anon letters anon letters vol. 2026 - 05
6月. 2026
— MEDIA THAT CREATES MULTIPLE FUTURES
00 ご挨拶 Editor's Note

anon press編集長の青山です。今月のanon lettersをお送りいたします。ここでは、anon press最新情報と掲載作品の紹介に加え、編集部によるレコメンドや読書会などの限定コンテンツを配信してまいります。

さて、2026年4月はanon pressにとっての新たなスタートとなりました。公式ウェブサイトをローンチし、これに合わせて本ニュースレターをはじめとした新たな取り組みを開始しています。

永良新さんのデザインによる公式ウェブサイトは、抜群にクールでありながらポップさと猥雑さが入り混じり、非常にanon pressらしい仕上がりとなっているのではないでしょうか。何を読んでいるかだけでなく、どこで読んでいるか。どんなフォントで、どんなレイアウトで、どんなデザインで読んでいるか。anon press をチェックしている方々であれば、それがいかに重要なことかおわかりいただけるでしょう。

もちろん見た目だけでなく、細かな記事フォーマットの使い分け、著者・タグ・キーワードによる検索性の向上、一部作品における縦組レイアウトの実装など、anon pressというカオスの園を十二分に楽しんでいただくためのアップデートが随所に施されています。

また、新たに設置された4段階のメンバーシップシステムでは、さまざまな限定コンテンツを更新予定です。過去作品すべての閲覧はもちろん、新作の先行配信や連載企画、試験的なコンテンツの先行体験、イベントへの招待などなど。まずは手始めに、本ニュースレターからはじまる読書会をお読みいただき、私たちの“““本気”””を感じてもらえれば幸いです。

2022年から活動を続けるanon pressも、おかげさまで4年目に差し掛かっています。これまで、小説・詩歌・漫画・論考・翻訳・座談・インタビュー・写真・ヴィジュアルアート・怪文書といった200本以上のコンテンツを掲載しつつ、電子書籍の配信、物理媒体の制作、講座やアワードの開催、展示やイベントの実施なども手掛けてきました。未来はもはやどこにでもあり、それゆえにどこにもなくなりつつあります。想像力が飽和しきった時代に、それでも満たされない何かを求め続けるあなたたちを我々は歓迎します。

Welcome to anon press.

01 2026年5月掲載作品 Featured Works
MANGA

R.A.W.戦走機械2026

永良新

Strive Everybody, If you are hungry. You get nothing unless you do something, but You get nothing even if you do something. 本作のタイトルは『R.A.W. 戦争機械 2026』。その名のとおり、『R.A.W. 戦争機械』という作品の2026年バージョンであり、僕は以前に別のバージョンを2つか3つ読んだことがある。ことあるごとにリミックスされ、リライトされているらしい本作には、著者しか知らないバージョンや、著者も知らないバージョンや、バージョンとバージョンの間隙に落ちたバージョンや、生まれることのなかったバージョンや、これから生まれることになるバージョンが存在するのだろう。速さ。資本主義の臨界点に向かう僕らに残されたあらゆる生のパターンが闘争線/逃走線に収斂するのなら、すべての演算資源は速さに向かうだろう。そのとき僕らは一つの言葉だけを口にするだろう。「ならばもう一度」と。繰り返し反復され、幾度も上書きされ、折り重なった無数の器官なき身体は、単に無数の無であって、ゆえにそれは誰にも捕らえられることのない速さを獲得し続ける。Strive. We are stoked this fine day.

編 ─ 樋口恭介
SHORT

たまたま座ったところに〝満開の桜〟があり、それが直腸に入ってしまった。

惑星ソラリスのラストの、びしょびしょの実家でびしょびしょの父親と抱き合うびしょびしょの主人公

たまたま座ったところに〝満開の桜〟があり、それが直腸に入ってしまった。そのとおり。もはやタイトルがすべてを要約しており、付言すべきことは何もないのだが、野暮を承知で解説すると、本作とは「たまたま座ったところに〝満開の桜〟があり、それが直腸に入ってしまった」という小説であり、それはつまるところ、外を覗き込めばどこまでも続く内があり、内を覗き込むということは、宇宙そのものである満開の桜を目撃するということなのだ。

編 ─ 樋口恭介
NOVEL

床男

眞山大知

人間は顔で社会に接続する。だが、世界に接地しているのは顔ではない。足裏である。もしも人が足裏になれたなら、足裏という環世界では、電車、会社、ラブホテル、ファミマ、図書館、鶴見の街そのものが、巨大な接地面のネットワークとして認識されるだろう。それが人の生に救いをもたらすかどうかは別として。本作は足裏小説であり、弱者男性小説であり、会社員小説であり、同人作家小説であり、最終的には「人間であることに疲れた者が、いかにして存在論的に床になることができるか」を描いた、かなりまっすぐでゆえに普遍的な実存主義文学である。足裏というキャンバスは「人生が描きこまれる場所」であり、嘘をつくことができる顔という社会的インターフェースにはない事実の強さがそこには宿る。

編 ─ 樋口恭介
MUSIC

EMBEDDED ENDROLL

灰街 令 / anon records

anon recordsより、灰街令の新曲「EMBEDDED ENDROLL」をリリース。トリビュート作品集『TOKYO CYBERPUNK TRIBUTE』のテーマ曲として制作された一曲で、〈機械と肉体の矛盾〉というサイバーパンク的主題を、悲鳴のような高音、不協和音、層をなす重低音で音響化する。固体であるべき金属が液体のように流動する質感。ビート不在の夢のような前半から、キックの侵入により覚醒へと導かれる構成。譜面とDAW編集の矛盾を解決せず、そのまま共存させることが、本作の強度を生んでいる。

テキスト ─ 永良新
EVENT

『TOKYO CYBERPUNK TRIBUTE』
リリースパーティー「CY」

anon press 主催イベント

「東京」と「サイバーパンク」をテーマに、小説6・詩歌5・漫画2・写真集2・ヴィジュアルアート5を含む全23作・496ページフルカラーで編んだトリビュート作品集『TOKYO CYBERPUNK TRIBUTE』。その物理版刊行を記念したリリースパーティー「CY」を開催いたします。日時・会場・出演者など詳細は順次公開予定。

02 Recent Takes てーく
Hora Lunga『New Age Music Vol. 2-3』
Zurich / David Jegerlehner ─ Industrial × Drone × Glitch House × Doom Metal × Experimental Pop

チューリッヒのDavid Jegerlehnerによるプロジェクト、Hora Lungaの先月出た新譜。なんと形容したらいいか分からないが、インダストリアル、ドローン、グリッチハウス、ドゥームメタル、エクスペリメンタルポップが渾然一体となった音(実際「Doom Metal」「House Music」という身も蓋もない曲名が並ぶ)。昨年のアルゼンチンのチェロ奏者Violeta Garcíaとのコラボ作『I'll Wait For You In The Car Park』はBandcampの2025年4月のベスト実験音楽の一枚に選出されており、今後も期待されるアーティスト。

Thomas Strønen ─ Time Is A Blind Guide JAPAN TOUR 2026福岡公演
ECM / Thomas Strønen & Time Is A Blind Guide ─ "Off Stillness"

昨年ECMから『Off Stillness』(Thomas Strønen & Time Is A Blind Guide名義)を出したThomas Strønenのライブに行った。これが素晴らしかった。田中鮎美(ピアノ)、Håkon Aase(ヴァイオリン)、Leo Svensson Sander(チェロ)、Ole Morten Vågan(コントラバス)という弦楽トリオ+ピアノ+ドラムの編成で、室内楽とジャズが溶け合うような音源の静けさに対し、ライブではよりリズム面が強調されていたように思う。Thomas Strønenのプリペアド・ドラムから繰り出される多彩な音はまるでシンセサイザーのようで驚き。

テオドール・クルレンツィス指揮モーツァルト『レクイエム』
Teodor Currentzis ─ Mozart : Requiem in D minor, K. 626

