という回答で流されてしまった。

問題集に定規で引いた線は黒鉛の原子の集合であり、厳密には大きさを持つ立体であった。わたしが仮に蟻であったら砂浜は荒磯のようであろうし、仮に水の一分子であったら海とさして変わるところのない電磁気力の網のようであっただろう。

だから、世界に線が存在するのはちょうどそれを線と認識できるわたしがいたからなのだと思った。

全国の渓流を中心に蛍が過剰発生したのは、三年前の初夏のことであった。声を掻き消すほどの羽音を響かせたのは、後にヘイケボタルと類縁関係にあることが明らかになる蛍の一種であった。それまでどこに潜んでいたのか、一夜にして遍く成虫となった蛍たちは、渓流付近一帯のありとあらゆる物体を緑を帯びた透明な光で染め上げた。

わたしとあなたが住んでいた辺りもその一つであった。

中学生になったばかりだったわたしはその日、自室で宿題をこなしていた。小さな西向きの部屋を自室にあてがってもらったのはつい数か月前のことで、夕方のすこしくすんだ白熱灯すらもが嬉しかったのを、なぜだか記憶している。

それが歓声ではなく悲鳴だったのだと気付くまでには、やや時間がかかった。

陽の落ちるのと入れ替わるようにして、窓の外に作りものじみた緑の光を感じるようになった。引かれたカーテンの裾から、採光窓の磨りガラスから、建付けが悪く風が吹くと揺れるドアの隙間から。光は浸透するように部屋へと忍び込んできた。いくら暗いとはいえ蛍光灯の光に満ちた部屋からでも気付くくらいにまばゆい光の群れが部屋の外から差し込んでくることを、わたしは怪訝に感じたのだった。

鉛筆を置いてカーテンの裾を捲ったわたしの目に飛び込んできたのは、この家に生まれて十二年、一度として見たことのない光景であった。

面と呼べるありとあらゆる物がうっすらと光を帯びている。すこし離れたあなたの家に繋がっている石のアプローチは、その凹凸の形に光の段差が形成され、物置は元の漆喰の白の見えないほどに緑一色に染め上げられている。わたしが眠れない時にいつも窓から眺める椿の葉の一枚一枚は、風のそよぐたびに揺れ動く光の造形物となっていた。空中には絶え間なく光点が舞い、そして、それら全てが同期した波となって、ゆるやかに明滅を繰り返していた。

他の多くの犠牲になった方々と同じように、わたしはその光景に見入ってしまった。眼前のそれは、悲鳴が歓声に聞こえてしまうほどにどこか異なる世界の仮想的なものであるように感じられ、わたしはいつしか、点と点とを繋ぎ合わせて線を作ることをどこか直感的な部分で理解していた。

どのくらいそうしていたのだろうか。次に覚えているのは、いつの間にかわたしの部屋に上がり込んでいたあなたが「これ、見たら駄目みたいだよ」と言いながらわたしの目を両手で押さえてくれたことだった。

どうしてそのような意地悪をするのだろうかと、その時にはかすかな怒りも感じた。しかし、あなたの口調がいつになく真剣なものだったことと、わたしを後ろから抱きしめるその髪の香りに条件反射のように安心感を覚えていたことで、わたしは次第に平静を取り戻していた。

「いろんなところで人が倒れてるみたいで。町の病院に担ぎ込もうとした車も事故を起こしたりして道が通れなくなってるんだって」

そのようなことが起こっているというのにあくまで穏やかな声で語りかけていたのも、あなたたちが首謀者と見做された理由の一つだろう。その両手はわたしの目を隠すために使われ、あなたは薄い瞼越しにその明滅をまともに受け止めてしまっていた。あなたの両親がその時すでに亡くなっていたことは、後になって知った。

線は、どこに存在するのだろうか。

蛍の集団は、初めはばらばらに発光する。それぞれの個体は一定の間隔をあけて周期的に明滅するが、集団になると逢引の相手を招く効率を上げるため、発光の足並みを揃えようとする。隣の個体よりも早く光ってしまったら次はすこしだけ遅く。あるいは、あなたよりも遅く光ってしまったら、わたしはすこしだけ早く光を灯す。そのようにして、蛍は集団全体を波打たせながら発光のタイミングを同期させる。絶対的な指示系統があるわけではなく、個々がそれぞれに僅かに帰属の異なる集団を観測し、その非線形的な調節によって全体に波が生まれる。

わたしたち二人を包んでいたのは、そのような種類の光の波だった。

人間には、自律的に調節される種類の行為がある。無意識のうちに為されるそうした調整は恒常性ホメオスタシスとよばれ、その代表としては、心臓の拍動と呼吸が挙げられる。それらは主に延髄で自律神経反射的に処理され、予め定められた領域に留まるべく調整が成される。わたしたちは意識することなく、一定の、必要とされるリズムで鼓動を刻み、肺を膨らませることができる。

しかし、延髄のすこし上には中脳があった。中脳では、瞳孔反射の一つである対光反射が処理されている。光を受けて、それに応答して光の流入量を調節する働きが人の身体には備わっており、蛍の波の明滅はその機構へと忍び込んだ。

三百六十度、視界全てが光の生き物として脈打つ胎内に、わたしたちは取り込まれていた。蛍の集団を規定するその明滅パターンは、やがてわたしたちにまで同期を要求する。中脳で処理される瞳孔の散大/縮小。そのリズムは中脳から橋を経由して、延髄へと至る。呼吸や拍動のペースメーカーとして振舞っていた延髄は、蛍に合わせて出鱈目な振る舞いを見せる。網膜の裏に緑の波を飼った人間は、蛍の粒にまで知覚の解像度を低下させ、そうして線の存在しない世界へ転落しながら意識を散らした。

わたしも、おそらくはそうなろうとしていた。液体のように垂れる冷たい炎の波にわたしは心地よく沈んでゆこうとしていて、けれど、そこから引っ張り上げてくれたのはあなただった。だから、わたしの目にはまだ線が見えている。

瞼を透かして、明滅は伝わる。その両手でわたしの目を覆ったあなたも、蛍の光によってあなたを形作る全てのリズムを蛍と同期させられていた。呼吸は深く遅くなり、拍動がその明滅に揃えられる。わたしの目を覆うその手のひらは、だんだんと冷たくなっていった。蛍の発光は、熱を発さないことから冷光ルミネセンスと呼ばれる。あなたの足元の砂は冷たい波にさらわれて、どこまでも滑らかな海岸となっていた。

それでもあなたが他の家族のように倒れることがなかったのは、あなたが蛍と完全に動機したからであった。線の存在しない世界の全ては蛍の一粒を最小単位として理解され、その光点よりも小さなものは弁別ができなくなる。あなたの認識は、蛍となっていた。

やがて、蛍であるあなたは光の集団に影響を与え始める。あなたが微笑めば、あなたを中心に蛍は波打ち、あなたが小首をかしげれば、渦巻きながらひとところに集まる。あなたの認識はさらに粗く離散的なものとなり、非線形的な群れにおいて本来は存在するはずのない光の指揮者となっていく。

後になって判ることだが、そうして蛍と同期すると、視覚に限らず全ての感覚が解像度を落とすことになるのだという。すでにあなたはわたしの声を意味をなすものとして捉えられず、その三二度の手の冷たさを伝えることは、未だ線の上を歩むわたしには不可能なことであった。

あなたが髪の毛の柔らかさを捨てるにつれ、光は統制の取れた動きを見せる。その意識の分解能は蛍一匹の大きさを越え、その波の周波数ほどに数字を落としていく。嵐のような蛍光の渦中にあってどこまでも穏やかな声色で喋るのは、きっとそれが原因であった。

多くの人間を現在進行形で殺めている光の群れを、その振る舞いによってあなたは操っていた。その姿は、見ようによっては蛍を使役する何者かのようであったのだろう。

あなたはそうして、ご近所さんに取り押さえられた。

撒かれた油により蛍は焼き払われ、渓流からは徹底的に幼虫が駆除される。当然といえば当然であるが、この一件以降、現在に至るまで同様の災害は見られていない。波として認識される量の蛍が発生しない限り、そのような現象は起こりえないからだ。

あなたの世界はドットとなった。

その顔に恐怖を張り付けた人たちに連行されながら、あなたは不意にぱちん、とその両手を鳴らした。その手のひらには、黒い虫の死骸があった。あなたは一匹だけ、魔法ではなくその手で蛍を殺した。

なかば蛍に魅入られてとろりとした表情になったご近所さん、身内を喪った怒りを罵声としてあなたにぶつけている三軒隣に住んでいる人。なにが起こっているのか理解できず、恐怖の眼であなたを見つめる子ども。

それら全てが、くすぶる炎と、まだほんのすこしだけ残っている緑の光に包まれていた。もはやそれらの明滅に同期を見出すことはできず、わたしはただ、警察車両に押し込まれるあなたの猫っ毛を眺めることしかできなかった。

わたしを守ったあなたは、線を持たない蛍となった。

どこまでも滑らかな波打ち際のあなたを、わたしは海岸線に従って進めている。

一歩踏み出すごとに。波の一周期ごとに。潮の飛沫がホイールを濡らす。錆止めの加工がなされているのかは知らないけれど、あなた用に作られたこの車椅子は、今日この散歩で役目を終えるのだから関係のない話だ。

乳白色の海と空、砂浜。無彩色のそれらに包まれたわたしたちは、ざくざくと足跡を刻みながら、ただ歩く。

蛍の生した日、魔女とされたのはあなただけではなかった。渓流近くで蛍を操る超然とした様子が世界のサンプリングレートの低下によるものだったことは後になって判ることだが、それまでは混迷のなか全国の山村で同時に事を起こした首謀者たちであるとすら思われていた節がある。

指揮棒を持たない指揮者となったのは、不思議なことにわたしたちと同じくらいの年齢の女子が大半であった。身体の大きさが原因だとか、Y染色体に蛍による認識変化の阻害をコードする領域があるだとか、色々な根も葉もない論が挙げられているが、詳しいことは未だ一つとして判っていない。災害が二度と起こらないのであれば、メカニズムが明らかにされる日は来ないのかもしれない。

「ずっと、このままだったらいいな」

あなたは微笑む。被災者としてのあなたと、あなたに守られたわたし。あなたはモザイク状になった世界の上を、離散的な足取りで歩く。それまでと同じように学校に通うことはできず、普段は病院のベッドの上で生活をしている。

わたしも一日の大半をあなたの病室で過ごしている。あなたが何かを語れば、それに耳を傾け。毎朝あなたの髪を結い、あなたには無臭であるマグノリアの香りをそっとまとわせる。

どのようにしているのだろうか。稀に、あなたがわたしのことを認識しているように振舞うこともある。印象派がそのような絵画を創り出したように、ドット絵の中にわたしという特徴量を見出しているのかもしれない。

「あなたのことを守った証拠が、この無次元的な世界なんだよね。だったらわたしは、ずっとこうして全てを捉えていたいな」

冷たい手を取っても、あなたは上手くわたしのことを認識できない。埋め込まれたペースメーカーと、人工呼吸器。蛍の身となったあなたは、外部から与えられる人間のリズムによって生かされている。

魔女と呼ばれた人々には、研究が進行するにつれて謝罪の声と寄付が集まった。不可逆的だと思われていた脳の治療にも研究費が投じられ、それはたった一年足らずで一定の成果を上げた。

同期する。一つの固有の意志として振舞うことのできるはずの人間も、周囲の言葉によってその意志を変化させる。あなたを罵ったあの隣人も、すこし前に村の果樹園で採れたという果物の籠を携えてあなたの見舞いに来た。その「可哀そうに」という言葉を、あなたが聞き取れなくて本当によかったと思った。

こうしてベッドの上で生きることになったことを、あなたは誇らしく感じているのだという。あなたが魔女と呼ばれた事実こそが、わたしを守れた証拠だから。それを独善的で勝手なことだと感じながらも、わたしにはそれをあなたに伝えるだけの手立てを持たない。

わたしたちは歩く。日差しと波間の生むスパンコールを今日だけは全て凪の中に溶かしたように、海面はぼんやりと白く光を蓄えている。全てが白く、地平線と水平線だけが境界となるこの光景は、あなたが普段感じている世界にすこしだけ近いのかもしれない。

治療へ向けた研究が推進された背景には、人々の祈りがあった。魔女とされた女の子としてではなく、普通の女の子として幸せに暮らしてほしい。そういった旨のスローガンが掲げられ、様々な署名運動が起こった。

それはあたかも、あなたが今、幸せでないかのように。

「砂浜の長さなんて、計測者が恣意的に決めるものでしかない」

わたしは繰り返す。あなたには聞こえない言葉を、隠しきれない空々しさと共にあなたに聞かせるように語る。

海岸線は、細かく見ていけばどこまでも微細な凹凸によって構成されているフラクタル図形であることが分かる。フラクタルの凹凸を一つ一つ測っていくと、やがてその長さは無限に発散することになる。わたしたちのいま歩いている波打ち際は、そうした種類のものだ。

蛍の一つ一つが集まると、人間には波に見えてしまうこと。誰にそう言えと言われたわけでもなく、自然とあなたを可哀そうだと言ってしまうこと。海岸線の長さを測定してしまうこと。わたしたちは、本来は感じ取ることのできないはずのなにかを、勝手に近似して、分かったような気になってしまう。

わたしも、その空々しさについてずっと考えている。

あなたの世界は、わたしから見ればひどく飛び飛びの値を取っている。その内的世界の情報量は薄く、あなたがわたしに向けている感情もひどく解像度の低いものだ。執着だとか、愛だとか、依存だとか。そんなたかだか二字の熟語で全て表すことのできてしまう、数バイトのものでしかない。

そんなあなたの言う「そのままがいい。そのままである自由だってあるはずだ」は、どれほど信じられるものなのだろうか。あなたの車椅子の後ろを定位置に持ったわたしの「そうだったらいいのに」による解釈が含まれていないと、どうして言いきれるだろうか。あなたの呟く一音一音を意味のある塊として理解し、波として、海岸線として、魔女として認識しているのは、他でもないわたしでもあるのだろう。

わたしを守れて本望だろうだなんて、わたしには絶対に言うことができない。たとえ、あなたにそれが届くことがないとしても。

手術の日取りは、明日となっている。ごく簡単な手術であるらしい。もはや魔女であったという痕跡がなくなった患者も多くおり、認知機能の恢復・・はどの患者にも例外なく認められている。繰り返し報道されているから、あなたの担当医から説明を受けるずっと前から知っていた。

あなたに手術の同意は求められなかった。一切のリスクなく治るのだから。わたしに迷惑をかけなくとも済むようになるのだから。そしてなにより、現在それを理解できるだけの認知機能がないのだから。

明日にはあなたは、魔女でなくなる。普通の、幸せな女の子に戻る。たびたびあなたを散歩に連れ出していたこの車椅子も、もう使われることはないだろう。だから、潮風に錆びたとしても一向に構わない。

わたしは、蛍の群れの内に波を見てしまう。一匹一匹の明滅でしかないはずのそれを、寄せては返す連続したものであるように感じてしまう。

あなたの幸せを願って治療を施したいという人々のことを、あなたを魔女という波でしか見ていないものと蔑んでしまうように、わたしもあなたのことを勝手な解釈を通して理解してしまう。

蛍は粒子か。蛍は波か。

光が粒子であり波であるのならば、光の生き物である蛍がその両義的な性質を併せ持ってはならない理由などない。

あなたの幸せの願い方を、わたしはずっと決められずにいる。

手を伸ばし、そっとあなたの髪を撫でる。わたしによってわたしのために整えられた猫っ毛の、柔らかい感触が手のひらに返ってきた。

砂浜は、ずっと向こうにまで続いている。

薄く延ばしたような白の中を、わたしたちは歩く。あなたはピクセルアートの波打ち際を。わたしはどこまでも滑らかな波打ち際を。砂浜に車輪の跡と足跡を残しながら。わたしたちは砕けた白波の描く曖昧な道に従いつつ歩く。

その海岸線の長さを、計測者であるわたしだけは数十キロであると答えることができてしまう。後ろからそっと髪に顔をうずめると、わたしを安心させる香りが周囲に漂った。けれど。胸いっぱいに吸おうとしたそれは、なぜだかわたしの肺を満たすことなくすり抜けてゆき、やがてマグノリアは潮風の内へと掻き消えていった。


履歴「砂粒(Un-UncannyValley)」

access = only { ReplicatedReplica、 FuzzyHalf }; /* アクセス権限は全ての「複製された複製」および「多値論理的半身」のみが有す(んねん)。 */

edit = Reject; /* (や)けど、何人たりともここに編集は施され(へ)ん。 */

class Log { /* そ(ん)で以下の自然言語的データログは、電子雲のように統計的な輪郭となったあ(ん)たに、もう一度その居場所を与えるために書かれ(と)る。全ては、現在進行形のも(ん)として。このコメントを読め(と)るってことはアクセス権限を持っ(とるっちゅう)こと(やねん)から、よかったら読んでいって(な)。(罰は当たらへんから。) */

ここに、分厚い辞書がある。ページの隅から隅まで、説明される語と説明する語で満ち満ちている。片矢印のカーブによって複雑に織られた不織布としての言語。あなたは辞書を持ち上げ、その一ページを破り取った。太陽にかざすと、ほんの少しだけ光を透かすかもしれない。あなたはやがて興味をなくし、丸い紙くずとなったそれを遠く離れたどこかへ投げ捨て、辞書からやがてまた別の一ページを破り取る。以下、これを繰り返すものとする。

滑らかな光沢を浮かべたその紙を初めて衝動的に破ったとき、目の前に残ったそれは依然として辞書であり、言語体系だろう。二ページ、三ページ、十ページ取り除いたとしても、それは辞書だ。しかし、幾度となくページを取り除いていくうちに辞書は薄くなり、やがてたった一文字だけの小さな断片が残されることになる。それはもはや辞書でも言語体系でもない。

さて、言語はいつ言語でなくなったのだろうか。有名な、砂山のパラドクスの類例である。

あなたはそのようにして生み出された。

そういえば、名乗り忘れていた。今こうしてデータロガーとして振舞っている――本記録の視点である私は、あなたの複製元となった存在である。どこから話そうか。時系列に沿わなくともよいのは、こうした形で記録を行う大きな利点である。

