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惑星ソラリスのラストの、びしょびしょの実家でびしょびしょの父親と抱き合うびしょびしょの主人公「押井ジャイアン」

惑星ソラリスのラストの、びしょびしょの実家でびしょびしょの父親と抱き合うびしょびしょの主人公「押井ジャイアン」

◆作品紹介

マックの脂とコーラの糖がまず舌ではなく文章に膜を張る。女子高生の「あーね」は相槌ではない、起爆コードだ。「押井ジャイアン」は固有名ではなく寄生語で、耳から入って現実の配線を食う。セイタカアワダチソウ、野井戸の黒水、荒巻=北野の濡れた手、そして降ってくる巨体。あれらは出来事ではない、世界の表面に浮いた腫れだ。読み終えるころ、こちらが作品を読んだのではなく、作品のほうがこちらの認識をひと通り通過し、ずぶ濡れのまま放置したのだとわかる。(編・樋口恭介)

以下、記事の本文です。

1.

 

マック。マクド。つまりMcDonald’s。

疑いようがない。

微塵も疑いようがない、資本主義の味がする。

おそい昼さがりに空いているまともなメシ屋がそこしかなくて(本当に、そこしかなかった。本当に。なんて街の、なんて日だ)、でもまあ、たまにはこういうのも悪くない。

ビックマック、ポテト、コカ・コーラのL。

資本主義のスタンダード・ナンバー。

で。

スマートフォン(資本主義的惰性加速装置!)片手にビックマック(せいぜいが半分。半分くらいが適切なんだ。いつだって僕たちはそうやって道を踏み外す。飲み会の〆で入った、生ビール99円のインド料理屋でビリヤニ。そしてはちみつチーズナンなんて頼んで苦しむ。なんてこと。ビックマックの総体積のうち三分の一を過ぎたあたりでそれはもう僕はめっきりと音を立てて後悔し始めた。脂が。塩が。糖が。すべてが血管を痛めつけ、脳は溶け、胃は恥辱のあまり崩れ落ちる。そして失われたものについてやっと気づく――僕はもう、年なんだ!)を頬張っていると、ちょうど通路を挟んで窓側の、僕の真後ろに座っているらしい女子高生二人組の会話が、カクテル・パーティのあいまを抜けて十月の風のように僕の耳に届いてくる。

つまりそれはこういう話――

 

――てかさユミ、マジで。だからアーシ言ったじゃん。まえも言ったじゃん。ゆっちがホラ、あれ、道玄坂で、この前の土曜に道玄坂で、てかユミも見てたっしょ? だからゆっちがさ、ゆっちのほら、キーくん。キーくんいたじゃん。キーくんがさ、来てて、来てるのにさ、ゆっち、ゆっちとコモリがさ、つって。

――あーね。

――そこでアーシ言ったじゃん。アーシがさ、だからほらゆっちヤバいよ、ゆっちヤバいよ、つって。

――終わってんねーあいつら。

――そう! だから、マジでそーなの。だから。

――つか、あれじゃね? 知らんけど。

――そう! 押井ジャイアン

押井ジャイアン?

食べかけのビックマックを片手に僕は思わず背後へ振り返ると、

ビュー!

と、風が吹いて……

……

 

草原。

気がつくと草原だった。

くさばら。

セイタカアワダチソウ。

それが、どこまでも広がっていて。

ビュー。と鉄風。

冷ややかなそれは十月の。セイタカアワダチソウがゆれる。

その向こうに林。

林の向こうに山。

山の向こうに頂。

頂のむこうの青はどこまでも高いところで黒。

そして遠いところへつながって……

僕はビックマック片手に、そういう風景をみていた。

立っていた。

道に。

舗装されていない砂利に。硬い土の表面のうえに。表面のうえのつぶてに。

女子高生も、マクドナルドも、街も、資本主義も、一切が姿を消していた。

ここは……

どこだっただろうか……

……とりあえず、僕は道を歩くことにした。

 

2.