クラシックには疎いのだが、今年11月の来日公演も決定しているロシアのテオドール・クルレンツィス指揮のモーツァルト『レクイエム』を初めて聴いてみたら良かった。同曲はトン・コープマン指揮の演奏を愛聴していたが、同じく古楽的なアプローチのクルレンツィスのものを聴いてみたところ、大胆に解釈された演奏は賛否あるだろうが、個人的には好みだった。クルレンツィスの面白いところは、古楽運動から出発しながらも、まるで現代のワーグナーのようにロマン主義的なアーティストたらんとする現在の姿勢だ。ロシアの地方都市で始まった彼のオルタナティブな古楽運動は、今や彼の主宰するmusicAeternaを軸に、国営銀行VTBからの巨額の後援も受けながら、ロシア最大級の多角的文化企業へと成長した(この資金的な結びつきもあってか、彼は政治的な姿勢を曖昧にすることで国内外から批判されている)。あまり無邪気に語れる情勢ではなかろうが、こうした政治と芸術のエッジに立つアーティストはやはり興味深い。ちなみに、ショスタコーヴィチの演奏も良い。

※クルレンツィスについては以下の記事を参考にした。ウクライナ戦争等の政治的トピックはオミットして語る一方で、トリスタン・ガルシアの「強度」概念を引きつつ、クルレンツィスのアンサンブルを「リツェイ的兄弟団」(プーシキンらを輩出した青年同盟)や「カタコンベ教会」(ソ連時代の非合法の地下教会)といったロシアの「内的亡命」の系譜に位置付けるといった不穏さを忍び込ませる、いかにも古典的なロシアの知識人的な語り口の面白い記事で、興味のある向きは読むといいと思う。

03 aratana gara 永良新
aratana gara 202605

福岡へ旅行してきたときにつくったビジュアルです。ティルマンスのインスタレーション、目の前で見ると最高でした。

テキスト ─ 永良新
04 特集:読書会 Roundtable

アンソニー・ダン&フィオナ・レイビー
『ここではなく、いまでもない』読書会

ニュースレター限定の読書会第1弾は、デザイナーのアンソニー・ダン&フィオナ・レイビーによる新刊『ここではなく、いまでもない』の読書会です。

「未来」「思弁」「テクノロジー」といったワードと、それらを物語的に統合する「SF的想像力」は、ビジネスからクリエイティブまで、2010年代のさまざまな領域で存在感をあらわしていました。もちろん、anon pressをその系譜に位置付けることも可能かもしれません。

スペキュラティブ・デザインの提唱者でもあるダン&レイビーは本書において、こうしたムードに待ったをかけ、より広い想像力へと私たちの認知を開いていきます。しかし、それはどこまで実効的で、どこまで「デザイン」と呼びうるのでしょうか。

議論はデザインの歴史を遡りつつ、思弁的実在論との共鳴、デザインというマジックワードの功罪、Youtube鑑賞のススメ、美徳搾取社会からの脱出、デザインにおけるかっこよさの敗北、人文研究のこれからなどなど、多方面へと展開されていきました。以下がその全容となります。

青山

今日はアンソニー・ダン&フィオナ・レイビー『ここでもなく、いまでもない(原題:Not Here, Not Now)』の読書会ということで、まず前提を整理しておきたいと思います。2013年に『Speculative Everything(邦題:スペキュラティヴ・デザイン)』という本をダン&レイビーが出して「スペキュラティヴ・デザイン」という概念を提唱しました。そこから12年経った2025年に出たのが『Not Here, Not Now』で、基本的にはスペキュラティヴ・デザインを取り巻いてきた潮流を振り返りつつ批判的更新をする、という立ち位置の本だと言えます。

では、そもそもスペキュラティヴ・デザインって何だったのか。デザインって一般的には問題発見・問題解決の手法と言われてますが、スペキュラティヴ・デザインはむしろデザインを通じて問題提起をしようという考え方なんですね。今・ここの瞬間に役立つわけでも、市場的に価値があるわけじゃないオブジェクトを、あえてデザインっていうフォーマットでつくることで「これがあったらどうなるんだろう」「これがありうる世界って何なんだろう」と人々に議論させる。

日本だと長谷川愛さんの《I Wanna Deliver a Dolphin…》が有名ですね。これは人間がイルカを子宮内で育てて出産する技術が発展した世界っていう設定なんですけど、当然現時点においてそんなサービスはないし、経済的な意味もない。でも作品のかたちで見せられることによって「そもそも人間が人間を産むことの意味や絶対性ってなんだろう」という問いが立ち上がる。

じゃあ、なんでこんな奇妙なものを「デザイン」と呼ぼうとなったのか。系譜を辿っていくと、イタリア未来派とかラディカル・デザインとか下地になった運動をいろいろ挙げることもできるんですが、一旦はデザイン研究の視点から概説しておこうと思います。1960年代くらいから、デザインをちゃんと研究分野として確立しようという動きがあって、最初はかなり科学寄りというか「こういう手順を踏めばデザインできる」みたいな分析的な方法で定義しようとしていたんですよね。でもそれはうまくいかなかった。そこで出てきたのが、「デザイン独自の知の貢献とは何か」という問いで、その中でデザインのアブダクティブ(推論的)な性質に焦点が当たっていく。つまり、ひとまず何かしらの人工物をつくってしまって、それを介して仮説の探求を進めていくという実践的なアプローチです。これが後にリサーチ・スルー・デザインとして整理されていくんですけど、その推論性をかなり極端に振り切ったのがスペキュラティヴ・デザインというわけです。

でもそのスペキュラティヴ・デザインも、あらためて振り返ってみると結構偏っていたところがある、という省察からこの本は始まるわけですね。スペキュラティヴ・デザインは基本的に、バイオテクノロジーとかの当時先進的だった技術を題材にして、それの極端な社会実装の可能性を提示することで議論を引き起こす、というアプローチが多かった。つまり、技術–社会–政治的な問題を批評的に取り上げるというのが中心だったんですよね。でもこうした、技術を読み替えるとか、ディシプリナリーなものへ挑戦するという反逆的な姿勢自体が、既存の現実を暗に承認した上でこそ成り立つカウンターにすぎず、現実に対する認識を視野狭窄に導いていたのではないか。だからこの本では、今・ここ(とそこからつながる未来)という限定された現実ではなくて、もっと大きな現実——あり得ないことを含んだ——をどう捉えるか、という方向に議論を切り替えているわけです。

デザインはすでに、ここでもなく、いまでもなかった?

青山

その上で、自分はこの本に対してはちょっと微妙なスタンスというか、本当に何かが更新されてるのかという疑念を持っていて。正直、真面目に当時『スペキュラティヴ・デザイン』を読んでた人は「いまここ」とか「未来」とか関係なく、本書で提示されているくらいには思考の幅を広げられてなきゃおかしいというか。逆に言えば、結局スペキュラティヴ・デザインが明確な定義とか他領域との差異みたいなものを提示しなかった結果として市場に都合よく解釈されてしまったのがここ十年ほどであり、それに対して改めて内在していた可能性を強調する必要に駆られてるのかな、と感じています。

永良

自分がSFCに入った頃って「スペキュラティヴ・デザイン」よりも「クリティカル・デザイン」の方が主流だったんですよね。その時に感じていたのは、クリティカル・デザインは必ずしもテクノロジードリブンではないということ。たとえば「第二次世界大戦で日本が勝ってたらどうなっていたか」みたいな歴史改変SFってあるじゃないですか。そういう文化とか歴史の体制そのものを変える想像力。そういうのも含めたのがクリティカル・デザイン的な思考だったと思うんですよね。それに対してスペキュラティヴ・デザインは、完全に未来志向に舵を切り、技術寄りの方向に行った。だから『ここでもなく、いまでもない』を読んだときにまず感じたのは、これってクリティカル・デザインに戻っているんじゃないの、ということでした。