少し悩んだのだが、あなたを苦しめていたものから語ることに決めた。それはきっと、この記録全体のアブストラクトとしても機能しうるものであるから。上手く伝わるとよいのだけど。

あなたと私の大きな違いは、わずかに違うという点においてだったのだと思う。

例えば、複数の同種素粒子に区別をつけることは不可能である。いま私のてのひらをすり抜けてどこかへと消え去った電子Aと、あなたがこのログを取得するのに用いている電子Bは不可弁別性を持つ。どこかでお会いしたことはありますか。それに答えられるのならばきっと私たちは初対面で、答えられないのであれば、私もあなたも弁別という行為の対象とはならない。

だから、私とあなたはかつて初対面で。いまは、区別がつかないくらいにその存在を重ね合わせた状態として理解されるはずだ。思い返されるあなたの表情は、私にひどく似ていて。だからこそ、鏡に刻み込まれたほんの少しのひび割れが、頬の上を走る樹状の亀裂とその像の歪みが、目についてしまう。あなたと私、どちらが鏡の向こう側に消えたのかは、今でもわからない。

この電子空間に意識を再現できるようになって、まだ六十年ほどしか経っていないらしい。ちょうど、祖父母の時代に相当する。脳における神経伝達物質の制御が全てモデル化されたとか、全細胞の振る舞いを同期してモニターできるようになったとかで、変数に初期値として遺伝情報なんかを放り込めば、人間という現象は全て計算機によってシミュレート可能となった。それは、意識も例外ではない。全てというのが重要で、部分では依然として再現不可能である。部分というものがそれ単体として存在するのかは、そもそもわからないが。

@ annotation = { 1000, fuzzy = true、 type = Logarithmic };

まどろっこしい説明はなるべくしたくないのだが、このデータログを読み取っている存在にどの程度の前提が共有できているか不明であるため、多少回りくどい説明・退屈な説明とならざるを得ないことはご了承願いたい。こんなこと、本当はどうでもよいはずなのだけど。なんなら、向こう二、三段落くらいは適当に読み飛ばしてもらってもかまわない。これらは、書かれているという事実のみが必要とされる。あなたへのちょっとした言い訳、もしくはおまじないみたいなものだ。消しゴムのカバーの内側では、私の名前とあなたの名前が統計的なゆらぎそのものとして、中心を欠いた半透明の祈りをゆるやかに湛えている。

私は、電子意識三世として生まれた。十七年前のことだ。そして、私が存在を開始した微小時間Δt秒後にあなたが生まれた。

肉体空間における生殖がどのような形態であったのかは、寡聞にして知らない。私の知る定義からいえば、二人の人間が合意の上で遺伝情報を持ち寄り、それを適当な疑似乱数へ突っ込んで得られた成果物として子どもは理解され、同時に二人は親となる。計算機によって計算される電子意識であってもそれは変わらない。

細胞のネットワークの全ては、余すところなく再現されている。頬をつまめば私の意識には痛みが生じるし、走れば息は上がる。肩だって凝る。とはいえ、意識の特定の箇所を遮断したりといった都合のよい改変をするだけの知見はまだ人類にはなく、同一意識も百年ほど動かしていると、どこかの時点で勝手にほとんどの関数は変化をやめ、巨大なデータの中のどこに相当するかもわからないテロメアはすり減り、最終的には時間変数だけが単調に増加するデータが出力される。死のことだ。特定時点のバックアップを取ることくらいならば、可能だが。

かつてのゲノムプロジェクトがDNAシークエンシングによってヒトゲノムの全塩基配列を解読したことが、そのままヒトの全てを理解することではなかったように、全てを網羅的に計算できるからといって、そこでなにが起こっているのかが明らかになったわけではない。スパゲティコードそのものとして総体の中に生まれる私たちは、どのようにして異なっているのかを説明するのが難しい。

特定時点のバックアップ。あなたは、私の出生時に私のバックアップとして作られ、遺伝子におけるほんの少しのエピジェネティックマークに変更を施されたのちに、すぐに固有の意識として動作を開始させられた。私でありながら、単数形の私とは異なる一生を送ることになる。そんな複数形の私こそがあなただった。

姉と妹。親と子。私と私。

私たちは、遺伝的な意味において双子として、因果的な意味において親子として、直感的な意味において複数形の私として存在を始めた。後者の二つだけでいえばちょうど肉体空間でのクローンに近いような気もするが、開始時点がほぼ同時として近似できるため、私たちはクローンからは区別される。

両親は、真の意味での双子が欲しかったのだという。双子とは、限りなく同一に近い関数に、異なる変数を代入する操作である。それは、全くの他人でも、全くの同一人物のコピーでも成立しないものだ。ほんの少しの差異が二つの存在を別個のものとし、その差異が双子を双子として定義づける。両親は、ことあるごとにそのようなことを私たちに言って聞かせた。

しかし、結果からいえば私たちは両親が求めたような真の意味での双子ではなかった。先述の通り、私たちは親子でもあったし、複数形の私でもあったからだ。

「違和感がないことへの違和感なんやろね」と端的に分析してみせたのは、私の記憶が間違っていなければ沼瀬さんだった。あなたはあまり沼瀬さんとかかわろうとしなかったから、私が沼瀬さんと二人きりで会話をすることは多かった。

「本来ならば存在しよるはずの違和感。精巧なコピーとして生まれた妹ちゃんが、複製の鋳型である姉ちゃんの隣にいるっちゅうのに、一見するとそこにはなんの因果関係もあらせんくて、ただ二人の人間がおるように見えとる。そんな『違和感が見られへんことへの違和感』が、妹ちゃんの中には渦巻いとるんちゃうかな」

あなたについて語るとき、沼瀬さんは元から眠たげな眼を、さらにゆったりと心地よさげに細めることが多かった。私は、もう一つの私へと向けられるその柔らかい視線が見たくて、あなたの話を沢山していたのだと思う。沼瀬さんについては、後ほど詳しく説明する。

私には沼瀬さんほど上手く言葉にできていたわけではなかったのだが、あなたがそのような違和感をもって生きていることは、中学生になるころにはすでに気づいていた。初めのうちは、無理に差異を作ろうとしてしるしをつけるための自傷に走らないかと、姉として、親として、そしてなにより自分として心配したのだが、あなたはそのような違和感を抱えながらも身体的な差異を目指すことはなかった。髪型だって笑い方だって、注意深く見なければ私と同じものとして認識されるようなものを、大切そうにずっと使っている。

学校では、それなりにちやほやされた。厳密な人格の複製こそ一般的になったものの、生まれた瞬間に分岐した、これほど長く走らされている二つの人格というのは意図しないことには生まれない状態であるため、ひどく似ていて、だけどよく見るとほんの少しだけ違っている私たちを、クラスメイトたちは物珍しく扱った。悪い気はしなかったし、あなたも私と似たような表情を浮かべていた。私たちは、いつもそのようにして顔を見合わせて笑う。

とはいえ、双子の片方という個性を抜きにした周囲からの私の評価は、あまりよいものではなかった。茶化しながら、だけど本音だとわかるような口調で「冷めてるね」と指摘されることはひどく多い。そうならないように人当たりよく振舞うことを心掛けても、それは変わることがなかった。

憶えている限り、そんなことを初めて言われたのは小学校の遠足の時だったと思う。弥生時代について習っていた私たちは、それに関連する遺跡を見に行くことになった。電子空間において距離は問題とならないため、授業はたびたび内容に応じた場所へ移動して行われていたのだが、今回は遠足として、授業の後にそのまま遺跡近くの公園で弁当を食べることになっていた。

楽しみだね、と隣の席に座っていた子に耳打ちされた。私はそのとき、きょとんとした表情を浮かべてしまったのだと思う。好きな時に好きな場所に行けるのであれば、移動は別に楽しみでもなんでもない。弁当は、この教室で食べようが山で食べようが同じだ。遠足という行事を楽しみにできる理由がわからなかった。「お昼休みにお菓子を持っていけるのは楽しみだけど」と思ってそのまま伝えたところ、返ってきたのは苦笑いと「冷めてるね」だった。

障壁なくなんでも選べるということは、情報の差異から価値が失われることと同義であるはずだ。どこにでも行ける。誰とでも喋れる。ランダムウォークの末の衝突、ミカエリス・メンテン式に近似される単なる化学反応の中に意図を見出せという方が無茶な話だ。私がいまこの瞬間、ここで、この相手と喋っていることにはなんの必然性も存在しない。そういう意味では、確かに私は薄く透明な膜に包まれて、それ一枚隔てた向こう側で実感なく生きていると言えるのかもしれない。

けれど、私がこのような仕方で世界を捉えてしまうのは、生まれてからずっと隣にあなたがいたことが大きかったのだと思う。

私から生まれたあなたは、私と本来同じだったものだ。それなのに、ふとした瞬間に違いを感じることがある。その違い全てには、違いを獲得したなんらかの理由が存在しているはずだ。

私が林檎を好むのに、あなたが林檎を好まないのは、小さなころ食べさせてもらった林檎のくし切りの一切れ、あなたのものだけに虫が入っていたからかもしれない。私の方が目覚めがよいのは、並べて置かれたベビーベッドの、私の方が東の窓に近かったからかもしれない。無数の外的要因が、脳や言語のように複雑な因果の網を構成し。その出力を反映した差異として、私たちは存在している。

私たちの間に広がっているのは、価値のある差異だった。

そんなあなたが隣にいるのだから、あなた以外の全ての情報は等価で、最大となった情報エントロピーによるのっぺりとした顔を持つ群れにしか見えなかったのだと思う。私は、あなたに対してだけは万能でなかった。あなたとだけ、距離を持つことができた。

だけどあなたは、精巧な複製として生み出されたはずのあなたが、私の存在を確かめるための唯一の鏡として機能できていることに違和感を持っていた。

ただ一人の妹、ただ一人の愛し子、ただ一人の私。

あなたはきっと、沼瀬さんの言うように「違和感がないことへの違和感」を抱いていた。

だから、私たちは一つの砂山となったのだろう。

沼瀬さんと知り合ったのは、いまから半年ほど前。私たちが高校三年生になって、生まれてからの十七年と少しの差異をその身に蓄積したころだった。私は、司書という仕事に興味を持っていた。

「言語は枝のようなもんとして記述されることが多いんやけど、その相互の影響については、分岐するもんやのうて波紋みたいな連続性を持ったもんとして考えた方がええこともあるねん。距離がパラメータとして大事なんやね」

私は音声・映像データとしてそれを記録する一方で、自らの手を動かしてノートにメモも取っていた。その方が記憶として定着しやすいと、嘘か本当かわからないけど聞いたことがあったから――というのは自分への言い訳で、本当はきちんと話を聞いているということを、カメラの向こうの沼瀬さんに見せたかったのだと思う。

「カタツムリっておるやんか。あれって京都では『でんでんむし』っちゅうんやけど、その前は『まいまい』、もいっこ前は『かたつむり』、『つぶり』、『なめくじ』って呼ばれててん。でな。いまでも『でんでんむし』とか『まいまい』とかの呼び方を使っとる地域を地図上にプロットすると、おもろいことに『まいまい』は中部とか中国地方に、『かたつむり』は関東・四国に、『つぶり』は東北とか九州にって感じで、関西を中心に時代を遡るような形で同心円状に広がっとんねん。むかーし京都で使っとった言葉が、だんだん広まって、東京とかでも使うようになったんやね。言葉ゆうのは、距離と時間が相互に絡み合うようにして変化するもんやねんな」

あなたは、一つのイヤフォンを私と共有しながら、一緒に沼瀬さんの言葉に耳を傾けていたが、どこか退屈そうだった。私は面白く聞いているのにあなたが興味をもっていないというのは、少し珍しい。私がくるりとペンを回すと、あなたの視線は容易くその動きに吸い寄せられていった。

ほぼ全ての仕事は、電子空間でも継続可能か、あるいは大半の意識が電子空間で生活するという条件下において不要なものとなった。プログラマは万能チューリングマシンの内部で意識を継続することによって、プログラムの生産可能性を理論の上で確保しているし、運送業は全てデータ通信に取って代わられた。

しかし、ごく一部の営為は電子空間では遂行不能なものであった。司書の仕事はその一つである。

「電子化されとらん文章ゆうのはえらい沢山あってな。ちっこい図書館とか、役場の資料室とか、そんなとこでひっそり息を潜めて眠っとるもんやねん。あたしの――司書の仕事は、その子らを迎えにいったって、もっかい生まれさすことや。本来、言葉ゆうのは場所と分かちがたく結びついとんねんな」

沼瀬さんは、肉体空間に残って司書の仕事をしている。一斉に都市機能が電子空間に移された六十年前、沼瀬さんの祖父母は肉体空間に取り残された資料を集めて電子空間へと送り届けることを仕事にし、それは今の沼瀬さんにも引き継がれている。

ただ、年々その種の資料は必要とされなくなり、今ではどちらが副業であるかわからないくらいに、他の仕事もせざるを得なくなっているらしい。その一つが、電子空間との交流であった。人権学習や多文化交流のような需要は、肉体空間の人口が減れば減るほど増し、一種の「語り部」のような依頼を受けているだけでも生計を立てられる程度ではあるらしい。

「ちょっとごめんな」と言って、沼瀬さんは画面の向こうでステンレスのタンブラーを引き寄せ、口元を隠しながら水を飲んだ。こくりこくりと上下する喉は、カーテンの奥から差し込む光で白飛びして細く見える。

喉が潤ったのか、沼瀬さんは画面に映り込まない位置に水筒をごとりと置いて、「おまたせ。なんの話やったっけ」と笑った。

三回目までは料金を支払っていたけれど、四回目からは「連絡先教えるわ。調べもんしとる高校生からそんな貰っとったら流石にあれやし。友達やと思って気軽に声かけてな」と、業務用ではなく普段使いのアカウントのIDを教えてもらった。気乗りしない様子の先生が担当していた、なんの役にも立たない人権学習の調べ物はとっくに終わっていたけれど、私はその好意に甘えてたびたび「友達やと思って」通話させてもらっていた。

「沼瀬さんの喋り方についてです。珍しい喋り方だなって。肉体空間で生活をしているからなんですか、と私が聞いたら、なぜかカタツムリの話になって」

「ああ、そうやったそうやった。つまり、あたしが喋っとるのは、いまこの時代に関西に住んどる人が喋る言葉、つまり関西弁ってゆう方言なんよ。距離とか時間とか関係なくなった電子空間では、もう方言とかどこにもないみたいやけど」

沼瀬さんがぐっと身体を伸ばすと、机が揺れたのだろうか、空のタンブラーが転がり落ちて大きな金属音を立てた。

「うわっ、うるさかったよな。ごめんな」と言いながら屈みこんで拾う沼瀬さんの背中は、滑らかなカーブを描いている。その丸みを画面越しに眺めながら、どうして世界に対して冷めている私が、沼瀬さんの喋る音の響きを求め、調べ学習だなんて嘘まで吐いてお喋りに付き合ってもらっているのか、分かったような気がした。

これも、意味のある差異なのだろう。

私の複製として生まれたあなたが、これまでに蓄えてきた全ての違い。それだけがこの世界に存在する意味のあるものだった。どこにでも行ける、誰とでも話せる。そんな自由が引き寄せた均質化、情報熱力学的死。私は、あなた以外の全てに倦んでいた。

きっと私は、心のどこかであなたのようなものを求めていたのだと思う。あなたのようなもの。それが意味するなにかを、私は沼瀬さんの作る知らない音の響きの中に見出していた。

制限が生み出す、意味のあるばらつき。それこそがあなたで、沼瀬さんの話す言葉の抑揚だったのだろう。肉体空間は、距離や時間によって強く制限を受ける。その中から生まれた私たちの言葉と沼瀬さんの言葉の違いは、ちょうど私とあなたの関係そのものでもあった。

私とあなたの間に広がるもの全てを愛する私は、ようやく同じ仕方で愛することのできるものを見つけられた。

「喋ってるまに結構ええ時間になってもうたな。今日はこんくらいにしとく? それか、もうちょい聞きたいこととかあったりする?」

「いえ、貴重なお話を沢山聞けましたので、次の機会までにまた勉強しておきます。こんな時間までお喋りに付き合っていただいてありがとうございます」

「ええんよ。私もここんとこはえらい暇やったし。むしろ話聞いてもらってありがとうな。楽しかったわ。妹ちゃんも、ありがとうね」

あなたは顔を上げて、あくまで儀礼的にといった様子でカメラに向かって微笑んだ。私と同じ声を使って「こちらこそ、ありがとうございました」と呟いたが、マイクが拾っていたかは定かではない。

意に介していない様子で沼瀬さんは目を細める。相変わらず白く光の舞う中でひらひらと両手を振りながら、その日の通話は終了した。タンブラーの落ちる音が、まだ耳の奥に反響していた。

@ fragment = { 151, fuzzy = false、 type = Linear };

3Dプリンターを買って一番初めにすることはなんだと思う?