 

道は下ったり、登ったり、ゆるやかに左に曲がったり、また元に戻ったりした(一切は穏やかで、世はすべてこともなし)。

僕はビックマックをシャク・シャクやりながら、ときおりビュー。と吹いては過ぎ去っていく風をぼんやりみていた(風は文字通り現在から過去へ向けて吹いていく)。太陽はまだ高く、うっすらと延ばされた細い雲が廻る綿菓子の端っこのように空に張り付く。スマートフォンはなかった。きっとあのスマートフォン、資本主義の街の資本主義の店の資本主義のテーブルの上で資本主義のコカ・コーラとポテトとトレーとトレーの敷紙と白い紙ナプキンと共に置き去りになっているのだろう、な。

突然店の中から居なくなった僕に気づいた人間はいるのだろうか?

あるいは……誰も……

そういう想像を僕はした。してから、ふふん、と思った。

それにしても……そうだった。女子高生。彼女たちは確かに、押井ジャイアン。と言った。まったく確かにそう言った。あーね。だから僕は後ろを振り返ったのだし、風は吹いたのだ。ビュー。

「押井ジャイアン、なー」と僕は口ずさんでみた……

……ふと視線を上げると少し行った先、矢張り道の途上に誰かが立っていた。

男で、小柄で、灰色がかったような緑色のくたびれたロング・コートを着ていた。そして、縦長のやわらかい帽子。

男の足元に犬がいた。耳を垂らしたバセットハウンド。彼は傍らに立つ男を見上げていた。

僕は立ち止まり、ちょっとのあいま、考え……ゆっくり歩き、男の背後に近づいた。必要十分な距離(つまり僕にとっても、彼にとっても、彼の犬にとっても、という意味だ)に至り、待った。何かを。ふさわしいそれを……

果たしてそれは起こらなかった。それはやってこなかった。だから、咳払いひとつした。コホン。

男は振り向かなかった。男は僕に背を向けたままで道の先を見ていた。いや、実際彼は何を見ていたのだろう? ……この距離で見ると、男の被っている帽子はろくろの回転に合わせて引き伸ばされる過程のあのやわっこい粘土のような色とかたちをしていた。くたっとした色と線。そしてやわらかな土のにおい。

犬と目が合った。犬はチラリと僕を見て、それから、男の足元を嗅ぎ回ったり、傍らの主人を見上げたりしていた。軈てそれらすべてに(あるいは――自分自身そのものに)飽きると、その場に伏せの姿勢を取ってちょっと舌を出し、上目遣いの黒い目だけで僕をじっと見た……

「こんにちは」男の背中に向かって、僕はくっきりと声をかけた。

男の頭部が少しだけかたちを変えて「あ……」と高く、掠れたような返事が聞こえてきた。

「え?」と僕が聞き返すと、

「だから……虚構なんです」と、矢張り掠れて、思いのほか上擦った声が聞こえてきた。

「はぁ」

「二元論」背を向けたまま、男はそう言った。

「……矢張り、そうなりますか」僕は応じた。

「現実とのね」

「しかしそれは……」

「使い古されている?」

「そうです」

「しかし、現実とはそれだ」

「使い古されている?」

「ありふれている」

「手口が?」

「理念が」

「ああ、アィデアとして」

「無論です」

男の頭のかたちがくねくねとダンシング・フラワーのように変わる。男は自分の足元を見ているようなのだが果たして定かではない。運動靴の爪先で、地面の土をほじくっている。犬が、主人のほじくった土に鼻先を近づけ「スンスン」と言った。たしかに、マズルで、はっきりと。