青山

補足しておくと「クリティカル・デザイン」というのはスペキュラティヴ・デザインの前身ともいえるデザイン概念で、これもダン&レイビーが提唱したものです。クリティカル・デザインの初出は1999年の『Hertzian Tales』で、これは電磁波過敏症の人のための家具を作るというプロジェクトでした。つまり、インターネットなどの急速な普及にともなって「電波」という不可視の新たな存在が日常に入り込んできた状況に対して、人間はどう共存しうるのかを探るものだった。このように、クリティカル・デザインはすでに現実の社会に影響を与えている技術について思考するという側面が強く、それが文化や歴史の議論と地続きになっていた理由かなと思います。これに対してスペキュラティヴ・デザインは、まだ社会に取り入れられていない(=デザインの対象となっていない)技術に着目し、デザイン領域の範囲を広げようとしていた。

また、スペキュラティブ・デザインは頻出する「PPPP図」の印象が強いので、未来に向かって可能性が広がっていく思考が取り沙汰されがちですが、実際は当時から過去や並行世界への関心はあったんですよね。たとえばJames Augerは未来志向型の「Speculative Futures」と並行して、歴史改変的な想像力である「Alternative Presents」というのを提唱していました。つまり、過去のある時点で分岐が起こった場合に現在はどう変わりうるかを考えよう、というわけですね。

その上で、個人的にクリティカル・デザインとスペキュラティヴ・デザインに共通して感じるのは「露悪性の高さ」なんですよね。特に2010年代はバイオテクノロジーやAIなど、わかりやすく未来性を帯びた技術を題材にして、それをあえてグロテスクな形で提示することで、「なぜ自分はこれを気持ち悪いと感じるのか」という違和感を引き出す方向に振れていた。こうした限定的な「批評的態度」に対する反省が、『ここでもなく、いまでもない』にはあるのかなという気はします。

樋口

今の話を聞いていて思ったのは、この本って単純に可能性の数を増やすというよりも、「私たちはそもそもどこまでを考えられるのか」という枠組みそのものを引き直している感じがあるんですよね。スペキュラティヴ・デザインがやっていたのは、基本的には時間軸の中での並行世界——未来の複数のバリエーションを考えることだったと思うんですけど、『ここでもなく、いまでもない』はそこに「思考可能なもの」と「思考不可能なもの」の境界を持ち込んでいる。つまり、単に「あり得る未来」ではなくて、人間の認知の構造上うまく捉えられないもの、概念としては理解できるけれども直感的には把握できないもの、そういう領域まで含めて扱おうとしている。その意味では、可能性の拡張というよりも、認知の外側にあるものをどう扱うかという問題設定に移行しているように感じます。

その文脈で本書がやっていることを見ていくと、かなり文芸批評的であると言えるんですよね。スペキュラティヴ・デザインのときはプロトタイプをつくること、つまり物質的なオブジェクトを通じて思考を誘発することが中心だったのに対して、この本は既存の文学作品や映画をひたすら参照しながら、人間の認知の限界を示す例を積み重ねていく。たとえば『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中で語られるような、「あらゆる場所に中心があって外縁を持たない円」みたいなイメージとか、ストルガツキー兄弟『ストーカー』に出てくる「物理法則が通用しないゾーン」のようなもの、あるいは「アヒルにもウサギにも見える図像」のように、一方としては認識できるが同時には認識できない対象。こういう例を通して、この本は「認知できること」と「存在していること」が一致しないという状況を何度も突きつけてくるんですよね。つまり、我々は何かを見ているし、言語的には理解しているはずなのに、それを統合的な対象として把握することができない。このズレを意識させることによって、認知の境界を押し広げようとしている。

個人的には、これはかなり現代的な問題意識だと思っていて、代表的には今ってフィルターバブルとかアテンションエコノミーの中で、そもそも異なる領域を横断的に読む力——たとえば全く関係ない分野同士を接続して構造的な類似を見つけるような力——がかなり弱くなっていると思うんですよ。昔の文芸批評がやっていたような作業が、かなり困難になっている。文芸批評をやる人も減っているし、読む人も減っているし、そこに価値はあるはずなんだけどその価値を訴えられる人もその価値を受け止められる人もいなくなってきている。そんな中で、この本はそういう読み方そのものを「デザイン」という別の関数を使ってトレーニングさせるような構造になっている。

それの何が良いかというと、前著『スペキュラティヴ・デザイン』のときは「つくること」が前提だったので、手を動かさなければならず、実際にプロダクトをつくれるスペシャリティを持つデザイナー以外にはどうしても実践のハードルが高かったんですけど、この本は「読むこと」「解釈すること」から始められるので、その意味ではかなり多くの人に開かれていて、読んでいて開放感もあるし、公共的で教育的だと感じたんですね。「なるほど、めっちゃ本読んで語りまくることも一種のデザインなのだな」という(笑)。というわけで、個人的には前著よりこちらの方が親しみをもって読めました。人文系の人はみんな読むといいと思うな。

それから、日本での刊行タイミングという意味でも面白くて、この本とほぼ同時期にレイ・ブラシエ『解き放たれた無』の邦訳が出ているじゃないですか。あちらは思弁的実在論の文脈の中で、人間の認知の外側にある世界を徹底的に突き詰めて、人間の意味のなさをかなりラディカルに提示してくる。それに対して『ここでもなく、いまでもない』は、同じように認知の外側を扱いながらも、そこから完全に人間を切り離すのではなくて、「それでも人間としてどう考えるか」という地点に踏みとどまっている。

なので、この二冊を並べて読むと、片方が極端な地点まで押し出して、もう片方がそこから現実に引き戻す、という関係になっていて、かなり補完的だと思うんですよね。そんな風にこれらの本を同時に読んでいる人間ってほぼ俺くらいしかいないんじゃないかなという孤独感も感じつつ(笑)、一緒に読むほうがいいと思います。『ここでもなく、いまでもない』には加速主義も思弁的実在論も出てくるし、それらのスペキュラティヴ・デザインを通した応用的な使用方法も出てくるし、そういう意味でも、この本は単独で読むよりも、同時代の思想的な動きの中で位置づけた方が見えてくるものが多い気がしています。いやほんとに、これって一言で言ってしまえば「本をめっちゃ読んで、いろんな解釈をしよう」みたいな本なので、文芸批評なんですよ、マジで。

青山

日本だと意外と表立って語られてきませんでしたが、思弁的実在論との関係は重要ですよね。2010年代当時に思弁的実在論を建築デザインの領域で検討する動きがあって、むしろ僕とかはそっちからスペキュラティヴ・デザインに入ったんですよ。本書が「技術」とか「未来」とかの狭義の話に対する批判を行っていることにいまいちフィールできないのは、そういう背景もあるかもしれません。

いじりやすくてわかりづらいデザインの可能性

難波

昨年『物語化批判の哲学』という本を書いてから、ずっと考えていることがあります。未来への物語は「未来への約束」であり、その構造自体が反証や批判をブロックするような説得力を持ってしまう、という危険性です。そのブロック感が、自分にはしっくりこない。だから、物語という手段を使って社会変革をする、ということとは違う社会変革のあり方を探したいと考えています。

自分のSFプロトタイピングの活動を振り返っても、いわゆる起承転結があるような物語を全然書いてきませんでした。未来の新聞とか、未来のレポート記事とか、そういうデザインフィクション的なものばかりでした。つまり、物語というよりは、言語的なスペキュラティヴ・デザインに近いものを作っていたのかなと思います。自分の言い方で言えば、自由にいじくり回せる「おもちゃ」みたいなものです。

だから『ここでもなく、いまでもない』や『スペキュラティヴ・デザイン』で紹介されるいろんな事例を見たときに気になったのは、おもちゃっぽくて良さそうだぞ、という感覚と同時に「これってどれくらいいじれるのか」ということでした。その中において、触って考えることや実際に経験することの重要性がどれくらい重視されているのかが気になります。

よく「難しい作品に触れると他者への共感が深まる」とか「世界の見え方が変わる」と言われる。でも自分はそれにかなり懐疑的です。もちろん、芸術や文学を本気で受け止めようとする人にとっては、認知を拡張することはあるでしょう。でも、それは作品そのものが自動的に人を変えるというより、それを受け取る側の能力にかなり依存している。我々は芸術や文学やデザインフィクションを真面目に受け取る能力を高めないといけない。だから「デザイン的にいいものを作れば、みんなが良い感じに体験して、世界の見え方が広がる」という想定には、かなり批判的です。