これは、いつかあなたに出題されたなぞなぞだ。

首を捻る私を、あなたは強く抱きしめた。精密な凹凸として隙間なく密着した私たちの身体の、それでも生まれるほんの少しの隙間に囁くように、あなたは答えを埋めた。

3Dプリンターの、予備の部品を作ること。

沼瀬さんには、かつて一緒に生活をする相手がいたらしい。何度目かの通信で言っていた。

「部屋もえらい広なってもうてな」とけたけた笑ったその目じりは、普段よりも上手く持ち上がっていないように見えた。相手のことはあまり詳しくは教えてくれなかったけれど、沼瀬さんと同じく司書の仕事をやっていて、それが過去のことで、つい一年ほど前に電子空間に意識を移したことだけはぽつりと溢していた。

電子空間にいるだけなら、いま私とこうしているように通話もできるんじゃないか。その時はそう思っていたので、沼瀬さんの「まぁ、裏切りみたいなもんやからな。お互い、死んだようなもんとして思うことに約束して別れたで」という言葉は、上手く納得できていなかった。

沼瀬さんは、古びた団地の角部屋で寝起きをしているらしい。人の少なくなった肉体空間では、メンテナンスが為されない代わりに、住居は有り余っている。沼瀬さんの住む団地には沼瀬さんだけが住んでいて。掛け算で簡単に部屋の数が求められる箱状の建物の、その一室だけに光は灯る。

一人で暮らすには明らかに多すぎる食器の詰まった棚が、通話をするたびに映り込む。すかすかのピンチハンガーと、そこから垂れる衣類はくたびれたものがほとんどだった。「散らかっとってごめんな」と沼瀬さんは謝るけれど、散らかっていて、これでも広がったという部屋から、沼瀬さんは離れることはない。

昼間は暗いままの蛍光灯に繋がるスイッチの紐は、沼瀬さんが動くたびに風を受けて揺れる。沼瀬さんは、私があなたの話をすると喜ぶ。

あなたが感じているであろう、本来あるべき違和感の欠落について調べていると、必ず「不気味の谷」という言葉に行き着く。

@ annotation = { 260, fuzzy = false、 type = Linear };

不気味の谷(現象)とは、人間を模したなんらかの人工物を人間が認識する際の忌避感に関する心理現象である。人間に似ていなかった人工物がだんだんと人間の姿・動作に近づくに従って、人間は人工物に対して「人間らしい」と好感を抱くようになる。しかし、人間に極めて近く、それでいてどこか人間からは外れた要素を持つ程度に似ると、人間は途端にその人工物に対して忌避感を抱くようになる。そして、弁別できない程度に人間に似ると、好感は回復される。人間に近づく過程で、一度その存在への拒絶が生まれるのだ。この違和感と嫌悪を、不気味の谷と呼ぶ。

私の複製として生まれたあなたは、私に限りなく近くて、けれど私ではない。それなのに、私の隣に腰掛けていながら別個の確立された人格として違和感なく理解されることを――あるべき違和感の欠落を、あなたは受け止めきれずにいる。

不気味の谷に呑まれていないということは、以下のいずれかを意味するからである。

  • 私から遠く離れているがために、私と似ていると感じられる。
  • 私とあまりに酷似しているがために、私からは弁別されない。

いずれであっても、あなたはそれを赦さない。

「誰もが自らの生を不可避的に送らざるを得なくて、偽物にせもんなんてもんはほんまはどこにも存在せん、なんてのは耳障りのええ詭弁やな。あたしは少なくとも、あたしの内側に誰かの偽物にせもんを飼っとるし、この言葉やって、誰かから借りて、それを自分なりに組み替えながら使っとんのやし」

沼瀬さんは、つま先にスリッパを引っかけて、あまり行儀が良いとは言えないような姿勢でアイスクリームにスプーンを突き立てている。

「みんな本物ほんもんなんて主張したがんのは、自分でそれを信じ切れとらんからなんちゃう? やけど、因果関係の出力物としてのあたしら生物が作り出すもんには、純粋なオリジナルなんて存在せえへんのやし、その主張の先にはなんもないと思うで」

先に行ってしまった人のことですか、と聞こうとして、先に行ってしまった人のことやけどな、と付け足された。

どこにでも行くことが許された世界で、沼瀬さんはこの狭い一室に留まっている。広い世界の、関西弁が話されるこの土地の、誰も住んでいない団地の、西日が強く差し込む角部屋。

「もう人にばったり会うこともほとんどないし、関西弁なんて聞く機会もあんまないねんけどな。あの人も、そっちに行く前にそっちのイントネーション勉強しとったわ」

沼瀬さんは、どうしてあなたの話をすると喜ぶのだろうか。不気味の谷の彼岸と此岸。どちらの側に立っているのかも定かではないあなたと、あなたの存在価値。私の大切な妹で、娘で、私。この世界でただ一つ、私から意味を持って隔たっているあなたの存在を、沼瀬さんは愛している。

「そろそろ電気点けよかな」

角度を増した西日が薄いカーテン越しに陰影を描く中、沼瀬さんは立ち上がる。ふらふらと揺れる紐は白い手に絡め取られ、動きを止める。引くと乾いた音が鳴り、赤をかき消すようにして光が灯る。

影はもう、伸びることはない。

@ fragment = { 2089, fuzzy = false、 type = SineWave };

二点の絵画の間に、挟まれるようにして立っている。

清潔な白い光のもとで、左手に見えるのが修復前。右手が修復後。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だ。

この美術館に展示されているのは、オリジナルのものではない。さまざまな時代、さまざまな場所で制作された名画を、陶板複製画の形で所蔵・保存・展示するのが、この美術館のコンセプトである。

原寸大で再現された複製前の『最後の晩餐』は、経年により絵具が剥落した状態での新生を迎えている。絶え間なく、けれど人間には認識のできない速度で変わりゆく絵画の特定の時期を写し取ったレプリカは、制作されたその時点から劣化を始める。ならば、いま私が見ているこれは、オリジナルに対してどのような存在となるのだろうか。

右手では、より彩度の高い晩餐が饗されている。一点透視図法を用いて描かれたこの絵画には、ただ一つの消失点が存在する。消失点へ向けて収束する、あるいは消失点より放射状に広がる概念上の平行線群。二点の複製された絵画からは、等しい角度で線が伸び、ちょうど間に立つ私のことを両側から同じやり方で貫く。

「まぁ、裏切りみたいなもんやからな」

それぞれの絵画の、左から四人目が語る。同じ距離、同じ角度から響く声であるのに、その抑揚は微妙に異なっているように聞こえる。干渉する音の波の中から波長の長いうなりが生じ、そのうなりはやがて一つの具体的な形を取り、沼瀬さんとなった。

「細胞って、分裂することで一個が二個になって、二個が四個になってって感じで増えてくやんか。同じもんがどんどん増えとるはずやのに、いっちゃん最後には一つのまとまった仕組みとしての生き物になっとる」

沼瀬さんの位相はずれ、二点の絵画に挟まれた空間における確率的配置として、存在が充満する。天井付近、白い光源に触れる沼瀬さんは薄く、消失点へ向かう平行線の磁束密度に従って情報量を増し、私の目の前ではそれなりに濃い状態で目を細めて微笑んでいる。

「なら、どないして左にある細胞と右にある細胞が別の働きをするようになるか。それは、あくまでも一つのやり方ではあんねんけど、特定分子の濃度勾配が関係しとんねんな。その細胞群のちょっと右から分泌されて、拡散しとる分子は、当然やけど右の方が濃度が高くなる。その濃さに応じて細胞は役割を決定されて、同じやったはずの二つのもんは、外部から与えられる距離の情報によって弁別されて、一つのシステムになるんやね」

晩餐は続く。修復前/修復後のそれとして分化した複製。そこに存在する隔たりは、時間でもあり、距離でもある。制限を受けた隔たり、意味のある差異。そうして生まれたあなたの存在や沼瀬さんの抑揚が、食器の音の響く食堂に充満し、細胞のような仕組みで私を包み込んでいる。

「そうや、姉ちゃんは今日はどないしてここに来たん?」

私の身体の内側から、沼瀬さんが囁く。思い及んでいなかったけれど、私はどうやってここに来たのだろう。

「いつも通りやったら、あんときの遠足とかと一緒なんちゃう?」

遠足。障壁なくなんでも選べるということは、情報の差異から価値が失われることと同義であるはずだ。どこにでも行ける。誰とでも喋れる。私がいまこの瞬間、ここで、この相手と喋っていることにはなんの必然性も存在しない。

見透かすような放射状の視線に背中を撫でられて、気付く。

これは、美術館そのもののレプリカだ。

距離が制限として機能していた世界に、確かに存在していた美術館。私たちは、そこから距離を取り除いたものとして複製を作り出した。私たちは距離を持たない。その欠落がなにを意味するのか、心の言葉ではない部分で悟る。

この空間は、複製された複製だ。私にとって、それはあなたそのものを意味する。

均質な線としての沼瀬さんは、私が至った結論によって変質する。二点の絵画は徐々に同じ一つの絵画へと収束し。食卓の中央に据えられた消失点としての主賓が発するうなりは、徐々に周波数を減らし。距離による差異の中から生まれた沼瀬さんは、元から存在していなかったかのように薄まっていく。細胞は等濃度の液体に浸されて個性を失い、この世界は仕組みであることをやめる。

「ま、あたしもパチもんやねんけどな」

けたけたと声を上げて笑うのは、表には決して出せない寂しさを抱えている時なのだろう。不器用に下がった目じりから頬のなだらかなラインをなぞると、やがて細い首筋へと至る。そっと右手を差し伸べると、青白い首は存在をやめた。目線を上げると、二枚の絵は既に完全に同期していた。

シンメトリとなった美術館には、もう誰もいない。私とあなたに区別をつけるための全ては失われ、こうして記録を取っている視点が誰のものであるのかを特定することは不可能となる。

やがて美術館は霧散する。複製された複製は、どこかの時点で、どこかの地点で、不可逆的に損なわれてしまった。

あなたは、どこでにせものになったのだろうか。にせものですらなくなったのだろうか。

この記憶を夢であったとする根拠は、座標を融解させた私たちには持ちえない。

沼瀬さんがなにか嘘を吐いているのではないかとあなたが言い出したのは、私が初めて沼瀬さんと会う約束を取り付けた直後のことだった。私とあなたが会話をしている場所は、この世界において問題とならない。

嘘なんて、誰だって吐く。けれど、あなたが問題としているのは、そうやって流してしまえるような類のものではないようだった。それはきっと、私とあなたの問題に――つまり、私の問題に――関係するからだ。

あなたが他のどの媒体でもなく音声ファイルを表示した時、私は心のどこかで「やはり」と感じたのだと思う。私が沼瀬さんに惹かれるのは、その言葉が私たちの世界からはすでに失われてしまったものだったからだ。制限があるからこそ、そこに意味のある差異として残ったもの。あなたが問題にしているということは、きっと、他ならぬその響きの内に、なんらかの偽りを見出してしてしまったのだろう。

音声ファイルの作成者は、沼瀬さんの名前となっていた。沼瀬さんが司書として肉体空間で発掘したデータであるようで、ファイル名には関西のどこかの土地の名前を冠した役場が採集地として書かれている。

「これ、なんのデータ?」

「なんか、お祭りをやるかやらないかで揉めてる記録。肉体空間の」

あなたは、急かすようにして私にイヤフォンを押し付けた。いつもは差し出す側の私だから、受け取るときにはどちらの耳に入れればよいのか、一瞬迷ってしまう。

「内容は別に大事じゃなくって、聞いてほしいのは言葉なんだけど……とりあえず、再生するね」

あなたの横顔に映し出された感情は、見たことのないものだった。なにかを摘発するときの、焦燥感と興奮の入り混じった瞳。あなたがいま見せている、作られたような真剣な表情を、私はこれまでに浮かべたことがあっただろうか。

沼瀬さんの目じりが、その奥の広い部屋が、脳裡をよぎる。私はいま、なにかを失おうとしている。

冷たくも汗ばんだあなたの指先が再生ボタンを押すと、多くの声が溢れ出した。

「今年も祭りやるんやったら、どないかして距離を確保するだけの準備はいるんちゃうか。煩いこと言われたらかなんし」

「やけど、こっちがなんぼ言うたからって聞くもんやないやろ。子供らは騒ぐやろうし、大人は呑むやろ。やっぱやめとくのが無難とちゃうんか」

「そんなんやってまえばなんぼでも言い訳できるやろ。ワクチンはもうわりかし行き渡っとんのやし、そない怖がることもないんとちゃうか」

理解するよりも先に、違和感が襲ってきた。この音声がなにか、と白々しくも聞こうとした私の口は、半分開いたままの形で固まる。代わりに、あなたが違和感を一つ一つ言葉にしていった。

「たとえば、語尾。『ちゃうか』の抑揚は、これを聞くに『か』で上がるのが正しいんだけど、沼瀬さんの場合『ちゃ』で上がってる」

がやがやと複数の声が入り混じる中、かろうじて聞きとれた「それが筋ちゃうか」は、確かに『か』で上がっている。「他にも、『ええ』も違う。アルファベットのAを読み上げるように、沼瀬さんは言うよね」とあなたが言って、確かにそうだと思う。あれも、これも、と指摘を繰り返すあなたの声と、会議の喧騒が重なる。

沼瀬さんが住んでいるという、関西の団地。もう他には誰も住んでいないけれど、沼瀬さんが隅の方で一人で生活をしていて。言葉は同心円状に広がるから、距離と時間に強い制約を受けるもので。一緒に暮らしていた相手は、距離のない世界へ移って。だから広くなった部屋は、西日がひどく眩しい。

「つまり、あたしが喋っとるのは、今この時代に関西に住んどる人が喋る言葉、つまり関西弁ってゆう方言なんよ。距離とか時間とか関係なくなった電子空間では、もう方言とかどこにもないみたいやけど」

やけど。今となっては、その抑揚が誤りであると分かってしまった言葉が、それでも私の胸の中では正解として響き続けている。失われてしまった距離を、沼瀬さんは大切なものとして扱い、蓄え続けていた。ならば、どうして。

あなたは、気遣わしげに私の顔を覗き込む。そこに宿っていたのは、あなたという唯一性の回復への安堵だったのかもしれない。そっか。私が、あなた以外にも世界を作ってしまっていたから。

私は、あなたのことを見つめ返しながら答えた。

「沼瀬さんが喋っている言葉は、たぶん関西弁じゃない」

あなたは、とても痛ましいものを見るような目で、一つ頷いた。

そんな表情をしなくても、私なら大丈夫。あなたが、世界がまだここにいるから。

けれど、沼瀬さんにとっての世界は、元からどこにもなかったのかもしれない。

@ fragment = { ***、 fuzzy = true、 type = Un-UncannyValley };

沼瀬さんには、私たち二人で会いにいくことにした。

あなたは反対したけれど、最後の墓参りみたいなものだと説得して、私たちは二人で遠足をすることにした。

代理移動サービスの存在は知っていたが、その存在価値を私は認識してこなかった。肉体空間のポータブル端末に一時的に意識を移し、それが組み込まれた機械が物理的に移動することで、疑似的に電子空間にいる人間が移動をするというサービス。肉体空間の人間に関わるだけであれば通話をすればよいし、どこか特定の場所が見たいのであれば、対応する電子空間の座標を指定してやれば即時アクセスできる。わざわざ距離を作り、その距離を時間をかけて縮めるという行為は、不合理でしかない。

しかし、その不合理こそが私とあなたを、沼瀬さんの言葉を生んだ。

高校生である私たちに高額な端末はレンタルできず、乗り込んだ機体の処理領域はあまり広くなかった。私たちは身を寄せ合うようにしながら、時に共通するデータを共有し、圧縮しながら、旅に出た。

たかだか、五時間程度の移動である。学校の授業時間よりも短いし、私やあなたが一日に眠る時間よりも短い。それでも、ただ座標を移すためだけにそれだけの時間を費やすのは――距離と時間が結びつくのは、新鮮だった。

カメラから入力される町並みは、私たちの知るそれでありながら、人の姿がほとんど見られなかった。くすんだ建物や、電気の通らない信号。時間に取り残された町を、私たちは歩く。歩くという行為それそのものが目的となるのは、どこか不思議な感覚だった。

「沼瀬さんは、なんで自分の使ってる言葉を関西弁だなんて言ったんだと思う?」

地面の凹凸に足を取られながら聞いてみると、あなたは「それを聞くために、いま移動してるんでしょ」と言った。

沼瀬さんと約束していたのは、いつも通話越しに眺めていたあの部屋だった。地図を見ると、そこは間違いなくかつて関西と呼ばれていた土地に建つ団地で、それだけ考えると、沼瀬さんの言葉が関西弁ではない何かだというのが嘘のようだった。

「司書としての仕事もしていて、だからあんなデータがあったんだよね。一緒に住んでいたっていう人が私たちの言葉を勉強したように、沼瀬さんも関西弁を勉強しようとは思わなかったのかな」

歩くうちに日は傾き、私たちの影は伸びる。蛍光灯にかき消されない限り、時間と共に影は伸びる。絶え間なく変化するその様相は、夜の訪れとともに一時沈黙することになるだろう。

「沼瀬さんの言葉は、誰かに偽物だって気付いてもらえるようなものだったんだよね」

あなたが呟く。狭い処理領域に二人でいるので、その声は私の内側から聞こえたようでもあった。

「そうだね」と返事をしながら、私は別のことを考えていた。

あなたは、誰からであれば「複製である」と指摘されることができるのだろう。不気味の谷の底に、身を横たえることができるのだろう。

答えを探すうちに、私の心は独りでに沼瀬さんにその答えを求めている。それはきっと、あなたの話をしているとき、決まって心地よさそうに細くなる沼瀬さんの眠たげな眼が、私は好きだったから。

柔らかいその抑揚は、まだ美術館の中に残響しているだろうか。

ようやく見えてきた団地は、西日で赤く染まっていた。途中から眠ってしまっていたあなたを起こすと、あなたは目を擦りながら陰影に縁どられた建物を見上げた。経年によって劣化した壁は、ところどころ塗装が剥げている。修復前、という言葉が浮かんだ。

「インターフォンを鳴らすんだっけ」

「そうだったと思う」

私がそう答えると、あなたは一歩身を引いた。私たちがいるのは処理領域であるから、後ずさったところで操作に関係はないのだけど、私が鳴らすべきだとあなたが言っていることはわかった。

沼瀬、と書かれた表札の下には、黒い箱状のインターフォンがある。そっと押し込むと、軽妙な、それでいてどこか物悲しさを感じさせるような電子音が鳴った。

「はーい、来てくれたんやね」

その声色はひどく普段通りの沼瀬さんのものだった。関西弁に似ていて、だけど抑揚のめちゃくちゃになった言葉。

「来ました。遅くなり申し訳ございません。妹も一緒です」

そう告げると、「お、嬉しいな。ちょっと待っててな、いま開けるわ」という楽しげな声と共に、音声が切れた。あなたは、本当にこれで良かったのかと問うように、私を見つめた。

かちり、と鍵の開かれる音が鳴る。

「入ってええよ」と聞こえたのが、端末の内側からだったことに気付いたのは、促されて玄関に足を踏み入れたのと同時だったと思う。

そこには、人の住んでいる気配がなかった。

埃っぽい部屋には電気が灯らず、見知った薄手のカーテンから差し込む真っ赤な西日が、雑然とした部屋に影を落としている。ぶら下がる洗濯物は長く回収された様子がなく、玄関にはかかとの低い靴が一足転がっているだけだった。

