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✞きど✞「反転する重力について」

✞きど✞「反転する重力について」

◆作品紹介

誰が建てたのか不明な塔。目的も明示されぬ追跡。登場人物たちは感情を欠いているのではなく、現代と現実を生きる我々とは違う何かを見ている。そんな感覚を与えるこの小説は、かのJ・G・バラードが愛したように、この都市もまた心理の延長ではなく、心理を逆照射する装置である。建築が感情を生成し、天候が記憶を蒸留する。街は廃墟になることを拒み、かといって完結することもない。ゆえにすべては途中であり、「null」のまま宙ぶらりんになる。(編・永良新)

以下、記事の本文です。

1

男が初めて足を踏み入れたとき、街は厚い霧に覆われていた。視界は白く霞み、建造物と思しき集合は微睡のようにぼんやりと揺蕩っている。歩みは慎重であったが、霧は、砂が軋む微かな音さえも呑み込んでいく。

方針もなく細い道を彷徨っていると、視野の上半分で螺旋状の塔が白い靄を突き抜け、上方へ延びた。大気のノイズを隔ててなお、塔が突き出た牽引曲線に従った連続的な階層と、その各層を支える陰の壁面から成ることがわかる。上へ向かうにつれ加速度的に角度を減衰させる曲線は、まるで天へ届かんとする梯子の如く、頂上は注射針めいて鋭く尖り、見る者に冷たい威圧感を与えていた。麓では方形の建物が霧のヴェールを捲りあげるかのようにゆっくりとその姿を現していく。威容を認めた侵入者は一瞬立ちすくみ、再び速足で歩みを進めた。足取りに合わせて、それまで歩んできた山道は整えられた岩肌へと移り変わり、彼の足音を吸い込む。男は再び街の中心にそびえる螺旋状の建造物を見上げた。一歩一歩をたぐりあげるごとに、塔は霧の中から浮かび上がる。

街の家々を支えるコンクリートの壁は滑らかで、黒い涙に似た染みに侵されていない部分は光を冷たく反射する。男の目は塔を基点に建物の位置関係を推測することが可能なまでに慣れ、やがて一つの古びた棟へ視線を定めた。ほとんどの光が遮蔽された薄暗いロビー、入り口の正面には階段が待ち受けており、手紙に記されていた番号の部屋の前へと導かれる。ドアには光沢のある断熱材が手ずから貼られており、ふちにへばりついた粘着テープは半ば溶解している。

男はタイでかろうじて膨らませた胸へ空気を送り込み、一気に吐き出し、真空の一瞬にドアをノックした。返事はなく、しかしドアはゆっくりと開いた。

 

2

土足のまま部屋の中に足を踏み入れると、まず感じたのは暑さだった。地下にボイラーがあるらしく、ロビーに入った瞬間から感じていた熱気が管を通ってこの空間に集まっているようだ。空気が重く、私は汗が額にじわりと滲むのを感じた。壁は方眼模様の、インクが浮き上がった艶のある紙で覆われている。願わくば、このまま口を開いて使命を完遂するより、分離した水色のインクが黄ばんだ地の色を侵食する様を眺め続けていたかった。だが、仕事は往々にして生々しく、重い腰を上げるのを躊躇すればするほど膨れ上がっていくものなのだ。

全容を見ようと試みた部屋には獣の放埒な臭いが漂っていた。狭い空間にこもるその臭いは、私の嗅覚を刺激し、微かな眩暈を引き起こす。ここに来た目的である少女に視線を移す。部屋の真ん中に立ち、白い猫を足元に侍らせている。猫は丸まったまま、こちらに敵意溢れる視線を寄越す。膨らんだ毛並みの隙間から半透明の爪が光を反射させた。少女の視線は私のいる方向を向いていたが、その瞳には無表情な冷たさが漂っていた。彼女は何も言わず、ただ私を見つめ続けていた。私はできるだけ穏やかな声で話しかけたが、彼女は何の反応も示さない。まるで私が存在しないかのように無関心だ。返答を待つ数秒の間、その部屋の中の詳細を見ることができた。部屋の壁に固定された棚には、医療器具や大小さまざまな貝殻が並んでいる。

私はドアの向こうを見透かしている少女に歩み寄ろうとしたが、その瞬間、猫が私の方に飛びかかってきた。鋭い爪が私の手を引っ掻き、私は驚いて後ずさりした。痛みが喪失感、名前を聞いたことのない病気への懸念、失態に対する恥を引き連れてやってくる。私が思わず手を引っ込めたその隙に、少女はしゃがみ込み、猫を抱え上げて私の後ろにあるドアを力一杯引っ張った。突然のことに呆然とした私の横をすり抜け、彼女は部屋から走り出した。