青山

それでいうと、本書の中では「プロトタイプ」と「モデル」が対比的に紹介されてますね。プロトタイプというのは、基本的にはある世界観を説明するためのオブジェクトで、そのプロダクトを見れば、その世界のルールや因果関係がある程度わかるようになっている。言い換えれば、物語を補強するための装置なのだと。

しかし、それだとあまりにも物語とオブジェクトが一対一で結びつきすぎていて、解釈可能性の幅が小さいということで、本書では「モデル」という概念が提示される。モデルはむしろ、物語的な因果関係から人を解放するための装置であり、完全な世界観を提示するのではなくて、解釈の余地を残す。その上で、人が取り扱う上での最低限の具体性は持っている。すなわち「ギリギリ共有可能な抽象物」だというわけですね。実際、本書の中で紹介される多くの作品はどれも、絶妙な解像度の3Dオブジェクトばかりとなっています。

つまり、ダン&レイビーはむしろプロトタイプ的なものが素朴に「いじりやすすぎる」ことの問題点にフォーカスしているんですよね。プロトタイプは「いじった気になれてしまう」だけで、結局は作者が設計したアフォーダンスの範囲を出ていないというか。

難波

「それをどう使えるのか」が気になりますね。スペキュラティヴ・デザインでもワークショップとかでプロトタイプを使って議論することはやってきたと思います。けれど、結局それを通じて人々がどんな経験をするのか、そこがあまり精査されていない気がします。さっきの文学の話ともつながるんですけど、たとえばトマス・ピンチョンを読んだからといって、それで人間としてすごくなるのか、というと全然そんなことはない。

たとえばウェルズの『タイム・マシン』。物語としての構成がものすごく優れているわけではない。けれど、「タイムマシン」というアイデアは圧倒的に強くて、その後のさまざまな作品で手を変え品を変え使われてきた。こういうのが「いじりやすさ」なのではないかと思います。人が触って、変形させて、別の文脈に持っていけるかどうか。ミュージアムに展示されているような「かっこいいもの」と、「いじれるもの」って結構違うはずです。スペキュラティヴ・デザインはどちらかというと前者に寄っていた気がするけど、これからは後者の方が重要だと思います。

なので、自分が気になっているのは、「モデル」という言葉が出てきたときに、それが本当にいじれるものになっているのかどうか、という点です。単に抽象度を上げただけだと、逆に触れなくなってしまう可能性もある。

青山

「いじりやすさ」と「解釈可能性の幅」のバランスをどう取るか、という問題かなと思っています。解釈可能性が狭いけどいじりやすいものがプロトタイプで、逆に解釈可能性が広いけどいじりづらいものが、先ほどから例に出ている文学に近い。

スペキュラティヴ・デザインが、ぱっと見よくわからないけどかっこいいものを出していたのは、困惑させること自体に意味があると考えていたからだと思うんですよ。逆説的ですが、パッと見ではいじりかたがわからないからこそ、人はそれをいじろうと思うのだという期待を持っていた。ただ、実際には人はそんなに高尚ではなくって、単に困惑したまま終わってしまうケースの方が多かったと。

ドパガキと多世界理解

永良

一介のグラフィックデザイナーとしての立場から言うと、やっぱり「まず目を引くこと」が前提にあるんですよね。CDジャケットや書籍の装丁のデザインでもそうですけど、まず視覚的に惹きつけないと、そこから先の体験が始まらない。その意味で、「かっこよさ」はある程度必要だと思っていて、議論を誘発するためにも、まずは人の注意を引く必要がある。ただ、それがそのままモデルとしての価値につながるのかというと、そこは難しいところだとは思います。

難波

一方で「かっこよさ」によって思考が止まることもあると思います。たとえばドイツのイデアリズム、ドゥルーズ、あるいは思弁的実在論とかの議論は、すごくかっこいい。でもそのかっこよさに魅了されることと、それを自分の生活に引き戻すことは別の問題です。自分としては、思想というものは、ものすごい速度も欲しいけれど、その速度のままどこかで「日常に戻ってくる言葉」であってほしい。それゆえ、この本におけるように、あまりにも不可能性とか不可能対象とかを強調しすぎると、それが誰にとって嬉しいのか、という疑問が湧いてきます。むしろ、「普通にあり得る可能性」をシラフで提示する方が強いんじゃないかと思います。たとえば人権という概念だって、冷静に考えればかなり奇妙なものだけど、長年「あるべきもの」「あって当然なもの」として議論されてきたおかげで、制度として実装されている。そのシラフのすごい速度を私は探求したいです。

青山

以前、10+1で思弁的実在論と建築についての討論会があったんですが、そこで千葉雅也が言っていたことを思い出します。彼は文脈的連続性から切断された例外的な建築(≒当時における思弁的実在論的建築)を「ファルス的」で「不気味」なものだとした上で、「不気味」とも「普通」とも異なる「不気味でない」建築の可能性を探れないか、というわけです。性器ほど露骨に例外的ではないが、かといって普通の皮膚でもない。性器以前のエロティシズムとしての「もっこり」をどう捉えるかと。

これは冒頭で述べたかつてのスペキュラティヴ・デザインの露悪性とも似た話で、やはり僕は過度に聖なるものも俗なるものも、どちらも露悪的に感じてしまう。その中でどう第三項を考えられるかという点には興味があります。

難波

自分が最近かなり真面目に提案したいのは、YouTuberをいっぱい見ることが、これからの時代には必要なんじゃないかということなんです。HIKAKINでもいいし、コスメ系でもいいし、生活Vlogでもいい。そこには、人々の価値観がまろび出ているわけですよね。

もちろん編集はされている。でもその編集も含めて、人間の価値観が、振る舞い、喋り方、目線、商品選び、生活の細部として、ここまで大量に表現された時代はない。このコスメがいい、この椅子がいい、こういう言い方をする、こういう表情をする。そういうものが膨大に可視化されている。それは他人を理解するとか、世界がどれだけ複数あるのかを実地で学ぶには、すごく適している。だから、もっとみんなYouTuberとかインフルエンサーを見まくるべきだと思っています。それによって他人と衝突するドーパミンを出すべきかもしれません。今の私は、ひたすら真剣にYouTuberやTikTokを見ている方が、違う世界にアクセスできる、という希望を実感として持っています。

美徳を発揮したい私たち

樋口

思弁性と実効性のトレードオフについては、自分もかなり悩んでます。難波さんもおっしゃっているように、究極、テキストにナマの生活実感みたいな臨場性はない。そうすると、自分がやっていることに果たしてどこまで実効性があるのか。文筆家として何かをアジテーションしたり、情報発信したり、教育的な活動をマスコミュニケーションとしてやっていくこと、あるいはコンサルタントとして現場に一時的に入って、組織のパーパスや上位概念に紐づく形で、想像可能な範囲の実行支援をしていくことが、今後の社会にとってどこまで意味があるのか、ということをかなり考えています。特に最近は、実効的な部分についてはClaude CodeなどのAIエージェントによって誰しもが爆速で進められるようになっているので、「まずやっちゃえばいいじゃん」という雰囲気もあるし、実際そうでもあります。しかしその流れの中で、考えることもやめてしまっていいのか、その価値を手放してしまってもいいのか、ということを考える必要がある状況になってきています。その先の至近未来には、労働の舞台にはマジで人間いらねえじゃんという世界があって、その道を人間自らが整備してしまうことは、果たしてやってしまっていいことなのか? という。

人間はみんな意味のあることをしたい。でも、その「意味」がどこにあり、どれくらい深い意味なのかはよくわからない。よくわからないものはいらないじゃん、という風潮がありますが、そうではなく、そこでいったん保留にして継続的にじっくり考えましょう、という選択をとる勇気を出していく必要があるのではないかと。スペキュラティヴ・デザインは、実効性という意味ではまた、普通の意味でのデザインやあるいは従来の人文知ともまた少し違うところにあると思うんですが、では従来の人文知――哲学や文学や思考実験――が現実の社会に対してどのような意味を持つのか、という問いは依然として残るわけです。