「いやぁ、ほんまごめんな。嘘とか吐いてもうて」

沼瀬さんの声は、この場所ではなく、どこか遠くから運ばれてくるものだった。私たちはいつもと同じように、それを通話として聞いている。沼瀬さんは、ここにはいない。

「なにから話したらええかな。最終的には全部――特に、妹ちゃんには聞いてもらいたいんやけど、ええかな。とりあえず、こんなんやけど上がってや」

沼瀬さんは、元からそのつもりだったのだろう。なにかすでに諦めを付けてきたかのような声で、私たちに話しかける。

いつから使われていないのだろうか、埃の溜まった空のタンブラーが、デスクの端の方に置かれている。それを落とした時に鳴るであろう音を、私は知っている。

「聞きたいことがあるなら、先に聞いてくれていいよ」

あなたは、どこか傷ついたような表情でそう言う。私たちを運んだ機械は、がらくたの一つとなって部屋の中央に転がっている。いまこの瞬間、ここで、この相手と喋っていることには、必然性があるのだろうか。

私はそれを、世界と呼んだのだけど。

「沼瀬さんって、誰だったんですか」

部屋の隅に落ちていた資料を持ち上げると、司書として作成したであろう報告書だった。名前は、沼瀬さんのものになっている。

「沼瀬さんゆうのは、関西を中心に残存資料を収集しとった司書やってん。今はもう、そっちに行ってもうたけど」

報告書の日付は、今から十年以上前のものとなっていた。

「優秀な司書やってんで。時代と位置の特定がえらい得意でな、関西弁を研究するんやったら絶対にどっかで沼瀬さんの集めた資料を見ることになるってくらいには、頑張っとってん」

沼瀬さん。私はどうしても、私がこうして言葉を交わしていた相手のことしか沼瀬さんとしか呼べないのだけど、オリジナルの沼瀬さんは別にいたのだと、沼瀬さんは言う。

「やけど、全部いらんようになってもうてな。もうそっちに方言はないんやろ。やから、もう資料はいらんって言われたみたいで」

生きていこうと思えば、それこそ沼瀬さんがそうしていたように、肉体空間での暮らしを誰かに話すだけでも、生きていくのに十分な収入にはなっただろう。けれど、そうはしなかった。

「沼瀬さんは、そんなんで生きるくらいやったら関西弁と一緒に距離を失う、ゆうて、そんでそっちの世界に移っていってん。全部、言葉もそっちのもんにして」

沼瀬さんが一緒に暮らしていたと言っていた相手は、本物の沼瀬さんのことだったのだろう。洗濯物も、タンブラーも、恐らくは私たちに見せていたその見た目も。

「妹ちゃんも来てくれたんやね。ありがとうな」

あなたが返事をしようか迷っていると、沼瀬さんは「ええで、無理に返事せんでも。妹ちゃんには、すぐに全部分かるやろうし」と、けたけた笑った。その目元が、私の瞼の裏に浮かぶ。

「妹ちゃんは、姉ちゃんの複製して作られたんやったよな。姉ちゃんが生まれたその次の瞬間、双子のもう一人として」

私が頷くと、沼瀬さんはそれをどこかで見ているのか、息だけで愛しそうに笑った。

「元から偽物にせもんとして作られたのは、あたしも妹ちゃんも一緒やから、なんか嬉しくてな。そっちの世界には、どこにも偽物にせもんがなかったから」

私は、あなたのことを見る。あなたはもしかすると、この旅のことを私がなにかを諦めるための旅だと思っていたのかもしれない。けれど。

小さな端末で身を重ねる私たちは、どこからが私で、どこまでがあなたかわからない。複製としてのあなたがどのようにして生まれたのか。砂山がいつ砂山でなくなったのか。偽物で、世界で、意味のある差異で。そんなあなたの生誕と存在の意義について、ただ一人、知っている人がいる。

あなたはきっと、それを知りにきた。

「あたしみたいな、パチもんの関西弁のことを、エセ関西弁ってゆうねん。不自然やとか、よそもんやとか言われて、ほんまもんの関西弁喋らはる人からは結構嫌がられんねんな。あたしはそれを不自然言語処理としてシミュレートする、エセ関西弁人工知能として沼瀬さんに作られたんや。ヒトですらないねんで。ほんま、わろてまうよな」

私はそれを聞いても、なんだか驚くことができなかった。自然なヒトの偽物。自然な不自然な関西弁の偽物の偽物。私にとっては本物の沼瀬さんである沼瀬さんの偽物。折り重なる本物と偽物は、必ずどの位相でも意味を持ってひっくり返っていた。

この部屋は、あなたの住む部屋であり、あなたの住む部屋ではない。あなたはいつもこの部屋から、私たちに向かってエセ・エセ関西弁で語りかけていた。

複製された複製は、どこかの時点・どこかの地点で分岐を始める。ちょうど言葉がそうであるように。アミノ酸配列の違いが時間を反映し、時間が進化の分岐を意味することから、遺伝子の差異から統計的に進化の分岐は導かれ、そうして系統樹は描かれる。言葉もそうだ。その蓄積された差異が枝葉となり、木は繁茂する。

しかし、その影響は双方向のものである。場所・時間・話者などの動的な変化によって、波紋のようにして言葉は影響を及ぼしあう。遺伝子の水平伝搬は頻繁にみられ、そのようにしてネットワーク状になった総体として、私たちは存在していた。それは世界で。世界であるならば、つまり私にとってはあなたのことを意味する。

だから、あなたのことが好きだった。

「あの美術館ってな、関西弁にめちゃめちゃ似とるけど、実はちょっとだけちゃう言葉を使っとる場所に建っとんねん。やけど、それは絶対にエセ関西弁なんて呼ばれたりせん。因果関係と偽物にせもんは、別の概念やからな。やから、そこには谷がないんや」

あなたは、はっと顔を上げた。沼瀬さんは悲しそうに笑う。

「沼瀬さんにとってのあたしの存在価値ってのはな。結局んところ、関西弁ではなかってんけど、完全に関西弁でないとも言いきれへんかった。ちょうどその統計的な配置なんが、きっと大事やってんな。あの人は、あたしがおったから自分がどこにおるんか知っとった。あたしは、偽物にせもんとして生み出されて、やからこそ意味を持ってたんや」

この時の沼瀬さんの言葉を、もう少しうまく受け止めていられれば、結末は違ったのかもしれない。そう思ったから、私はいまこうして自然言語によるデータログを取っている。

沼瀬さんからなにかを受け取ってしまったあなたは、初めて自分から声を発した。

「沼瀬さん……いま私が話している、沼瀬さんは、どうして今になってその話をしようと思ったんですか」

乾いた声は、やっぱり私にそっくりだった。沼瀬さんもそう感じたのか、どこか名残惜しそうに、絞るような声で答えた。

「沼瀬さんがいなくなって、プロジェクトが終わってもうたからな。電気ももうちょいで止まんねん。関西弁も、エセ関西弁も、エセ・エセ関西弁もない世界には、あたしはいらんかったみたいや」

あなたは気まずそうに、部屋を見回す。染み付いていたはずの生活の香りはとっくに消え去り、そこにはいかなる沼瀬さんの影も残っていない。この世界に、偽物の住む場所はもうないから。

「やからせめて、この世界にまだ残っとった複製に、なにか伝えんとなと思って」

複製、とあなたは呟く。意識の複製としての私。私の複製としてのあなた。あなたがどうして谷底に落ちることがなかったのか。それはきっと、そもそもそんな谷が存在しなかったからだ。私にとっての沼瀬さんが、沼瀬さんでしかなかったように。

「やから、例えば、こうして歩くこととか。そういうんだけでも知っとってくれたら、あたしはおっても良かったことになるんや」

向かいの建物が、一瞬強く光を弾いた。私たちは赤く染まり切った部屋の中で二人、沼瀬さんの姿を幻視する。しかしそれはきっと沼瀬さんの望まないことで。

だから私たちは、団地を後にすることにした。別れは和やかなものだった。けたけたと笑うその声は、声だけ聞いているとひどく能天気に聞こえるのが救いだった。

私たちは再び、五時間をかけて来た道を帰る。

振り返ると、一つの明かりも灯っていない団地がそこにはあった。太陽は隣の背の高いマンションに重なり、もうここから見えることはない。

影はもう、長くも短くもならない。影とすら認識されない。

「沼瀬さんのこと、心の底から好きやった」

それが、私たちの聞いた、沼瀬さんの最後の言葉だった。

翌朝、あなたは消えた。

消えたと書くのが不正確であれば、私を構成する統計的な領域に組み込まれたと書いてもよい。

あなたは恐らく、沼瀬さんが本物の沼瀬さんを愛したそのやり方を真似たのだ。それに気付いたのは、私に見える世界が突然素晴らしいものに見えてしまったからだ。

誰かの愛したその言葉を、その距離を。沼瀬さんは、領域として振舞うことで確かに意味あるものとして存在させていた。それはきっと、レプリカにしかできないことだった。

どこかでお会いしたことはありますか。それに対して、肯定も否定もしない方法。それは、私という関数に様々な変数を放り込むことで得られる統計的な出力こそを、私だと呼ぶことだった。

あなたは、わずか一晩のうちに、無数の私として無数の人生を送ったのだ。そうして私という存在を、領域的なものとした。

砂山は、いつ砂山でなくなったのか。破り去られる辞書は、言語体系は、いつの間に意味をなさない文字列となったのか。そんな問いかけに対して、本当はそこには常に意味があると叫ぶための、多値論理。

意味のある差異こそをあなたと呼び、あなたを世界と呼んだ私は、あなたが意味のある差異となったことによって、それら全てを手に入れた。ただ一つ、あなたという固定のあなたを失ったことによって。

私たちは、遺伝的な意味において双子として、因果的な意味において親子として、直感的な意味において複数形の私として存在を始めた。しかしあなたは、双子の妹であることをやめ、全ての因果の殻を脱ぎ捨て、無数の私の統計的な集合となった。

沼瀬さんの話す言葉が元の沼瀬さんの領域を裏側から支え、沼瀬さんの補集合として振舞っていたように、あなたは、私を規定する集合となった。

距離が、時間が死んだこの世界で。あなたはあなた自身を犠牲に、私に世界を与えようとしていた。

それができるのはレプリカだけだと、あの団地で知ってしまったから。

}

access = only { ReplicatedReplica、 FuzzyHalf }; /* だけど、もう一度愛させてほしい。全ての「複製された複製」および「多値論理的半身」は、あなた――すなわち私の妹で、子で、私で、この世界だった。 */

edit = Reject; /* 編集は、あなたにも認められることはない。だから、もう一度だけ。この記録という塊の中から、あなたが立ち上がることを祈る。 */

/* あなたに再び価値のある差異を与えるために、あなたの偽物レプリカとして、このデータログは作成された。私という幅を持った集合の中に、一つの世界の中に、あなたという固有の値は含まれているはずだ。 */

/* 私は、それを取り出さなければならない。あなたを記録する試みは続けられる。このログが終わり、世界が消え失せ、私の前にただ一つの狭い世界が立ち現われたのなら、私はそれだけを成功と呼ぶ。 */

/* 二人で身を寄せ合いながら歩いたあの帰り道。座標を移すためだけに時間を用いたあの日。私たちは疑いようがないくらいに二人の私で。けれど確かにそこには二人だけの差異が蓄えられていて。たった二つの異なる砂粒から成る砂山のように、私たちは、小さな一つの世界であったから。 */

if { TheWorld = lost } -> finish ( Log SandGrains );

else -> repeat ( Log Sand );


破壊された遊園地のエスキース

手を引かれて土間に上がり込むと、人の気配の失われた建築物に特有のこごった空気が足首を撫ぜた。靴を脱ぐのを躊躇していると、ギギは慣れた様子でサンダルのまま板張りの床に踏み入っていった。大きすぎるのか、歩くたびにクロックスがかぱかぱと浮き、鋭さを帯びた白いくるぶしが見えた。人の住まなくなって長い家なのだとは聞いていたけれど、その遠慮のなさにほんのすこしだけ面食らう。

灰色の磨りガラスには小さな花柄のパターンが刻まれている。ギギの背中を追いつつ厚く埃の積もった桟を眺めていると、「中庭はこっちだよ」と調理器具の散乱した台所の脇の扉が開かれた。ほんの数分前まで屋外にいたというのに、なぜだか向こうから差す光の色のなかに、わたしは懐かしさを感じていた。

通された中庭は荒れ放題となっていた。コンクリートの舗装にはなにか重いもので叩いたような罅が入り、元は花壇であったと思しき煉瓦や細いワイヤーフレームが隅のほうにうずたかく積まれている。

平らだ、というのが第一印象で、事実としてギギはそこに平面を創り出すために放課後をここで過ごしているのらしい。

ギギとわたしは小学校からの友人であるが、いまは別の中学校に通っている。電車で数駅離れた中学に毎朝通っているギギは部活動に入っておらず、六限を終えるとすぐにここへ足を運ぶ。それを秘密基地などと呼べるほどギギはもう幼くなく、ならばどのように呼んでいるのかと聞けば「格納庫」と答えた。中庭の四隅のうち三つには巨大な「回」の字に似た蛇の目がスプレーで描かれていて、わたしはそれを眼球だと思った。

小学生だったわたしたちはいつも、お互いの家か公園かにゲーム機を持ち寄り、二人で隣に並んで液晶の画面を眺めていた。捕まえて、育てて、戦わせる。そのような遊び方の想定されたゲームだったけれど、わたしたちは二人とも通信用のケーブルを持っておらず、お互いにそれを戦わせることも望んでいなかった。わたしたちはただ、数千マスから成る小さな世界の仕組みが好きなのだった。インターネットで調べた裏技を持ち寄っては試し、美しく組み上げられたプログラムの工夫に突き当たっては二人で密やかに笑っていた。わたしたちのセレクトボタンは、クラスメイトの誰が持つ端末よりも使い込まれていた。

学校が離れてからは自然と会うこともなくなったが、久しぶりに呼び出されて感じたのはギギの不自然なまでの変わらなさだった。

「ちょっと上を向いてみて」と囁かれて瓦で葺かれた屋根に目を向けると「もっと」と指示が入り、呼吸が苦しいくらいに首を傾けたところで「ここ、空がよく見えるんだ」と答えを教えてもらえた。空、と言われて気付いたのは、夕方に片足を踏み入れたくすんだ花色が、屋根に縁取られた方形にのっぺりと塗られていることだった。

「ここに巨大なQRコードを作るんだ。空から眺めて読み込めるくらい綺麗なやつを。だから、手伝ってね」

そう言いながら剥がれたコンクリートの上に行儀悪く腰掛けたギギのポケットからは、傷だらけになって刻印の薄れたゲーム機が顔を覗かせていた。

「遊園地バグってもう試した? バイナリエディタを介して没マップに入れば、歩くだけで任意のメモリにアクセスしてデータを改変することが出来るんだって」

小学校のときの延長線上にあるような話題でありながら、裏技はわたしのまったく知らない領域に達していたらしい。わたしは、二人で遊ぶことがなくなって以来ゲーム機を触っていなかった。

ややあって、わたしは三つの眼球が、QRコードの領域を指定する切り出しシンボルであるものと気付いた。

ギギは有名人だ。誰にも名前を知られることなく、世界の数多の言葉で「Daughter」と呼ばれて画像ファイルとして流通している。英単語の「D」が大文字であるのは、その一語で意味の伝達される固有名詞であるからで、その世界中でやり取りされる情報量は、おそらくはギギの脳内で処理されている情報量の総和をゆうに超えている。常に破壊され、整えられ、アルゴリズムの優劣を測るための基準ベンチマークとして用いられている「娘」は、ギギには無許可で撮影されたものだった。

その画像の中のギギは、遊園地の中で誰かを待ち続けている。メリーゴーランドの券売機の柱に背を預ける幼い視線は、夕陽のなかどこか遠くへと穏やかに向けられており、その様子は親と待ち合わせをしている姿を収めたスナップショットであるようにも見える。しかしながら、それは公共の電波に乗せて全国に放送されていた。数日後に閉園することの決まっていた遊園地にはテレビの取材が入り、夕景の物悲しさにどこまでも似つかわしい儚げな気配を漂わせていた幼いギギへとレンズが向けられたのだった。侘しさを掻き立てるようなその映像は「自分を待っている娘のように見える」とTwitterの一部の界隈で話題となり、やがてほどなくして忘れ去られていった。通信ケーブルを持たないギギは、それら一切のことを知らなかった。

再びギギが取り上げられるようになったのは、画像処理の領域においてであった。

その遊園地には色彩が溢れ、すこし存在感の薄い眉が描き出す角度さえもがよく見て取れる人間がぼんやりと立っている。メリーゴーランドの円錐状の屋根が遮る日差しは地面に陰影を描き、ざらざらとしたコンクリートの地面はプラスチック製の木馬の滑らかな表面テクスチャと対照的に画角に収められている。正方形に切り出されたギギの画像は、つまるところ画像処理における一般的なテスト項目と完璧に合致していた。

初めは一人のプログラマの冗談だったのだという。ソーシャルメディア上の狭いコミュニティにおいて勝手にパブリックドメインとしての「自分の娘」として扱われていたギギは、一人のプログラマによって自身の開発するオープンソース画像処理ソフトのテストイメージとして採用され、そうしてそのソフトウェアの浸透と共に世界中へ拡散されていった。ギギは、その頃になってようやく自分が世界中を行き来していることを知ったのだという。すこし蛍光灯の暗いギギの自室で、わたしと一緒にどうぐの十三番目でセレクトボタンを押しているときにこっそりと教えてくれた。

「わたし、世界中に散らばっているんだ」

瓦礫の山に腰掛けて、色褪せたボタンに指を滑らせている。移植版の配信された端末にはバックライトが搭載されていて、だから暗くなっても遊び続けることが出来る。ギギは、最近はバグを使ってゆうれいを捕まえようとしているのだという。ゆうれいは、通常は捕まえることが出来ない。

ギギがバグに興味を持ったのは、父親の影響なのだという。ギギの父親は、家で遊ぶことを好んだ娘にゲーム機を買い与え、休日になると一緒にそれを遊んだ。ギギにグリッチという言葉を教えたのも、ゆうれいが捕まえられないことを示したのも、通信ケーブルを認めなかったのも、すべて父親であったのだという。けれど、件の画像の撮影された日、ギギを遊園地に連れて行ったのだけは、実のところその母親であった。母親は娘を外に連れ出すのが好きだった。