「煙草は?」と男。

「あ……いえ、喫いません」

「じゃ、蕎麦は?」

「蕎麦?」

「かき揚げつき」

「吸いませんね」

「だろうね」

「だろうね?」

男は黙って肩をすくめた。

鳥が一羽、空を掠めた。

あのぅ……と僕は男に訊ねた。「ところでここは、いったいどこなんですか?」

「熱海」

「熱海?」

「違うよ。そんなの、あるわけないじゃない。だから、虚構……」

そう言うなり男は肩を、全身を、大いに揺らしてくっくっくっ、いひーっひっひっひっ、と引き笑いをした。男の、首のうえの頭がぶるんぶるんと慄いて、顫えた……ひとしきり男は笑い終え、「ハッ!」と溜息。それから、道の先を指差して、こう続けた。「あそこの、林が見えるでしょう?」……男の指差す先、ずっと向こうに、確かに林が見えた。のっぺりとした、アウトラインの掠れた黒い林。

「あれ、なんの林です?」僕が訊ねると、

「だから、虚構」と男。

「生えている木が、ですか?」

「……いくじなし」

ぶるん・ぶるん。男の頭が揺れた。そこでようやく気がついたのだけれど、僕が帽子だと思っていた、くたっとしたそれは男の頭部そのものだった。それがプリンみたいに打ち顫え……「虚構なんです。だからね、あそこにあるのは、木々の集合ではなくて、あれで一個の、林なんだ。林。書割みたいなものなんだ」

「……だから、生えている木の、個々の存在なんてものは」

「無い。ちっともない……有り得ない話し!」男が声を張り上げた。足元の犬がびくりとして、不安げに主人のほうを見上げた。

「それで……あの林が、何なんです?」

「林の手前まで、セイタカアワダチソウ。見えるでしょう?」

「風で揺れている?」

「風で揺れている。十月の。陽が傾くのは早いよ。それで、セイタカアワダチソウに隠れているのが……」

「……何です?」

「……井戸だよ。古井戸。野井戸。春樹の」

「春樹の?」

男は頷いて、「棄てられた井戸。石の囲いも無い。林と、セイタカアワダチソウと、その際にある。あると言われている」

「それはまた……物騒な……」

風がビュー。セイタカアワダチソウたちが撓むと陽が夕なに向かいばたばたと倒れ空は色を喪い宇宙が降ってくるので僕は上着を着てくれば良かったなあと思う。こんなとき、ユニクロがあれば……

「このへんに、ユニクロはありますか?」

「熱海に?」

「熱海に? え結局熱海なんすか? ここ」

男の頭がくたっ……と大きく左に傾く。彼の足元にいる犬が「おっ、おっおっおっおっ、あぶないっ!」と叫ぶ。頭は……台無しになるぎりぎりのところでねちっこく踏みとどまり……ゆっくり、ゆっくりと、再び正常な位置へ、正常なかたちへと戻る。

手をかざし、しかし直接触れることはなく、男は頭のかたちを慎重に確かめてから、足元の犬に向かって咎めるように「ばうっ」と一言吠えた。犬はびくりとして、神経症を孕む目で「や、違くて」と一言弁明した。そしてそれ以後、口を噤んだ。

「熱海なんてものは、無いですよ」男がぼそりと言った。

「……や、有りますけどね?」僕は半ば意地になって返した。

「ふん」

男は鼻を鳴らし、僕の問いに答える代わりに「……もう、行きなさい。でないと、降ってくる。降ってくるから、あれが」と言って、再び道の先の林のほうを指差した。

「あれって、何です?」

「……キミも、知っているだろう。だから、ここに来たんだろう、あれを。あれが、降ってくる。厄災とはそれだ。予感し得ないとき、予感し得ないかたちで、それは――」

「――押井ジャイアン」

僕がそう呟くと、「いうなっ!」と男の鋭い声がした。声で、遠くの林にいた大小の翼あるけものたちが一斉に空に舞い上がった。空はもう夕暮れの赤や青に染まっていた。星が。星のひかりが。ずっととおくで死に絶えたものの最後の叫びが降ってくる。

「いきなさい。はやく」もう一度、男は言った。

僕は黙って男の背中に礼をして、その隣を通り過ぎた。通り過ぎてしばらく歩いてから「井戸は……野井戸は、本当にあるんですか?」と訊ねて、振り返った。

男の姿は無かった。犬も。

陽が沈み、夜になった。

 

3.