永良

先ほどから「世界の複数性」というワードも出ていますが、樋口さんが最近出された新書では「プルラリティ」について言及されてましたね。今の話とプルラリティの接続について、何かありますか。

樋口

厳密に接続しているかというと、そこまでではないんですけど、アティチュードとしてはかなり近いものを感じています。プルラリティがいいなと思うのは、思想の可能性みたいなものを、単に思想として語って終わらせるのではなく、それを技術的にどう落とし込んで、どう実装して、どう社会に導入して定着させるか、というところまでやり切ろうとしている点なんですよね。思想だけでもないし、単なる社会改善活動でもないし、ましてや従来のオープンソース・エンジニアリングだけでもない。概念工学的なところから始めて、それをエンジニアリングして、社会実験して、社会に定着させていく。プルラリティは、そういう一連のプロセス全体を指す活動体として見たときに、かなり共感するところがあります。

自分は文学部出身なので、基本的にはテキストの世界、抽象の世界だけで「いっぱい考えられて嬉しいね」ということばかりやってきた人間なんですよ。なので僕には、具体的なアクションに対するコンプレックスが強くあります。思考だけではなく、それをどう社会に接地させるのか、接地させないと結局意味がないんじゃないか、こうすれば実装できるんじゃないか、というところまで考え切っているパッケージにはかなり憧れがあります。普通のデザイン思考は、自分にとってはあまりにもビジネスライクすぎて、これは文学から遠すぎるのではないかみたいな感じで乗れなかったんですけど、スペキュラティヴ・デザインは、自分の「抽象的なことを考えたい」というバックグラウンドと、社会への接地をうまくつないでくれる感じがあった。だから初めて知ったときにかなり感動したんですよね。プルラリティも、その意味ではかなり近い具体的な活動だと思っていて、自分の中ではスペキュラティヴ・デザインの具体例として数えてもいいんじゃないか、くらいには思っています。

ちなみに、そのうえで、ではそういうアプローチが目下要請されるような問題って具体的に何だろう、と考えたときに、いま自分のなかで一番強くあるのが、AIによって、社会的な自尊心の基盤が大量に失われるのではないかということです。その自尊心の基盤を補填する方法は、おそらく大きく二つしかない。一つは経済的な自立支援で、ベーシックインカム的なものも含めて、これはまあ、当たり前に整備すべきものですね。もう一つは、町内会とか自治会の復権だと思っています。つまり、町内会や自治会、中学校や高校でやっているようなイベントでもいいんですけど、そういうものに町の人たちがもっと関わっていくようなインセンティブ設計ですね。町としての自立性や自治性、住民が自ら町の運営に参画しているというような感覚、自分が所属している共同体に寄与することで獲得される自己効力感というのを、実態として復活させていくことが、社会承認の構造的基盤として今後すごく大事になると思います。

難波

今の話はかなりピンときます。アリストテレス的に言えば、人間にとっての幸福は、美徳を発揮している状態なわけです。現代社会の問題は、その美徳を発揮するためにお金を払わなければいけない世界になっていることだと思います。

たとえば推し活は、誰かをケアするという美徳を、お金を払うことで発揮する仕組みになっている。身近な人をケアすればいいじゃないか、自分の子どもや近くにいる人に向ければいいじゃないか、と思われるかもしれない。けれど、実際にはそうはならない。いろんな美徳を発揮する能力が、金銭に変換されている。だから、美徳を発揮する能力を金に変えるな、という法律を作らないといけないんじゃないか、くらいに思います。

仕事における美徳の発揮だけが、いま一番公式に認められている。樋口さんみたいにずっと仕事を楽しんでいる人は、仕事によって美徳の発揮を搾取されていると自分は思っています。樋口さんは搾取されている。なので、そういう「美徳発揮の搾取」を問題化したい。私は、樋口さんを救いたいわけです。

樋口

そうですね。美徳発揮はパターナルな感じで設計してしまうと本当にすぐに搾取に繋がってしまう危うさがあると思います。これは環境管理型権力というか、環境の中に埋め込まれた関数のようなものによって、人間のインセンティブが刺激され、動かされ、搾取されている状況だと思うんですよね。

今後、LLMやAIエージェントが職場に入っていっても、給料や雇用がすぐに大きく変わるとは限らない。でも、仕事の内容はどんどん楽になっていく。その結果、自分の美徳を発揮できる場が失われていく。そうなると、人は「自分が役に立っている感じ」や「存在意義」を何とか発揮して、承認されたいと思うようになる。けれど、何をすればいいのかわからない。やったところで迷惑がかかる場合もある。さっきの難波さんの例で言えば、身近な子どもをケアすればいいじゃないかと言っても、現代では知らないおじさんが子どもに声をかけてご飯をおごったら大問題になるわけです。つまり、美徳を発揮したいのに、社会的にその経路が塞がれている。その一方で、推し活や仕事のような、資本や制度に回収される経路だけが残っている。だから、美徳の搾取はかなり大きな問題だと思います。

でも、その問題に対して本当に実効性のある方法を考えると、「承認を得るために自分で考えて自分で何かをしなければならない」という構造そのものをなくしていく必要がある。ただ住んで、生きて、自治会みたいなのがあって、そこで与えられた役割を当たり前にこなして、みたいなことをしているだけで、やるべきことはやっているし、その中でたまにやる気が出たらプラスアルファでなんかやってくれて気が利くねみたいな感じで、なんとなく存在OKみたいな風にするというイメージですね(ちなみに自分は昔は、「ただいるだけで存在OKであるべき」と思っていましたが、転向しました。やっぱり何かの活動、仕事を通してでしか存在承認は得られないし、そうした活動・仕事を通して他人から承認されることでしか、人間は自己効力感を得ることはできないのではないか、と思うようになりました。ただ、活動・仕事の内容そのものはなんでもよくて、ここに思考実験の余地があると思っています)。ところが、それを本当にやろうとすると、一番実効性があるのは、結局法律や条例を作ることなんじゃないか、というかなり地味な結論に着地しそうな気がしていてどうしたもんかなと。そういういわば「いま・ここ」的な方法に対して、哲学や文学や思考実験やスペキュラティヴ・デザインは接続しうるのかというと、かなり疑問だなと思います。

難波

自分はそこに距離は感じないです。たとえば、美徳をうまく発揮できるようにガイドラインを作りましょうとか、法学者が法律に埋め込んでいきましょうとか、そういうことは普通にできると思います。哲学と法学が一緒にやれば、制度に埋め込んでいけるかもしれない。

自分が気になっているのは、その実現に向けて、他分野を翻訳する人が少なすぎるということです。『ここではなく、いまでもない』みたいな本や、スペキュラティヴ・デザインのプロダクトは「かっこいい」。でも、それを別の領域に翻訳する人が極端に少ない。たとえば千葉雅也氏は翻訳がすごく上手いと考えています。現代思想の難解な議論を「こう書けばみんなが読めるんじゃないか」という形にする。その実践の先に革命がある。思想が革命の一つのトリガーでありうると私は考えています。

もちろん哲学の仕事としては、哲学者の誰々についての先行研究を丁寧に整理することももちろん大事です。でも、それが条例を作ることとどう関係するのかは私にとっても見えにくい。理論は理論、実践は実践になりすぎている。たまにアートや建築、デザインの人が哲学的なものを読んで「こういうことかな」と形にしていくことはある。いいことです。でもそれは哲学者から見るとやっぱり微妙にズレて感じられる。哲学を誤読するな、というわけでは全然ありません。誤読は最高です。しかし、加速する誤読ではなく、減速する誤読にもみえる。哲学の破壊性の力が別の場所に逸れてしまっているようにも思えてしまう。もったいない。例えば本書だと、不可能対象の解釈とか。だからこそ、トランスレーションする人が必要だと感じます。樋口さんが感じている「哲学や文学は役に立たなさそう」という無力感も、翻訳する人がいればかなり解消される気がします。私は、全面的に、その仕事を楽しくやっていると考えています。うまくいっているかは、まだ分かりませんが。