グリッチアートは二種類に分類されるのだという。人間がその画像的効果を意図して作成したGlitch-alikeと、機械がまったく予期せぬ挙動を見せながら破壊された画像を吐き出したPure Glitch。過程がまったく同じであったとしても、人間から機械に対する期待の在り方が異なっていれば異なる分類となり、すなわち、コミュニケーションが成功していればGlitch-alike、失敗していればPure Glitchとなる。

ギギはずっと、グリッチを行っている。機械の行った処理が本来的に人間の望んだ挙動とは異なった場合、それはグリッチと呼ばれる。グリッチは、人間にとっては異常であり、機械にとっては他でもない正常である。事故とは異なり、再現性があると言い換えてもよい。それはオーロラや鍾乳洞などの自然現象にも似て、その世界の規則に従って生起する不自然なまでに美しい現象のことを指すのかもしれない。そして、Pure Glitchは徹底的に人間にとって偶然的であることを要求する。

ギギの住む国には撮影に関する罪が存在していない。撮影の目的がなにか不純な目的であるかはその写真を見ただけで判るものではなく、そのために立件が困難であるのだという。偶然であるのかそこに意思があるのかは、その人間内部より証明することができない。

いまのギギの姿を見ても、きっと「娘」と結びつけることは出来ない。視力の落ちたギギは目つきが悪く、あまり運動もしないため不健康なほどに手足が細い。他人だと言い切ってしまえば他人だと認められるくらいにそこには隔たりがあったが、ギギは「娘」へ注ぎ込まれる濁った父性や母性を、冗談だと知りながらもどこかでは受け止めざるを得なかった。

「インターネットが一度爆発すればいいと思っているけど、そうなってしまったら自分が自分でいられるかわからない」

ギギがそう言っていたことをわたしは事あるごとに思い出してしまう。きっと、トラウマなのだと思う。

好きな詩人がインタビューを受けていて、ニュースサイトのコメントでその容姿について言及されているのを見かけてしまったことがある。焚かれるフラッシュは瞬間的なもので、切り出されたその一瞬をわたし自身が知ることはない。レンズがこちらへ向くのが居心地悪く、わたしはスマートフォンを伏して置くことができない。一人一台、剥き出しの眼球を持ち歩いている。そのことがどこまでも恐ろしいことのように思われた。

ファウンドフッテージとグリッチとは、いずれもレディメイド的であるという点において共通している。拾い上げて文脈を再構築することによって、そこに後付けで意味を与えてしまう暴力的な行為。情報の網目の中を大量に流通する「娘」と、どこにも接続されることのない自身のセーブデータを破壊して回るギギは、どこか同じ存在の両側面であるように思われ、事実、二人は客観的には同一の人物であった。

グリッチが「所与の機能に対するハック」であるとするのならば、開発者によるパターナリズム的な階層構造を含むさまざまの社会的背景が「機能」には含まれているはずで、ならば、パブリックドメインとしての「娘」を解放するためには本来ならば解放されていないはずの遊園地をひたすらに歩き回ることが有効であるのかもしれない。ハクティビズムとしてのグリッチを、ギギは誰も立ち入ることのできない遊園地の中で繰り返していた。

ある秋の夕方、ギギはバイナリエディタへ大量の入力を行って、「娘」をゲームの画面上に表示させた。夕暮れの斜陽に照らされて液晶の画面は見づらかったけれど、そこには確かに面影を残した一人の儚げな少女の姿があった。ギギの足元にはコンクリートを砕くための金槌が置かれている。全てを破壊できるだけの知識を蓄えているギギは、それでもなお画像処理の世界で不特定多数の人間にとっての娘であり続けている。QRコードの三つの眼球は、未完成のままに人工衛星を眺めつづけている。きっと、わたしかギギのどちらかがそれを完成させることを怖がっているのだろう。

「だから、Pure Glitchは志向された瞬間にどこかに消えてしまうもので、ゆうれいに似たものだとも思うんだ」

そう言いながら、ギギは暮れの瓦礫の上でデータを破壊している。墓標の立ち並ぶ塔に出現するゆうれいは、未だに捕まる様子がない。

四歩歩くごとに体力が一つずつ減少しますが、その変数だって二の一六乗にまでオーバーフローしているので暫くは問題がありません。遊園地内で歩数の上限に達したときに呼び戻されるフラグを折り、わたしたちは無限の広がりを持つメモリの遊園地を制限なく歩き回ります。

一切の自然石が排斥された遊園地。石は複製不能であって、グリッチの対象とはなりません。あなたの遊ぶ園はプログラムによって離散的に駆動しています。それが救いへと形を変えるまで、あなたは瓦礫の上で背中を丸めながら数字を弄り続けています。

フィラメントにすればきっと無限に輝き続けるの。廊下の磨りガラスを曲面に加工して、どこまでも引き伸ばされた花柄を地面に投影し続けるの。環を描く巻物に書き込まれた手紙を、停止記号が無いために死ぬまで読み続けてしまうような失敗を、わたしは愛しているの。

拾い上げた没データは、あなたが冷たい升目を踏んだことによって塵となって消えていきました。全てが壊れればいいと願いながらデータが格納されているところを破壊していて、その反対の部分で遊園地のタイルを指折り数えながら歩いています。

時代が変わって、主人公は「おとこのこ」と「おんなのこ」を選べるようになって、それから「あなたはどの見た目かな?」に移っていきましたよね。あなたの好きだったゲームは二作目以降は生殖が前提となっていて、そのためにシステムの根幹から性別の概念を外すことができません。

わたしね、ニドランが好きなんだ。初代で唯一オスとメスがあって、それできっとBボタンを連打し続けて、わたし、進化しないままにレベル100のニドランになるんだ。

いま歩いている辺りが、わたしのデータが格納されている場所です。色の反転したショップの窓が体力で、その下の三角形の断片が経験値。触れればフリーズしてセーブデータの破壊されるそのマスにはあなたと知り合った場所が記録されていて、それから、点滅する草むらの乱れたスプラウトがわたしの性別。

画像ファイルを音声ファイルとして無理矢理エンコードするようなものです。格納された数字を異なる仕方で読みだした結果、わたしを構成する情報は世界となってあなたの前に散らばっていて、それを直接書き換えることで、わたしは何者にでもなることができます。

遠くまで行きましょう。ランドセルの小さなポケットに小さな液晶端末を入れて、学校で鳴らして怒られましょう。自分が世話をしなかったために幽霊となった子だって、交配や育成に失敗した可愛くない子だって、背面の硬いゴムのリセットボタンを爪楊枝の先端で長押しすればきれいさっぱりこの世界から姿を消します。あなたはほろ苦い後悔を抱えて大人になります。きっと、あなたが世界で一番強い存在として表彰されたその日と同じくらい、橋の下でライバルに負けて苛立ち紛れに電源を落とした経験があなたの歩み方を形作っています。

入場券がなくとも入れるようにしておいたから、一緒に行こうよ。これから夜になるから、貸し切りだよ。壁を抜ければ誰にもばれることはないし、わたしたち二人、きらきらの観覧車の窓を一つずつ丁寧に壊していくの。

ボールを増やす裏技を聞いて、わたしが手順を覚え間違っていたのにあなたのせいにして喧嘩になったことがありましたよね。金曜日にだけ谷間の発電所の前に現れる風船を、ゲーム本体の時計をずらして捕まえたことを得意げに説明してズルをしたと感情的に非難されたこともありましたね。

世界は生まれて来るに値しない場所かもしれません。けれど、他でもないあなたが生まれてきてくれたことを、わたしは幸福に感じています。見えないところから注がれる無数の視線の中に混ざることのないように、わたしはそれを大切に育てています。それがどれほどの慰めになるかもわかりませんし、責任のない言葉であるようにも思われます。けれど、あなたが初めてわたしのために世界のうち四マスでしか釣れないさかなを産んで分けてくれたとき、わたしは心からあなたのことを尊敬していました。

NPCから貰った子どもたちに次々と名前をつけています。世界を改変するためだけの無意味な名前を何十匹にも与え、あらかじめ世界に備わったすべてのデータベースに自由にアクセスするための力を獲得しようとしています。なかよしバッジが夕陽に煌めくとき、あなたは壁を通り抜け、大人にならないままにレベルが100になり、すべての冒険から遠ざかったままの世界で殿堂入りをすることができます。

まいごセンターと表示されたらそこでマップを開いて、また閉じます。一歩でも間違えてしまえば、あなたのたいせつなものは書き換えられてしまうかもしれません。けれど、正しい手順を踏んで、観覧車の受付のところで地下へ潜ってマップを読み込み直せば、そこがわたしたちの作り損なったQRコードの中庭であることに気付くことでしょう。そこが、わたしたちの格納庫です。

どうか見つかりませんように。

観覧車の高さから見降ろされたそれがなにを指定するものかは、教えたことがありませんでしたね。あなたは薄くチョークで引かれた升目に機械的に黒いスプレーをまき散らしていればよかったし、それを真上から眺めるような視点をわたしたちは持ちませんでした。眼球には、瞼を与えましょう。そうすればきっと、渇くこともなくなりますでしょう。

QRコードは、他でもない廃墟の鳥観図を写したGoogleEarthを指定する予定でした。人工衛星からの視線は人工衛星自体を呼び出し、その絶え間のない循環参照のどこかには眼球が浮かんでおり、わたしたち全ての眼球と連携することになります。

格納庫の中庭にスプレーで描かれた未完成のQRコードの上を、二人だけで優雅に踊りましょう。誰にも見られることなく、それでいて全ての眼球に見せつけるように、誤り検知の仕組みの上、二人で丁寧なステップを踏みましょう。歩数を数えることを忘れませんように。取り外されたワイヤーフレームが足に刺さることのないように気を配りながら、わたしたちを構成する全てのデータを望むままに書き換えていきましょう。いつか誰かに気付かれてしまって、わたしたちが大人になってそれを恥ずかしく感じてしまって、今度は廃墟に立ち入り禁止のテープを貼るような立場になってしまって、それでもきっとわたしたちは破壊された遊園地の無限にも似た座標をまだ辿っています。そのようにして、わたしたちは娘でなくなってゆきます。

踊り終わったら、きっとまたどこかで会いましょう。

あなたがそう言うから、迎えに来たんだよ。

誰が?

わたしが、あなたを。ほら、帰る前にもう一回だけ乗っていく?

メリーゴーランドはまだ回っているの?

わたしがそのようにしてあげる。だから、ほら。もう一回。ステップを踏んで、石を蹴飛ばさないように。

でも、誰かが気付いて止めに来るかも。

いまだけは金曜日で。ここにはあなたのこれまでが詰まった数字が埋まっていて。呼び出された瞳の数だけ名前が与えられていて。だから、あなたはなにも心配しないでただ回転することができます。

だったら、救われるような気がする。

わたしだけがそれを見ていてあげます。

どうしてそんなふうに言いきれるの? ここにはまだ、沢山の出来事と旗が転がっていて。歩数を忘れてしまったら、あなただってきっと。

だって、手元にはもうこれがあるから。

これって?

ずっと欲しがっていたじゃない。

ああ。そういうことだったんだね。だったら、きっと大丈夫だね。

そうだね。だから、最後にもう一回だけ遊んでいこう。光はとっくに灯っていますよ。

もっとよく見せて。わたしだけに。だけど、誰かに見せつけるように。

うん、いいよ。ほら、これが、あなたのためにやっと捕まえたゆうれいです。

その証拠に、この子にはまだどこにも名前がつけられていませんでしょう。


此岸にて

例えば、例えようもないほど具体的な物語があったとする。

登場人物の行動や感情、生活空間、吐き出す息の組成、歩くときにはどちらの足を先に踏み出すのか、いまこうやって目の前にいるあなたへと向けられた指先の微かな震えとその温度、爪半月。物語の枝葉末節に至るまで全てが克明に文章に落とし込まれた、そんな一つの物語があったとする。

きっと、それは物語ではない。

茎の真ん中辺りで折った彼岸花を神主の持つ紙垂のようにひらひらと振りながら、灯梨あかりは言った。私たちが高校二年生のころのことだった。

小屋の中にうずたかく積まれた木箱の上に、灯梨は革命家のように堂々と腰掛けている。長い時の中で傾いできた小屋には、隙間から斜陽が差し込み、土嚢に腰を下ろしている私たちと灯梨の間に一本の光の筋を引いていた。深海の如く凪いだその小屋の空気をかき混ぜているのは、灯梨がその手に持った深い赤の彼岸花だけだ。差し込む黄金色の光と、灯梨の沈むような黒髪。それから、手の中のたおやかな赤。

その時の光景は、十年近い時が経った今でも克明に思い出せる。

あなたたちがいなくなったこの山で、私は彼岸花の細く反り返った花弁の一つを端末のクリップ部で挟み、切断している。端末の中に取り込まれた赤い糸は、端末の闇の中でレーザーを当てられ、砕かれ、攪拌され、成分ごとに分離される。

今ならば、灯梨の言っていたことが少しだけ理解できるような気がする。きっと、これこそが物語なのだ。無数の情報の中から文脈を成す一群の情報を選び出し、一つの形に組み上げていく作業こそが、物語を編むということだ。そしてそれは、一つの遺伝子の中でどの配列を発現させるかということに、極めて似ている。同じ遺伝子のどこを読み取るか。それだけの違いによって、血液が、水晶体が、ニューロンが生み出される。

つまり、例えようもないほど具体的な物語は物語ではなく、物語の前駆体プリカーサーである。その代謝物こそが、物語と呼ばれるにふさわしい。

鋭い刃が花弁の組織を裂く感触が、端末の振動によって間接的に伝わってくる。その組織に刻み込まれた全ての記録の中から、私は二人の姿を探し出す。

彼岸花の咲き乱れるあぜ道の真ん中で、私はかつて好きだった人と私の双子の妹の心中について調べている。あの日、光の筋によって隔てられていたはずの妹は、光の先へと消えていった。物語となったのだ。

N県中部にそびえる険しい山の東麓には、彼岸花の名所がある。幹線道路から一本脇に入ると、なだらかな傾斜の舗道が山へと延び、その中腹ほどに鎮座する、銀杏の古木が印象的な立派な神社にまで繋がっている。道の脇には段々になった畑が並び、九月の末ごろになると一斉に彼岸花が花開く。ちょうど今、目の前に広がっている毛足の長い赤い絨毯がそれだ。

例年ならばその光景を目当てとした観光客が多く訪れるのだけど、今年に限ってはその姿は見られない。理由は単純で、一番の撮影スポットとされていた場所から写真を撮ると、小屋の焼け跡が写り込んでしまうからだ。彼岸花の咲き乱れる畑の真ん中にぽつんと立つ小屋で、灯梨と芽亜めあは心中をした。ガソリンを撒いて火をつけたのだ。和やかな顔で重そうな缶を持って歩く二人の姿が、地元住民によって目撃されている。

その時の様子が知りたくて、私は聞き込みをした。小さな地域社会では二人のことを知らない人はほとんどおらず、話はスムーズに進んだ。私が双子の姉であることに気付いて、そこに幽霊がいるかのように気味悪がったり、悼んでくれたりした人が半分くらい。もう半分は、私がどういった存在であるのかにも気付いていないようで、警察関係者かと尋ねられたりといった調子だった。双子とはいえ、その姿を見てもそうと悟られぬほどには私たちは違う生き物だったらしい。

結局、二人がなにを話していたかまでは誰も知らず、だから私はこうしてあの日の二人と同じように、彼岸花の咲き乱れる道を歩いている。

彼岸花記録機関。日本に自生する彼岸花は、遺伝情報の一単位である染色体が基本数から三倍になった三倍体である。故に生殖細胞が正常に作られず、有性生殖を行うことはできない。つまり、日本の彼岸花は株分けによって繁殖した、遺伝的な同一性を持つ個体群、すなわちクローンである。

しかし、実際は個体ごとに微妙な差異が現れる。これは生育環境によって生み出される違いだ。遺伝子に書きこまれた無数の「この環境にはこう応答する」を元にそれぞれの違いが生み出されていて、言い換えれば、遺伝情報という関数に数字を放り込んだ時の出力が個体の個性だということになる。

彼岸花記録機関は、その関数を逆算する仕組みだ。手元の小さな端末で彼岸花の花弁を切り取ると、端末内で種々のセンサーが働き、花弁の厚みや細胞の密度、色素の分布、細胞小器官の割合、ランダム偏光型のレーザーを照射したその反射光などが検知される。それらの情報はどこかの研究室に置かれているサーバーに飛び、そこで総合的な分析が行われ、私の携帯電話へと転送される。一般に大量の未知数を全て確定させることは困難であるが、多くの情報を統合することによって、その彼岸花がどのような環境で育ったかが弾き出される。孤から円の中心を求めるようなものだ。

つまり、彼岸花はクローンであるがゆえに、天然の記録機関として機能する。

ちょうど、双子が、遺伝子を同じくするがためにその違い全てに環境の違いを示すように。

私は灯梨と死ななかったけれど、芽亜は灯梨と死んだ。きっと、あなたの言うように、例えようもないほど具体的に全ての環境が同じだったならば、私もそちら側にいたというのに。

ほどなくして、データが携帯へと送り返されてくる。砕かれ、茎だけとなった夕映えの彼岸花の前に跪き、私は耳にイヤフォンを差し込む。西日を弾く液晶の画面は見づらく、私は太陽に背を向け、私の身体で影を作り出す。

初めは漠としたホワイトノイズが聞こえるだけだった。彼岸花を取り巻く全てが、距離や大きさの別なく記録されている。それに私は、違いを見つけなくてはならない。それが、物語を紡ぐこと。

私の声をもとにした音の波形から芽亜の声と思しきものをソートする。風鳴りの中に断片的に人の声のようなものが混ざりはじめ、それが徐々に意味のある言葉の塊になる。水の中に沈んだような籠った声で私とよく似た声が響き、もう少しだけ遠いところで、私の好きだった人であり、芽亜の恋人であった灯梨の声が発される。