一瞬動けずにいたが、すぐに彼女を追いかけ始めた。走って追いかけるべきなのだろうが、近隣の住民に怪しまれないよう早足にならざるをえない。狭い廊下を駆け抜ける少女の後を追い、私は汚い壁に挟まれた階段を小刻みに降りる。彼女の小さな影は、ロビーの入り口が四角く切り取る霧の中へ溶けた。私は焦りとともにその後を必死に追いかけた。

街の空気は山岳地帯に相応しく冷え冷えとして、私の顔を打つ風が痛かった。少女、と私が判別したものは猫を抱えたまま、白い脚を霧の中に紛れさせつつ駆けていく。通り過ぎる町のそこここから少女の姿態を探す。肘のえくぼは露店の布袋、革靴の艶は黒々とした水溜まりと相同し、ひかがみの凹みは……私は彼女を見失わないように懸命に追いかけたが、その小さな影は幾度となく消えては現れ、私を翻弄した。

少女―紛れもなく実像のそれ―の影は、再び目の前に現れた。来る途中で見た螺旋状の塔の麓に私たちは立ち止まっている。私は息を切らしながらも、不意をつこうと慎重に向かっていった。角砂糖めいた礫が靴の下で柔らかく軋む。

私は再び声をかけたが、彼女がこちらに振り向く気配はなかった。ただ、その瞳の奥にある無表情が、少しだけ揺らいだように感じた。彼女はゆっくりと背を向け、少しの躊躇いの後に再び走り出す。私はその後を追いかけるしかなかった。いかなる事情があろうとも、私は身寄りのない少女を連れて帰り、然るべき機関に引き渡さなければならないと定められたのだから。

 

3

生白い脚が閃いた瞬間、私は団地の屋上に立っていた。登山用の双眼鏡を持ち出しても家々の隙間は霧で霞み、薄汚れたグレーの外套が時折横切っていくのがかろうじて見えるだけだ。同じようなコンクリート製の建物が粗雑に張り付けたかのように並び、視線を逸らすかのようだ。山間を吹き抜ける風が冷たく、豊穣とは程遠い乾燥した肌触りが唇を切り裂く。

屋上の鉄柵に手を掛け、私は街全体を見渡した。少女の姿を探すが、どこにも見当たらない。広がる風景は、まるで巨大なパズルのピースが散らばったかのようだ。私の目は、街の中で次々と変化する影と光に捉えられ、焦点を定めることができなかった。

丘の上にそびえる塔の下部は大地に根を張る巨大な木のように、地面と一体化していた。地上と連続する鈍角の火成岩に憂鬱な銀色の方珪石が共生し、とぐろを巻く中間層には鱗珪石の六角薄板、高みは半透明になっていて目視が難しい。継ぎ目のない石材で造られた街がまるで巨大な機械の一部であり、すべてが完璧に調和して動いているかのように感じた。しかし、その調和の中には、どこか不安定な要素が潜んでいるように直感する。まるでこの街全体が、何かしらの不完全な試作品であり、支柱となる法則を決定的に欠いているような不安感。いつまでも駆動されないままガレージで埃をかぶる車両の印象を抱いた。

階段を下りる足音が、無機質なコンクリートの壁に反響し、私の耳に冷たく響いた。私は少女が再び姿を現すことを期待しながら、町で一番見晴らしのよさそうな丘へ向かうことにした。

 

4

老人が一人、ベンチに凭れている。この街に足を踏み入れてからというもの、少女一人を除いて老人ばかりが目に入る。かさついた、和紙のような手肌で衣をかき分け、籠に積まれた干物を鬻ぐ。同じく皺の寄った手が桁の少ない紙幣を対岸の衣に差し込む。衣擦れと退化した声帯から成る振幅の届かない丘に老翁は居た。別種の波―日光に打たれながら。何一つ行為を起こす気配もなく、ただ腹部から延びて胴体を半周する金属管を煌めかせている。彼の皮膚はその管の周りで緊張して見えたが、痛みを感じているようには見えなかった。それは能動的とはとてもいえないだろうが行為している、照り返すという行為をしているのではないか。私が印象の方向を転換させるほどに彼は没頭している、かのように見えた。後ろめたい視線を否応なく惹き付ける、鼓笛隊が抱えたトランペットのように誇らしい金管の包摂。そう思うのは私の思い込みであって、正しくは過酷な医療によって生きながらえる身体の疲弊と決めるべきなのだろうが。