コウモリとしてのデザイナー

樋口

翻訳が上手いかどうかという問題とは別に、そもそもどういう立場の人が翻訳するかという問題があると思ってて。べつに哲学者や文学研究者が頑張って翻訳してもいいはずなんだけど、それは現実の社会では影響力を発揮しにくいケースが多い。そう考えたときに「社会的な回路が整備されている言語」っていくつかあると思うんですよね。その中でもデザインはかなり特殊で、すごく便利なんですよ。たとえば何かの社会課題に対する協議会や委員会が立ち上がったときに、哲学者とか文学研究者ってあんまり呼ばれないけど、デザイナーは呼ばれる。なぜかというと「社会をどう設計するか」とか「複数の人間をどう扱うか」という話を考えるにあたって、デザインという言語がすでにその回路に乗っているからなんですよね。サービスデザインとか社会的デザインとか、そういう言葉の積み重ねがあって、「社会を扱うにはデザインが必要だ」という認識がすでにある。だからデザイナーはそこに入り込むパスを持っている。身も蓋もないことを言えば、スペキュラティヴ・デザインがすごくいいなと思うのは「デザイン」という言葉がついているところなんですよ。哲学的な思考実験やSF的な想像力、文芸批評的な読みは、そのまま出しても社会的になかなか受け入れられない。でも「デザイン」という箱に入れた瞬間に、急に行政とか社会的なプロジェクトに具体的に関与できる可能性が出てくる。

文芸批評って、社会的にはほとんど役に立たないと思われているし、実際に批評家自身もそれを社会にどう接続するかをあまり考えていない。でもスペキュラティヴ・デザインという形にすると、「社会に関係あるもの」として扱われる。その変換が起きるのは、やっぱりデザインという言葉の強さだと思います。

青山

さっき出ていた「環境管理型権力」の話しかり、この本で言われている「ここ/いま」を規定している力って、制度的なものだと思うんですよね。スペキュラティヴ・デザインは、それに対抗するために「別の可能性」を提示するものだったはずなんだけど、実際にどれくらい議論が広がったかというと、かなり限定的だった。今日のこの場もそうですけど、結局少人数で話して終わってしまう。つまり「議論を誘発するためのデザイン」と言いながら、その議論がどこまで社会に影響を与えたのか、という点ではかなり疑問が残る。その意味で、さっき樋口さんがおっしゃった「デザインという言葉の影響力の強さ/広さ」には留保が必要だと思います。どこにでも行けることと、まともに取り合ってもらえることは一定程度トレードオフというか。

この問題に関連して参照できるのが、シルヴィオ・ロルッソ『デザインにできないこと(原題:What Design Can't Do)』だと思っていて。この本の中では「デザイン・パニズム」——つまり「すべてはデザインである」という考え方が中心的に批判されているんです。ここ数十年、デザインは社会的に役に立つものとして称揚されてきて、その結果として、あらゆる領域にデザイナーが関与することが正当化されてきた。でもその結果、逆にデザイナーの専門性は曖昧になってしまった。「デザイン」という言葉を巡る抽象と具体の間のギャップが、かなり大きくなっているわけですね。理論的には「人間が行う人工的な行為はすべてデザインである」と言えるかもしれないけど、実際の現場はIllustratorのパスを調整するような具体的な作業によって忙殺されている。デザイナーはどこにでも行けるかわりに、どこに行ってもなんとなく居心地が悪い。これは『ここでもなく、いまでもない』を読むときにも避けられない部分かなと思います。

永良

その「二極化」はかなり実感がありますね。いわゆる「大文字のデザイン」——社会全体を扱うようなデザイン——と、実際に日々やっている細かい制作作業との間にかなり距離がある。それは『デザインにできないこと』にも書かれていることだと思うんですけど、デザインの対象が広がりすぎて、「Design X」とか「トランジション・デザイン」とか、いろんなものに名前をつけないと扱えない状態になっている。

自分自身の問題意識としては、その中でスペキュラティヴ・デザインをどう使うかということで、従来のようにプロトタイプを作って展示して議論を誘発するという方法だけではなくて、自分の職能そのものを拡張する形でスペキュラティヴ・デザインを使えないか、ということを考えています。anon pressでやっていることもその一つだと思っていて、メディアとして文章やデザインを使いながら、スペキュラティヴな思考を展開する。つまり「作品を作る」というよりは、「プロセスそのものをデザインする」方向ですね。

樋口

それでもやっぱり、デザインという言葉はかなりコウモリ的に使えると思うんですよね。たとえば、ちまちました作業のために呼ばれた場で、突然すごく大きな話をすることもできるし、その逆もできる。で、その発言が許容されるのは、すでに「デザイン」というパスを通ってそこに呼ばれているからなんですよ。つまり「何を言ってもいい状態」がある程度担保されている。その中で、既存の枠組みに対して揺さぶりをかけることができる。これはかなり特殊なポジションだと思います。

たとえばエンジニアの職能と比較してみましょう。エンジニアは、フロントエンド、インフラ、クラウド、言語ごとに細かく分解されていて、それぞれのスキルが明確に言語化されている。その上で「フルスタック」という形で統合される。デザイナーも本来は同じように、具体的なスキルの組み合わせとして職能を定義できるはずなんだけど、現状ではそれがあまりできていない。だから「なんでもできる」ように見える一方で、何をやっているのかが曖昧になる。

青山

スペキュラティヴ・デザインが「アート」ではなく「デザイン」という言葉を使っていた理由も、究極的にはそこにあったとは思います。あえてデザインと名乗ることで、みんなに関係があることだと思わせられていたというか。いつか日常生活の中に落ちてくる可能性を残していた。ただ今回の『ここでもなく、いまでもない』には、そのあたりの意識があまり維持されていないようにも感じました。

それに、実際に分野や抽象度を超えた「横断」ができる能力を持った人がどれだけデザイン内にいるのか、という問題もありますよね。デザインの裾野の広さは、単に歴史の浅いデザインという領域が自己を確立する必要に駆られた際の誇大妄想による部分が大きい。だから細かい実務に入ると、どうしても問題解決のフレームワークやステークホルダーとの調整に絡め取られていくし、逆に抽象的な話をすると、上層の会議の中だけで完結してしまう。それでいうと、樋口さんはデザイナーって名乗らないんですか?

樋口

名乗ってみようかな、今日から。それで言うといまのITコンサルタントって肩書きもめっちゃ便利ですけどね。「ITコンサルタントなんで」とか言うと、なるほどそうなんですねみたいな感じで、何やっててもスルーされる。一時期デザインシンキングが流行ったときとか、デザインシンキングのワークショップして、そのままFigmaとかでモック作って、それがプロトタイプになって、PoCしようみたいな感じでアジャイル開発のプロジェクトマネジメントが翌週から始まるみたいな。「これ一人で全部やってんじゃん」っていう。でもコンサルタントってこれからどんどん社会的な役目を終えていく職業なので、突然デザイナー名乗り始めるのもありかもしれないですね。

青山

デザイン・コンサルタントじゃなくて コンサルティング・デザイナーって名乗るとか。

樋口

コンサルティング・デザイナーめっちゃありっすね。なんか「へーそうなんだ」って感じしますもんね。実際今日の読書会でもわれわれはコンサルティングをデザインしていたとも言えるかもしれない。

不可能性の可能性

難波

本書で面白いと思うのは、存在論が重視されているところです。たとえばアルトゥーロ・エスコバルの『多元世界のためのデザイン』でも「存在論的デザイン」という話が出てきます。それらの議論を引き継いでいる部分もあると思うし、アレクシウス・マイノングやプリーストみたいな英米哲学あるいは分析哲学の系譜に連なるタイプの存在論とも接続している。自分も今、研究プロジェクトとして存在論を扱っています。たとえば「川に人格がある」と考える世界もあるし「死者も実在する」とする世界もあるかもしれない。こういう複数の存在論的世界観の中で、どれが正しいかというのは、決められないと思います。どれもそれぞれに成立している。そう考えると、自分の属している存在論から別の存在論に移行する能力がどれくらいあるか、というのが重要になってくる。ダン&レイビーが不可能対象を使ってやろうとしているのは、おそらく別の存在論的世界への移行を促すことだと思っていて、そのための方法のひとつとしてモノをつくることがある。