 

陽が稜線の奥へ消えると、歩いてきた道はすぐと途絶え見えなくなった。

いつの間にか僕は群立するセイタカアワダチソウのあいまへと足を踏み入れていた。僕の背よりも高いそれらをかき分けて、黒い林へ向かって進んだ……

歩きながら、僕は先の男が言った井戸について考えていた。棄てられた野井戸について。石の囲いもない、地面にあいた穴について。もしかすると、次の一歩が“それ”かもしれないし、あるいはその次が、あるいは……まるで人生そのものだな、と、その時の僕は、思った……足は、次の一歩がその前の一歩と同じであることを全く諒解する。昨日と何ら相違の無い今日へ着地し、今日と何ら相違の無い明日へと着地することを全く諒解する。足は……僕に先んじて未来へ進む。現在と同じように、未来があると全く疑いようもなく諒解する。

けれど、本当にそうだろうか?

昨日までの僕は、いや、今日の昼までの僕は、今こうして訳も分からずセイタカアワダチソウをかき分けて進む十月の夕暮れを全く想像していただろうか? ……もしかすると、僕はもう野井戸の昏い穴を踏み抜いて、その底に落っこちてしまっているのでは無いだろうか?

ここは本当に熱海なのか?

あの資本主義の街は、まだ彼処にあるのだろうか?

と――セイタカアワダチソウの向こうに、黒い林が見えた。ただ一個の、のっぺりとした林。書割としての林。虚構としての林。しかし林についたとて。あの林の先はどこに繋がっているのだろう? 熱海か? それとも……

そんなことを考えていると、強い風がビュー。と吹いた。

風に背中を押されて、足は一歩、前へと踏み出した。

足は今日を捉えなかった。足はいま・ここを捉えなかった。

足は――

 

……つぎに気がついたとき(そう、まさしく僕は気がついたのだ)、かちかち。と音が鳴っていた。音は周囲の、石積みの内周をぐるり巡って、ふたたび僕の耳に戻ってきた。かちかち。かちかち。歯と歯のぶつかる音。

顫えていた。僕は。井戸の底の水にどっぷりと浸かって。

空を見上げると円が二つ。井戸のふちに切り取られた黒い夜と、月が。

肉体の顫えは十月のしんと冷えた野井戸の底に溜まった水のうえを伝わり(ちゃぷちゃぷと水が踊り波紋は気泡を孕む)、それは外へ向かうにつれておだやかな線として……井戸の、石積みの内壁へと向かう。

石で囲われた世界のなかに、頭上からの青ざめた月の光が届かない一等昏いところがあった。その暗がりに僕のふたつの目を投じた。霞んだ目を。痙攣する瞼を。困憊する眉間を。

それで、闇を濾す……

闇の中に、息遣いがひとつあった。

僕は慄いて、竦んで、身構えた。

その息遣いは、ひとつの輪郭をかたちどるのだが……しかし……少なくとも、そこに悪意というか、敵意というか、そういう害意のたぐいが無いことを、その時の僕は確かに認めた。うまく言えないが、そう感じた。きっと水のせいだ……僕とその息遣いはひとつの水ひとつの円い世界を共有していた。だから、“彼”がすくなくとも僕に危害を加えてはこないだろう、という、あやふやでありながら、しかししたたかな感触が、僕の皮膚にはあった。

……僕は、掛けるべき声を言葉を慎重に吟味してから、

「貴方が、押井ジャイアン……ですか?」

暗がりの“彼”は答えなかった。代わりに一歩、こちらへ近づいた。“彼”に由来する波紋が、僕の世界へとやってきた。

闇のなかから“彼”が姿を現した。

小さな男。先に会った、犬を連れた男と同じくらいか、なお小さな、男。

ネクタイを締めた白のYシャツと黒いスーツ。水を吸ってぶくぶくと重たいロング・コート。歳を取っていた。少なくとも六十代後半から、七十といったところ。頭頂部にかけて綺麗に禿げ上がり、側頭部に残った白髪は左右に向けて角のように伸びていた。