老翁の縦半分だけが確認できる表情は微笑みをかたどっている。少女の行方を尋ねたかったが、彼女と同様に私の言葉は通じそうになく、それ以上に邪魔するのが申し訳ないほど穏やかな面持ちだ。まっとうな人間なら不気味と見るだろうが、本当に牧歌的な光景だ。太さの異なる数本の管が夕日を反射し、私の網膜を荒っぽく撫でる。祖父というものが孫の頭を撫でるように。

丘の上は無風であった。周りの空間がまるで時を止めたかのように静まり返り、風さえもその場を避けているように感じられる。彼の微笑みは、彼の内側にある何か深い知恵を示しているかのようで、その笑顔の意味を解読しようとするが、理解という行為の実際からは遠く離れていた。

塔の影が彼に差し掛かると、老人の全身はゆっくりとその中に沈む。目は半ば閉じられており、そのまぶたの隙間から弱弱しい光が漏れていた。彼の呼吸は穏やかで、まるで長い旅路の終わりに達した者のような安堵感が漂っている。

団地に向かう下り坂を辿る。くるぶしにも届かない草の間に何かを探していることに気付く。下りた先の路地では私が通り過ぎるたびに、窓から覗く影や、遠くに見える人影が、一瞬だけ私の存在を認めるかのように動き、すぐに消えていった。その無言の目撃者たちは何か言いたげな躊躇いを露わにしていたが、それでも決して私に近づこうとはしなかった。

 

5

疲労が限界に達したとき、私は自然と少女の部屋に戻ってきた。彼女に置いていかれた時のまま、扉が開け放たれている。彼女がいなくなった後の部屋はなおさら静かで、温かい湿気の中でも視覚的には乾ききって映る。壁の方眼が安っぽい蛍光灯の光を照り返し、獣の臭いが薄れていく。

私はへたりこんだソファに座り、無力感のポーズをとった。身寄りのない子供を保護するという単純な善行に手間取るとは思っていなかった。他人の家で寛いでいる現状はとても善とはいえないだろうが、しかし、この部屋に戻ってくるしかなく、考えられる少女の行き先ではここが一番有望なのだ。私はここで夜を過ごすことを決意した。

夜の闇が訪れると、私は少女の祖母のことを思い出した。崩れ落ちた塔の瓦礫に圧し潰されたという、親戚の話でしか知らない人物。昼間に街の大部分を探し回ったはずだが、団地と商店の沈む隙間に、塔のような大きな建築をねじ込む余裕などはありそうもなかった。中心に建つ白い塔を除いて。

私の視線は無意識に棚の貝殻に留まり、その滑らかな曲線と冷たい質感を指先で感じたい衝動に駆られた。塩の結晶が吹いた表面は粉っぽく、指先に痺れをもたらした。

棚は隣の部屋―少女の私室だろうか―へ続いている。扉があったと思しき枠には用をなさない蝶番だけが残り、私が通り過ぎても微塵も動くことはなかった。壁のスイッチを探り当てると弱弱しい灯がともり、安楽椅子の上の人物を黄みがかった光線で撫でる。自死でなければこのような有様にはならないだろう。左手を除く四肢の先端が粘着テープでイスに固定され、頭部にかぶさる白い袋、その中から延びるシリコンチューブが床のガスボンベに繋がっている。袋と同じくらい白い膝小僧が露出している。小型動物の頭蓋に似た皿と外側のささやかな隆起、子供らしい擦過傷は私が昼間に追い続けたものだ。逃走をやめた少女はあまりにもむき出しの存在になっている。その肩に触れようとも思ったが、そうしたとて、夢の中に現れる形象に触れることとどれほどの違いがあるだろうか。

 

6

明かりの消えた街に出たところで、なお白灰色に浮かぶ塔に着くのは簡単だった。街で唯一の高い建造物は山間の風景にも埋もれることがない。月光だけに支えられた姿は冬になれば完全に消失するに違いない。少女は棲家を侵入者に奪われ、一昼夜の逃亡の果てに疲弊しきった風体で、塔を背に立ち、冷たい目をこちらに向けている。べとついた髪の隙間から灰色の目が見えた。黒いウールのワンピースにはそこらじゅうに猫の毛が貼り付いている。どこかの路地裏で身を寄せ合っていたのだろう。もはや遠慮する義理もなく、私が一歩一歩近付くと彼女は後ろ向きに塔の扉へ追い詰められていく格好となった。暫くして扉にぶつかると、少女は足元に猫を取り残したまま重々しい閂を引き抜いた。