ただ自分の立場からすると、概念を作って、それを使って自分の前提を相対化する、という方法もあると思います。やっていること自体は、もしかすると彼らとそんなに変わらないのかもしれない。でも自分にとっては「不可能」という言葉は少し強すぎる気がしていて、むしろそれは全然可能である。なので、なんでこの言葉を使うのかはよく分かっていません。

樋口

僕はめっちゃいいと思ってます。それは具体的な実効性とは違う話なんですよね。多くの人たちから想像力やそれを鍛える機会が失われているいま、すごい射程の長い思考のあり方を提示する新しい言葉が必要だということなんです。そしてそれは文芸批評みたいなもう終わってしまった共同体とマーケットで言ってもしょうがなくて、社会的なパスがまだ確保されていてかつまだプレイヤーがよくわかっていないデザインっていう分野でその言葉が出てきたことに希望を感じる。長期的な人類の知的営みの可能性を維持していくにあたっての重要性を感じています。

青山

本書で言っている「不可能」って「既存の人間の存在論からは矛盾・逸脱しているもの」という範囲に限定されてますよね。で、そのうえで「なぜ私たちはそれを逸脱していると思ってしまうのか」という書き方になっている。だから不可能対象の中には、本当に人間の論理では捉えられないようなものも入っているし、逆に量子コンピューティングみたいに、かつては不可能とされていたけど近い将来には成立するかもしれない、というものまで含まれている。

つまりこれもスペキュラティヴ・デザイン的な皮肉しぐさのひとつであって、ダン&レイビーは「不可能」と名指しつつ、実際にはそれらを不可能だとはまったく思っていないわけですよね。むしろ難波さんのような「こんなの全然可能でしょ」という反論をこそ待っているというか。

永良

ここまでの話を踏まえると、『ここでもなく、いまでもない』ってかなりデザインフィクションに寄っていっているようにも見えるんですけど、そのあたりどう思いますか。

青山

補足すると、デザインフィクションという言葉はSF作家のブルース・スターリングが提示した概念です。スターリングは、SFの破壊的な想像力とモダンデザインのコンフォータビリティを比較しつつ、それらは現代においていずれも不活性化していると指摘する。その上で、むしろ現代の技術–社会環境を捉え直すためにこそフィクションはデザインされ直されるべきだ、というわけです。

デザインフィクションは基本的にテキストベースのアウトプットが多いし、スペキュラティヴ・デザインに比べると、必ずしも強い政治的批評性を前面に出すわけではない。その意味では確かに『ここでもなく、いまでもない』は樋口さんが言っていたように、SFや不条理文学、マジックリアリズムみたいなものをかなり参照しているし、「すぐに手に取れるモノをつくる」ことからは一歩引いている感じがありますね。

樋口

『ここでもなく、いまでもない』の中には「我々はデザイナーである以上、モノをつくらねばならない」みたいなフレーズが何回か出てくるんですよね。そんな感じで、言っていることはデザインなんだけど、やっていることはほぼ文芸批評だという。そのバランスがすごく面白い本だなと思って読んでいました。

永良

それはすごい勇気が出る話だなと思っていて。さっきの可能性の話ともつながるんですけど、自分にとって2010年代にスペキュラティヴ・デザインを知ったときの感覚って、「不可能性」じゃなくて「可能性」だったんですよ。

自分は専門学校でグラフィックデザインを学んでから大学に入ったんですけど、専門学校では「デザインとは何か」みたいなことは全く教えられなかった。教えられたデザイナーの名前も佐藤可士和くらいで、しかも「デザイナーって広告をつくる人なんだな」くらいの理解のまま卒業したんですよ。その状態で大学に入って、そこでスペキュラティヴ・デザインやクリティカル・デザインを知って、初めて「デザイナーでも物語やナラティブを扱えるんだ」と思った。それがすごく衝撃だったんですよね。なぜなら、それまではIllustratorとかをいじって細かい作業をするのがデザイナーの仕事だと思っていたから。

でもそれ以降、デザインの射程が際限なく広がっていったじゃないですか。それこそBNNとかから出てくる本を見てもわかるとおり。新しくデザイナーを志す人たちはそういう本を読んで「デザインってこんなにいろんなことができるんだ」と期待を膨らませるんだけど、実際にやることは、結局プロダクトデザインとかグラフィックデザインだったりする。で、いざ自分で物語を紡ぎながらモノを作ろうとすると、「これ本当にできるのか?」という不可能性の問題にぶつかる。自分はそこでもやもやして、スペキュラティヴ・デザインという言葉から少し距離を置いていた時期があったんですけど、そのときに読んだのが『デザインにできないこと』だったんですよね。それで、自分の中で整理がついて「やっぱりスペキュラティヴ・デザインをやりたい」と言えるようになった、という感じです。

スペキュラティヴ・デザインは何を変えたのか

樋口

みなさんと話していて思ったのは、自分がいかに既存の人文系とか文芸批評というものに対して絶望していて、逆にデザインというものに対して希望を見出しているか、ということでした。それはもしかしたら過剰な期待なのかもしれないけど。やっぱり自分の畑って見えすぎちゃうというか、隣の芝が青く見えている可能性はあるなと思いました。でも芝が青く見えているうちはそう見といたほうがいいこともたくさんあると思うので、しばらくそういう目で見ておきたいと思います。

青山

デザインの側から見ると、デザインが哲学的な概念とか建築、現代アートの理論、文芸批評的なものに寄っていくのって、やっぱり歴史の浅さがあると思うんですよね。文芸や哲学に比べて、デザインってかなり新しい分野なので、依って立つ基盤がない。そのコンプレックスが反映されている部分はあると思います。

樋口

だから結構、野蛮に「使えそうなものは全部使ってみます」というスタンスで、リベラルアーツ全体を取り込もうとしている感じなんですかね。

永良

デザインって、「デザインならではのもの」を作らなきゃいけないという意識が強くて、たとえばぼくがSFC在学時代に所属していた水野大二郎研究室の中でも、いろんな概念を作ろうとしていた。たとえば、マクドナルドが椅子をわざと座りにくく設計して回転率を上げている、みたいな話を引いて「悪意のあるデザイン=ボナファイド・デザイン」と呼んでみたり。当時の感覚を振り返ると、やっぱりデザイン「学」というドメインだけでは言葉や概念が足りていないというか、それを埋めようとする強迫観念があったのかな、という気はします。

難波

建築学だと工学的な話がかなりできるけど、デザイン学ってそういう意味でのフォーマットがあまりない気がします。デザインは、やはり美的判断というルールを明示化できない判断に基づいているからだと思います。特にデザイン学に関して気になるのは、「どうやって自分たちを評価しているのか」という点ですね。何をもって成功とするのか、自分たちが進展しているのか後退しているのか、そういう判断基準があるのかどうか。数値で測れと言いたいわけではないんですが、何らかの形で「これは進んでいる」「これは違う」と言える基準があるのかどうかは気になりますね。

青山

通常のデザイン学だとユーザー評価とかがありますが、スペキュラティヴ・デザインはそういうのができないですからね。

ただここで押さえておくべきは、スペキュラティヴ・デザインは市場的な評価・改善のサイクルを盲目的に回し続けるプロダクトデザイン内部の問題意識から発しているものだという点でしょう。建築だとアンビルトみたいに、はじめから建てることを目的としない建築提案を通じて、既存の建築に対して批評を行うというアプローチが昔からあった。でもプロダクトデザインにはそれがない。プロダクトデザインって基本的に大量生産とセットなので、一回何かが決まると、それが世界中に一気に広がってしまう。それなのに、自分たちで自分たちの決定をレビューする機能がなくていいのか、という危機感から、ラディカルデザインやクリティカル・デザイン、スペキュラティヴ・デザインが出てきたわけです。つまり、スペキュラティヴ・デザイン自体がある種の評価機関として構想されてきた歴史があるんですね。

加えて、デザイン教育を受けた人たちの間で共有されていた前提として「大量生産・大量消費の時代のデザインはすでに飽和している」という認識があったと思うんですよね。たとえば電車の中の路線図がデジタル表示になるとか、そういうレベルの改善しか残っていない状態に対して「どうやって軸足を移すか」という問題意識から新しいデザインの議論が出てきた。言い換えれば、市場的な淘汰圧によるデザインの一本化とそれによる袋小路化を避けられたかどうかが、スペキュラティヴ・デザインの評価につながると思うわけです。まあ、その意味ではこの10年間は失敗だったと言わざるをえないのかもしれませんが......