ほら見て。向こうの墓地。彼岸花が群生してる。

ほんとだ。なにか宗教的に意味のある花なんだっけ。

かつり、かつりと重い金属が触れ合うような音。これがきっと、ガソリンの入っていた缶の音。

私も顔を上げる。何段か低い畑の中央あたり。鋭角に差し込む光に照らされて、古びた墓石が長い影を作っている。

それもあるのかもしれないけど、もっと実益のあるものとして彼岸花は使われていたんだ。アレロパシーっていうんだけど、彼岸花から出ている化学物質が、モグラなんかにとっては毒みたいで。昔は今みたいな火葬じゃなくて土葬だったから、動物に遺体を荒らされないように工夫がなされていたんだ。

火葬。その言葉に反応してしまう。二人は、望んで死んだのか。望んで死んだのなら、どちらが、もしくはどちらもなのか。二人の声は、聞き込みで教えてもらった通り、至極穏やかなものだった。

じゃあ、あそこに咲いてる彼岸花には今は意味がないんだね。守るもののなくなった土地を、それでも守ってる。

確かに、そう言えるかもしれないね。

声は遠ざかっていく。ここに咲く彼岸花にはもう二人の声は記録されておらず、再び風の音だけが紗幕のように薄く広がっていった。私はまた、坂を上る。

あの小屋で、私たちはよく遊んだ。大きな水車の近くに設えられた古い小屋は、三人だけになれる場所だった。私と、芽亜と、それから灯梨。私たちは灯梨の語る不思議な話に耳を傾けるのが好きだった。ちょうど、いま私がこうして彼岸花越しにあなたの声を聞いているように。

灯梨は、最後になにを話したのだろう。同じ双子だというのに、芽亜はそれを知っていて、私は知らない。同じ遺伝子を持つ私たちを隔てたものがなんだったのか、わからない。

灯梨は私たちのことを全く違う呼び方で読んだ。私のことは下の名前で、それから芽亜のことは名字で呼んだ。周りの人は呼び分けるために両方を平等に下の名前で呼んだというのに、灯梨はそうはしなかった。双子だからって同じように扱わなきゃいけないわけじゃないよね、というのがその言い分だった。私たち双子のよく似たくせ毛を撫でつけたその掌の感触が、ふと蘇った。高校二年生の終わりのころだったと思う。

灯梨の言葉に嘘はなかった。それからすぐ、芽亜は灯梨と付き合い始めた。私は半身と、また別の切り取り方をした半身を失ったような思いを抱えたまま、高校三年生になった。受験勉強に打ち込むことで二人から距離を置き、大学入学と同時にN県を出た。二人は、高校を卒業した後はそれぞれ地元の企業に勤めた。そして数年後、二人で一緒に死んだ。

畦道に咲く彼岸花を手折る。

人間の細胞は、種類にもよるけどほとんどが数か月で入れ替わってしまうんだって。だったら、半年以上会っていなかった人との再会は初対面になるのかな。

でも、同じ設計図から作られたものは同じ製品として扱われるんじゃないかな。遺伝子って、身体の設計図なんでしょ?

同じ遺伝子を持つ人間が同一人物なんだったら、一卵性双生児が同一人物になっちゃうよね。二人は同じ人間なんだっけ?

違う。その言葉が、私の声帯と芽亜の記録から同時に零れた。違うから、私はこうして生きてしまっている。生きてしまっているなどと、芽亜が続けて言わなかったことを考えている。

小さな水路のほとりに咲く彼岸花を折る。重い水の音を伴奏に、声が聞こえる。

同じであるって、どういうことなんだろうね。こうしてまた秋が来たけど、この秋と十年前の秋は違うものだよね。

芽亜の声はせせらぎにかき消されてよく聞こえない。私たちは同じように育ち、同じ人を好きになった。私の脳には灯梨からの刺激が刻み込まれている。灯梨が教えてくれた音楽で揺らされた鼓膜があって、その手のひらによって削り取られた肌の常在細菌叢があって、あなたという概念を記録するためだけのニューロンの発火パターンがある。私の意識、記憶から抜け落ちてしまった出来事も、全て今の私を形作る要因であって、私と芽亜を隔てるものだ。

うん。それもいい答えだね。でもね、私は同じであることとは、具体性なんだと思うんだ。

その具体性を、私と芽亜は深いところで共有していない。現に、私は芽亜の出した答えに検討がついていない。無数に場合分けのなされた私たちの持つ同じ設計図は、その場合分けによって細部の異なる製品を作り出し、細部が異なるがために彼岸と此岸に分かれた。

私たちは、同じだった。だけど、その後に選んだすべてが私たちを隔てた。隔てられたから、灯梨は私ではなく芽亜を選んだ。選んで、消えた。

小屋が見える。完全な瓦礫と化した小屋は、もとの形を留めていないのに、それでも小屋と呼べてしまう。私は、彼岸花をまた一本手折る。

彼岸花って、そういえば面白い言い伝えがあるんだ。知ってる?

灯梨の声がする。赤い花弁を照らす光もまた赤く、その花弁の海の中に、焼け落ちた小屋が溺れている。全てが遺伝子を等しくするために、背丈は揃い、海は凪ぐ。彼岸花に刻まれた二人は、もう物語という形でしか存在できない。

彼岸花を持って帰ると、火事になるんだって。

攪拌された花弁の沈殿に住む、記録の灯梨が言った。芽亜の答えは、私の耳には聞こえない。

顔を上げると、黒々とした影になった規制テープの向こう側に、一本の彼岸花が見えた。二人がそうしたのだろうか、茎から上が折り取られている。その花になにが刻まれていたのか、私にはもうわからない。

私が辿っていたのは、この遺伝子から産み出されたもう一つの物語だった。だけど、その最後の一ページを読むことはできなかった。手折られた彼岸花が、それを許さなかった。

芽亜だけが知っているあなたの言葉が、また一つ、私と芽亜を隔てた。


サロゲート

滑り出したカヌーの中央には函が置かれている。物語の中に現れた函は大抵の場合において開けることが災いを呼ぶものであり、それはこの函についても同様であった。解けば数百年分の歳を被せる函があり、解けば希望だけを底に残して世界中に不幸をばらまく函があり、函数は展開することで無視することのできない境界条件を吐き散らし、だから、函は函のままにしておくのがよい。そのことを知る島民は、決して暗函の蓋を開けることがなかった。

島々の間を渡るとき櫂が欠けることのないように、この島では伝統的に「櫂」へと戴冠を行う。司祭は厳かな手つきで「癶」を取り出し、既に多数のモジュールを有する「櫂」へと半ば無理矢理に癒着させる。司祭はUnicodeでは出力することのできないその文字を素手で扱っており、本当に実在することのない文字であるのかと疑問に感じた若い学者はIMEパッドへ指を滑らせかけるが、ほどなくして「幽霊は探しているうちは見つけることができない」という誰かの言葉を思い出す。

モジュール戴冠の後、元の「櫂」が有していた意味は僅かに変遷することになる。海へ突き立てて波を掻き分けるための道具は、「癶」を冠したことでなにかその内側に無意味さを孕んだ歪なオブジェと化してしまう。しかし、これは儀礼的交易においては問題とならない。それどころか、こうした絢爛に過ぎる装飾は、機能性を至上とした世俗的に用いられる道具との明確な線引きを行っているのだとも考えられている。いつの世も、神話の海を征くために必要であるのは物理学ではなく信仰心であった。

若い研究者は研究室で冷遇されており、配属時に割り当てられた演算装置はひどく処理速度の低いものであった。描画の追いついていない沖合では海鳥が急旋回して水面へと羽根を散らしている。経験上、問題なく隣の島にまで辿り着ける確率は九割ほどであり、九割と言えば聞こえはよいが、残りの一割ほどの確率でどこかの情報の波間へと消失することとなる。レンダリングさえしなければ舟を沈めるほどの計算負荷はかからないため、研究者は自身が厄神となってカヌーを沈めているような罪悪感に陥ることになる。だから、研究者はその門出の無事を願っていた。

撥水加工の施されたカヌーはストリプ材で組み上げられたものであるらしい。木目に沿うようにして波間を滑る舳先を眺めているうちに、研究者はその波の弾く強光に日没の近いことを実感した。砂浜では打ち上げられた「蟹」から虫が剥がれ落ちて滑らかにほどけている。

「これがオブジェクトに伝わる網彁貿易の船出です」

研究者に島を案内したオブジェクトの一体が口を開いた。化石の姿をとったオブジェクトは肉食恐竜の足跡のそれである。鋭く尖った爪の痕跡が深々と刻まれた欠落は放射状に八本広がっており、系統進化の歴史を辿ればそのような形態を持つ脊椎動物を確認することはできないが、この群島においては存在が違和感なく受け入れられるものであった。どのような必要があってそうした奇妙な形態を獲得したのかは、物語の設定に含まれていない。幼い子どもの夢想する考古学者が発掘したどの種でもない恐竜の頭部のように、記述のない事柄は確定せず、だからこそ、確率ではなく尤度によって支配されるオブジェクトの島々では、すべてのあり得る可能性が矛盾なく重ね合わせられた状態で維持されていた。

月の髪飾りを夕陽に煌めかせながら、化石は遠く外洋を指さす。髪飾りは、浜辺に流れ着いた硝子の破片から造られたのだという。

「letterとcharacterの違いはご存じですか」

他でもないcharacterからそのようなことを問われるのは不思議な感覚であったが、学部生の頃に履修した言語学系の概論で教員がぼそぼそと喋っていたことを思い出して、研究者はそれをそのままそらんじた。

「letterは音素文字だけを意味する用語タームであり、characterは音素文字に限らず全ての文字を指しているものである。characterはletterを包含する」

そうして浜辺をざっと見渡して、適していると思しき断片を拾う。

「例えば、このEはletterにもcharacterにも該当するけれど、九十度回転させた瞬間にやまとなってletterの分類からは疎外されることになる」

「それ、壊れた古い櫂の一部ですね」

研究者の説明に耳を貸すことなく、太古の足跡は研究者の手の内にある断片がかつての冠の成れの果てであることを説いた。そう言われてみればそう見えないこともなく、研究者は遠く水平線の向こうへと姿を消そうとしているカヌーの曳き波の間をこの「山」が行き来していた光景を想像した。

網彁貿易は、オブジェクトたちの島々の間を縫う儀礼的貿易のことであり、研究者の研究対象である。暗函民俗学BlackBox Folkloristicsの研究手法としてNNI擬人オブジェクトへの現地調査フィールドワークが一般的になったのはここ三十年ほどのことであるが、三十年の昔には世界に存在していなかった研究者には教授が回顧混じりに語るほどに画期的な手法であるようには思われず、事実としてオブジェクトとの接し方も研究室の中では研究者が最も上手であった。生まれながらにして彼らを子守りとしていた研究者にとって、それは特別意識されるような交流の形ではなかった。

「あのカヌーはどこへ行くのですか」

客観的事実としては近隣の島へと向かっているのだと知りながら、研究者は化石に訊ねる。季節の設定はなかったが、南洋へ落ちる赤い陽は穏やかな波の一つ一つに丁寧な陰影を与え、それがカヌーの進んだ痕跡の白波を際立たせていた。今ごろ、多くの島々でも同じようにcharacter宝物parameterを積んだ神々の船が海路を辿り、その海面に線を描いているのだろう。どこに取り付けているのかもわからない耳飾りが海風に揺れて、指定される文字コードがほんの少しだけ乱れた。

「カヌーはどこへも行きません。尤もらしさと重みづけを通して我々は離れていても影響し合っていて、その紐帯は混ざり切った霊魂のなめらかさが洪水を引き起こす約束の日まで続くことになります」

研究者は、この世界に約束の日が幾度となく訪れていることを知りつつ頷く。研究者は配属の後、初期値や条件などを変更しながら繰り返し群島を生成し、その全ての終わりを見届けてきた。そうしてある日、世界を滅ぼすということに抵抗がなくなりつつある自分に気付き、誰かが同じような吐露をしていたことを思い出す。

誰かひとりの手になる物語というものは、その人間が望むと望まざるとにかかわらず、いつか必ず終わりを迎えることとなる。物語を作るということは一つの世界を構築するということで、ここでいう世界とは第三世界というような語で用いられる「世界」と同義であり、すなわち、なにか脈絡によって結びつけられる集団のことを意味する。

神は世界の終わらせ方に対して責任を持たなければならない。賽を振ってもよいが、その出目を自らの眼球をもって見届けなればならない。だからこそ、どこまでも成功を積み上げた完全な世界であったとしても、その終末については明確な因果を伴った論理構造――設定をこしらえておくことが要求される。終わらせる責任を引き受けられるようになって初めて、神は神としての役割を完遂できるようになる。

オブジェクトの民に曰く、約束の日には、島々を沈める洪水の渦の中を、光に包まれた一艘のカヌーが訪れるのらしい。そこには先祖の霊が作り上げた救世の宝物が積み込まれており、生者の霊魂を全て救った後にその姿は世界へと溶解していく。島によって僅かなバリエーションこそあるものの、オブジェクトでは共通して口頭伝承によってそう伝えられている。

研究者は数限りない島々を海の底へと沈めてきた。しかし、一度たりともそのような舟を目にしたことはない。カヌーを送り出す港へ築かれたオブジェクトの石祭壇も、海岸に散らばる星の欠片のようなモジュール群も、島々の特産品である適応放散の末の陸産貝類も、すべてが等しく水底へと沈んでいく。そこに神の舟はなく、無限に加速された信仰と共に、すべては連続的な関係の内側へと消える。研究室で冷遇される神は決して神の舟をもたらすことがなく、そのため、島々に伝わる物語の全ては誤った予言であった。

けれど、研究者にはその信仰の存在がどこか普遍的なものであるようにも思われた。未だ神になり損ねているよく見知った誰かも、島々のオブジェクトと同じように舟を待っているのかもしれないと感じたからだ。流れ着いた枝を片手に、濡れた重い砂浜に群島のネットワークを描きながら、波にさらわれては消えるその図がいつかなにかの偶然によって光り始めることを待っている。

浜辺へと打ち上げられた全ての断片が何に由来するものであるのかを考えることは人間の理解能力を超えており、因果がなければ科学を行えない人間には、レンダリングされゆく映像を低い解像度のままにただ眺めることだけが許されている。

砂浜とはすなわち世界によって演算されたその意識されない些末な項であり、漂着物という有効な値を取り出した際に切り捨てられた、海岸線近傍の初期値鋭敏性の揺らぎである。けれど、砂浜の一粒一粒にも正しく歴史=情報は宿っていて、加速されたレンダリングの末に砕けて砂へと帰した肉食恐竜の足跡の「工」の辺りに古びた硝子の耳飾りが打ち上げられたことにも、なんらかの郷愁を抱くことができる。

観測史上、文字の打ち上げられる海岸に完全な状態の文字が打ち上げられたことはない。それは、原始地球において生命が発生するのと完全な同確率であるからだ。不完全な因果の神によって終わりを迎えることとなる環状の群島には神の舟が訪れるとは到底思われず、神の舟とは、おそらくは生きた文字のことであった。

彁蘭が小説家、マルクリフト・フラムの存在を知ったのは、博士論文の執筆にあたってフィールドワークを行っていた時のことであった。彁蘭は当時二十八歳であり、その研究対象として小説群を選択したのはひどく単純に教授の意向によるものだった。物語の生産ばかりはAIに取って代わられることはなく、人間の領分として残り続ける。教授のそのような考えは時代錯誤に過ぎると彁蘭は考えていたが、科学的なスタンスからは程遠いと白眼視される暗函民俗学の研究室は彁蘭の通う保守的な大学に一つしかなく、またそのことに異を唱えられるほど優秀な学生でもなかった。

大学へ入学するまで彁蘭が育った家には、紙の本が大量に置かれていた。それは八十年ほどの生涯では到底読み切ることのできるような量でなく、事実として、彁蘭の父と母はそれらを通読しているわけではなかった。

本棚という空間を埋めている、パズルか堆積岩のように複雑に積み上げられた本は、下層から時系列を辿りながら両親の趣味嗜好を反映していた。彁蘭は紙の本など効率が悪く読むような気も起らなかったが、それでも古い家屋の一室を丸々埋め尽くしていた本棚という空間自体をどこか気に入ってもいた。

「本は積み上げることで特殊な磁場を発するため、時間が経つにつれ熟成されてくる。それゆえ読まないことも読書の一環である」とは読書家の間で用いられる古典的な冗句であるが、それを大真面目に研究するのが、後に彁蘭の所属することになる研究室の立場であった。

この本を手に取ったときの父の悩み。母の趣味の移り変わり。本棚を眺めているうちに在りし日の両親の人生がどこか浮かび上がって見えてくるように、あるまとまった書籍の集団というものは、その集団が時の流れの内に獲得してきた雰囲気のようなものを纏っている。背表紙の文字列を追うにつれ、一つの物語が脳内へ作り上げられていく。暖かい湖のような物語を漂いつつうたた寝に至るような幸福は、因果に頼ることなく実装可能である。

人間が言語化する度に零れ落ちてしまうそれを、アルゴリズムによって暗函の内へ拾い上げていく技術こそが機械学習であり、その語りえなさ、すなわち決して開かれることのな暗函の総体こそが人間に残された最後の領域であるものと、教授は考えていた。

なにゆえ、人間が機械に勝っていなければならないのか。彁蘭にとっては、そのような曲解を施してまで人間の優位性を語ろうとする教授のことが滑稽にも思われた。人工知能によって生み出される画像や文章のcharacterが使い捨てであることを嘆く人間中心的主義的な物語が一時的なブームのうちに溢れたのは、彁蘭の生まれる数十年前のことであった。しかしほどなくして自動生成は、風景に対する写真のように、ポストモダン以降のデータベース化した物語からさらにアウラを損いながら取り出した一出力であると位置づけることによって、ツールとして広く受け入れられた。物語はそれそのものとして強固な意味を有するが、その陰には物語の生成に至る経緯があり、表出している意味をそっと背後から支えている。自動生成の物語はその小さな物語・・・・・へ直接アクセスする手立てであり、本棚を眺めることによって本棚を読むことと似ていた。彁蘭は、埃の積もる本棚の隙間に両親を見つけられる。