 

7

建物の中に入ると、外界に鳴っていた虫の声が石材に吸い込まれ、静寂に包まれた。少女の足音は壁際の上方から聞こえてくる。どうやら塔の捩じれた形に沿って、階段が設けられているらしい。窓のない塔の中で一層暗い中心が目を引いた。円形の吹き抜けが口を開けている。底は見えず、地下深く没しているようだ。硬い足音がちょうど一周した。音はそのままゆっくりとくぐもり、つまり、私の探すものが遠ざかっていく。私の靴が金属製の階段を叩く音が、上のもっと軽い音に合わさり、絶妙にずれたリズムを刻み始めた。取り囲まれた壁が湿って冷たく、どこを見ても規則的な模様が刻まれている。楔文字に似た一つ一つの記号はこの町の言語なのだろうか。

螺旋階段と中央の空洞は常に同じ距離であり、登っても半径が縮まることはない。そのかわりに階段の傾斜は急になっていく。手すりも踊り場もなく、ただ壁のもっとも突き出た部分に同じ素材の段が設けられているだけだ。壁面の曲線がときどき頭をえぐりそうになり、そのたびごとに転落の懸念が強まっていく。先ほどより離れた所から靴音が聞こえてくるが、あれほど高く昇れば小柄な少女とて立ってはいられないはずなのだ。はいつくばっているとは考えられない、規則的で軽やかな歩行が信じられなくなった時、四方を包む圧倒的な空虚、支える質量をもたないただの空気が押し寄せ、浮き上がりながら墜落させる心地になった。

 

8

塔の扉から転がり出た男は集まった群衆にたじろぎ、さきほど逃げ出した塔を振り返る。埃に塗れた上衣が汗で貼り付いた。硝子張りの頂上には昼間と変わらず人の到達できる余裕は見られず、それでも男はそこに視力のすべてを振り絞っている。暗く沈んだ家々からは想像できない数の住民が丘を登ってくる。男が彼らに気づいたとき、すでに塔のふもとは襤褸と骨の重なる海と化していた。老人たちの隙間を縫って抜け出した男は暗い通りを走り抜け、なだらかな尾根を目指して転びながら駆けていく。

 

9

街を後にした道中は、疲労の中で、ただ無心に歩き続けた。振り返る気にはなれなかったが、塔は私の後ろで徐々に小さくなり、丘の起伏の中に永久に姿を隠したのだろう。でなければ私の住む都市に変えることは不可能なのだから。ただ、あの異様な光景は私の記憶にこびりつき、冷たい内部の空気や党の周りの群衆にぶつかった時の堅い感触が肌に残っていた。

私の住んでいた部屋を路上から見上げたときに直観的にこの期間が失敗したことを知ったのだが、きっと電気を消し忘れたのだと自分に言い聞かせ、中に入った。当然少女の死体が待ち構えていることはなく、格安の家具店で買い集めた匿名の家具とミイラ化した食料が私を出迎えた。電波が入ったことをいいことに不在着信を確認してみたが、私に今回の用事を言いつけた親戚からは何の音沙汰もない。徒労の感を覚えたが、野菜の死骸を塵袋に放り込む作業を始めると、団地の部屋で見た少女の抜け殻が否応なく目に浮かび、冷蔵庫の中を空にして袋の口を結び終わった次の瞬間に薬を飲んで寝た。

この一種の外傷体験はここで終わり、若かりし頃の不思議な経験として思い出すことになる、と思ったのだが、実際に社会生活へ戻ろうとすると、街に配置されたもの一つ一つが薄い透明の膜を隔て、さやさやと軽い音を立てて私を押し戻すのだ。勤め先が入っているビルのドアも、私が左手に握っていた布かばんも、衣服でさえ、有無を言わせぬ弾力で私を一挙に突き放し、脱出を試みたところで、道路は靴底と被膜同士を滑らせ、半地下の飲食店の入り口はすなわち袋小路、どこへ逃げられると言えたのだろうか。

完全に閉じ込められたことを悟った時、幾重もの膜はなぜか優しくすら思えた。公園の砂の上にうずくまった姿勢の私を何重にも包み込み、呼吸するたびにより私の肌に密着する。一つの繭になるだろう。私が抱えた膝を胴体の方に引き寄せ出っ張りを少なくすると、繭は動きを読み取ったかのように楕円形の形をとった。

 

◆作者プロフィール

✞きど✞

たまに文章を書きます。X:@kido_datura