あと、具体的な研究の評価についての議論はいくつかありましたね。作品集に注釈をつけることで実践と省察をセットで提示する「Annotated Portfolio」とか、実際の未来の変動に対するプロトタイプの靱性をもって評価指標としようという議論とか。

難波

哲学の方で言うと、評価の仕方としては一つは哲学史的な深まり、つまり歴史学的な蓄積として理解することはできます。カント以前にはこういう議論があって、カントがそれを乗り越えた、みたいな直線的な理解だけじゃなくて、そこに別のオルタナティブな可能性を見出していく、といった形で歴史記述が豊かになっていく。ジェンダーやセクシュアリティの観点から哲学史を再編する、といった動きもそうです。

ただ、それはあくまで哲学の内部での豊かさであって、「どれくらい世界を変えたか」という意味での評価は基本的に存在しない。自分が興味を持っているのは、むしろ「デザインとしての哲学」、つまり概念工学としての哲学で、どうやって世界が良くなったのか、あるいは良くなっていないのかを測ることができるのか、という点です。測るということで、科学的な基準にこだわる必要はない。ですが、あるピアニストにとってよりよいバッハ表現ができた、というように、よりよい世界制作ができた、ということはできる。

ただ、たとえば「締め切りが人間を悪くしているから、締め切り以外の時間管理の仕組みを考えましょう」みたいな話は、論文にはしづらい。評価の仕組みがうまく整っていない。だからこそ、「これは進んでいるのかどうか」をみんなで話し合うような場が論文以外でも必要だと思います。そういう意味で、デザインがずっとその問題に悩み続けていること自体は、むしろ重要で健全に思います。逆に、デザイン学が完全に閉じた体系になってしまったら、それはある種のデザインの終焉だと思います。デザイン実践ではなくなる。

開かれと閉じられ

樋口

デザインの領域って、中心が定義されていないというか、すごく曖昧な感じがあるじゃないですか。で、そういうその曖昧さとか野蛮さみたいなものって、哲学やってる人も結構好きそうな気がするんですよね。たとえばドゥルーズとか、そういう領域横断的な思考をする人たちって、デザインのそういう性質に親和性がありそうだなという印象があって。哲学側からデザインに接近していくような、そういう議論ってないのかな、と思ったんですけど。

難波

自分の知る限りでは、あまりないですね。そこが結構不思議ですね。たとえばデリダを真面目に読んで、その思想を展開していくことは哲学の中では成立する。でも、それをデザイン実践と同じ地平で概念を作っていく、みたいなことになると、もう大学の枠組みの中ではやりづらくなる。哲学の中では、やっぱりある哲学者を丁寧に読むこと——いわゆる哲学史的な仕事——が評価される。ドゥルーズを雑に引用して何かを作る、みたいなことは「哲学史研究トシテ」は基本的には許されない。だから、デザインのように「概念を作って使う」という態度と、哲学の制度との間には結構距離があると思います。その意味でいうと、いま自分たちが話しているような意味での「デザイン」を面白いと思っている哲学者は、少なくとも自分はあまり知らない。日本でも海外でも。なので、ある意味では、この領域自体がまだ十分に言葉や概念やイメージ化されていないのかもしれないな、とは思います。

樋口

人文学って、抽象的な思考操作をずっとやってきた分野なので、「社会的な意義をどう設計するか」という問題は、ここ20年くらいずっと議論されてきていると思うんですよね。その中で、デザインのように「社会への接地」を中心に据えている領域と、人文学はかなり親和性があると思うんですけど、まだその接続が十分にできていない気がする。自分としては、人文学はもっとその方向に開いていった方がいいと思っていて、『ここでもなく、いまでもない』は、そのための一つの教材としてすごくいい本だと思ったんですよね。正直に言うと、文学部で授業をやるなら、いわゆる現代思想の古典的なテキストを読むよりも、こういう本を読む方がいいんじゃないかとすら思いました。てか俺を文学部の講師として呼んでほしいですね。やるから。

最近は、自分のキャリアとしても、コンサルタントという立場がこの先どれくらい意味を持つのかをかなり考えていて、むしろもっと公共性のある形で関わるにはどうすればいいか、ということを悩んでいるんですよね。その中で、大学で教えるという選択肢も現実的に考え始めていて、「文学部を立て直す」みたいなことをやるのもありなんじゃないかと思っています。

難波

哲学研究でも、一人の哲学者に深くコミットしてその解釈を更新していくような「名人芸的な仕事」は、一定数必要です。ただ一方で、社会を変えるということを考えると、いろんな方法を試していくしかない。自分も本を書いていて「これ一冊で世界が変わる」とは思っていない。でもたくさん書いたら変わると信じています。概念が広まれば、人権とかセクシャルハラスメントのように、少しずつ社会のあり方を変えていく可能性はとてつもなくある。だから、文章を書いて、人に読まれて、少しずつ当たり前が変わっていく、ということは普通に起こり得る。まったく悲観していません。

その意味でいうと、「人文学に触れたものが社会を良くするためにとりあえず何かを制作してみる」という態度——いわばデザイン的な態度——を人文学の側にももっと取り入れていくべきかもしれません。別の場所に出ていって新しい実践をしていく方がいいんじゃないか、という気はしています。

樋口

悲しいことに、『ここでもなく、いまでもない』って、正直あまり読まれてないですよね。めっちゃいい内容なのに全然話題になっていない。めちゃくちゃラディカルに文芸批評の可能性を拓いている本なのに、人文系・文芸批評界隈からもフルシカトされている。てか最近の批評家ってほんとアンテナ低くなってて、畑の出身者としては本当に情けないし恥ずかしい。僕は朝日新聞でSFを定期的に紹介する書評連載やってるんですけど、この本むりやりSFだっつってねじこみましたよ(笑)そしたら、この本を読んでる他の人が「この本、X(旧Twitter)見てても感想つぶやいてる人誰もいないから、自分しか読んでないんじゃないかと思ってたけど、樋口さんが読んでてうれしくなった」みたいなこと言ってて、僕もうれしくなりました。読書ってこうやってボッチのままに連帯できるところありますよね。『カイジ』でみんなで鉄骨渡りしてるときに、それぞれ孤独に鉄骨渡ってて、コミュニケーションとかとれるわけじゃないんだけど、お互いに「鉄骨渡ってる」という事実だけで心は繋がってるみたいな。そういう感じが読書のいいところだと思います。

青山

昨今、読書の価値として「孤独な時間の創出」が唱えられたりするわけですが、とはいえ本当に全員が隔絶されているだけでいいのかという問題はあるわけで。これからもanon pressの読書会では、孤独と連帯のあいだの適度な場をつくっていけたらと思います。本日はありがとうございました。

05 結びの挨拶 Closing

……さて、初回にしては重厚な内容でしたね。

結びの挨拶は、青山さんに代わりまして、anon pressデザイナーの永良が担当いたします。

初のメルマガ、いかがでしたでしょうか? 今後このようにanon pressの記事に限らずおすすめのコンテンツや、読書会のログ、その他新しいコーナーを一ヶ月に一回をめどに配信していく予定です。

新しいanon pressを、今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

anon press編集部一同
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