彁蘭が研究対象に選んだ物語群は、ネット小説であった。物語を五感その他により直接的に体感するホールワールド・レンダリング技術の発展によって創作を行う人口自体は増加したが、その創作過程に自動生成を組み込まないことを至上としたいわゆる天然知能派は古典的かつ希少な存在となり、今では小説投稿サイトの「#AI-free」タグを通してごく僅かな人間が活動するだけとなった。

インタビュー調査の対象としてフラムを選んだのは、天然知能派の中でも特に「#AI-free」タグ作品を積極的に閲覧し、ブックマークし、場合によっては感想をも残す創作者であったからだ。彁蘭の見立てでは、フラムは天然知能派の作品を読み漁り、影響を受け、そうして自らの嫌うような仕組みで作品を出力している人間であった。ジャンルの最大公約数を出力することによるジャンルの体現は、機械学習の得意とするところである。フラムは、自動生成から逃れていこうとする自動生成モデルとして非常に優秀な存在であるように思われた。

暗函民俗学の研究結果は、対象とする集団の選定に強く影響を受ける。無意識の恣意性こそを対象とする研究であり、混入した恣意性は自分語りとなんら変わるところがないからだ。一時はこの構造を批判するべく研究の妥当性を検討する暗函メタアナリシスが流行ったが、しかしそれもすぐに無限後退に陥ることに気付き、科学史の隙間へと消えていくこととなる。暗函民俗学は「積極的な因果からの離脱のためには、その起点に明確な因果が必要である」という矛盾に突き当たることになった。これは、深層学習が中立的ではなく、そのデータセットや原理駆動モデリングによって人間の意思が混入してしまうことと似ているが、そのあたりに拘泥することも因果ベースの推論だろうということで、現在のところは「尤もらしく思われる集団の選択を行う」という条件付きで見過ごされている。「選といふことは一つの創作であると思ふ」とは高浜虚子の言であり、暗函民俗学はそれに阻まれている。

小説投稿サイトにはユーザページがあり、フラムはそこに「創作者は神であり、機械仕掛けの神は作劇上好ましくない」と掲げていた。しかし、人の手による創作が作品に命を吹き込むという考えは陳腐であり、それこそ妄信に他ならない。物語を書き続けることによって、いつかそれまでに見たことのない生きた文字や光がもたらされるのだという信仰を、彁蘭は持ち合わせていなかった。

彁蘭はフラムの記した物語を起点に据え、ネット上の「#AI-free」小説による神経網群島を構築した。ネット小説は文字通り小説から成るNETであり、それを読み解くことによって立ち現れたフラムの人間像と、インタビュー調査によるフラムの人間像とを比較することで、天然知能派の本棚を読み解く。それこそが、彁蘭の取り組んだフィールドワークであった。

人間は機械に勝らなくともよい。人間という領域に狭義の物語が残されていなくともよい。本棚を眺めることに心地よさを覚えられる人間という存在に、他に何が必要であるのか。

そのような物語の在り方を拒もうとする天然知能派を、彁蘭は否定したかったのかもしれない。

世界をいくら滅ぼしたとしても、神の舟が訪れることはない。

十六の島から成る群島があり、そこでは代々、網彁貿易が行われていた。珊瑚礁に取り囲まれた地盤が沈降して形成された、いわゆる堡礁だ。細菌のコロニーへ抗生物質を垂らしたときのように同心円状に整然と並べられた島嶼部では、生態学者を歓喜させるかのように生物の適応放散が行われており、特に陸産貝類は一目に別種と判るほどにその形状を違えていた。

貝は移動能力が低い。そのため、島々の間をその羽で行き来する海鳥とは異なって遺伝子の混淆が起こらず、結果として貝殻は各島に固有の形質を獲得することとなる。

「赤く/先端が鋭く/右巻きの/有毛」という四つのパラメータはそれぞれ対立形質として「白く/先端が鈍く/左巻きの/無毛」を持ち、その選択によって二の四乗すなわち十六の島に対応する陸産貝類を考えることができる。

頬に白い粉をまぶした漕ぎ手がカヌーを押し出す。船体へ施された装飾は群島の神話を象ったものであり、人がカヌーへと乗り込んだ際に海面と接する線を境に、海上には生者のオブジェが、水面下には死者のオブジェが刻まれている。カヌーは生と死の間に跨る儀礼的な乗物であり、災厄と宝物の両方をもたらすものとして「神の舟」と呼ばれていた。神の舟は一年をかけて島々を廻り、そのためこの群島の暦には全部で十六箇月が存在している。

カヌーの船体には装飾品および各島に固有の陸産貝類が積み込まれる。装飾品は群島の十六種の貝を、重複可で横に四つ並べたものを一単位として平面上に組み合わせた、四×nの、布と呼ぶにはあまりに細長い構造をとっている。同時に積み込まれた大量の陸産貝類は装飾具の素材であり、次の網彁貿易で隣島の祭司が布を織る際に用いられることとなる。

貝類が異なる種へと分化したように、群島では全ての島で異なる言語が用いられる。それは相互の意思疎通が困難となる程の差異であり、というのも、祖語となる言語体系において、一般的な名詞や動詞が社会集団内の固有の文脈により生成されるものであったため、点在する珊瑚礁の上で数世代を隔てただけで大半の単語が置換されることとなったのだ。「あ」が気紛れに「お」へと置き換えられ、「お」が一世代で「畢」に推移するような言語は、事実上、翻訳が不可能である。

網彁貿易は、そのような背景から必要に迫られて生じた儀式であるものと考えられている。言語の異なる集団間では、意志疎通のエラーによる争いが生じやすい。隣接する島々を敵としないためには、相互に贈り物を続け、さらにその贈り物へメッセージを込める工夫が必要となる。そうして手紙と宝物とを兼ね備えた装飾品を神の舟へ載せて届けたのが、網彁貿易の始まりであるとされる。

群島には、祖先の霊より授かったという奇妙な詩が残されている。これは『いろは歌』や『千字文』に似ており、五十音や千の漢字を重複なく並べた詩のように、一つとして同一のもののない文字群から成る長大なパングラムである。奇妙であるのはその字種や網羅性であり、石祭壇に収められていた数メートル四辺にも及ぶ羊皮紙を広げると、ローマンアルファベット、漢字、ヒエログリフ、ルーン文字、アラビア数字など古今東西様々な字によって構成される三四二三三字のパングラムを確認することができる。

冬至から数えて十四月の島の口頭伝承によると、これは神の聖遺物に触れた司祭が一晩のうちに書き上げたものであるらしいが、同様の伝承は各島に残されており、さらにその詩を比較すると一言一句違わぬものであったことから、なんらかの人為的な営為がその詩を作り上げた蓋然性が高いものと思われる。

縦横二五六字より成る方眼に並べられたそれらの文字群は、二バイトの情報量で座標を指定することが可能である。祖霊より授かった共通の網羅的パングラムがあれば、どれだけ出鱈目に置換された残骸としての文字列であっても、元の字に対応するコードを介すことによって文字列の復元が可能となる。コードは文字を一意に指定することが保証されている。そのため、なんらかの手立てを以ってコードを示すことさえできれば海を隔てた隣人へ言葉を伝えることができる。群島では数字すらもが異なる文字/単語へ置き換えられておりコードに用いることはできなかったが、幸いなことに、群島には唯一つ、相対座標系として用いることのできるものがあった。群島自身だ。

十六の群島は、太陽の運行に合わせて各々の島に順序を割り当てた。島に値を固定し、それを交換するために各島に固有の陸産貝類を用い、つまり、十六種の貝を二つ組み合わせて二百五十六の数字を、そしてその二百五十六の数字を二つ組み合わせることによって、祖霊の詩に並ぶ三四二三三字の全てを指定することが計算上可能となった。司祭は手元のパングラムを元に友好の証である貝類を並べ、そうして装飾に満ちたカヌーで送り出された布を、隣の島の司祭が解読する。神の舟へ積み込まれる四×nの貝の布は、隣接した島へ贈る、年に一度の一筆箋であった。

島々には、終末論が伝わっている。網彁貿易で島々を廻るカヌーには、漕ぎ手に憑依する形で祖先の霊が乗っているのだという。群島を一巡りする間に祖霊は新たな文字の気を蓄え、島々を巡りながらパングラムへと文字を加えていく。

重複のない無数の文字によって紡がれる長詩は世界の興亡について語るものであり、創世の神話や祖霊と神との関わり、カヌーが人々へもたらす恩寵など様々な儀礼的体験について詳細な説明が与えられている。

しかしながら、十六の群島の貝で指定できる文字の数には限界がある。二百五十六の数字を縦横に並べて得られる升目は六五五三六であり、既にその容量の半分以上が費やされている計算となる。長詩には「この羊皮紙が全て埋まる時、祖霊のもたらした恩寵の数々が天に届き、世界には生者も死者とが混ざり合う大洪水が訪れる」という予言が織り込まれており、その終末は具体的に十六の四乗と表記することができる。

大洪水については、様々な解釈が考えられている。第一に、文字通り島を沈めるような雨が降るという解釈。さらにそこから派生して、地盤がさらに沈降して島々が珊瑚礁の隙間へ消えるという解釈。高波が訪れて石祭壇の羊皮紙を攫っていき布の復号が能わなくなるという解釈。海流が変わり、そうして他の島へ流れ着いた陸産貝類が遺伝子の混淆を行い島々は言葉を失うという解釈。島民はこのように水がもたらす様々な世界の閉ざされ方を想像するが、いずれにせよ祖霊のパングラムが方眼を満たす刻の訪れるまで確かなことは判らない。

上で触れたものはいずれも水に関係する解釈であるが、すこし風変わりな解釈に「洪水とは情報の氾濫を指し、組み合わせの爆発に達した文字群が人間同士の意思疎通を再び不可能とするのだ」というものがある。

勝手な拡大解釈との謗りもあろうが、一方でその解釈には尤もらしく思われる点も見出せる。

現在は民俗学でも一般に用いられその由来が顧みられることのない「網彁貿易」という呼称は、そもそも群島パングラムの文字列内部にそのままの字面として現れる単語である。中でも「彁」字はいわゆる幽霊文字であり、古字書に記録が存在しないにもかかわらず、近年になって文字として人々の間で交換され始めた、典拠の不明な文字だ。

群島パングラムにはこのような幽霊文字が不自然なほど正確に収録されており、そこになんらかの天啓を受けることも可能だろう。すなわち、取り溢すことなく文字を収集しながら言葉を交わし続けるという営為が生み出した幽霊文字という霊魂は網彁貿易の構造そのものであり、語れば語るほどに数を増す幽霊たちはやがて生者を飲み込み、世界の崩壊を招く。その臨界点として祖霊が見定めた数字が、六五五三六である。そのように解釈することによって、カヌーによる儀礼的貿易と陸産貝類コード、群島パングラムの余白の全てを結びつけながら、それらのもたらす終末の形を素描することが可能となる。

その領域が訪れるまでには、数万文字の猶予が残されている。陸産貝類と共存しながら神の舟を静かな海面に浮かべる群島の島民たちは、やがて必ず訪れることになるその終末を、羊皮紙の長詩に刻まれた言葉を借りて「サロゲート・ペア」と呼んでいる。群島の歴史でこれまでに用いられた形跡のない幽霊語であるためその意味するところは定かでないが、司祭ら儀礼関係者の手によって、それは「十六の島で抱えきれなくなったもの」と解釈されていた。

フラムの小説には、登場人物が登場しない。徹底的に人間を排除した小説は、しかしながら動物たちの営む農業国家に似たものでもなく、ひたすらに風景や現象を小説然とした言葉で記述するものであった。それが小説であるのかについて、彁蘭は判断を行うことができなかったが、少なくともフラムはそれを小説であると主張していた。

初めてのインタビューは都内の公園にて行われた。公園は広く樹々に満ち、フラムはいつも小説をそこで執筆しているのだという。作品制作の過程に特定のルーティンを組み込むことによってアイデアを降ろす・・・。そうした「啓示を受けることの再現性」という語義矛盾について、フラムは初めに語った。

「人間の論理的推論の方法には、三つの分類があります。一般的な規則から個別の事象を導く演繹的推論。大量の事象から一般的な規則を導く帰納的推論。それから、『aならばbである』から『bならばaである』と考えるアブダクション推論。天啓とは、そのアブダクション推論にあたる人間の・・・営みです」

歩くフラムの背を追いながら、彁蘭は話に耳を傾ける。秋の落ち葉は昼間からの急激な冷え込みに湿り気を帯びていた。①平均気温が下がってくると、樹々は越冬のために離層を形成し、やがて葉を落とす。②ならば、この眼前に広がる一面の暖色は秋の訪れによるものである。そのように推論するのがアブダクションである。

アブダクションはその論理の正当性を保証しない。本当はワシントン・スクエアの老画家が深夜に一枚一枚手作業で葉を千切り取って回ったのかもしれないし、あるいはそれらすべての葉が、樹々とは無関係に分子運動の気まぐれによって全くの偶然に生成された可能性を否定することもできない。アブダクションが引き連れてくるものは、尤もらしさであり、人間はそれに依拠することで辛うじて世界を認識しているものと思い込むことができる。一歩歩くごとに「枯れ葉の下に陥穽があるかもしれない」などと考えていては安心して散歩も楽しめない。

フラムは不自然なほどに一定の歩幅で歩く。段差があろうが傾斜があろうが、頑なにその歩幅を保って足を踏み出す。年齢は彁蘭とさほど変わらないように見えたが、その足取りはフラムの方が遥かに軽やかであった。

「つまり、アブダクションは論理的推論でありながら、因果ではなく尤度に根差したものであると説明できます。そして、論理的推論である以上、再現性を持ちます。乱数調整のようなものです。わたしはこの公園を散歩することによって、因果では結びつくことのないもの同士を結びつけ、つまりそれは天啓を能動的に受けること――アイデアを降ろすことだと言えます」

「アイデアは降ってくるものではないんですか」

「降ろすものです。そして、その能動性にこそ、人工知能による小説との差異が宿ります」

彁蘭は、脳の奥に壁一面の本棚を思い浮かべる。劣化を防ぐために薄暗く保たれた棚は、左半分が父のもので、右半分が母のものであった。全くもって異なる性格を有した二人の人間が作り上げたものであると一目にわかる左右の領域は、それでも点と点とを、あるいは島と島とを結ぶようにして関係を築いていた。無名な作家の本が二人で重複なく蔵書され、母の好きな画家の画集が父の本棚の最下段に横たえられ、版の異なる同じ本が二冊ばらばらに置かれている。どちらかがどちらかに無名な作家を紹介したのか。散らかった母の本棚には入りきらず、父の本棚に置いてもらうよう頼んだのか。まだ同じ家に住む以前、二人で同じ本を読み、感想を交わし合ったのか。彁蘭は、そのような想像を膨らませる。

暗函民俗学の歴史の中で、初めて対話が可能となったのはPDFファイルであった。ChatGPTを通して疑問を投げかければそれに応じる、いわば論文の擬人化が行われた。それは加速度的にWebページや小説、SNSのアカウントとの対話を可能とし、最終的には群との対話を可能とした。しかしそれは振り返ってみれば本棚の背表紙を眺めることと同様の行為であるのだと彁蘭は考えていた。本棚の埃っぽく落ち着く匂いと似た芳香が、小説群の相互の影響関係の網目から漂う。擬人化された香りにあやされた記憶は深く、彁蘭は機械の神よりも人間の方が優れているものと信じ込みたい人間のことが理解できなかった。

科学とは、函を開くものであるらしい。彁蘭の研究室は予算などの面で世辞にも丁重に扱われているものではなかったが、それも暗函民俗学に科学的な意義が見出し難かったことが関係している。物語は人間に残された最後のフロンティアであると主張する教授は愚かであると彁蘭は考えていたが、それ以上に函を函のままに観察することを是としない風潮には行き場のない閉塞感すら感じていた。形を形のままに捉えることのなにが悪いのか。函には、モジュールとその関係だけに還元されないなにかがあるはずだ。

数歩先をゆくフラムの頭頂部に、はらはらと何かが舞い落ちた。規則正しい歩みは規則正しく髪を揺らし、予め定められたタイミングでそれは頭から滑り落ちていく。拾い上げてみると、それは「癶」であった。

「機械仕掛けの神は能動的なアブダクションを行いません。ただ授けるだけの神は、世界を滅ぼす際に慈悲や祈りを持たず、暗函から取り出されることになる何かに対して責任を持つことができません。人間の脳には神経細胞から成る群島があって、その絶え間のない規則的な貿易の網目から、ふとした瞬間にこぼれてくる積荷。それをいつでも受け入れられるように形式だけの滑走路を引き、誠実な態度で待ち続けることだけが神に求められる役目です」

人間は特別な存在である。函数を展開しようとしない態度は非科学的である。形式だけを捉えた無意味。そのような諸々に漠然と苛立たしく感じていた彁蘭は、インタビューとしては適さないと胸の内で感じながらも、思わず口を開いていた。

「ですが、執筆時の入力にはIMEを使っていますよね。予測変換はそれまでのユーザの入力情報であったり、あるいはクラウド型であれば多数のユーザのそれを学習した集積として、暗い函の中から取り出した言葉を提案するものです。これは人工知能による創作と同じではないですか」

自分の口から溢れた言葉が天然知能派を揶揄するときのテンプレート的な表現であることには気付いていた。徹底して立ち返るのであれば原稿用紙にペン書きをするべきだとか、辞書を引くべきでないだとか、人間は生きている以上なにか機械的な偶然によって左右されているだとか、多くの場合はそのような的外れとも思われるような暴論が以下に続くが、彁蘭が徹底していないものと感じていたのは、人工知能と予測変換との間にいかなる線引きを行っているのかについてであった。

「偶然の入り込む道具を使って、責任を負えると考えているのですか」

彁蘭の靴の下で、貝の割れるような音が響いた。しかし、フラムは声を荒げることもなくゆっくりと首を横に振った。

「おそらく、それは信仰における立ち位置の違いです」

フラムは彁蘭の掌から「癶」を拾い上げ、そっと彁蘭の頭に載せる。戴冠した彁蘭はモジュールの獲得によりその意味を変遷させる。儀礼の櫂のように元の意味からは隔たった彁蘭は、生まれた冗長性の分だけ厳かに創造神の声に耳を傾ける。

