◆作品紹介
bioにあった「Cyberpunk/Goth」という並びを見て、ニック・ランドが「CyberGothic」という異常論文を記していたことを思い出したわたしは、なんとなく翻訳の提案をし、なんとなく交流を開始した。それから長い間、そのミステリアスな素性と対峙してきたわけであるが、きどさんと向き合っているといつも、己と向き合っている感覚に駆られてしまう。それはCyberpunkについて考えることで有限の身体(への恐怖)について問われることや、Gothについて考えることで無限の外部(への恐怖)について問われることに似ている。そして――『FFEEN vol.2』所収の幻想小説「▲▼」でJ・G・バラードの鏡像を垣間見させてくれた彼女が――また一枚、巨大な長鏡を衝立てた。(編・永良新)
以下、記事の本文です。
<introduction />
部屋の電気を消すと、
蝋燭の揺らぐ炎が
眩しく光った。
溜まりはじめた蝋を
机に滴らせる。
少しの間
流れ広がろうとした液体が凝固し、
ゆるりと灯りを照り返す。
何本もその作業を繰り返していった。
黒々としていた木目が覆われていく。
ドーム型を作るように
黒のスペースを残し、
本・ノート・ペンの三つ道具を設置した。
</introduction>





……
ある人――「わたし」に似ているから、仮にW氏としよう――の眼前に広がるのは、彼が見上げる/見下ろす限り続く階段であった。彼を取り囲むのは幾つもの構造物が交差する室内。あまりに甚だしい装飾のため入口も出口も埋没し、循環する階段が前面に突出するように見えている。その階段の中ほどに彼はいた。
彼にとってこれは所与の光景だ。今までずっとそうであったとも云えるし、この一瞬のうちに出来上がったといっても間違いではなかった。
W氏がW氏となった空間において、一方向へ同じ速度で進む時間は措定されていなかった。W氏がW氏となった時、彼はすでに次の段へと足を進めていた。W氏はいつから自分が歩行しているのかを知ることも、思うこともなかったし、どのような種類の認識もこの空間では許されていなかった。というよりかは、そもそも認識するということが定義されてはいなかった。彼の存在そのものが、この入り組んだ回廊と同質に創造されていた。
W氏をW氏と定義する手がかりは、丸みを帯びた全身の輪郭のほか、彼が右手で支え持っている盆だけである。そしてその上に鎮座する瓶とワイングラス。おそらく銀色なのであろう盆は実際のところW氏の手肌と同じ密度の線描で濃淡を付けられている。瓶とグラスの曲線もW氏の輪郭と大して変わりはない。光沢や透明度を捨象した、ただの細部の細部。これらのいくつかの付随的なディテールだけがW氏を他の人影と区別しており、わたしにW氏という仮名を付けさせるに至った。
W氏は自らの歩行に運ばれる目的地について思い悩むことはない。悩む以前に、思うことがないからだ。W氏がW氏たる書割において、そのような疑問は――そしてどのような疑問も――描き込まれていなかった。
そう、W氏は如何なる意識とも無縁だった。だが今この時点からは、彼はただ進み続ける確信だけは持っていることにしたい。そうした場合、W氏の確信は運命だと言い換えることもできるかもしれない。
……

……
空中楼閣に見せかけの堅牢性を与える人物例①という実存を与えられたW氏は、周期的な歩行だけをくり返していたが、わたしはいま・ここの瞬間にある一文を足したいと思う。
W氏は視界の変化に気が付いた。
踊り場の外側にバルコニーが増設され、人物が文字のない本に首を傾けている。今にも飛び降りそうな人物が隣接する壁の手すりをつかみ、吹き抜けを見下ろしている。W氏が巡回の途中で建設現場に遭遇したことはなかったが、明らかにこの回廊の情報量は増加していた。壁のそこここが天となり地となり、その場凌ぎの引力にしたがって意味ありげな表象が敷き詰められていく。
この変化によって、W氏ははじめて認識を意識――認識ということを意識するに至った。続いて疑問が生じた。思考が生まれた瞬間である。
ちょうど明の極に向かっているところだった。階段の中ほどから新たな廊下が生成し、二人の人物が回廊の外へ足を踏み出している。片方がもう片方の腰に手を回し、地平線だけがある限りない空白へ導く。緻密な線描が密度を増しつつある回廊とは対照的に、外部には地平線だけがあった。黒く塗りつぶされそうな空間が吐き出したかのように、回廊の付近には単純な紡錘形の植物が散らばっている。
W氏が幾度目かの周回を経て、幾度目かの暗の極に着く直前、前回通過したときにはなかったはずの通路が視界に入った。踊り場の床の端がどこまでも伸長し、完全な闇の中へ消えていく。水平の通路はW氏の進行と同じ方向を辿らせた。
W氏の陰影が極に至る。何もかもが一瞬止まったかのようだった。それははじめての感覚というものだった。W氏は黒に染まった己をじっと見つめ、空間が飽和した瞬間を感じた。彼の色調は完全な暗黒に同化し、その瞬間、彼の意識も再び静まった。
……