余りに不自然な髪型……

見覚えがあった。

スカーレット・ヨハンソンが出てたほう、いわゆるスカヨハ攻殻で、北野武が演じる荒巻課長。

その彼が、そこにいた。

「……たけし、さん?」思わず僕が呟くと、荒巻=北野は首をこきっ、こきっと、自身の右肩へ向けて二度、素早く傾げて、

「ゼンデイヤ、馬鹿野郎」

と言った。

スカヨハ攻殻に、ゼンデイヤは出ていない……

……黒い水面からぬっ、と彼の腕が持ち上がった。ぐっしょり濡れたコートに包まれた、荒巻=北野の右腕。僕の胸の前に差し出された手のひらは開かれていた。

「狐を狩るのに、兎を寄越すな」と荒巻=北野は言った。

「……どういう意味ですか?」僕は訊ねた。

荒巻=北野は瞬きせず、僕をじっと見つめたきり、何も答えはしなかった。

差し出された右手を見つめ、荒巻=北野を見つめ、僕はどうすべきか迷ったのだが……結句、僕は彼の手を握り返した。握った瞬間、そこにぐっと力が込められた。強い力だった。僕は反射的に右腕を引っ込めようとしたのだけれど、それよりなお荒巻=北野の腕の力のほうが強かった。僕の右手を握りしめたまま、荒巻=北野は眉間をきつく閉じ、薄くあけた瞼のあいまは白目を剥き、肉体の裡を灼く痛みに耐えるように、ぶるぶる痙攣し始めた。ちゃぷ、ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ……荒巻=北野の周囲の水が攪拌される。乱れた波が石積みの壁を叩いて、消えた。

痙攣はかれこれ一分ほど続いた。荒巻=北野の手が離れた瞬間、僕の中の何かが、彼の中へと流れていくを感じた。

なにか。

それが十月の風のように(ビュー。)、僕の中から荒巻=北野の中へと去っていった。

永遠に。

荒巻=北野は……ひどく疲れた様子で、そのままゆっくり後退り、再び闇のなかへ入った。自身が産まれた闇のなかへ。

しばらくのあいだ闇の中に彼の息遣いだけがあり……

消えた。

井戸の底に、僕がひとり残された。

 

頭上の夜は遥か高みにあって青ざめた円い月が見えた(時折ちぎれた雲がそこに掛かっては何処かへと流れていく)……

……影が現れた。雲では無い、影が。

誰かが、穴の底を覗き込んでいた。

目を凝らした。影になっているのに、こちらを覗き込む男の、姿かたちが手に取るようにはっきり見えた。橙色と、白のボーダーのロング・シャツ。肥った輪郭。短く刈りとられた散切りの黒髪。そして白目を剥いて……いや、違う。眼球のあるべきところに、ペットボトルの白い蓋のようなものがふたつ。それが眼窩に、ぎちぎちに嵌め殺されていた。

円い夜に浮かぶ美貌は無垢そのもの。

……空の下の、いかなる意味ともかかずらわない、ただ一個の純粋暴力。

 

押井ジャイアン。

 

そう呟いた僕の言葉は、僕自身の空洞を、そして井戸の内周を幾度も反復し、こちらを覗き込む彼の耳にしかと届いたはずだ(押井ジャイアンの両耳が、蝶のようにぱた・ぱたと蠢いたのを僕は見たのだ)。押井ジャイアンは右手の指で頬を二、三度掻き、眼窩に嵌め殺されたペットボトルの白い蓋で、井戸の底にいる僕をじっと見つめていた。

押井ジャイアンの口が開いた。

僕は息を呑んだ。

彼の言葉を待った。押井ジャイアンの言葉を。

彼の口が動く……

……

……小せぇ……

声が……

クソ小せぇ……

嘘だろう、というくらいに……

それは井戸の穴のうえを吹き去っていく十月の夜の風よりも(セイタカアワダチソウを揺らす、さり・さりという音)、その遥か頭上で月を時折横切る雲を動かす低くて重いそれらよりもなお小さな囁きだった。