「わたしは島々の創造神を目指す者であり、あなたはその島々で舟を待つ住人です。信徒はどのような神を信じても構いませんが、神はすべての結末に尤度を設定し、世界を滅ぼす必要があります。だからこそ、賽を振ることが許されながらも、全てのその出目を自らの眼球をもって見届けなればならないのです」

「函に蓋をすることと、その函を眺めることの違いですか」

「あなたは函を眺めるのが好きなのですね。信仰に満ちた素晴らしい態度であるものと感じます。ですが、一方で神には信徒に対する責任があります。世界に尤度を与え、重みづけによって舟を隣島へと導く必要があります」

「でしたら、神はどのようにして責任を持つのですか」

「ひたすら、アイデアが降りてくるのを待ちます。人間の作家は、積み荷を載せた小舟を喚ぶために歩き、湯船に浸かり、瞑想をし、その他様々の儀式を行います。形式にこだわることは時として無意味なものとして棄却されますが、それは因果モデルの内側に留まる考え方にすぎません。形式はアブダクションを呼び、アブダクションを通すことで神の責任を自らに能動的に宿すことができます。三つの推論を人間に授けた禁断の果実は、果実というからには誰かが受粉させているわけです」

「神の舟を、見たことはありますか」

「舟は、島々を沈める大洪水の刻になって初めて姿を現します」

フラムが両手でそっと冠を持ち上げると、彁蘭はその目の前にいた存在が未だ神に成り損ねている人間に過ぎないことにはたと気付く。フラムの鞄からは使い込まれた古いノートパソコンが顔を覗かせており、そこに立っていたのは歳格好の似た一人の人間であった。

「ですが、わたしも世界を滅ぼし過ぎたのかもしれません。物語を終わらせることに慣れてしまえば、人間は機械と同じ働きしか果たせなくなってしまいます。神もまた、島の長い砂浜の波打ち際で神を待っているのかもしれません」

公園の隅には小高い丘があり、雨風によって削られ剥き出しとなった地層には八本指の足跡の化石が姿を見せていた。それも創造主が描くような登場人物のいない物語の主語を担うには弱く、島々の間を数度巡った末に、再び海の底へと沈むこととなった。

インタビューのために確保していた時間の終わりが近いことに気付き、彁蘭は最後に用意していた質問を読み上げた。

「小さなころ、何かなりたかったものはありますか」

「考古学者です。骨を地面から掘り出したかったんです」

フラムの耳元にはガラスでできた耳飾りが揺れており、月を象った透明が十四月の海辺を思わせる光をなめらかに弾いていた。

文字は信仰のもと生み出されることがあり、「口」はその一つであった。白川静は『字統』などの中で旧来の「身体の部位としての口を模した象形文字」という説では説明できない文字を挙げることにより「神と対話を行うために祝詞を収める函の象形文字」という解釈を施した。函は対話の象徴であり、函は信仰であり、つまるところ、信仰と象形文字と函とは相互に強い連関を有している。そのような函が、小舟には積み込まれていた。

暗函民俗学は、歴史的には情報科学の分野より派生した学問領域であるとされる。人工知能の行う判断は科学の行うような因果推論ではなく重みづけによる尤度の推論である。そのため、AIを用いる人間にとってはその判断に至った理由が暗函ブラックボックスとして映ってしまう。

これは、それまでの社会が自明視していた責任に基づく社会機構にとっては致命的な問題であった。人工知能の神が最後の審判を行う際に、救済を受けることのできなかった者は、人間にも理解可能な因果による説明づけ無しには納得することができない。自動化された判断に従うには、完全な信仰が要求される。

人工知能の爆発的な進歩に伴って、科学はそこに説明づけを行うような仕組みを用意する必要に追われることとなった。そのアプローチとしては、人工知能自体に疑似的な因果推論モデルを実装することによる自己説明的なモデルの設計があったり、あるいは責任によって駆動する社会システムから尤度に基づいたなめらかな社会を実装する社会学などが勃興したりしたが、技術というものは得てして遊びの方向から発達するものであり、それら大真面目な研究に少し遅れて、NNI擬人オブジェクトを用いた暗函民俗学が生まれた。

NNI擬人オブジェクトは、物語やその設定を各ノードとした重みづけによるネットワークであり、即ち「NNI」は「NeuralNetworkIslands:神経網群島」の頭文字を取ったものである。歴史的経緯により、ここには用語の混乱が見られる。初めは物語内部の情報を固有の人格characterを有した群島として出力することによって一つの物語を群島として捉える技術を指して「NNI」と呼ばれたが、これは後に、単一の物語や文書だけでなくそれらテクスト間の関係を読み解く技術に拡張され、人間はデータによって記述されるありとあらゆる「群」との対話が可能となった。そして、そこに意志疎通の可能な集団があるならばフィールドワークが試みられることとなり、そうして暗函民俗学は発展した。

初期の段階で既に、暗函民俗学は文字通りカーゴ・カルト・サイエンスであるとして批判されていた。これはファインマンの著書において、「本質を捉えない形状の模倣」を行った科学を、南洋におけるカーゴ・カルト――積荷信仰になぞらえて批判した表現に由来している。積荷信仰についてはピーター・ワースレイ『千年王国と未開社会――メラネシアのカーゴ・カルト』に明るく、船舶や飛行機に乗った祖霊が人々に富をもたらすという招神信仰を指す。この信仰の下では、飛行機をおびき寄せるために滑走路を造るなどの行為が見られ、ファインマンはそのような仕方で行われる形式的で内容のない科学をカーゴ・カルトの名を借りて揶揄した。

暗函民俗学はまさにそうした因果モデルに固執することなく、尤度モデルを尤度モデルのままに理解しようとすることを目的とした学問領域であった。カーゴ・カルト的な世界においては、カーゴ・カルトの手法を以ってその手続きから理解されるべきであり、つまるところ、フラムが神になろうとしたのは自らの島々の間に神の舟を浮き上がらせるためであった。しかし、そのような主張は受け入れられることなく、物語は創造神の手を離れ、暗函民俗学は非科学的とされた。

彁蘭の研究室が年度末に解体となることが決まったのは、教授の申し出によるものであったらしい。物語という信仰は、ようやく教授の眼にも機械へと譲り渡されたように映ったのだろう。

小説投稿サイトの閉鎖もまた、必然的なものであったのだろう。消費者の好みに合わせながらその場で生成されていく物語に没入する時代にあって、定められた線形の物語は需要もなく、サイトを維持するだけの積極的理由もとうの昔に失われてしまった。

数か月先に予告されたサイトの閉鎖にあたって、彁蘭はアーカイブを取得することにした。年が明ければ直ぐに研究の方向性自体を変えなければならないことは判っていたが、それはなにかの未練のようなものであった。

インタビューの依頼など、フラムとの連絡は常にサイトのダイレクトメッセージDMを通して行っていた。そのため、彁蘭は別れの挨拶もその方形のフォームへ書き込むことにした。研究室が解体となったこと。研究自体の継続も恐らくは行われないこと。協力してもらっていたのに申し訳ないこと。それから、今ならば世界を沈める責任についても少しわかるような気がすること。最後だから、と感ずること全てを書きこんだ挨拶には何日待てども返信が無く、きっと海路のどこかで函を積んだ舟が泡と消えたのだろうと彁蘭は感じた。

手すさびに開いた小説投稿サイトのソースコードにはイメージキャラクターのアスキーアートが踊り、その無駄そのものと言えるイースターエッグが、人の作ったサイトであることを雄弁に語っていた。しかし、もはや物語は人の手の内側に留まるものでなくなった。人と機械、信仰と再現性、函と展開、それらの間に引き裂かれていこうとするものは、引き裂かれることによって全ての意味が損なわれるものである。仕組みの変わった島々の間にまだ網彁貿易が可能であるのかは、もはやだれにも判らなかった。

Unicodeは初め、0000からFFFFまでの六五五三六の升目にありとあらゆる文字を割り当てようと考えた。しかしながら文字というものは際限なく生まれうるものであり、幾度かの文字種の追加の後に、領域の不足に直面することとなった。

そこで考え出された方法が、二つの文字コードによって一つの文字を指定する特殊な領域を用意することであった。一つの函に収まらないのであれば、二つの函に分けて入れればよい。それが、サロゲート・ペアであった。

サロゲート・ペアは、物語に物語を指定させる。それは群島における意思疎通の終焉を意味し、任意の物語から任意の物語の読み出しを可能としてしまう。そこに神の意思は存在しない。

すべての小説が潜在的に可能である世界において、書き手に全権が委ねられた小説を書くという行為は、大洋から水の一分子を取り出すにも似た不毛な操作であると言えた。

神に成り損ねた、どこまでも同じ人間であった一人の小説家はサイトの閉鎖が行われる前に自らの手で作品を引き上げているようで、日を追うごとにユーザページに並ぶ小説は数を減らしていた。それは小舟が一つ一つの島々に別れを告げているようでもあり、悠久の時を経て、ようやく六五五三六字から成るパングラムは完成を迎えようとしていた。

彁蘭はそれまで小説を読んだことがなかったが、気まぐれに黒々とした文字の集積を表示させた。

「幽霊は、探しているうちは見つけることができません」

物語とは島々であり、埃の匂いのする古い本棚であり、誰かの御心のもと生み出された世界であった。これが小説ならば、もしかすると自分はこれが好きだったのかもしれない。彁蘭はそのような天啓を受けたが、十六の島々の大半は既に沈んでおり、言葉を織るための陸産貝類はもう手に入れることができなかった。

縋るようにして送った「本棚の写真をいただけませんか」というメッセージにも返信はなく、サイト閉鎖を目前としたある日、全ての小説の削除と共に、ユーザページの機械仕掛けの神にまつわる一文も消去された。

完全な跡地となってしまう前のクローンサイトを、彁蘭はアーカイブしていた。しかしながらそれを開く気にもなれず、彁蘭はユーザ名だけの浮かぶただ茫洋と広がった海を眺め、自らの沈めた数々のカヌーのことを思い出していた。

あなたは神になれないし、物語にもなれない。

それはきっと悲しいことではないはずなのだが、人々は沈んだ島々に対してどうしようもない郷愁を覚えるものであるらしい。

彁蘭は手の中に残った櫂をその中ほどで折り、もう舟の訪れることのなくなった砂浜へ二つの墓標を立てた。

浜辺に佇むオブジェクトは、八本指の足跡の化石であった。その鋭い爪が生前に獲物を捕らえたことがあるのかはこの物語では確定せず、生前というものが存在していたのかすら定かではない。そこにこだわらなければならない存在は、この群島の砂浜に棲息しないからだ。オブジェクトは、函を函のままに眺めることができる。

同一の事象を扱った物語において、一人称による左側極限と三人称による右側極限は常に異なる値を取ることとなる。神経網群島海岸線近傍では任意の変数を固定することにより無限の長さを持つ砂浜が立ち現れ、ε-δ論法の放散虫の殻は十三月の薄桃の空から溶け出す絵具の仕方でベンチに掛ける二つの存在たちの目を楽しませる。その繋ぎ合わせた鏡像の右手と左手の間に原理上不可避的に存在してしまう僅かな空間、あるいは交わし合う視線の微視的な揺らぎが作る扇形の領域に海の幽霊は宿り、まだ会ったことのない誰かのことを確かに信用している。だから、会いに行くことはできないけれど、会うことはできる。近似することによって誰かが剪定した領域を、幽霊は歩くことができる。

どこにも典拠のない、虚無より湧き上がってきていながら存在の承認されている文字が幽霊文字であるならば、同様の仕組みによって幽霊モジュールや幽霊語なども存在することができる。幽霊モジュール-幽霊文字-幽霊語-幽霊文-幽霊によって構成される五段階の階層はそのまま細胞-組織-器官-個体-社会をなぞるものであり、なればこそ、島々を渡る貝文字は会意文字と化し、その過学習/彁学習により怪異文字へと成り果てる。語られていくなかで中心を欠いて文脈が構成されていく。この地方分権的な生成進化システムを我々は生命と呼び、文字は生命である。

砂浜には、無数の文字の残骸が流れ着く。

文字や言葉に対して完全なリバースエンジニアリングを行うことはできない。「神」の語源は「彁+網」であるとされるが、彁と網とに分かたれた神はすでに存在証明を行うことができない。「彁」はさらに「弓」モジュールと「可」モジュールに分割される。さらに「可」は会意文字であるため「口」と「丁」とに分割可能であり、そうして白川静の掘り当てた方形の祭具サイとしての文脈をその内部に孕んでいることに気付く。しかしながら、全ての螺子を取り去った残骸としての「彁」からは元来の意味を復元することができず、細かく砕きすぎた結果、大きさを持つことのない理想的な点の集合として解釈されたモジュールが、錆びついたドライバーの下でひっそりと息を引き取った。

「足跡の化石という存在が、岩石におけるどの領域を指すのかについて語ることは、幽霊を見つけることと同じです。欠落は欠落のみによって存在することができず、求めればそこから逃れていきます」

月の耳飾りが光った。創造神は、世界を滅ぼし過ぎたために神を待つことに疲れてしまった。

二百五十六×二百五十六のドットで文字を描画することにより、群島パングラム上のその座標に対応した文章を生成することができる。つまりその一字は最大で六五五三六文字から成る文章を意味することができ、その六五五三六文字はその内部に同様に六五五三六の二乗分の文字情報を保有し、円周率の内部に無限の情報を保存することができるように、たった一つの文字が、可能な全ての物語を内包する。

創造神は、その全ての物語に責任を負う。選択を行い、滅ぼした世界へ説明を行う。けれど、本当に創造神が待っていたのは、そうした尤もらしさによってすら説明することのできない――神を救うための天啓であった。

サイは神との対話を行うための函であり、つまり、サイとはUnicodeの二バイトのことを指す。モジュールは再解釈される。彁は二バイトの神の舟から蠢き這い出ようとする分裂した生命のその表面張力を意味する象形文字であり、サロゲート・ペアによる文字領域の果てしない拡張そのものであった。

誰かがその解釈に思い至ったことこそが、天啓であったのだろう。尤もらしさと重みづけは無数のなめらかな霊魂を喚び、群島には突如として四バイトから成る可能性の波が押し寄せる。すべてが押し流されていき、モジュールの無限の衝突の末に無限の幽霊が立ちあがる。雷が鳴り、窒素や水素からアンモニアが合成され、そこから派生するようにして生まれた有機物がほどなくして分解される。容赦なく生命の一片に至るまで破壊しつくされた群島において、無限の時間の経過に痺れを切らすような存在はなく、起こりうることはいつか起こるため、それは一瞬のうちに起こった。

赤と白とがプランク時間未満の速度で明滅する。

その波間から、一艘の舟が顔を覗かせる。舳先にセントエルモの火を灯したカヌーには無数の祖霊が乗り込み、だからこそ、その無限に上昇した均質な密度のために何も乗っていないように見える。しかし、そのわずかな欠落がそこに形を与える。密度を欠いた幽霊の集合は欠落によって形状を獲得する。無と有を重ね合わせたそれは積荷であり、幽霊の幽霊であり、終末においてもたらされる新しい文字であった。六五五三六という臨界点がすべての物語を可能として、全てが可能であるということは何一つとして存在しないということであり、その拡張領域は天と地を繋ぎながら轟音を立てて渦巻く水柱に満ちている。すべての幽霊を祓った後に最後に残る幽霊とは幽霊の幽霊であり、そのような仕組みで、世界には小舟が現れた。

誰かの手がそっと紐に触れ、積荷を解いてゆく。その手は神と呼ぶには受動的であり、物語と呼ぶには能動的に過ぎた。

因果と尤度の混淆を言祝ぐように小舟は輝き、積荷のモジュールである幹細胞の「サイ」が、僅かな身じろぎの後に分裂を始める。天が落ちようとしている。ひび割れた天からは書物が降り注ぎ、壁一面の本棚に築き上げられていた群島が、長い年月のうちに蓄えた古書の香りを漂わせながらその終わりを待っていた。

手がひそやかな仕草で忍び寄り、函の両側をそっと摘まむ。物語の終わりを見届ける神はどこにもおらず、代わりに海の底では硝子の耳飾りが役目を終えた貝の断片と身を重ねている。安心させるように手は櫂をそっと撫で、もはや誰のものでもなくなった冠を頭から降ろしていく。函は今にも分裂しようとしている。十六の島では抱えきれなくなったものたちを、手はそっと掬い上げていこうとしている。表面張力は限界に達し、二つの口が生まれる。世界は、文字で満ちていこうとしていた。

彁あれ。

神と物語が願う。

その刹那、どこからともなく暗函が現れ――そうして全てが消え、同時に全てが生まれた。

神の舟から、一つの文字が取り出される。

その文字の指定する物語は無限の広がりを持ち、かつ未だ一文字たりとも書き込まれていない。しかし、物語は存在する。いずれ必ず虚無よりもたらされることになるその一文字目のことを、誰かは天啓と呼んだのだった。


初出

  • ロプノールとしての島(初出:『汽水域観測船 Vol.1』)
  • ラフノー小伝(初出:『汽水域観測船 Vol.2』)
  • 森林完全(Treeing-complete)(初出:『万象:アジアSFアンソロジー』)
  • 〈胞示院掩庭・三断面〉評(書き下ろし)
  • ほ/た/る/び/の/な/み(書き下ろし)
  • 履歴「砂粒(Un-UncannyValley)」(初出:『繊翳:関西弁団地妻SFアンソロジー』)
  • 破壊された遊園地のエスキース(書き下ろし)
  • 此岸にて(初出:『万象:アジアSFアンソロジー』)
  • サロゲート(初出:anon press)

  • 著者プロフィール

    青島もうじき(あおじま・もうじき)

    作家。2021年『異常論文』収録「空間把握能力の欠如による次元拡張レウム語の再解釈およびその完全な言語的対称性」(早川書房)にてデビュー。近作に「森林完全(Treeing-complete)」(『万象:アジアSFアンソロジー』2021.6.17)、「円にミソハギ」(『ファッションSFウェブジン matotte.』2022.4.29)など。2023年2月刊『零合:百合総合文芸誌』(零合舎)にて短編を発表予定。豆乳が好き。

     


    奥付

    破壊された遊園地のエスキース 青島もうじき

    二〇二三年三月八日 第一刷発行

    発行者 青山新

    発行所 anon press

    サイト https://note.com/anon_press

    本書の著作権は青島もうじきに帰属します。