<description />
六方位の一室にて、
ある人物が儀式を試みた。
電灯を消した部屋の中、
幾何学的に並べられた蝋燭が
彼の相貌を照らす。
どんな細やかな線描にも
描写しつくせない明暗が
彼を包み込み、
反射し、
吸い込まれ、
拡散する。
彼はある種の箱庭に
及ぼしうる力を知っていた。
しばらくの間
創造や破壊を遊び尽くした彼は、
今度はその力を手放すことにした。
彼は時のない場所に
時間を与え、
とある顔のない人物に
顔を与えた。
その人物の顔が
浮かび上がってくるのと
反比例するように、
この不完全な神の相貌は
薄れていった。
口の亀裂が閉じ、
鼻の突起が磨滅し、
最後に毛穴が塗りつぶされた。
身体の凹凸が面となり、
線となり、
最後に残った点描を手放した。
観察する両の目だけが
闇一色の部屋に浮かび上がり、
少し空間を隔てて、
彼に血肉を与える
手とペンが動いている。
</description>
……
すべての事の発端は、たまたまある人物にW氏という名前を付けたことだ。
それはとある回廊を示す図画だった。この進んでいるうちに床が天になり、壁になりまた床になる閉じた建築のトロンプ・ルイユは、マウリッツ・エッシャーというオランダ人画家の作品だ。この絵のあちこちに描き込まれた人物は、机上の空論にディテールを与えているに過ぎない。そうは云っても、わたしの周囲にあるものがW氏の辿っていた机上の空論より確実だと云えるだろうか。
W氏はわたしの創り出した記述の中で、次第に輪郭を濃くし、回廊のあちらこちらに視線を投げかけ、観察し、思考するようになった。自律した行動をとり始めた。その時々の鑑賞者の前にしか立ち現れなかったW氏の歩行が、一歩一歩、現実の足跡となる。彼の存在はわたしのなかに少しの間わだかまり、周回ルートを紙の上に移し、厚みのある存在として立ち現れた。海水が淡水魚を侵すようにW氏はこの部屋に流れ込んできた。
その一方で、わたしの実存は徐々に失われていった。わたしの指がペンを動かしても、紙の擦れる音はもはや聞こえなかった。あたかも光が徐々に衰えていく星のように、わたしの発するエネルギーが減少していく。
わたしはW氏の記述をほんの少し中断し、窓辺の景色を見納めることにした。壁にくりぬかれた窓の外では、いつの間にか日が昇っている。通りに植えられた樹木の葉一つ一つがいつも以上に光を反射し、こちらに届けてくれているかのようだ。その光線は非常に鮮やかであると同時に冷たく、遠かった。生きていたころに――一度も生きたことはなかったが――生活の一部のように扱っていた事物すべてが、離れた場所できらりきらりと輝いている。幻が遠ざかりつつある。
愛着の剥離に似た不安が首をもたげた。儀式の臨界点と同時に、W氏を記述するわたしは終わりを迎える。しかし、どんなひどい場所もそこを去る時は胸騒ぎを覚えるものだ。広い意味ではこれまでに何度も空間との別れを経験し、そのたびごとに前の場所を跡形もなく忘れ去ってきた。別離の悲しみと環境変化の不安を区別しようとするイノセンスをわたしはもう持ち合わせていない。
最後のピリオドを打ったとき、ペンの机にぶつかる音が否応ない別離を告げた。最早W氏を観察する必要もなくなった視界が螺旋状に折りたたまれて暗転する。
…
私はこれまでの居場所から弾き出され、薄暗い一室にいた。一つの部屋に一人の人間が生活するのに必要な物が収まっている。わたしの隣にテーブルには偏執的に蝋燭が突き立てられ、その間に細かな字で埋め尽くされた紙が板の如く積まれている。筆圧で凸凹になった紙片とは対照的に、私の実存は薄く平たかった。
私に纏わり付いている時間の堆積がひどく重かった。ここでどれくらいの時間が新たに過ぎたのだろうか。私の時間はこの部屋で水圧の如くのしかかり、以降のカウントを止めてしまった。それを積み上げた者を探そうとしたが、住宅のどこにも人の気配はしない。しかし、火の付いた何本もの蝋燭をよそに外出する者がいるだろうか。
そんな判断をしている己に目を向け、私は思い直す。いや、そもそも――循環する階段を何周も何周も歩き続け、観察される状態を終えるたびに同じ地点へ戻り、再び見られる時を待つだけの人間が実在しうるだろうか。一つだけ確実なのは、この場にいるはずの存在が私の実存に深く関わっていて、私と交換されるようにして消失したということだ。
私は前へくり出し、机を観察する。その上には大判の本が見開きの両端に重しを戴いて固定されていた。そこには一目でそれと分かる筆跡で、これまで私が定義づけられてきた書割が収まっていた。
そのページが文鎮の重みを次々と跳ね除け、前後の上質紙が閉じて倒れる。
私は記述することを停止され、室内に取り残されたのだ。
語り部を失った私は、それでも給仕されるべき盆・瓶・グラスの三つを持ったままだ。私自身に反して揺るぎないアトリビュートを掲げたまま、順路なき部屋を進み、途中にあるドアを開けていく。私の存在は今や平面的な明暗よりも具象的とも云えたし、より頼りないとも云えるだろう。私の前にはどこまでも目の細やかな質量があった。
見下ろした先にあるレストラン、そのテーブルに一人でコンピュータに向かう人物がいる。私ははじめて給仕の職務にしたがうことにした。テーブルに向かう人物が私に向けた視線は、持つ盆を素通りしたのちにまたパソコンに向かう。それまでのファイルを閉じ、新規作成し、そして新たに書き始める。私はそれを見届け、またどこかにあるであろう食卓へと歩みを進めて行った。
◆作者プロフィール
✞きど✞
ファッションモデル。ときどき小説も書く。SFとGothが好き。過去作に「▲▼」『FFEEN vol.2』。