押井ジャイアンは、適切な言葉を探すように、時折口元に手を当てて考え込むようなジェスチャをした(しかし実際のところ、人間の思考に該当するような概念が彼に存在するのかどうかについて、僕は確信を持てない。結局のところ「たまたま取った仕草が、何か、考えごとをしているように見えた」というのがオッカムの剃刀のように妥当と思えた。それほど、彼の貌はうつくしく、無垢だった)。そしてまた何かを囁いた。唇が動いた。幽霊のような息遣いだけが、そこから洩れた。ただそれだけが、穴の底に降ってきた。

軈て息遣いが消えた。

押井ジャイアンの唇は、もう、動いていない。

美貌がただ、こちらを覗き込んでいた。

つぎに起こることを待ち……

穴の底が、翳った。

押井ジャイアン――無垢の暴君――が、野井戸の穴のへりから一歩、その巨体を投げ出した。その一連の挙動が、スロウモーションになって、僕の目に映っていた。

……そうして、僕は今日の昼間に出会った、バセットハウンドを連れた男の言葉を思い出した――

厄災とはそれだ。予感し得ないとき、予感し得ないかたちで、それは――

 

押井ジャイアンが

降ってくる、

 

……

 

4.

 

半ば目覚め半ば眠っている、あの泥のような生温いふちから、更に一歩、足を踏み出す。眠りへと落ちる一瞬間。

肉体にはびくりとした痙攣が奔る。

資本主義の街の、資本主義の店。

僕はそこにいた。椅子に座っていた(マクドナルドの、あの「座る」という必要最小構成のみを体現する硬く薄い合成樹脂と細いワイヤースチールで組まれた椅子の背凭れが軋み、脚がぎぎっと床を擦る)。

ぐっしょり全身が濡れていた。まるでついさっきまで野井戸の穴の底にいたみたいに、ぐっしょり。満遍なく。

テーブルのうえのコーラLの入ったカップが倒れて、「とぱぱぱ」と小さな泡を含んだ透き通る液体が天板をつたい僕の太腿へ滴っていた。太腿がコーラで濡れるに任せたまま、僕はしばらくのあいだ呆然とその場に座り込んでいた。ひどく困憊していた。身体中が硬く、強張っていた。

ぐっしょり濡れそぼった僕を気にする客は、誰ひとり居なかった。皆が黙々と、己が資本主義に向き合っていた。

僕は背後を振り返った。

窓の外で昼は緩やかに溶けかけている。その、窓のまえのカウンター席に女子高生がふたり。

その二人だけが、僕のことを怪訝な目で見ていた。

言葉より早く僕の口は開かれた(口の中はカラカラに乾いている)。空気を顫わせるより早く崩れて消える言葉をかき集めて、僕は、

僕は……

「押井、ジャイアン……」

と……

……ふたりの女子高生はほとんど同時に眉をあげた。そして、互いに一度顔を見合わせ、何か、秘密めいた応答を、その目と目のあいまで短く交わした。

そうしてから、ふたりは僕のほうをもう一度見た。

僕から見て向かって右側の女が、

「押井ジャイアン」

そして、左側の女が、

「あーね」

と言った。

僕は……黙って頷いた。

ふたりの女子高生も、黙って頷いた。

 

◆著者プロフィール

惑星ソラリスのラストの、びしょびしょの実家でびしょびしょの父親と抱き合うびしょびしょの主人公

文豪(ふみ・つよし)。

2022年5月、庵野秀明展に行く。帰宅後、自らを省みて「このままではいけない」と強く思う。同年6月、顔が作家になる。

短編集に「たまたま座ったところに“すべて”があり、それが直腸に入ってしまった。 (anon press)」。

※次回作の公開は2026年4月15日(水)18:00を予定しています。

※本稿の無料公開期間は、2026年4月15日(水)17:59までです。それ以降は有料記事となります。

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